宿題としての一枚(その2)
宿題としての一枚。
気づくといえば、若かった自分からの宿題といえる一枚もあるといえる。
あのころは、あんなふうに鳴らせていたのに……、
なぜか、いまはさほど魅力的に鳴らせないディスクがあるといえばある。
若かった自分からの宿題なのだろう。
宿題としての一枚。
気づくといえば、若かった自分からの宿題といえる一枚もあるといえる。
あのころは、あんなふうに鳴らせていたのに……、
なぜか、いまはさほど魅力的に鳴らせないディスクがあるといえばある。
若かった自分からの宿題なのだろう。
(その1)の最後に、
試聴は、為聴なのか、と書いた。
最近では、(しちょう)は思聴でもある、と思うようになってきた。
児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲を、
菅野先生からの宿題のような一枚だ、とおもっている。
宿題としての一枚は、これだけではない。
菅野先生からの宿題だけではなく、
瀬川先生からの宿題のように、こちらが勝手に受けとっている一枚もある。
数は多くはない。
愛聴盤とは、少し違う意味あいの、存在の大きなディスクでもある。
宿題としての一枚。
けれど、宿題として出してくれた人たちは、もういない。
宿題としての一枚。
持っているほうが幸せなのか、持っていない方がそうなのか。
宿題としての一枚。
持っていないのか、それともあることに気づいていないだけなのか。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、あまり聴かない。
それでも児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲集は、
あと一ヵ月、入荷すれば買うに決っている。
audio wednesdayで、このディスクを鳴らせば、
そこそこの音では鳴ってくれる、と思っている。
聴いている人は、けっこういい音じゃないですか、といってくれるかもしれない。
そうであっても、私の耳に、菅野先生の鳴らされた音がはっきりといまも残っているから、
誰かが褒めてくれたとしても、埋められない何かを、強く感じとってしまうことになるはずだ。
菅野先生のところで聴いていなければ、
このディスクは、優秀録音盤で終っていたであろう。
でも、聴いているのだから、
聴かない(鳴らさない)わけにはいかないディスクでもある。
どこか、このディスクは、菅野先生からの宿題のようにもおもえてくる。
ベストバイという特集記事がある。
私にとって、最初のベストバイは、43号だった。
35号が、ステレオサウンド最初のベストバイの号である。
1975年の夏号だから、49年前のことだ。
ステレオサウンドで働くようになって、
辞めてからもそうなのだが、これまで何人かの方に、
ベストバイって、大変なんでしょうね、そんなことをいわれた。
そんなふうにきいてきた人たち皆、
ベストバイの選考にあたって、
オーディオ評論家は、ベストバイの対象となっているオーディオ機器すべてを、
スピーカーやアンプの総テストと同じように聴き直している、と思っていた。
そう思っている人がいるのか、と逆にこちらが驚いた。
43号を手にしたとき、私は中学三年だった。
43号の前に、42号と41号を読んでいた。
42号はプリメインアンプの総テストであた、
特集の巻頭には、試聴方法のページがあった。
43号のベストバイの特集には、各筆者によるベストバイ定義についての文章はあったが、
試聴方法については、当然ながらなかった。
だからというわけでもないが、ベストバイはあらためて総テストをしているわけではない、
そう理解していた。
総テストや新製品の試聴、メーカーや輸入元での試聴、
自宅の試聴、そういった機会の積み重ねから選んでいる──、
そのころからそう思っていただけに、
ベストバイの選考のために試聴をやっている──、
そう思っている人がいたのは意外でもあった。
けれど、そう訊いてきた人たちの考えていることもわかる。
ケント・ナガノ指揮、児玉麻里のピアノによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番を聴いたのは、
2008年のことだった。
別項「ベートーヴェン(その3)」で書いていることのくり返しになるが、
「これ、聴いたことあるか?」と言いながら、菅野先生はCDを手渡された。
ケント・ナガノと児玉麻里……、彼らによるベートーヴェン……、と思った。
菅野先生は、熱い口調で「まさしくベートーヴェンなんだよ」と語られた。
菅野先生の言葉を疑うつもりはまったくなかったけど、
それでも素直には信じてはいなかった。
音が鳴ってきた。
「まさしくベートーヴェン」だった。
一楽章が終る。
いつもなら、そこで終る。
けれど、もっと聴いていたい。
そう思っていた。
ほんとうにすばらしい演奏であり、その演奏にふさわしい音だったのだから。
菅野先生も、この時の音には満足されていたのか、
「続けて聴くか」といわれた。
首肯いた。
最後まで聴いた。
このベートーヴェンが、菅野先生のリスニングルームで聴いた最後のディスクである。
私がいたころ、ステレオサウンドの試聴室のラックは、
ヤマハのGTR1Bだったことは、何度か書いている。
GTR1Bには棚板が一枚付属していた。
試聴室では棚板を使うことはなかった。
GTR1B一台に、オーディオ機器は一台、という使い方だった。
GTR1Bの天板にアンプなり、CDプレーヤー、アナログプレーヤーを置く。
GTR1Bの中には、何も置かない。
置くとしても、コントロールアンプで電源部が外付けになっている製品では、
その電源部を置くことはあったが、
他のオーディオ機器を収納することはなかった。
収納することはなかったので、GTR1Bはラックというよりも置き台としての存在だった。
しかもGTR1B同士はぴったりつけることは絶対にしなかった。
5mmか1cmくらいは離していた。
理由は音質上の点からである。
試聴室という環境だから、こういう使い方ができる、というか許されるわけで、
家庭でこんな使い方はやりたくても、なかなかできなかったりする。
つまりラックとは、複数のオーディオ機器を収納する機能である。
けれど、その機能を考えてデザインされたラックは、ほとんどないようにみえる。
いま市販されているラックの詳細のすべてを知っているわけではない。
それでも、オーディオショウでよく使われるラックをみて、
ラックとしての機能をきちんとデザインしている、と思える製品はみたことがない。
それぞれに創意工夫が施されているが、
そのラックに収納する複数のオーディオ機器のさまざまな相互干渉を抑える、
そのことに留意していると思えないからだ。
キングインターナショナルから、
児玉麻里(ピアノ)、ケント・ナガノ/ベルリン・ドイツ交響楽団による
ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集が、SACDの四枚組で発売になる。
児玉麻里/ケント・ナガノによるベートーヴェンは、
菅野先生のリスニングルームで聴いている。
別項「マイクロフォンとデジタルの関係(その2)」で書いている。
第一番と第二番のカップリング(2006年録音)のCDである。
ノイマンが開発したデジタルマイクロフォンのデモンストレーションの意味あいもあっての録音だった。
菅野先生のところで聴いた音は、
まさしくベートーヴェンの音楽は、動的平衡の音による建造物だった。
すぐには入手できなかったCDだが、数年後には入手できた。
いまでも発売されている。
もちろん買った。
とうぜんだが、菅野先生の音のようには鳴らない。
こんなふうに書くと、音だけ優れた録音と思われそうだが、
演奏も素晴らしい。
素晴らしいからこそ、動的平衡の音による建造物と感じたのだ。
この録音も、今回のSACD全集に含まれている。
数年前に友人宅に遊びに行った時、テレビで日本のドラマを見ていた。
そこに出てくる男優の一人の口元が、つねに口角が上っているのが、気になった。
辛そうな表情を演じている時でも、口角が上っている。
どんな表情の時でも、そうなのだ。
だからなのか、その男優の演技・表情に違和感を覚えた。
いつのころからか口角を上げよう、みたいなことがいわれ始めた。
ヘの字に曲げてぶすっとしているよりは、いい印象を与えるだろうが、
その男優のように、ずーっと口角が上りっ放しでは、もうおかしい、というか、
笑う場面でもないに、つい笑いたくなってくる。
ドラマのスタッフは、誰も何もいわなかったのか。
そういえば、つい先日も口角を上げっ放しの人がいた。
人前で話すこともある仕事をしている人だ。
もう、ずーっと口角が上っている。
話していない時も話している時もそうである。
もう不自然な表情である。
少なくとも私はそう感じていた。
その人は、見た目を重視しているのだろうか。
そういえば「人は見た目が9割」という書籍が売れている、ともきいている。
その人は、鏡の前で口角を上げながら話すことを練習しているのか。
そんなことを思いながら、その人の話を聞いていた。
(その25)で、アルカイックスマイルのことを書いた。
アルカイックスマイルとは、辞書には、
《古典の微笑。ギリシャの初期の彫刻に特有の表情。唇の両端がやや上向きになり、微笑みを浮かべたようにみえる》
とある。
唇の両端が上向きになるのだから、口角を上げた表情ではあるが、
上に挙げた二人の男性の表情は、アルカイックスマイルではない。
今年は、ほんとうにひさしぶりにデッカのデコラを聴くことが叶った。
しかもコンディションの非常にいいデコラである。
10月のひどい台風の過ぎ去った日に聴いた。
グラシェラ・スサーナの歌もかけてもらった。
10月のaudio wednesdayと11月のaudio wednesdayのあいだに聴いている。
デコラを聴いていたから、
この経験があったからこその、
11月のaudio wednesdayでの218の音につながっていた、と思っている。
ほかの人には理解してもらえそうにないことだろうが、
ほんとうにそうなのだ。
2018年12月に、来年はわがままでいよう、と書いた。
これまで抑えてきたけれど、わがままをはっきりと出して行く、と。
2019年、わがままでいられたかな、とふりかえっている。
ふりかえっているくらいだから、まだまだだった、と反省している。
だから、今年も書いておく、
来年は、きっちりとわがままを貫き通そう。
オーディオに関するかぎり、わがままでいよう。
ここ数年、12月になったら、一年をふり返って的なことを書いている。
今年も12月になったら書くつもりでいた。
けれど12月に書き始めたら、書き終わらないうちに来年になりそうなので、
まだ11月だけど早めに書き始めたい。
今年も、新しく知りあえた人たちがいる。
audio wednesdayを毎月第一水曜日にやっているからこそ、知りあえる人がいる。
audio wednesdayをやるのは楽しい反面、
時には面倒だな、と思うことだってある。
5月には100回目をやった。
あとどれだけ続けるのか(というか続くのか)は、
私自身にもわからない。
毎月やっていて、誰も来なくなったら終りにする。
一人でも来てくれるのであれば、続ける。
決めているのは、それだけである。
去年も書いているが、
来年もいまごろも、また同じことをきっと書いているだろう。
昨年、ULTRA DACのエヴァンジェリストのつもりでいる、と書いた。
今年もそうだった、といえる。
加えて今年は218のエヴァンジェリストでもあった、といっていいかも。
ゆえに今年いちばん驚いたのは、メリディアンの輸入元がオンキヨーに、
12月から変るということだ。
突然の発表だった。
発表後に、オンキヨーに関するニュースがいくつかあった。
オンキヨー、大丈夫なのか、と心配になる。
この心配は、私の場合、メリディアンがどうなるのか、という心配である。
メリディアンの218は、手を加えるたびに、音が澄明になっていく感がある。
透明度が増していく、という感じではなく、澄んでいく音という雰囲気を漂わす。
私は218のキャラクターをいじろうとはまったく思っていない。
そう考える人は、218の部品を交換したりするのだろうし、
信号ケーブルや電源コードにしても、個性的な音の製品を選んでいくのだろう。
私は、ただただ218の可能性を抽き出したい、それだけを考えている。
今回の218における、その試みは成功した、といえる。
手を加えることは、自己満足で終りがちである。
audio wednesdayのような場で、比較試聴するということは、
あまりないのではないか。
自信はあっても、やはり音が出るまでは内心どきどきしている。
たいして違わなければ……、
そのぐらいだったらまだいいが、音が悪くなっていたら……、
その可能性だってなくはない。
218と218の比較試聴なのだから、いいわけはできない。
そんなそぶりは見せずに、鳴らす。
喫茶茶会記の218よりも、今回の218は、音が澄明である。
だから、音楽の表情が濃やかになる。
それにみずみずしい音でもあった。
喫茶茶会記のスピーカーはアルテックの2ウェイに、
JBLの075を追加した、変則的な3ウェイである。
なのに、といったら、アルテックに惚れ込んでいる方たちに失礼になるだろうが、
ラドカ・トネフの歌声が、こんなにもみずみずしく鳴るのか、と驚く。
マッキントッシュのMCD350とMA7900の組合せからは、どうやっても出せなかった音が、
いとも容易く出てきてしまった。
今回はトランスポートとしてMCD350を使い、
218の出力はMA7900のパワーアンプ入力に接続して、
ボリュウム、トーンコントロールは218で操作した。
私が10代、20代のころ、
インターネットに接続できる環境はなかったし、
SNSも当然なかった。
オーディオについて何かを書いたとしても、
それを不特定多数の人に向けて発表できる場はなかった。
いまは違う。
スマートフォンがあれば、いつでもどこでも接続できるし、
SNSもあるから、書くだけで公開できる、という環境が揃っている。
オーディオマニアも世代によって、違っている、ともいえるし、そうでもないといえるし、
世代による違いよりも、結局は個人の違いのほうが大きい、ともいえる。
それでもオーディオを始めたころから、
SNSがある世代とそうでなかった世代とでは、明らかな違いがあるようにも感じている。
いつでも、思ったこと、感じたこと、考えていることなど、
公開した、と思えば、すぐにできる。
そこに、「いいね」がついたりする。
会ったこともない人たちからの反応がある。
そういう世代のすべての人たちが──、とはいわないが、
一部の人たちは、反応を意識してのSNSの利用なのではないか。
そんな気がしてならないのだ。
他人の目(評価)なんて、まったく気にせずにオーディオを楽しめばいいのに──、
そう思うのだ。
SNSに捕われてしまっていることに気づかないままでいいのか。
BCN+Rの記事の最後には、
《しかし、一番厳しい目は消費者の購買行動そのものだ。市場の洗礼を受ける前に専門家だけで製品の序列を決めてしまうことには、やはり大きな疑問が残る》
とある。
これが消費者不在のグランプリを容認してしまう、ともある。
そのとおりといえば、そのとおり、である。
でも、考えれば、市場の洗礼を、すべての製品が等しく受ける、ということはあるのだろうか、
という疑問がわいてくる。
例えば新製品が、12月とか4月とか、決った時期に各社から一斉に発売されるのであれば、
まだわからなくもない。
実際はそうではない。
1月に出る新製品もあれば、夏ごろとか秋が過ぎて、とか、
さらには12月ぎりぎりに登場したりする。
1月の新製品と12月の新製品とでは、一年近い差があるわけだ。
2019年に発売になった新製品を、
2020年に評価するとしよう。
それで市場の洗礼を受けたことになるだろうが、
1月の新製品と12月の新製品とで、市場の洗礼が等しい、とは誰も思わないだろう。
それに新製品を出すメーカーとしては、
早くに新製品を出したメーカーにすれば、発売後約一年後に賞という形で評価されるのを、
どう思うだろうか。
BCN+Rの記事は、そのへんの事情をどう考えているのか。
雑誌の、現在の賞の在り方が、いまのままでいいとはまったく思っていないが、
だからといって、BCN+Rの記事は現状を無視しているだけでなく、
どこかケチをつけるためだけの記事のようにも思えてくる。