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Date: 2月 9th, 2019
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その26)

健康な心を持った聴き手のため、というアンプの選択。
スピーカーを現行製品から選んでいるから、
アンプも現行製品から選びたい。

現行製品で、そういうアンプ(ここではパワーアンプ)はあるだろうか。
前回(その25)は二年前。
二年間、アンプを何にするか考えていたわけではない。

割とすんなり見つけた。
ただ、そのアンプの音を聴く機会がなかった。
聴いてから続きを書こうと思っていたら、二年間が過ぎていた。

けれど、その二年の間に聴く機会はなかった。
そのアンプはいまも現行製品である。
新製品ではもちろんない。
二年前でも、すでに新製品ではなかった。

私が、ここでの組合せで選んだのは、マッキントッシュのMC2301である。
KT88の4パラレルプッシュプルで300Wの出力をもつ。

しかもMC2301は以前まとめて書いているように、
それまでのマッキントッシュのパワーアンプのコンストラクションを一新している。

発売になって約十年。
いまも現行製品である。

いいアンプに違いない、といまも思っている。
正直300Wという出力は要らない、と思っている。

半分の出力にしてくれて、コンストラクションはそのまま、
出力管のKT88の本数を半分の四本にしてくれたら、いいのになぁ、と思っている。

でも300Wの出力を、そこまで必要とはしないけれど、
ぐっと音量を絞った状態で、VC7を鳴らしたい。
底知れぬ余裕を秘めた鳴り方をしてくれるのではないだろうか。

MC2301には決めていても、
コントロールアンプもマッキントッシュにしたい、とは思っていない。
コントロールアンプを何にするか、決めかねていたのも、
(その25)から、ここまで間があいた理由でもある。

Date: 2月 9th, 2019
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(1989年2月9日)

30年前の2月9日。
手塚治虫が亡くなった日。

私には、1989年1月7日よりも、昭和が終ったと感じた日であった。
そう感じた人は少なくないようである。

30年経つ。
あと三ヵ月たらずで平成も終る。

手塚治虫は自身のマンガについて、こう語っている。
     *
僕のマンガというのは教科書なんですよ。教科書というのは、読んでワクワクするほど面白いもんじゃないし、面白すぎても困るわけ。若い連中がそれに肉付けして、素晴らしい作品を作ってくれることが望ましい。
     *
小学生のころ、手塚治虫のマンガと出逢った。
ブラック・ジャックとも出逢った。

手塚治虫はすごい、と小学生ながら思っていた。
それでも、当時のマンガのいくつかが、手塚治虫のマンガよりも面白く感じられた。
そのことが癪だった。

手塚治虫のマンガより、それらのマンガのほうが人気があるのが癪だったわけではない。
私自身が、手塚治虫のマンガよりも、それらのマンガを面白く感じたことが癪だった。

スマートフォンが普及して、スマートフォンでマンガを読めるようになった。
手塚治虫のマンガも読める時代である。

少年チャンピオンに連載されていたブラック・ジャックは毎週買って読んでいた。
単行本も買って読んでいた。

四十年ほど経って、いまもブラック・ジャックを読んでいる。
ここにきて、手塚治虫のマンガが教科書という意味がわかる。
同時に、ブラック・ジャックというマンガのすごさがわかる。
手塚治虫のすごさがわかる。

Date: 2月 8th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その12)

ことオーディオに限って、には、
オーディオを通して聴く音楽もふくめてのことだ。

狭く・浅いままの世界で、好きな演奏家、歌手を一流と思い込んでしまう。
時には超一流とも思い込んでしまう。

それが趣味の世界だろう、という人がいるのはわかっている。
けれど、それが本当に趣味の世界なのだろうか。
少なくとも、オーディオという趣味の世界ではない。

好きな演奏家、歌手を超一流と思い込み続けるためには、
狭く・浅い世界に囚われたままでいるしかない。

Date: 2月 8th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その11)

ことオーディオに限っても、若いは狭い(浅い)と、いまはいえる。
狭く・浅いからこそ、確信が持てることがある。

でも、それは狭く・浅いからこその確信であって、
その確信に囚われてしまっては、狭く・浅いままである。

狭く・浅いままの世界は、居心地がいいのかもしれない。
趣味の世界だから──、という人もいよう。

オーディオの世界に限っていえば、狭く・浅いままでいいとは私はまったく思っていない。
趣味の世界であってもだ。

そういう人は、狭く・浅いまま老いていくのか。

Date: 2月 8th, 2019
Cate: audio wednesday

新月とaudio wednesday

2月のaudio wednesdayは6日だった。
前日の5日、6時4分が新月だった。

3月のaudio wednesdayも6日。
3月の新月は7日、1時5分である。

たいていaudio wednesdayは23時30分ぐらいまで音を鳴らしている。
3月6日のaudio wednesdayは、ほぼ新月に近い状態での音となる。

なので3月6日にかける最後の曲はマーラーにしようとおもっているところ。
2016年8月のaudio wednesday同様、照明をすべて落したなかでのマーラーを、
喫茶茶会記の空間がきしむほどに大音量で鳴らす。

Date: 2月 7th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(昨晩のaudio wednesday)

昨晩のaudio wednesdayは、常連の方ふたりは仕事や旅行で参加されず。
21時半すぎに別の常連のKさんが来られたが、
それまでは私をいれて三人だった。

三人だったけれど、楽しかった。

喫茶茶会記に「John Coltrane & Johnny Hartman」のSACDがある。
借りて鳴らした。

一曲目から、いい感じで鳴ってくれる。
三人とも聴き入っていた。

1963年録音であるから、私と同じ歳(年)ということになる。
男三人が、50数年前の演奏(録音)をしんみりと聴いている。

「男三人で聴くのもなんですね……」といってみた。
「男三人だからいいんだよ」と返ってきた。
「女にはわからない音楽なんだから」とも。

こんなことを書くと、女性蔑視とか、あれこれいわれるだろうが、
昨晩、喫茶茶会記の空間で鳴り響いていた歌は、男のための音楽とおもえた。

三人の年齢は、20代、50代(私)、70代である。
世代ははっきりと違う三人、
世代だけではなく、いろんなことが違っている男三人が、
(たぶん)同じおもいで、ジョニー・ハートマンの歌を聴いていた。

オーディオは素晴らしい、とこういうときしみじみとおもう。

Date: 2月 7th, 2019
Cate: audio wednesday

第98回audio wednesdayのお知らせ(続2018年のやり残しをなくす)

2月は28日(四週間)しかないから、3月のaudio wednesdayも同じ6日。
というわけでもないが、3月のテーマも2月(昨晩)と同じである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 2月 6th, 2019
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その1)

音楽性という、時にはほんとうに都合のいいことば。
それだけに徹底的に考える必要のあることば。

音楽性に関係することで、五味先生の書かれていた文章を思い出した。
     *
 ステレオになった当座、電信柱や溝に放尿するのを自分で録音・再生して、おォ、小便から湯気が立ち昇るのが見える!……と、その音の高忠実度性に狂喜したマニアを私は知っている。しつこく誘いにくるので、一度、彼の部屋へ聴きに行き、なるほどモヤモヤと湯気の立ちのぼる放尿感が如実に出ているのには驚いた。モノーラルしか聴き馴れぬ耳には、ほんとうに、シャーと小便の落ちる其所に湯気が立っていたのである。
 このあいだ何年ぶりかに彼と会って、あのテープはどうした? とたずねたら、何のことだと問い返す。放尿さ、と言ったら、ふーん、そんなこともあったっけなあ……まるで遠い出来事のような顔をした。彼は今でもオーディオ・マニアだが、別段とぼけてみせたわけではないだろう。
 録音の嶄新さなどというものは、この湯気の立つ放尿感と大同小異、録音された内容がつまらなければしょせんは、一時のもので、すぐ飽きる。喜んだこと自体がばからしくなる。オーディオ技術の進歩は、まことにめざましいものがあり、ちかごろ拙宅で鳴っている音を私自身が二十年前に聴いたら、恐らく失神したろう。これがレコードか?……わが耳を疑い茫然自失しただろう。(「名盤のコレクション」より)
     *
放尿の音だから、そこに音楽性があるわけではない。
では鈴虫の鳴声は? 蒸気機関車の走る音は?
生録が盛んだったころ、音楽だけではなく、ジェット機のエンジン音なども録音の対象であった。

生録がブームだったころはとっくに過ぎ去っている。
そんないまの時代にみかける生録といえば、鉄道マニアの人たちだ。
それも日常的にみかけたりする。

ホームで電車をまっていると、
長い棒の先っぽにマイクロフォンをとりつけて、
ホームの天井近くに設置してあるスピーカーまで、マイクロフォンを接近させて、
アナウンスを録音している人を、年に数回みかける。

何も特別なアナウンスではない。
電車がまいります、黄色い線までお下がりください、
そういったアナウンスである。

Date: 2月 5th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その7)

付加価値が口ぐせのようになっている人にも、
オーディオに夢をみていたことがあったのか──、
というコメントがfacebookであった。

そういうことを、その彼と話したことはない。
もう何年も会っていないし、これからも会うことはないはず。

オーディオのことを話したことは何度かあったけれど、
付加価値の彼とは、つっこんだことを話したことはない。
なのであくまでも憶測でしかないが、
彼は彼なりに、なんらかの夢はあった(ある)だろう。

いい音を出したい、という夢はあったはずだ。
けれど、ここからが憶測になるわけだが、
その「いい音」とは、周りから「いい音ですね」と言われたいがための「いい音」なのかもしれない。

昨年トロフィーオーディオということを書いている。
彼にとって、オーディオとはそういう側面をもっていたのかもしれない。

「A社の○○を鳴らされているですか、すごいですね」
そんなふうに周りからいわれたいのかもしれない。

彼は数度会ったぐらい、さほど親しくなっていない人に対して、
「スピーカーは何を鳴らされているんですか」ときいてくるそうだ。

彼が鳴らしているスピーカーよりも、安い、もしくは世評の低いスピーカーだったりすると──、
あくまでもきいた話なので、このへんにしておこう。

一時の優越感に浸れる。
自分よりも高価なスピーカー、世評の高いスピーカーを相手が鳴らしていると、
その人たちの仲間になろうと積極的にくいこんでいく。

彼にとっての価値とは、そういうことなのかもしれない。

Date: 2月 4th, 2019
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その13)

「(水俣病患者は)人間の形はしていても中身は人間でなくなる」
と発言した原一男氏のドキュメンタリーは「MINAMATA NOW!」というそうだ。

原一男氏の、この発言のほぼ一年後に、ジョニー・デップ主演の「Minamata」がニュースになった。
実在の写真家、ユージン・スミス役を演じる、とのこと。

数日前に、劇中写真が公開され、日本人キャストも発表になっている。
公開日はまだ発表になっていない。

「MINAMATA NOW!」と「Minamata」。
前者の「NOW!」は、いったいなんなのだろうか。

Date: 2月 4th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その6)

そういえば──、と思い出すのは、
付加価値を頻繁に口にするオーディオマニアの彼は、
製品の差別化のためにも付加価値は必要だ、的なこともいっていた。

出来上った製品が、他社製のモノとたいして代り映えしない。
そんなときに他社製のモノと区別するためにも、
もっといえば同じような製品であっても、自社製品のほうもをよくみせるためにも、
なんらかの付加価値が必要──、
おそらくそんな考えなのかもしれない。

こんなことを書いていて思い出すのは、
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」サンスイ号の、
永井潤氏の「サンスイ論」の冒頭である。
     *
 サンスイの社内誌(さんすい)に目を通しているうちに、「山水の社風を考える」という座談会に出会い、そしてつぎのような言葉を見つけた。「個性の商品化を考えなければいけない。商品は山水らしい個性を持ったものでなければいかんということです。」サンスイの創設者、前社長菊池幸作氏の言葉であるが、この種の発言は随所にみられ、しかも繰り返し強調されている。私は直感的にサンスイ像に迫る手がかりがここにあると思った。
 ここでまず私の注意を引いたのは、商品の個性化でなく、個性の商品化という点である。要するに「山水」という個性があって、商品はその反映であり表現である、ということになっている。
     *
付加価値、付加価値とバカのひとつ憶えのようにいう彼は、
結局のところ、商品の個性化しか考えていないのかもしれない。
そういう見方でしかオーディオ機器を捉えるしかできないのだろう。

彼には個性の商品化ということが見えていないのかもしれない。
私の勝手な憶測でしかないが、こう考えるとすっきりと彼のことが見えてくる感じはある。

そうだったのか、と思いあたることがいくつか思い出されもする。

Date: 2月 3rd, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(一代限りなのか……)

オーディオは一代限りなのか……、と思うことが最近ある。
オーディオの○○とは、あえてしなかった。

ただただ、オーディオは一代限りなのか、と感じているからだ。

オーディオの輸入元であるエレクトリはヒビノ、ノアは完実電気の子会社となった。
マークレビンソンの輸入元であったRFエンタープライゼスは、いまはもうない。
あれだけ優れたオーディオ機器を輸入していたのに……、と思う。

それから川村電気研究所。
日本で最初にJBLを輸入し、ノイマン、EMT、KEF、UREIなども取り扱っていた。

これらの輸入元は個人会社といえる。
だから一代限りなのか……、と感じている。

後継者の問題といいかえられよう。
その意味では、次はあそこか、と勝手に予想している。

会社そのものがなくなることだってあろうし、
どこか大きな会社の子会社になってしまうことだって十分考えられる。

しかも次はあそこか、は一社だけではない。

一代限りなのは、輸入元だけではない、と感じている。

Date: 2月 3rd, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その4)

その1)で挙げている機種のいくつかは、
私がオーディオに興味を持ち始めたときに、すでに登場していた。

そういうオーディオ機器と、
登場と同時にほぼリアルタイムで聴いてきたオーディオ機器とがある。

惚れ込めるオーディオ機器との出あいが、
以前よりも減ってきているのかどうかは、このへんも考慮しなければならない。

そのうえでコメントに答えれば、惚れ込んだ、ということでは、
現在も昔も、そう変らないのではないか、と思うとともに、
こちらの年齢もあがってきていることによって、変ってきているかも……、
そんなふうにも思っている。

つまり、自分でもはっきりと答がでないのが本音である。

惚れ込んだ、ではなく、惚れたオーディオ機器ということでは、どうか。
ここでも考え込む。

惚れ込んだも惚れたも、どちらもきわめて主観的な評価である。
主観的であるだけに、こちらの変化もその評価には深く関ってくる。

それでも惚れ込んだ、惚れたオーディオ機器には、共通点がないのか、と自問する。
あるともいえるし、あまりないようにも感じている。

オーディオに関心をもち始めたときに出あい、惚れ込んだオーディオ機器は、
オーディオの世界を広さ、深さを垣間見せてくれた、ということでも、
ひときわ印象的であるのも事実だ。

もうここでは出あった順番を無視できない。
聴いた順番が違っていれば、別の機種に惚れ込んでいたかもしれない──、
そんなふうにも考えられる。

それとも、そんなことはないのか。

こんなふうに考えていくと、コメントに答えることが意外に難しいことに気づかされた。

Date: 2月 2nd, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その3)

たとえばメリディアンのULTRA DAC。
こちらはLNP2とは正反対の惚れ込みかたである。

素直に惚れ込んでいるし、
多くの人にULTRA DACの音を一度聴いてもらいたい、と思っている。
聴いてもULTRA DACの良さがまったく理解できない人も少なからずいるはずだが、
それ以上に、きちんと理解できる人が多くいるはずだと思っている。
(思っているというよりも、そう信じたい)

ULTRA DACのついては昨秋からずっと書いてきている。
読んでいる方のなかには、ULTRA DACのことばかり……、と感じている人がいようが、
まだまだ書きたいことがある。

書けば書くほど、書きたいことが湧いてくるような感じすらある。
そうやって書きながら感じているのは、
瀬川先生がJBLの4343、マークレビンソンのLNP2のことを、
あれほど書かれていたのも、同じ気持だったからなのかもしれない、とおもうようになってきた。

口さがない輩は、輸入元からたんまり貰っているんだろう──、
そんなことをいう。

何もわかっていない輩でしかない。
ほんとうに惚れ込んだオーディオ機器がある。
そのことの嬉しさ。
そして、惚れ込んだオーディオ機器のことを誰かに伝えたいという気持。
そういうことがまったく理解できない輩が、いつの時代にも、どの世代にもいる。

おそらく、これまで惚れ込んだオーディオ機器がひとつもないんだろう、そういう輩は。

ただジャーマン・フィジックスのUnicornは、
ULTRA DACと同じくらいの惚れ込みだし、素直に惚れ込んでいても、
ULTRA DACほど、その良さを誰かに積極的に伝えたいという気持はあまりない。

Unicornの音を聴いたばかりのころは、確かにあった。
もうその時から十数年が経っている。

Date: 2月 2nd, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その6)

情報量は、さまざまなところで増していっている。
映画は、代表的な列のひとつといえる。
特にCGを多用した映画は、まさにそうだといえるし、
この手の映画に、内容がない、と否定的な人も増えてきているように感じている。

この手の映画を、
できるだけ最新の映画館で、しかも音響もよくスクリーンも大きいところで観る。
CGが多用されたアクションシーンでは、
映画によってはこちらの目が追いつかない、と感じることだってある。

だからといって、そのシーンでの情報量の圧倒的な多さを否定する気はまったくない。
むしろ、こういうシーンを積極的に、映画館で観たい、と思う方である。

そういうシーンが始まると、最初の数分は情報量の多さと、その処理に圧倒される。
それでも暗い映画館で集中していれば、追いつけるようになる。

ここがとても大事なことだと考えている。
情報量の多さは、自分を鍛えるという意味で重要なことである。

処理できない情報量の多さを、
人は自分の処理能力に合わせて単純化(省略化)してしまう、
そういう内容の記事をなにかで読んだことがある。

どこまで事実なのかはわからないが、そうかもしれないとは思う。
脳がオーバーヒートしないように、そうしてしまうのかもしれない。
それに、その方が楽である。

その楽なことを選択してしまえば、老いていくだけだ。
それでもいいという人がいる、
それに抗う人もいる。

情報量があふれている映画を、できるだけ損うことなく観るために、
最新の映画館で、いい音響と大きなスクリーンを求める。
しかも私は前寄りの席が好きである。

追いつくのがたいへんと感じた映画も、そう感じなくなる。
同程度の情報量の映画を次に観ても、たいへんとは感じなくなる。

私の感覚では数年に一本、
明らかにそれまでの映画とは情報量が多いと感じられる映画が登場する。

情報量の多さに否定的であることのすべてを否定はしない。
けれど、否定的である態度の何割かは、受け手側の老いではないだろうか。