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Date: 2月 27th, 2020
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その33)

CDの登場が1982年ではなく、
1987年、五年遅れで登場していたら──、と妄想することがある。

ビクターやソニー、デンオンがてがけていた電子制御トーンアームは、
かなり進歩した性能になっていたのではないだろうか。

テクニクスも電子制御トーンアームを出してきた可能性も考えられる。
ヤマハもリニアトラッキング式に積極的だったから、
電子制御トーンアームの開発に取り組んだかもしれない。

CDの登場も、アナログディスク再生技術の進歩ということを考えると、
早かった、といっていい。
それにCDの普及も勢いがあった。

もう少しゆっくり普及していっていれば、
アナログディスク再生もおもしろい技術が出ていたであろう。

その分、CDの技術も進んでいったといえるのだから、
こんなことをいってもしかたないことだし、
誰かがどうにかできたことでもないだろう。

昨年、SAECのトーンアームのWE407/23が、WE4700として復活した。
最新の加工技術によって、WE407/23各部の精度を高めている、という。

それにWE407/23が販売されていたころと、いまとでは売れる台数に大きな開きがある。
それゆえ高価になるのはわかる。

でも、実際の価格をみると、ここまで高くなってしまうのか、と驚きもある。
他社のトーンアームも、そうとうに高価なモノがあるから、WE4700だけが飛び抜けて高価ともいえない。

だからよけいに、電子制御のトーンアームが、あの時代、もう少し進歩を遂げていたら、
現代の先端技術をうまく利用して、いまの時代に高性能に復活できたのではないだろうか。

Date: 2月 26th, 2020
Cate: pure audio

オーディオと偏愛(その2)

ステレオサウンド 53号の編集後記で、Oさんが六本木のL洋菓子店のことを書かれている。
ルコントのことだ。

Oさんからルコントを教えてもらってからの私の偏愛ぶりはひどかった。
一週間は会社が休みの日以外は毎日通っていた。

Oさんの編集後記に出てくるレアチーズケーキ、
それからシャルロットポワールのフランポワーズのソース添え、
この二つは必ず注文していた。

レアチーズケーキというのが世の中にあるということは、
53号の編集後記で知っていた。
そのころ田舎暮しだった私にとって、
チーズケーキとは焼いたチーズケーキのことしか知らなくて、
レアチーズケーキ? という感じだった。

レアチーズケーキを食べたのは、東京に出てから、
それもステレオサウンドで働くようになってからだった。
ルコントのレアチーズケーキが最初ではなかった。

誰かのみやげで、赤坂のトップスのレアチーズケーキが最初だった。
これがレアチーズケーキなのか、
初めて見るケーキでもあったし、こんなに美味しいものなのか、と感激もした。

ルコントのことを教えてくれたのは、それからしばらくしてのことだった。
六本木のルコントは二階が喫茶室だった。

別項で書いている西新宿にあった珈琲屋という喫茶店には一人で行っていたけれど、
ケーキ店に一人で行くのは初めてだった。

それでもルコントのレアチーズケーキは、トップスのなんて目じゃない、
そう聞かされていたから、恥ずかしいという気持よりも、
ルコントのレアチーズケーキを食べたい、という気持のほうがずっとずっと強かった。

Date: 2月 26th, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218はWONDER DACをめざす(ENESCO PLAYS BACH SONATASを聴く)

五味先生の書かれたものを読んで育った私にとって、
エネスコのバッハの無伴奏ソナタとパルティータは、もう別格の存在である。

とはいえ、エネスコのバッハのオリジナルLPは、一度だけ見たことがあるだけだ。
オリジナル盤がいまほど騒がれていなかったずっと以前のことで、それでも驚くほどの価格だった。
手が届く──、そういう値段ではなかった(いまでは数倍の値段になっているようだが……)。

マスターテープ(アセテート盤)がなくなっている、ときいている。
CDはいくつか出ている。
すべては聴いていないが、いくつかは聴いた。

どれを聴いても、どうにもうまく鳴ってくれない。
エネスコの演奏まで、ダメにしてしまったような感じでしか鳴らない。

エネスコのバッハについては賛否ある。
ボロクソに貶す人もいる。
CDを聴いているだけでは、たしかにそんな評価をする人が出ても不思議ではない。

否定する人のなかには、エネスコのバッハを絶賛する人にもその矛先を向けることもある。
それもわからないわけではない。

でも五味先生の文章を読んできた私は、そんなふうに一刀両断に切り捨てることはできなかった。
機会があるごとに、ふと思い出して取り出して聴く。

そんなことを何度くり返してきたことか。
それでもエネスコの素晴らしさを、心底実感していたとはいえなかった。

オリジナル盤のLPで聴かなければならないのか。

なにかある──、
そんな予感はしている。
その予感は、僅かずつ近づいていっている気もしていた。
そう思い込もうとしていただけなのかもしれない。

今日、ほんとうにひさしぶりにエネスコのバッハを聴いた。
メリディアンの218で聴いていない。
どんな感じで鳴ってくれるのか。

大きな期待はしていなかった。
かけたのは、2000年ごろに入手したCONTINENTALのディスク番号CCD104/5の二枚組。

はじめて、エネスコの素晴らしさだけでなく、凄さを聴けた。

Date: 2月 26th, 2020
Cate: audio wednesday

第110回audio wednesdayのお知らせ(ピアノ録音を聴こう)

3月4日のaudio wednesdayには、
ポリーニとアバド/シカゴ交響楽団によるバルトークも持っていく──、
前回書いた。

ポリーニとアバドのバルトークを、3月のaudio wednesdayの最後にかけようと思っている。

最初にかけるのは、
アルゲリッチとコンドラシン/バイエルン放送交響楽団によるチャイコフスキーにするかもしれない。

アルゲリッチとコンドラシンのチャイコフスキーのピアノ協奏曲は、
これまで何度か鳴らしているが、その時は通常のCDだった。
つまり、まだ喫茶茶会記にマッキントッシュのMCD350が導入される前だった。

今回は、タワーレコード独自のSACDをもっていく。
コンドラシンによるリムスキー=コルサコフのシェエラザードとのカップリング。
どちらもずっと昔よく聴いていたことがある。

シェエラザードは、瀬川先生が、熊本のオーディオ店でかけられたことがある。
実を言うと、リムスキー=コルサコフのシェエラザードの、
コンドラシン/コンセルトヘボウ管弦楽団のこの一枚しかもっていない。

ポリーニとアバドのバルトークもそうだが、
アルゲリッチとコンドラシンのチャイコフスキーも、
以前鳴らしていた時と、喫茶茶会記の音は違っている。

だから、アルゲリッチのチャイコフスキーも、いまここで鳴らしたい、という気持が強い。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 26th, 2020
Cate: 会うこと・話すこと

店で買うと云うこと(その1)

本もCDも、できるだけ店に行って買うようにしたい、と思っていても、
タワーレコード、HMVのサイトを眺めていると、
結局、インターネットを使って買った方が安くなることが多いので、
ついそちらを利用してしまう。

とはいえ新宿のタワーレコードにはときどき行くようにはしている。
渋谷のタワーレコードのほうが規模は大きいのだが、
渋谷駅からタワーレコード渋谷店までが人が多すぎるように感じてしまう。

それでつい億劫に思い、新宿を利用することが私の場合、多い。

日本のCDの売上げが世界一とかいわれている。
でもタワーレコードの渋谷店、新宿店にずっと行っている人ならばわかっているはずだ。

クラシック、ジャズの売場は、どちらも狭くなっている。
どちらの店舗も、できたころと較べると、クラシックとジャズの売場はかなり狭くなっている。

ポップス/ロックの売場も、クラシック、ジャズほどではないが狭くなっている。
かわりに広くなっているのは、J-POPとK-POPの売場である。

クラシック、ジャズ売場は人が少ない。
以前はもっと人がいたのに……、と思うほどに少なく感じる。

日本のCDの売上げが世界一といっても、
クラシック、ジャズは減ってきているのではないのか。
もしかすると店舗には行かずにインターネットで買う人の割合が増えているだけのことであって、
クラシックのCDもジャズのCDも、売場の狭さほどには縮小していないことも考えられる。

でも店舗に行くと、やっぱりいいな、と思う。
タワーレコードは若い店員が多い。

髪をいろんな色に染めている人、
ピアスをいくつつけているんだろうか、とつい数えたくなる人もいる。
そうでない人もいる。

でも、みな対応がいい。
タワーレコードでイヤな思いをしたことは記憶にない。

今日も行っていた。
2フロアー、いろいろ眺めて、数枚のCDを買った。

どちらのフロアーの店員も気持いい接客である。
タワーレコードで働くのが好きだからなのか。

私が行くのは新宿店と渋谷店ぐらいだ。
ほかの店舗がどうなのかは知らないが、
タワーレコードに行くと、また来よう、といつも思う。

Date: 2月 25th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいシゲティの無伴奏ソナタとパルティータ

シゲティの、バッハの無伴奏ソナタとパルティータが、
3月下旬にLPで復刻されるのを、タワーレコードのページで知った。

《VANGUARD社所蔵のオリジナル・マスターテープからの最新リマスタリング》とある。
さらにマスタリングエンジニア、マスタリングに使われた器材の表記もある。

これを見て気づくのは、一度デジタルに変換してのマスタリングである、ということだ。
これを批判する人も少なからずいるだろうが、
私はむしろ、同じマスターでMQAで配信、もしくはMQA-CDで出してくれないか、
そういうことを思ってしまう。

いまのところシゲティは、MQA-CDもないし、e-onkyoでも配信されていない。
今回のLP復刻を機に出てこないものか、とちょっぴり期待している。

Date: 2月 25th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その18)

「音は人なり」

オーディオを介してスピーカーから鳴ってくる音は、
まぎれもなく、そのスピーカーを鳴らしている人の表現である。

だからといって、自己表現ということばは使いたくない。
それでも己の、なんらかの表現であることは確かである。

「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」

13歳で出逢った「五味オーディオ教室」に、そう書いてあった。
他にもいくつか深く心に刻まれたことばはある。
その中でも、この「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」は、
オーディオの最終解答のようにも感じた。

「音は人なり」に「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」をあてはめようではないか。
そうすると、ここでの無音とは己の表現を無にした音なのではないか。
そうおもえてくる。

Date: 2月 24th, 2020
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その23)

その10)で書いたことを、またおもいだす。
「第九」を聴いて号泣した受刑者は、
ベートーヴェンの「第九」を待っていたのだろうか、と。

コンサート会場に足を運ぶ人、
スピーカーの前にすわっている人、
どちらも音楽が鳴ってくるのを待っている、といえる。

もっといえば芸術作品を望んでいる、といえる。

そして、どちらも客といえる。
コンサートに行くにはチケットを買う必要がある。
スピーカーの前にすわっている人も、
音楽を聴くためにはレコード(録音物)を買う必要がある。

どちらも音楽家にとって客である。

「第九」を聴いて号泣した受刑者はどうだろうか。
客ではない。

「第九」を聴いていたら、罪を犯しはしなかっただろう……、と、
その記事にはあったと記憶している。

「第九」を、だから待っていた人でもない。
知らなかったようにも思える。

コンサート会場にいる人とも、スピーカーの前にいる人とも違う。
一般社会とは隔絶された空間で、刑務官にうながされてスピーカーの前にいたはずだ。

「第九」を聴きたいとは思っていなかった人である。
音楽の聴き手としてスピーカーの前にいたわけではなかった。

そういう人の前で「第九」は鳴ったのだ。

Date: 2月 24th, 2020
Cate: 電源

スイッチング電源のこと(その8)

イギリスのCHORDは、スイッチング電源に最も意欲的・積極的なメーカーである。
CHORDのD/Aコンバーターやコントロールアンプといった、
消費電力の少ない製品に関しては、90Vから250Vまで対応している。

消費電力の大きいパワーアンプではどうかというと、各国の電源事情にあわせている。
日本の輸入元タイムロードのウェブサイトには100Vのみが記載されている。

本国のCHORDのサイトでは、D/Aコンバーター、コントロールアンプなどでは、
90v AC-250v AC auto switchingとある。

パワーアンプのところには、電源電圧に関する項目がない。
スイッチング電源の専門メーカーともいえるCHORDだから、
パワーアンプにおいては、auto switchingでは電源電圧の低い国では、
音質的に不利になることを理解しているのだろう。

ジェフ・ロゥランドも、スイッチング電源を採用している。
プリメインアンプのDaemonのリアパネルをみると、85-265 VACとある。

パワーアンプのリアパネルには、スイッチング電源であっても100Vとあったりする。

このあたり、ジェフ・ロゥランドが、
スイッチング電源と電源電圧の関係による音の変化をどう考えているのか知りたいところだ。

スイッチング電源を搭載しているオーディオ機器は何も使っていない──、
そういう人もいる。
そういう人でも、パソコンを使って再生しているのであれば、
そのパソコンに使われている電源は、メーカー製であるならばスイッチング電源である。

ノート型で、音楽再生時にはバッテリー駆動しているというのであればいいが、
AC電源を使う場合、電源電圧は高いほど有利になるのは同じだ。

Date: 2月 24th, 2020
Cate: 電源

スイッチング電源のこと(その7)

メーカーは100Vの電源電圧であっても、
十分な容量のコンデンサーを搭載している、というはずだ。

けれど、このことは240Vで使用すれば、
コンデンサーの容量にかなりの余裕がある、ということになる。

平滑後のスイッチング電源でリップルは抑えている、と、またメーカーはいうだろう。
たしかにそうだろうが、それでも音は変らない、といえるだろうか。

でも、それは整流・平滑のあとに定電圧回路を入れているから、
電源トランス、ダイオード、コンデンサーなどによって音は変らない、というのと同じことだ。

スイッチング電源では、入力される電源電圧によって音は変化しない──、
そうであってほしい、といちばん願っているのはオーディオマニアなのかもしれないが、
現実には音は変ってくる。

音が変る──、ということで喜ぶオーディオマニアも意外に多いのかもしれないが、
私は変ってほしくない、と思う側だ。

でも変る以上はなんとかする必要がある。

自分で設計し自作するのであれば、
スイッチング電源の場合、最初から100Vに限定しておくのがいい。

けれどメーカー製の場合はそうはいかない。
メリディアンの218も、平滑コンデンサーの耐圧は450Vとなっている。
100Vに限定すれば、耐圧は半分以下におとせる。

そして、その分、同サイズのコンデンサーならば容量は増える。
218(version 10)とは、このコンデンサーの交換のことである。

でも別項「218はWONDER DACをめざす」で書いているように、
部品の交換はやらないと決めている。

ならばどうするか。
電源電圧を昇圧するわけだ。

Date: 2月 24th, 2020
Cate: 電源

スイッチング電源のこと(その6)

スイッチング電源では、平滑コンデンサーにかかる電圧は、入力される電源電圧によって違ってくる。
100Vと200Vとでは、平滑コンデンサーにかかる電圧がそれだけ違ってくる。

つまりスイッチング電源で、100Vから200V(もしくは240V)まで対応するには、
高い電圧のほうに、コンデンサーの耐圧をあわせることになる。

交流を整流し平滑して直流にする。
けれどこれだけで完全な直流になるわけではなく、
リップルという小さな波が残ってしまう。

リップルが小さければ小さいほどいいわけで、
コンデンサーの容量は、このリップルと密接に関係してくる。
簡単にいってしまえば、コンデンサーの容量が大きいほどリップルは小さくなっていく。

けれどコンデンサーには耐圧という制約がある。
耐圧が高いコンデンサーと低いコンデンサーである。
この二つのコンデンサーのサイズが同じならば、
耐圧の低いコンデンサーのほうが容量は大きい。

それから実際に電源回路に使った場合、
消費電流が少ないほど、同じ電源電圧、同じコンデンサーの容量であっても、リップルは小さくなる。
ほかの条件が同じでも、電流が大きくなればリップルも大きくなる。

電圧に関してはどうかといえば、電流が同じであれば、
電圧が高い方がリップルは小さくなり、低くなればリップルは大きくなる。

どういうことかというと、240Vの電源電圧まで対応できるスイッチング電源であれば、
平滑コンデンサーの耐圧はそれだけ高いわけだし、リップルに関しては有利になる。

それを100Vで使うとなると、コンデンサーの容量は変らず、電圧だけが低くなるわけだから、
リップルに関しては不利になる。

240Vと同じリップル率にするには、100Vではコンデンサーの容量を増さなければならない。

Date: 2月 24th, 2020
Cate: 電源

スイッチング電源のこと(その5)

オーディオアンプにスイッチング電源が採用されたのは1970年代後半からだから、
スイッチング電源という考え方は、それ以前からあったのだろうなぁ、ぐらいには思っていた。

数日前に、あるニュースサイトに
コンピューターや家電製品の「電源」はどのように進化してきたのか?』という記事があった。

この記事によると、スイッチング電源の構想は1930年代とある。
まだトランジスターが登場していないころである。
動作周波数20kHzのスイッチング電源は、1960年代後半に登場したこともわかる。

この記事に刺激されて、スイッチング電源の歴史で検索してみると、
なかなかおもしろい。

1974年ごろ、Robert Boschert氏によるスイッチング電源の簡略化が実現してなければ、
オーディオへの採用はもっと後になっていたかもしれない。

とにかくそうやってビクターやソニーのパワーアンプ、
それからテクニクスのコンサイスコンポへ搭載された。

このころのスイッチング電源は、100Vのみだった。
いまのスイッチング電源は、そうではない。

メリディアンの218のリアパネルには、100-240V ACとある。
内部は緯線を切り替えることなく、100Vでも200Vでも、240Vでも対応できる。

いまではあたりまえのことなのだが、
初期のスイッチング電源ではそうではなかったから、進歩といえる。

けれどオーディオに関していえば、進歩と素直に喜べない面もある。

スイッチング電源は、まずダイオードで整流し、コンデンサーで平滑する。
通常の電源は、まず電源トランスがあり、そこで電圧を昇圧・降圧したうえで、
整流・平滑とする。

つまり通常の電源の場合、平滑用コンデンサーにかかる電圧は、
各国の電源事情にあわせて電源トランスの一次側の巻線で対応するため、
100Vの国だろうと、もっと高い電圧の国であろうと同じである。

スイッチング電源は、そこが違う。

Date: 2月 23rd, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218はWONDER DACをめざす(その14)

メリディアンの218のことについて書きつづけていて、
218ユーザーの人たちは、ここを読まれてどう思われているのか。

ここでは218の内部に手を加えていることを書いている。
私が手を加えた218は、audio wednesdayで聴ける。
そこでの変化を聴いている人にとっては、おもしろいだろうが、
audio wednesdayに来られない人、
つまり手を加えた218を聴いていない人にとっては、
どれだけの音の変化、違いがあるのかを確認できるわけでもなく、
私の自慢話を読まされているだけ──、そんな受け止め方もあるようには思っている。

それにどんな手の加え方をしたのかについては、ほとんど書いていない。
別に出し惜しみしているわけではない。

きちんとわかってくれる人には、何をやったのかは伝える。
ただ、ここで文字だけで、こんなことをやった、と、
どんなに詳細に書いたところで、肝心なところを読み飛ばして、
失敗する人が出てくる可能性があるのを実感しているためだ。

そういう人にかぎって、人のせいにする。
器用な人もいれば不器用な人もいる。
文字だけで、一方的に伝えることの危険性をわかっていると、
直接ならば、相手の力量もある程度は把握でき、
どこまで教えられるかもなんとなくつかめる。

そんなわけで、具体的なことはほとんど書いていない。
なので、つまらない、と思われてもしかたないぐらいには思っている。

先ほど、218ユーザーの方からメールが届いた。
218に手を加えられている方ではない。
でも、この「218はWONDER DACをめざす」を楽しみにしている、とあった。

Date: 2月 23rd, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その8)

別項「オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その4)」で、
情報というよりメディアがBGM化していると捉えるならば、
background mediaだから、もうひとつのBGMとなる──、と書いた。

同じく(その3)では、情報の垂れ流しについて書いた。

私がSNSへのマルチポスト、
そしてマルチポストを平気でする人に対して嫌悪感をいだくのは、
ここである。

それは情報の垂れ流しであり、BGM(background media)であるからだ。

垂れ流しとは、辞書には、未処理の廃棄物などをたれ流すこと、とある。
未処理の情報もどきも、未処理の老廃物と同じように感じるからだ。

Date: 2月 23rd, 2020
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(オーディオアクセサリー 176号)

オーディオアクセサリーの最新号が書店に並んでいる。
176号のページによれば、《編集部入魂の1冊》だそうだ。

この号で興味を惹くのは、巻頭企画②「新春座談会2020年 これからのオーディオを語る」である。
記事の紹介文を引用しておく。
     *
2020年最初の刊行となる176号では、本誌で健筆をふるう評論家陣が大集合。福田雅光氏がオーディオ界でいまもっとも勢いのあるオピニオンリーダー達を自宅の新試聴室に招集。もともとは福田氏が単に新年会を企画していただけのことだったのですが、この錚々たるメンバーが一堂に会する機会などめったにない。そこで編集部はこの機会を逃すまいと、この新年会に潜入。新春座談会という形で、しばしの間(!?)、オーディオの未来や、アナログ再生の現状、オーディオ雑誌の問題点等々のお話をしていただいた。編集部からの要望はひとつだけ。「立派な話はしないでくださいね」。これを受けて“正論”無しのバトルが火を噴いた。掲載できるギリギリの内容までつめた、評論家陣のぶっちゃけトークをぜひともお楽しみください。
     *
福田雅光氏監修とある。
これだけを読んでいると、期待できそうな感じもしないでもない。
とはいってもオーディオアクセサリーだから……、
それほど期待はしていなかったが本音でもある。

おもしろければ、つまりほんとうに紹介文通りの内容であれば買うつもりだった。
これだけ、いわば煽っているのだから、
ボリュウム的にも最低でも8ページくらいあるんだろうな、とも勝手に想像していた。

書店に手にとって、がっかりした。
わずか4ページしかない。

《掲載できるギリギリの内容までつめた、評論家陣のぶっちゃけトーク》が、
ほんとうに読めるのであれば、それでもかまわない。

でもページをめくって4ページ目にある見出しを見て、
もう期待できない、と確信した。

福田雅光氏の発言が見出しになっていた。
買わなかったので、正確な引用ではないが、こんなことだった。

書き方を変えた、
持論を加えるようになった

そんなことだった。
これをどう受け止めるのだろうか。
ほとんどの人が、それではいままで持論を語ってこなかったのか、と驚くのではないのか。