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Date: 5月 12th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ファトマ・サイードの“Imagine”

ファトマ・サイードが“Imagine”を歌っている。
今日、歌っていることを知って、聴いていたところだ。

一曲のみだから、ストリーミングでのみ聴くことができる。
私はTIDALで聴いた。
MQA Studio(44.1kHz)で聴いた。

CD、SACDといったパッケージメディアにこだわりたい、という気持は、
マニアならば誰にでもあることだろう。

それをディスク愛と表現して、特集のテーマとすることもできよう。

でも、そこにこだわりすぎてしまっては、
ストリーミングで音楽を聴くなんて──、と拒否したままでは、
聴けない曲が出てくることになってしまう。

それでもいい、というのか。
そこまでこだわるのか。
こだわるべき対象はパッケージメディアなのか、音楽なのか。

ファトマ・サイードの“Imagine”を聴いて、そのことをおもっていた。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その56)

このブログは、2023年1月29日で終りなのだが、
いまのペースで書いていると、この項に関しても結論を書かずになってしまうそうである。

ちょっとペースをあげないと──、と思っていたところに、
今日未明に、Fさんという方からのメールが届いていた。

以前、何度かやりとりをしたことがある人で、
マークレビンソン、Celloの製品を愛用されてきた人である。

今回のメールには、Fさんのコントロールアンプ遍歴が綴られていた。
そこには、CelloのAudio Suiteこそが、
マーク・レヴィンソンの究極なのだろうと感じた、とある。

この一点こそが、この項でのいわば結論である。
私もAudio Suiteこそが、
マーク・レヴィンソンという男の、全き個性の完成形と感じている。

FさんはマークレビンソンのLNP2、ML6、
CelloのEncore 1MΩという遍歴の末のAudio Suiteである。

だからこそ、わかるなぁ、とひとりごちた。

Fさんのメールを読みながら、Audio Suiteを初めて聴いた日のことを思い出していた。
ステレオサウンドの試聴室で聴いている。

Audio Suiteの、コントロールアンプとしての完成度に関しては、
いくつか注文をつけたくなることがある。

でも、そんなことは音を聴いてしまうと、一瞬のうちに霧散してしまう。
魅力的ではなく、魅惑的に響く。
音楽が魅惑的に鳴り響くのである。

Date: 5月 10th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その15)

カラヤンをお好きだった瀬川先生と黒田先生。
お二人ともJBLの4343でレコード(録音物)を聴かれていた。

瀬川先生は、ステレオサウンド 53号での4343研究で、
オール・レビンソン、
しかもウーファーに関してはML2をブリッジ接続してのバイアンプ駆動、
つまり六台のML2を用意しての4343を極限まで鳴らそうという企画をやられている。

この時の音は、この時代における精緻主義の極致であっただろう。

この時、誌面に登場する試聴レコードは、
菅野先生録音、オーディオ・ラボの「ザ・ダイアログ」、
それからコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス録音)、
アース・ウインド&ファイアーの「黙示録」に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」である。

カラヤンのディスクはなかった。
53号を読んだ当時は、そのことに気づかなかった。
そういえばカラヤンのディスクがなかったな、と気づいたのは、
ずっとあとのことである。

気づいた後で、
ステレオサウンド 56号掲載のトーレンスのリファレンスの新製品紹介記事、
58号でのSMEの3012R-Specialの新製品紹介記事、
もちろん両方とも瀬川先生が担当されているわけで、
この二つの瀬川先生の文章を読み返すと、
精妙主義ということに、少なくとも私のなかではつながっていく。

同じことは黒田先生についてもいえる。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: 書く

続・audio identity (designing)を終りにする理由

小林秀雄が、中原中也のことを書いている。
《彼はどこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。》

どこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。

そうなのだ、来年はじめる新しいブログでは、そうありたい。
どこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。

オーディオについて書くのは難しいようでいて、
逃げ道が、そこらにある、と感じている。

理智に逃げる、
心理に逃げる、
感覚に逃げる。

逃げられるからこそ書いてこれた、とも言えるのだから、
どこにも逃げずに書いていくというのは、しんどいだろうなぁ、とは思っている。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その14)

精妙と精緻は近いようでいて、同じではない。
カラヤンは精妙主義の指揮者であり、
別項で触れているマーラーの第一番をシカゴ交響楽団と録音したころのアバドは、
精緻主義の指揮者である。

カラヤンの精妙主義がもっともいかされていると私が感じるのは、
ワーグナーにおいて、である。

「パルジファル」がもっとも優れたカラヤンの精妙主義を聴くことができるが、
「ニーベルングの指環」もそうだと感じている。

室内楽的、といわれたのは黒田先生である。
たしかにカラヤンの「ニーベルングの指環」は室内楽的な印象を受ける。

五味先生はカラヤンを嫌われていた。
初期のカラヤンの演奏は高く評価されていたけれど、
フルトヴェングラーが亡くなって以降のカラヤンに関しては、
堕落した、とまでいわれている。

カラヤンの「ニーベルングの指環」は、
その五味先生のレコードコレクションの中にある。

いまでこそけっこうな数の「ニーベルングの指環」の録音はある。
けれど五味先生が生きておられた時代、
ショルティの「ニーベルングの指環」がまずあった。

それ以外の「ニーベルングの指環」となると、
いかな五味先生でもカラヤンの「ニーベルングの指環」を無視できなかったのだろう。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: バランス

Xというオーディオの本質(その8)

Xという文字を両天秤として捉えていると、
Xを描く線の一本は音の姿勢であり、
交叉するもう一本は音の姿静である──、
というのはいまの私の予感である。

Date: 5月 8th, 2022
Cate: 映画

Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その1)

「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」を観てきた。
IMAX 3Dでの映画鑑賞は久しぶりである。

昨年はIMAX 3Dで一本も映画を観ていない。
上映している映画も少なかったと記憶している。

以前なら、この種の映画ならIMAX 3Dでの上映があるのに──、
そう思える作品でもなかったりしていた。

「ドクター・ストレンジ」本編については何も書かない。
今日驚いたのは、本編が始まる前に流れた「アバター」の予告編についてである。

「Avatar: The Way of Water」は「アバター」の続編で12月公開予定である。
その予告編も、IMAX 3Dだった。

映像のクォリティに驚いた。
この予告編をIMAX 3Dで観られただけでも、
今日映画館に足を運んでよかった、と思えるくらいの出来なのだ。

公開まであと七ヵ月もあるのだから、公開時にはさらにクォリティは向上しているかもしれない。
公開が待ち遠しいと思っているのだが、
世の中には、この種の映画を蔑視する人たちがいる。

CGだけが売りで、内容的には……、と、そんなことをいって否定する。
内容的に……、といいたくなる映画もあるといえばあるけれど、
それにしても、こんなことをいう人は、
IMAX 3Dで上映される作品における情報量を処理できずにいるのではないのだろうか。

スクリーンに映し出される情報量は、IMAX 3Dともなると多い。
それに動きの早いシーンによっては目が追いつかない、と感じたりもする。

私はCGでしっかり作り込まれた映画をIMAX 3Dで観るのは、
スポーツのようなものだと受け止めている。
頭のスポーツである。

ふだんあまり動かしていない(と感じている)頭の部位を、
この種の優れた映画を観ると、鍛えられるような感じがする。

人は、処理し切れない情報量の場合、単純化(省略化)してしまう──、
という説を以前読んだことがある。
脳のオーバーヒートをおこさないようにするため、らしい。

三年ほど前にも、別項で同じようなことを書いているけれど、
「アバター」の予告編を観て、またさらに頭が鍛えられそうな、
つまり情報の処理能力が鍛えられそうな映画登場してくる、
そんなふうにも受け止めていた。

Date: 5月 7th, 2022
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その23)

井上先生の
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》、
ここにある井上先生の問いかけに関連して思い出すのは、
五味先生の、この文章である。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
《粗暴で荒々しいベートーヴェン》でなくとも、
見通しよく整然と聴こえてきたベートーヴェンであったとしても、
ベートーヴェンのやさしさが聴こえてこないのならば、
ベートーヴェンに飽きがくるのであれば、
それは優れたオーディオ機器であろうか。

ここでの、装置が悪い、いい、というのは、
オーディオ雑誌における評価とは関係のないところでのいい、悪いである。

Date: 5月 7th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(THAEDRAとJC-2・その4)

THAEDRAと組み合わせた時の音について別項でも触れているから、
ここでは省くけれど、THAEDRAも、どうしても欲しい、という人がいて、
結局、その人に譲ってしまった。

JC2とTHAEDRA。
これら以外のコントロールアンプも使ってきたけれど、
ふり返って思い出すのは、この二機種である。

使ったことがない、
つまり自分のシステムに組み込んだことがないモデルのなかでは、
マークレビンソンのLNP2は、いまでもいつかは──、というおもいがあるけれど、
使ったモデルに限定すれば、JC2とTHAEDRAということになる。

いま目の前に、この二つのコントロールアンプがあって、
どちら片方だけ選べといわれたら(もちろんどちらも同じ価格だとして)、
やはりTHAEDRAを選ぶ(資産価値で選ぶ人はJC2のはず)。

実際のところ、中古市場ではJC2のほうが高価である。
それでも、私がとるのはTHAEDRAであり、ここにおける選択は、
音があってのことであっても、別の理由もある。

別項で「オーディオ・システムのデザインの中心」を書いてる。
結論までにはもう少し書いていく予定なのだが、
私は、オーディオ・システムのデザインの中心はコントロールアンプだ、と考えている。

つまりJC2よりもTHAEDRAということは、
コーネッタをスピーカーに据えるシステムにおいて、
THAEDRAを、システムのデザインの中心に置く(選んだ)ことである。

Date: 5月 6th, 2022
Cate: ディスク/ブック

マーラーの交響曲第一番(一楽章のみ・その1)

ここ数日、ふと思い立って集中的に聴いていたのが、
マーラーの交響曲第一番の一楽章である。

TIDALのおかげで、いろんな指揮者の一楽章のみを聴いていた。
こんなことをやって確認できたのは、
私にとって、この曲の第一楽章のリファレンスとなっているのは、
アバドとシカゴ交響楽団とによる1981年の録音である。

1982年夏にステレオサウンド別冊として出た「サウンドコニサー(Sound Connoisseur)」の取材で、
アバド/シカゴ交響楽団の、このディスク(まだCD登場前だったからLP)をはじめて聴いた。

第一楽章出だしの緊張感、カッコウの鳴き声の象徴といわれているクラリネットが鳴りはじめるまでの、
ピーンと張りつめた、すこしひんやりした朝の清々しい空気の描写は、
アバドという指揮者の生真面目さがはっきりと伝わってきたし、
その後、いろんなマーラーの一番を聴いたのちに感じたのは、
オーケストラがヨーロッパではなく、シカゴ交響楽団だったからこそ、
いっそう、そのことが際立っていたのだろう、ということだった。

ほんとうに、アバドによる一番の一楽章は、
息がつまりそうな感じに陥ったものだった。

この時の他の試聴ディスクは、クライバーのブラームスの四番もあった。
アバドのマーラーだけで試聴が進んでいったら、ほんとうにしんどかったことだろう。

そうこともあって、マーラーの一番に関しては、
アバド/シカゴ交響楽団の演奏がしっかりと刻み込まれてしまった。
ゆえにどうしても、他の指揮者、他のオーケストラによる演奏を聴いていると、
アバド/シカゴ交響楽団にくらべて──、といった聴き方をしていることに気づく。

このことがいいことなのかどうなのかはなんともいえないが、
こうやって一楽章のみを聴いてあらためておもったのは、
アバド/シカゴ交響楽団の一楽章は素晴らしい、ということだ。

Date: 5月 6th, 2022
Cate: 録音

録音フォーマット(その5)

44.1kHz、16ビットのデジタル録音をアップコンバートすること、
さらにDSDに変換することの是非について、あれこれ書くつもりはない。

書きたいのは、エソテリックはなぜMQA-CDを出さないのか、である。
名盤復刻シリーズは、SACDだけなのだろうか。

アナログ録音の復刻であれはそれでもいいと思うが、
44.1kHz、16ビットのデジタル録音の名盤を復刻するのであれば、
MQAが、現時点ではもっとも望ましい、と私は考えているから、
エソテリックは、ぜひともMQAによる名盤復刻シリーズを展開してほしい。

エソテリックがハードウェアでMQAに対応していないのであれば、
こんなことは書かないけれど、すでにMQA対応機種を出している。
ならば、ぜひともMQA-CDも手がけてほしい。

44.1kHz、16ビットであっても、
MQAとなることでほんとうに音がよくなることは、すでにTIDALで、
いくつもの録音で確認しているのだから。

Date: 5月 5th, 2022
Cate: 録音

録音フォーマット(その4)

エソテリックの名盤復刻シリーズのSACDは、好評のようである。
オーディオマニアのなかには、
発売されたディスクすべて購入したという人も少なくないようである。

私は、というと、最初のコリン・デイヴィスのベートーヴェンの序曲集、
それから数年前に出たカルロス・クライバーの「トリスタンとイゾルデ」だけ買っている。

どちらもデジタル録音であり、しかも44.1kHz、16ビットである。
それをDSDに変換してのSACD復刻である。

元が44.1kHz、16ビットだから、そんなことをしても意味がない、という人もいる。
確かにそうではあっても、音は違ってくる。
プロセスの違いは、マスタリングの過程でもあるし、
再生側(D/Aコンバーターでの処理)でもあるわけだから、
音は変ってきて当然であり、大事なのは、自分のシステムで聴いて、
どう鳴るのか、である。

個人的には、もっとアナログ録音のSACD復刻を期待したいところだし、
アバドとポリーニによるバルトークのピアノ協奏曲を、ぜひ復刻してほしい。

44.1kHz、16ビットのデジタル録音をどういうプロセスでDSDに変換しているのか。
オーディオマニア的には、ダイレクトにDSDに変換しているものだと思いがちである。

けれど実際はそうではない。
マスターテープがドイツ・グラモフォンの場合は、
44.1kHz、16ビットのマスターを96kHz、24ビットに変換したうえでDSDにしている。

録音スタジオでは、96kHz、24ビットが標準フォーマットである。
とはいえ最終的にDSD(SACD)にするのに、88.2kHz、24ビットにしないのか、
そんな疑問が持ってしまう。

Date: 5月 5th, 2022
Cate: 「かたち」

音の姿勢、音の姿静(その3)

指揮者アンドレ・コステラネッツが、こんなことを語っている。
     *
誰もが自分の音を持つべきだ。
自分を元気づけ、溌剌とさせる音を、
あるいは落ち着かせ、穏やかにする音を……。
そのなかでももっとも素晴らしい音のひとつは、
まったく完全な静寂である。
(音楽之友社刊「音楽という魔法」より)
     *
その1)で引用している五味先生の文章にも、
コステラネッツがいっていることがつながっていく。

コステラネッツは《まったく完全な静寂》といっている。
この《まったく完全な静寂》こそが、音の姿静なのだろうか。

Date: 5月 4th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(THAEDRAとJC-2・その3)

水を得た魚のように、という表現がある。
GASのTHAEDRAと接いだSUMOのThe Goldはまさにそうだった。

SUMOのThe Powerがステレオサウンドの新製品紹介の記事に登場したとき、
コントロールアンプをTHAEDRAにしたら、鳴り方が大きく変った──、
そんなことが書かれていたことは、常に頭のなかにあった。

とはいうものの、ここまで変るのか、と驚いてしまった。

JC2を友人に譲ってからは、
エッグミラーのW85(H型アッテネーター)を使っていた。

アナログプレーヤーはトーレンスの101 Limited、
CDプレーヤーはスチューダーのA727を使っていたので、
どちらのモデルも出力にライントランスを介している。
バランス出力である。

だからW85を介してThe Goldのバランス入力に接続していた。

JC2、THAEDRAにはバランス出力はない。
アンバランス出力のみだから、The Goldのアンバランス入力に接ぐことになる。

The Goldの場合、アンバランス入力だと、
アンバランス/バランスの変換回路を通ることになる。
信号経路が長くなり、信号が通過する素子数も多くなる。

そのことがあったから、THAEDRAの音にそれほど期待していたわけではなかった。
理屈の上では、THAEDRAを介すことで音が良くなることはない。

でも、そんな理屈は実際に鳴ってきた音を、
ほんのわずかな時間聴いただけで消し飛んでしまう。

Date: 5月 3rd, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(THAEDRAとJC-2・その2)

ジョン・カール・モディファイJC2以前に、
JC2の音は聴いたことがなかった。

私がオーディオに興味を持ちはじめて数ヵ月後には、
LNP2、JC2の入出力端子がLEMO端子に変更され、
その他、内部も変更されたことで、型番の末尾にLがつくようになった。

もっともLがつくのは日本だけの型番であって、
並行輸入対策であった。

JC2Lは、すぐさまML1(L)となった。

ML1の音は聴いていた。
でもJC2、それも初期の、ツマミが細長いタイプの音は、
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版を読んでは、
それまで聴いたマークレビンソンの音から想像するしかなかった。

そうやって頭のなかに描いてきたJC2の音と、
実際に自分のシステムに組み込んで鳴ってきたJC2(モディファイ版)の音は、
大きく違うことはなかった。

なので満足していたといえばそうだった。
けれど、その音に衝撃を、もしくはそれに近いものを受けたわけではなかった。

JC2は使い続けてもよかったのだが、友人がどうしても欲しい、ということで、
譲ってしまった。

それからしばらくしてGASのTHAEDRAを手にいれた。
THAEDRAには、さほど期待していなかった。
ただSUMOのThe Goldを使っていたから、
それに別項で書いているように、The Goldを手にいれた時、
THAEDRAもそこにあったけれど、予算が足りずに諦めたことも重なって、
一度はボンジョルノの意図した音を確認しておきたかった──、
そのぐらいの気持であった。

なのに鳴ってきた音は、衝撃といえるレベルだった。