毎日書くということ(本音を失っているのか・その1)
「五味オーディオ教室」に、こう書いてあった。
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これを褒めておかねばメーカーが、あるいはだれそれがうるさい、などという処世のための狡智が加わることもあろう。それもまたおもしろいし、処世の知恵のともなわぬ批評があると思うほうがどうかしている。
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これを13歳のときに読んでいる。
これを読んでしばらくして、ステレオサウンドというオーディオ雑誌と出逢った。
ゆえに、ステレオサウンドをドキドキしながら読んでいても、
五味先生が書かれていたことは、頭の片隅のどこかに、常にあった。
処世の知恵のともなってこその批評といえば、そうなのだろう。
そのバランス感覚にたけていてこそのオーディオ評論のはず。
けれど、いつしか処世の知恵ばかりが肥大してきているようなところもある。
それが、いまのオーディオ評論と呼ばれているものだ。
それにともない書いている人の本音が隠れつつある。
それでも、まだ本音が書いている人にあるうちによかった、といえる。
処世の知恵(というより狡智)ばかりになってしまい、
本音を書かなくなった、が、本音を書けなくなった、に変ってしまい、
ついには本音を失ってしまった、となってしまったのではないか。
毎日書いているからこそ、
オーディオ雑誌を読むと、そんなことを感じてしまう。