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日本のオーディオ、これから(コロナ禍ではっきりすること・その1)

サプリーム No.144(瀬川冬樹追悼号)の巻末に、
弔詞が載っている。

ジャーナリズム代表としては原田勲氏、
友人代表として柳沢功力氏、
メーカー代表として中野雄氏、
三氏の弔詞が載っている。

柳沢功力氏の弔詞の最後に、こうある。
     *
君にしても志半ば その無念さを想う時 言葉がありません しかし音楽とオーディオに托した君の志は津々浦々に根付き 萠芽は幹となり花を付けて実を結びつつあります
残された私達は必ずこれを大樹に育み 大地に大きな根をはらせます 疲れた者はその木陰に休み 渇いた者はその果実で潤い 繁茂する枝に小鳥達が宿る日も遠からずおとずれるでしょう
     *
瀬川先生の志は大樹になったといえるだろうか。
そういう人も、オーディオ業界には大勢いるような気がする。

見た目は大樹かもしれない。
でも、何度か書いているように、一見すると大樹のような、その木は、
実のところ「陽だまりの樹」なのではないか。

「陽だまりの樹」は、陽だまりという、恵まれた環境でぬくぬくと大きく茂っていくうちに、
幹は白蟻によって蝕まれ、堂々とした見た目とは対照的に、中は、すでにぼろぼろの木のことである。

真に大樹であるならば、コロナ禍の影響ははね返せるだろう。
「陽だまりの樹」だったならば……。

Date: 5月 4th, 2020
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(パワーアンプは真空管で・その1)

フルレンジユニットと真空管アンプとの相性はいいのか。

ステレオサウンド別冊のHIGH TECHNIC SERIESのフルレンジ特集号では、
通常の試聴記事の他に、アルテックの755E、シーメンスのCoaxial、フィリップスのAD12100/M8を、
マランツの510MとマッキントッシュのMC275で鳴らす、という記事があった。

トランジスターか真空管か。
それ以前の違いとして、いくつもの要素が存在しているわけだから、
単純に真空管のパワーアンプとの相性がいい、とは誰にも断言できないことなのだが、
それでも試聴記(岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹の鼎談)を読めば、
魅力的な音を聴かせてくれたのは、MC275のほうだったことが、
こちら側にも伝わってくる。

三つのユニットとも、その時点でも現代的なフルレンジユニットはいい難い。
それゆえにMC275、真空管との相性がよかったのではないか、という推測もできなくはない。

それでも現代のフルレンジユニットであっても、
真空管のほうがうまく鳴らしてくれる面はある。

ここでいう真空管のパワーアンプとは、出力トランスを背負っているアンプである。
世の中には、信号系にトランスが介在することを極端に嫌う人がいる。
わからないわけではないが、トランスにはトランスのよさがある。

別項で書いているところだが、ダンピングファクターをやたら気にする人がいる。
そういう人のなかには、トランス付きの真空管アンプは……、となろう。

どうやって出力トランス付きのパワーアンプでは、
出力インピーダンスを極端に低くすることはできない。
ダンピングファクターをを高くすることはできない。

けれど、である。
出力トランスの場合、二次側の巻線が、
スピーカーユニットのプラスとマイナスの端子を直流的にはショートしているのと等価だ。

もちろん巻線にも直流抵抗があり、スピーカーケーブルにもある。
なので完全な0Ωでショートしていることにはならないが、
それでも出力トランスの二次側の直流抵抗とスピーカーケーブルの直流抵抗を足しても、
さほど高い値にはならない。

フルレンジユニットであれば、
パワーアンプとユニット間にLCネットワークはない。
だからこそ、この出力トランスによる直流域におけるショート状態が活きる。

Date: 5月 4th, 2020
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その11)

長島先生が、どんな音を求められていて、
どんな音をダルな音と表現されていたかは、
ステレオサウンドをずっと読んできている人ならば、
きちんと読んできた人ならば、
長島先生の音を聴いたことがなくとも理解されているはずだ。

そうはいっても長島先生が亡くなられて二十年以上が経つ。
ならばステレオサウンド 127号の「レコード演奏家訪問」だけでも、読んでほしい。

127号のバックナンバーを手に入れるのは難しいだろう。
けれど、幸いなことに「菅野沖彦のレコード演奏家訪問〈選集〉」がある。

長島先生の回もおさめられている。
長島先生と菅野先生の会話を読めば、
ダルな音が、どんな音かはすぐに理解できるはずだ。

冒頭のところだけ引用しておこう。
     *
菅野 とにかく技術畑の出身で、テクノロジーを、ある意味ではプライオリティにしてこられた長島さんだと思ってきたわけですが、およそ技術畑の人の音のイメージじゃないんです。この激しく奔放で強烈なインパクトがあって、しかもデリカシーもあるという音はね。
長島 これでもテクノロジーはプライオリティにしているつもりなんですよ(笑)。
菅野 でも、この音は、そんなものはクソ食らえ! っていう印象を与えますよ。非常にエネルギッシュな音の出方。音色の変化の鮮やかさ。血湧き肉躍るような、生命感にあふれる生々しい音楽の躍動感。そのなかに長島さんが没頭して音楽に酔いしれる姿を僕は傍らでみていて、いつもの長島さんじゃないような気がしたんだ。ここまであなたが感情移入をして音楽を聴かれるとは思っていなかった。
長島 僕はね、きれいな音を出すこともだいじだけれども、音は、まず、生きていなければならないと、いつも考えているわけです。どれほどの美音でも、生きていない音は絶対に嫌だ。聴いていると体調がわるくなってくるんです。
     *
こうやって書き写していると、もっともっと書き写したくなる。
このあとに、ワインの澱を例にした話も出てくる。

「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」
スミ・ラジ・グラップについても語られている。

長島先生の音と真逆な音が、ダルな音である。

Date: 5月 4th, 2020
Cate: ディスク/ブック

鉄腕アトム・音の世界(その1)

鉄腕アトム・音の世界」は、音楽の世界ではない。
「音の世界」である。

「鉄腕アトム」とのであいは、マンガよりも先にアニメだった。
モノクロの「鉄腕アトム」が古い記憶だ。

「ブラック・ジャック」の連載が始まったころから手塚治虫のマンガに夢中になった私は、
そのころ「鉄腕アトム」もマンガで読むようになった。

原作のマンガよりも先に、しかもかなり幼いころにアニメに接していた。
しかも、そのころ私が住んでいた熊本には民放の放送局が一局しかなかった。

種々雑多ななかの一本というのではなく、
数少ないなかの一本としての「鉄腕アトム」でもあった。

あのころの「鉄腕アトム」を見ていた人ならば、
アトムの歩く音は、どんな内容かだったよりも、印象に残っていよう。

決して硬いものが床に接する音ではなく、
ゴムのような柔らかい素材による音であるからだ。

ロボットの足音とは思えない音だった。

「鉄腕アトム・音の世界」には、音効の世界である。
しかも現実の世界よりも、鉄腕アトムで描かれている世界は、数十年後の未来だ。

「鉄腕アトム」の時代設定では、
すでにアトムは存在している時代をわれわれは生きているわけだが、
現実にはまだまだである。

そんな時代に「鉄腕アトム・音の世界」を聴いている。

Date: 5月 3rd, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その16)

これまで、オーディオ雑誌は、
OTOTEN、インターナショナルオーディオショウの記事を、どこも載せてきた。

今年は、OTOTENに関してはなくなった。
インターナショナルオーディオショウも、どうなるのかわからない。

ならば誌上OTOTENという記事を、どこかやらないのか、と思う。
富士フイルムのφが、今年はどうなっているのか。
そのことを取材にいく。

ESD ACOUSTICは、今年も出展するつもりだったのか。
だとしたら、どんなふうに今年はやる予定だったのか、。
ESD ACOUSTICは中国のメーカーだら、取材に行くのは無理でも、
メールでの取材は可能なはず。

その他のメーカー、輸入元にも取材に行く。
多くのところが、今年はどんなふうにやるのかはおおまかではあっても決っていたと思う。

どんなディスクをかける予定だったのか、
そんなことを含めて、こまかな取材をしてきてくされば、
例年通りの記事よりも、ずっとおもしろいものちなるのではないだろうか。

ステレオサウンドが、こういう企画をやると思えない。
やってくれるとしたら、ステレオか。

Date: 5月 3rd, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その15)

2018年のOTOTENに初出展した富士フイルム。
φ(ファイ)という、独自のスピーカーシステムの試作品を出品していた。

人気があって、ブースに入れずに聴けなかった。
2019年のOTOTENには、改良版が出品されていた。
やはり人気がありすぎて、ブースに入れず、実物すら見れなかった。

まだ製品化はなされていない。
今年こそ、三度目の正直で聴きたい、と思っていたが、
OTOTENが中止になったので、聴けずに終る。

2021年になったら聴けるのだろうか。
富士フイルムは開発をまだ続けているのか。

Date: 5月 2nd, 2020
Cate: 瀬川冬樹

虚構を継ぐ者(その2)

赤井商事が輸入していたころのインフィニティの広告に、
 アーノルド・ヌーデルは語る
 「生の音楽に到底かなわないのは
 分っている。
 要は、科学でどれだけ接近できるかだ。
 だから、無限=インフィニティ。」
とあった。

おそらくだが、ヌーデルには、
瀬川先生のような「ナマ以上にさえ妖しく美しい音」という捉え方はなかったはずだ。

アーノルド・ヌーデルは物理学者である。
メーカーの人間であり、オーディオ機器を開発する側にいるわけだから、
これでいいわけだ。

われわれはオーディオマニアである。
どちら側にいるのか。

Date: 5月 2nd, 2020
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その9)

ベートーヴェン弾き、といったことを、昔はよく目にしていた。
古くはシュナーベルがいた。
それから五味先生がお好きだったバックハウスとケンプも、ベートーヴェン弾きだった。

彼ら以外だと、ギレリスもベートーヴェン弾きだった。
ギレリスのあとの世代で、ベートーヴェンを積極的に録音しているピアニストは多い。

ブレンデル、バレンボイム、ポリーニがいるし、グルダもそういえよう。
けれど、ベートーヴェン弾きという印象は、ない。
少なくとも私には、ない。

私よりも若い世代の聴き手だと違ってくるのかもしれないが、
私と同世代、上の世代だと、
ギレリスで、ベートーヴェン弾きはいなくなってしまった──、と感じているのではないだろうか。

ベートーヴェン弾きだから、素晴らしい演奏を残してくれた、とか、
ベートーヴェン弾きでないから……、ということではない。

グルダのベートーヴェンは素晴らしいし、
アニー・フィッシャーのベートーヴェンもそう感じている。
(アニー・フィッシャーはベートーヴェン弾きなんだろうか)

シフのベートーヴェンに「ないもの」を感じてしまうのは、
シフがベートーヴェン弾きではないからなわけではない。

それでも、どこにベートーヴェン弾きと感じ、
そうでないと感じてしまうのかは、
シフのベートーヴェンに「ないもの」を感じてしまった以上は、
考えなければならないのか。

Date: 5月 2nd, 2020
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その8)

二週間ほど前に、アンドラーシュ・シフのベートーヴェンのピアノソナタ全集が、
e-onkyoでの配信が始まった。
MQAでの配信もある(44.1kHz、24ビット)。

その、ほぼ一週間後に、エミール・ギレリスのベートーヴェンの配信も始まった(2.8MHz、1ビット)。
ギレリスのベートーヴェンは全集ではなく、
中期のソナタのもので、ドイツ・グラモフォンに1972年75年にかけてのものである。

ギレリスのベートーヴェンは、1986年の2月と5月に、
最後の録音を行ない、ギレリスの70歳を祝って、
1986年秋(ギレリスの誕生日は10月19日)に出る予定だった。

けれど、69歳の誕生日の五日前に心臓発作で急逝している。
ギレリス最後の録音は、ベートーヴェンの第30番と31番となる。

ギレリスの32番は残されていない。
30番と31番を聴くと、32番が残されなかったこと、どう思うのか。
ギレリスのベートーヴェンの全集は、
1番、9番、22番、24番、32番が未録音である。

せめて32番だけでも、としかたないことをおもう。
それでも、32番がないからこそ、ギレリスの30番と31番を聴く時は、
生半可な気持でいるわけにはいかない。

今年はベートーヴェン生誕250年だから、
いまになってシフの全集の配信が始まったのだろうし、
ギレリスのベートーヴェンもそうであろう。

シフのベートーヴェンは、特に後期の三作品にはかなりの期待をしていた。
期待に違わぬ──、といえば確かにそうだった。

けれど、この項で書いてるように、「ないもの」を感じてしまった。

Date: 5月 2nd, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その14)

日本だけでなく、世界中で、オーディオショウは中止になっている。
日本だけでもけっこうな数のオーディオショウが開催されている。
世界各国となると、いったいどれだけの数になるのか。

そのなかには小規模、中規模のオーディオショウもけっこうあるはずだ。
そのオーディオショウの規模がどの程度なのかははっきりと把握していないが、
海外のオーディオショウの一つが中止になった。

しかたないことではあるが、
そのオーディオショウの主催者が出展社に出展料を返さない、
ということでトラブルが起っている、らしい。

こまかな事情はわからない。
それぞれに事情があってのことかもしれない。
返金したいけれど、できないのかもしれない。

他にも同じようなトラブルになっているオーディオショウがあるのかもしれない。
あっても不思議ではない。

解決に向っていくのかもわからない。
わからないことしかないのだが、
和解しないままになってしまうと、どうなってしまうのか、の想像はつく。

Date: 5月 2nd, 2020
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(次なるステップは・その5)

フルレンジ型ユニットからスタートして、次のステップとして、
トゥイーターを選択するのか、ウーファーを選択するのか。

既製品のスピーカーにしか関心のない人にとってはどうでもいいことだろう。
けれど10代のころ、JBLの4343が憧れのスピーカーだったし、
4343は4ウェイのスピーカーシステムだった。

そして同じころ、ステレオサウンドからマルチアンプの別冊が登場した。
巻頭は瀬川先生が担当されていた。

そこにフルレンジからスタートして、
最終的に4ウェイにまでステップアップしていく内容があった。

いつかは4343と……、そう思い続けていた私にとって、
フルレンジから4ウェイまでの過程は、いくつかの意味でひじょうに興味深いものだった。

瀬川先生のプランは、フルレンジからスタートし、次のステップとしてはトゥイーターの追加だった。
いまでこそ、こういうことを書いているが、当時はフルレンジ、
次はトゥイーターをつけての2ウェイ、それからウーファーを足して3ウェイ、
最後にミッドハイで、最終的に4ウェイを目指す──、だった。

経済的なことを考慮すると、
フルレンジからの次のステップはトゥイーターが、助かる。

フルレンジ一発のスタートは、ユニットの価格にしても、
エンクロージュアの大きさ、自作の大変さも、
ウーファーよりもずっと負担は少ない。

トゥイーターに関しては、エンクロージュアのことは当面考えずにすむ。
ウーファーはそうはいかない。

本格的な低音を目指して、となると、ユニット、エンクロージュアにかかる予算は、
学生にはかなりの負担ともいえる。

その意味ではトゥイーターというのは理解できる。
それでも、ここまでオーディオをやってくると、考えも変ってくる。

Date: 5月 1st, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオにおける「かっこいい」とは(その3)

オーディオの普及のためには、
オーディオを何も知らない人がみて、かっこいい、と思われないとダメだ──、
そんなことをSNSで見かけたことがある。

基本的には、というか、簡単に言葉にしてしまえば、私も同じ考えだ。
でも、SNSでそんなことを発言していた人のオーディオは、
私は少しもかっこいいとは思えなかった。

薄っぺらだな、と感じただけだった。
専用のリスニングルームに、高価な器材が並べてある。

そんな発言をしている人のリスニングルームだけにかぎったことではない。
同じように感じてしまう写真が、インターネットにけっこうあふれてたりする。

確かにこれだけの器材を買うだけでも、それだけの情熱は必要になる。
そんなことはわかったうえで、薄っぺらだ、と感じてしまうのは、
オーディオの楽しさが、少なくとも写真から伝わってこないからだ。

スイングジャーナルでずっと以前に載った瀬川先生のリスニングルームの写真を見て、
カッコイイと思った人は、
あの写真から、オーディオの楽しさを感じとっていたからではないのか。

岩崎先生の部屋に憧れる、といった人も同じだったのではないか。

Date: 5月 1st, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その9)

長岡鉄男氏のファンは多かった、といっていいだろう。
こんなふうに書くのは、私の周りに、長岡鉄男氏のファンがいなかったからだ。

ステレオサウンドを辞めて十年ぐらい経ったぐらいのときに知りあった人が、
10代からハタチにかけてのころは長岡ファンでした、といっていたくらいである。

長岡鉄男氏のファンのことはよく知らないわけだが、
長岡鉄男氏の文章が載っていれば、そのオーディオ雑誌を買うのだろう。

私が中学、高校のころはFM誌全盛時代だった。
週刊FM、FMfan、FMレコパルがあった。

同級生にオーディオマニアはいなくても、FM誌を読んでいる者は何人かいた。
彼らはオーディオマニアではないから、長岡鉄男氏への関心もなかったはずだが、
彼らはどういう基準で、FM誌を選んでいたのだろうか。

オーディオマニアであれば、長岡鉄男氏の連載がある、ということが理由だっただろう。

私はFMfanがメインだった。
理由は単純だ。瀬川先生の連載が載っていたからだ。
週刊FMにも、1981年ごろか、巻頭のカラー見開きで瀬川先生の連載が始まった。
この時は週刊FMも買っていた。

私の知る限りでは、FMレコパルには書かれなかったはずだ。
その7)に書いたように、サウンドボーイにも一切書かれなかった。

そのころの私にとって、No.1のオーディオ雑誌はどれかという意識はあまりなかった。
とにかく瀬川先生の書かれたものを読みたかった。

Date: 4月 30th, 2020
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(次なるステップは……・その4)

スレッショルド、PASS LABの創業者であるネルソン・パス。
パスのスピーカー遍歴は興味深い。

いまパスが使っているスピーカーは、
Cube Audioのフルレンジユニットを使ったシステムである。

どのくらいになるのかまでは正確に憶えていないが、
パスはフルレンジユニットを中心としたシステムを、けっこう長くやっている。

今回のシステムにしても、
フルレンジを取り付けている平面バッフルの底部には、
エミネント(だったと思う)のウーファーが床に向けて足されている。

以前はフルレンジ+スロットローディングの低域というシステムだった。
とにかくフルレンジユニットの低域を増強する方向である。

そういえばBOSEもそうだった。
501という小型のシステムがあった。

小口径のフルレンジユニットを、キューブ状のエンクロージュアにおさめ、
二段重ねにし、センターウーファーを加えたシステムだった。

フルレンジがけっこう小口径で高域がそこそこ再生可能だったから──、
という見方もできるが、それでもウーファーを足している点に注目したい。

日本のメーカーならば、トゥイーターを先に足すのではないだろうか。
日本のオーディオマニアも、少なからぬ人が、
フルレンジで始めて、次のステップとしてはトゥイーターであろう。

トゥイーターを先に足せば、繊細感は増す。
けれど、そのことで、歌手の肉体の再現が増すかといえば、そんなことはない。

人によって優先順位は違う。
フルレンジに、ウーファーよりも先にトゥイーターを、という人は、
私とは優先順位が違うだけなのだろう……、と理解はできなくはないが、
それでも歌手の肉体の復活を最優先してこその、オーディオならではの愉悦ではないのか。

Date: 4月 30th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その2)

パブロ・カザルス指揮によるモーツァルトを聴いていると、
「細部に神は宿る」について、あらためて考えさせられる。

なにもモーツァルトでなくてもいい、
カザルス指揮のベートーヴェンでもいい、シューベルトでもいい、
私にとって指揮者カザルスによって生み出された音楽を聴いていると、
これこそ「細部に神は宿る」と実感できる。

「細部に神は宿る」ときいて、どんなことを思い浮べるか。
細部まで磨き上げた──、そういったことを思い浮べる人が多いかもしれない。

そういう人にとって、カザルスが指揮した音楽は、
正反対のイメージではないか、と思うかもしれない。

丹念に磨き上げられ、キズひとつない──、
そういった演奏ではない。

それなのに「細部に神は宿る」ということを、
指揮者カザルスの音楽こそ、そうだ、と感じるのは、
すみずみまで、血が通っているからだ。

太い血管には血が通っていても、
毛細血管のすべてにまで十分に血が通っているわけではない、ときく。

毛細血管の端っこまで血が通っていなくとも、
指先の手入れをきちんとやり、爪も手入れも怠らない。
そういう演奏は少なくない。

そういう演奏を「細部に神は宿る」とは、私は感じない。

カザルスの音楽は、そうじゃない。
毛細血管の端っこまで充分すぎるくらいの血が通っている。