Date: 2月 21st, 2014
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その27)

仏教学者の鈴木大拙氏は、「自由」の英訳を、
辞書に載っているfreedomやlibertyではなく、self relianceとした、ときいている。

マルチアンプ化すること、
デジタル信号処理の機器を導入することによって得られる自由は、
self relianceでなければならないはずだ。

Date: 2月 21st, 2014
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その26)

パラメータが増えれば、そして多岐にわたれば音の調整の変化幅は拡大する。
それまではスピーカーシステムの内蔵ネットワークという、一種の制約によって、
──それはメーカーによる指定でもあり、主張でもある──、よほど間違った使い方でもしないかぎり、
とんでもない音を出すことは非常に難しい。

けれどその内蔵ネットワークをパスして、ただパラメータを増やしていくだけのマルチアンプでは、
いとも簡単にとんでもない音を出すことができる。

オーディオには、いわば約束事がある。
録音と再生の関係性における約束事であり、
この約束事に則った上での再生の自由度がある。

なのに、ただ自分の好きな音、という、
その約束事から外れたところでの音づくりは、ご本人にしてみれば、
自分の音だから自分の好きにして、自由にして何が悪い、ということになるののだろう。

オーディオの再生には、そういう自由が認められている──。
音量ひとつにしても、実演とはかけはなれた小音量で聴くこともできるし、ものすごい大音量で聴くことも可能だ。
音量の設定ひとつにしても、聴き手の自由が認められている。

パラメータを増やしていくということは、そういう自由を増やしていくことでもある。
考えたいのは、ここでの自由とは、いったいどういう自由であるのか、ということだ。

Date: 2月 20th, 2014
Cate: Jazz Spirit

Jazz Spirit Audio(その4)

“Friday Night in San Francisco”のLPを聴いたのは、
ステレオサウンド別冊Sound Connoisseurの試聴の時が初めてだった。

アクースタットのコンデンサー型スピーカー、Model 3で聴いた。
試聴レコードには含まれていなかったけれど、黒田先生がリクエストでかけることになった。

どんな音楽を鳴ってくるのか、
ただギターの演奏だということ以外、当時は何も知らなかった。
だからこそ、このレコードの衝撃は鮮烈だった。

アクースタットのスピーカーで聴けたことも幸運だったのかもしれない。
その日から30年以上経つ。いまも愛聴盤である。

“Friday Night in San Francisco”は、いまでも聴けば昂奮する。
聴いていてカラダが熱くなってくる。
観客の気持もわかるような気がする。

あの日、このコンサートの場にいたら、いったいどれほどの昂奮が押し寄せてきただろうか。

“Friday Night in San Francisco”はかなり広い会場での行われたように、聴いていると感じる。
けれどギターの音をとらえるマイクロフォンは、かなりギターに近いところにある。

そういう録音のディスクをかけて、どういう音で再生するのか。
もっといえば、どの位置で聴いている感じで鳴らしたいのか。

Date: 2月 20th, 2014
Cate: audio wednesday

第38回audio sharing例会のお知らせ

3月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

テーマについて、後日書く予定です
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 20th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その1)

「ぼくは音ではなく音楽を聴いている」、
「オーディオマニアは音楽ではなく音を聴いている」、
「ナマの演奏こそが最上のものであり、録音されたものは……」、
他にもあれこれ、こういったことは書き連ねることはできるけど、
バカらしくなってくるので、このへんでいいだろう。

オーディオマニアならば、それも熱心なオーディオマニアならば、
こういったことを直接いわれたり、暗に云われたりした経験があるかもしれない。

オーディオに凝っている人の中にも、「音ではなく音楽を聴いている」という人はいる。

音を聴く、音楽を聴く、
このふたつの違いは、いったいどういうものなのか。
音ではなく音楽を聴く、ということは果してできることなのか。

「音ではなく音楽を聴く」ということは、いったいどういうことですか、
とその人に訊いてみたくなることはない。

オーディオマニアを侮蔑する表現として、「音楽ではなく音を聴いている」があるわけだが、
どんな人であれ、聴いているのは音、というより、空気の疎密波である。

この空気の疎密波を耳が感知して、脳が音として認識している。
人間の耳とはまったく異る器官をもつ生物がいたとしたら、
空気の疎密波を音ではなく視覚情報として認識することだってあるはず。

「音ではなく音楽を聴いている」と主張する人でも、
つまりオーディオ(録音・再生という系)を、
音楽の副次的なもの、隷属的なものとして受けとっている人でも、空気の疎密波を聴いていることに変りはない。

Date: 2月 19th, 2014
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その25)

ルールをもたない、いい歳したオトナがマルチアンプを積極的にすすめる。
マルチアンプにすれば、大幅に音が良くなる、という。

どんなスピーカーシステムであってもマルチアンプで鳴らすことこそが最良の手段でもあるかのようにいう。
いまはマルチアンプにするのも、以前ほど予算を必要としない、ともいう。
だからもっと手軽に手を出しましょう、ともいう。

さらには、いまはデジタル信号処理技術が進歩していて、
アナログ信号処理ではほぼ無理であったパラメータまでコントロールできるようになっている。
そういう機器を併用することで……、ともいう。

マルチアンプにすることで、内蔵ネットワークで鳴らしていたときには変えることが無理だったことも、
簡単に変更・調整できるようになる。
各ユニット間のクロスオーバーに関しても内蔵ネットワークでは変更はまず無理だが、
マルチアンプならばクロスオーバー周波数、遮断特性、その他のパラメータも変えようと思えば変えられる。

デジタル信号処理を行える機器を導入すれば、変更できるパラメータはもっと増える。
そうやって増えていった(増やしていった)パラメータを、そう簡単に自分のものとして調整できるのか。

ご本人は、そういったことの名人でもあるかのように思い込んでいる。
本人だけがそう思い込んでいて、本人の中だけで完結してしまっているのであれば、害はない。

だが、そういう人に限って自己顕示欲が強い。
無責任に、個人サイトやブログでマルチアンプを人にすすめる。

勝手なことを書くならば、実はこういう人こそマルチアンプに手を出すべき人ではない。

Date: 2月 19th, 2014
Cate: Jazz Spirit

Jazz Spirit Audio(その3)

2013年のインターナショナルオーディオショウのあるブースで、
パコ・デ・ルシア、アル・ディメオラ、ジョン・マクラフリンによる
“Friday Night in San Francisco”が鳴っていた。

ちょうどそのブースに入いる少し前にかけられていたようで、
一曲目をほぼすべて聴くことが出来た。

ここではCD(もしかするとSACDかも)だったが、
ほかのブースには”Friday Night in San Francisco”のLPが置いてあるのもみかけた。
もう30年以上前のディスクだけど、こうやっていまも鳴らされているのは、それだけでなんとなく嬉しくなる。

このディスクはライヴ録音だから、観客のざわめきや歓声がけっこう収録されている。
そのブースで鳴っていた音は、そういったいわばある種のノイズをきれいに鳴らしていた。
どこかが破綻していたり、おかしな鳴り方をしていたわけではない。

一般的にはよく鳴っている、と評価される音なんだろうなぁ……、などと考えながら聴いていた。
そんなことを考えていたぐらいだから、そこで鳴っていた音に、
“Friday Night in San Francisco”におさめられている音楽に夢中になっていたわけではなかった。

冷静に聴いていただけだった。
そういう音だったからだ。

こういう音では、なぜ観客があれほど昂奮しているのかが、
そこで鳴っている演奏から伝わってこない。

この音を、いい音といっていいのだろうか。

Date: 2月 19th, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その2)

VUメーターに対する感情は、私の場合、かなり変化してきた。

音質を最優先として考えれば、VUメーターはない方がいい。
メーターがついているアンプの中には、メーターのON/OFFスイッチが用意されているモノがある。
そういったアンプで、メーターをOFFにして音を聴いてみれば、
よく調整されているし捨てであればあるほどメーターが動いていることによる音質への影響を聴きとれる。

それに使わないメーターであれば、もともとついていない方が、これまた音質的には有利である。

メーターは視認性を考慮すれば、ある程度の大きさが必要であり、
その大きさのメーターを取り付けるためにはフロントパネルをくりぬかなければならない。
そうすればフロントパネルの強度はその分落ちることになる。
フロントパネルの振動モードもずいぶんと変化しているはずだ。

それにメーターそのものを指ではじいてみると、構造体としての共振が聞き取れる。
この、いわば雑共振も音には影響を与えていく。

電気的にもメーターを取り付けることで、コンストラクションの制約を含めてうけることになる。
メーターには磁石が使われているから、メーターの有無によって磁気的な影響が発生することにもなる。

メーターを動かすには、その分の電気が必要となり、電源にとってはそれだけ負担が増すことになる。
ならば電源トランスからメーター専用を設けて分離すれば解決するのではないか、と思われるかもしれないが、
そうすれば当然トランスの数が増えることになる。

何かが増えるということは、干渉が新たに生じることでもある。
トランスがひとつ増えることによる生じる干渉について考えていけば、
どれだけ配慮したところでメーターを取り付けることによる音質への影響を皆無にできないことがはっきりとする。

メーターがついていれば、それだけで音が悪くなっている。
だからメーター付きのアンプなんぞは要らない──、
そう考え捉えていた時期があった。

Date: 2月 19th, 2014
Cate: 新製品

新製品(その5)

突発性感激症──、
これこそが新製品紹介のページの担当者に必要なことではないのか。

そんなことを仕事が終った後の編集部の中での雑談で話しあっていたことがある。

試聴という取材を経てつくられていても、特集記事と新製品紹介の記事とでは、
性格的に違うところがあり、
特集記事の担当編集者に求めることと、
新製品紹介の担当編集者に求められることでは違う面がある。

新製品紹介というお披露目の場の担当編集者は、突発性感激症であったほうが、
読者にとってよりインパクトのある誌面になろう。

どんな新製品が目の前にあらわれようとも、冷静な目と耳によって紹介されてしまっては、
新製品が新製品としてではなく、ほかの記事で紹介されてしまうのとたいして変らなくなってしまう。

突発性感激症という熱がなくては、読み手からしたら、つまらない新製品紹介のページとしか思えなくなる。

Date: 2月 18th, 2014
Cate: 新製品

新製品(その4)

ステレオサウンドに限らずオーディオ雑誌には新製品紹介ページが必ずといっていいほどある。

国内・海外の新製品は、まず新製品紹介のページに登場する。
その後に特集記事に出てくることもある。

つまり新製品紹介のページはお披露目のページである。
だからこそ、新製品紹介のページでは、欠点よりも長所を全面的に打ち出す、ということになっている。
少なくとも私がいたころのステレオサウンドの編集方針はそうであったし、
これはいまも大きくは変っていないように感じている。

新製品紹介のページで読者への顔見せがすんだら、次は特集記事への登場である。
特集記事はアンプの総テストだったり、スピーカーの総テストだったりするわけだから、
そこでは新製品紹介の時とは違ってくる。

同じ試聴という言葉であらわされるけれど、
新製品紹介の時の試聴と総テストの試聴とでは、微妙に違ってくるところがある。

総テストでは、すべてのテスト機種を同条件で扱うため、欠点も容赦なく出てくることがある。
一方、新製品紹介の試聴では、少しでもいいお披露目にしたいという気持があるわけだから、
じっくりと聴き込む試聴となる。

そうなると、同じ試聴室で鳴っているにも関わらず、ずいぶんと違う鳴り方をする。
そういう違いが聴こえてくるものである。

Date: 2月 18th, 2014
Cate: 相性

本末転倒だったのか(その2)

現時点で最高のホイールであるならば、
どんなフレームと組み合わせても(価格のバランスさえ無視すれば)ライトウェイトのホイールが、
最良のパフォーマンスをもたらしてくれる──、
どうもそうではないようだ。

私の場合、自転車を趣味といってしまうとオーディオはとっくに趣味の域を超えてしまっているし、
オーディオを趣味といってしまうと、自転車はまだまだ趣味とはいえない──、
そんなレベルで楽しんでいるだけなので、
ホイールを交換した(試した)経験も数回ほどである。
ライトウェイトのホイールには手が届かないし、試したこともない。

最高のホイールなのに、なぜ? となるのは、
フレームとホイールとの間には、相性と呼べる性質の関係があるからだろう。

現時点で最高のホイールということは、
現時点で理想に近い、ともいえるのか。
もしいえるのなら、ライトウェイトのホイールは、現時点で最も理想に近い、ということになるわけだが、
それでもすべてのフレームに対して、ベストなチョイスとはならないから、
ライトウェイトとは自社のホイールのために自らフレームを開発したのだろうか。

このことはオーディオでいえば、
これまでアンプばかりをつくってきたメーカーがスピーカーシステムをつくったことになるのか、
それとも反対にスピーカーメーカーがいきなりアンプをつくってきたことになるのか。

Date: 2月 18th, 2014
Cate: Jazz Spirit

Jazz Spirit Audio(その2)

ジャズをおさめたディスクがある。
どんなシステムでかけても、ジャズを一度でもきいたことがある人ならば、
そのディスクにおさめられている演奏が誰のものなのか、そういったことを一切知らなくとも、
そこで鳴っている音楽がジャズということはわかる。

それを「ジャズが鳴っている」といったりするわけだが、
ここでの「ジャズ」とはどういうことを指しているのだろうか。

あるスピーカーからジャズが鳴っている。
音は細部まで明瞭になっているし、音の伸びも申し分ない。
音像定位もしっかりしているし、音場感も充分拡がっている。
奥行きの再現性もなかなかいい。
それに変に音が尾を引かない。音がうまいこと決っていく……。

こんなふうにチェックシートでもつくって、ひとつひとつの項目をチェックしていって、
どの項目も過不足なく鳴ってくれる。
その意味では欠点のない鳴り方であり、なにかケチをつけたくともそれを見つけられない。

そういう音でジャズのディスクが鳴らされた。
ただそれだけで終ってしまった。

ある旧いスピーカーで、ジャズのディスクが鳴らされた。
ナロウレンジの音だ。
誰が聴いてもはっきりと周波数レンジが狭いことはわかる。
ここでもひとつひとつの項目を細かくチェックしていくと、
いくつかの項目では飛び抜けてよくても、他の項目では欠点として目立つこともある。

オーディオ的な意味でケチをつけようと思えば、いくらでもつけられる。
そういうスピーカーで、そういうスピーカーの音で、ジャズのディスクが鳴らされた。

鳴り終ったあとに、聴いていた人同士で話が弾む。

Date: 2月 18th, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その1)

マークレビンソンのLNP2のことを書いていると、どうしてもVUメーターのことについても書きたくなってくる。

いま市販されているアンプで、メーターを備えているモノは、何があるのだろうか。
パワーアンプではマッキントッシュをはじめとして、いくつかあるけれど、
コントロールアンプでメーター付きのモノは、いまや皆無なのかもしれない。

1970年代のアンプには、パワーアンプだけでなく、
プリメインアンプにもメーターがついているモデルがいくつもあった。
そしてコントロールアンプにもメーター付きのモデルがけっこうあったものだ。

LNP2がそうだし、
国産アンプでも、ナカミチのNakamichi610、ダイナベクターのU22とDV3000、サンスイのCA3000、
ソニーのTAE8450とTA2000F、テクニクスのSU-A2、ビクターのJP-V1000、ヤマハのCIなどがあり、
海外アンプではギャラクトロン(イタリアのメーカー)のMK16、クワドエイトのLM6200Rがあった。

メーターがついているのはアンプだけではなかった。
テープデッキにももちろんついていた。
テープデッキにメーターがついていないモノはないはずだ。

まぁメーターといっても、いいメーターとそうでないメーターがあって、
ただ針が振れているとしか思えないひどいメータから、
ただ鋭敏なだけでなく人間の感覚にうまくマッチした動きをするメーターまであった。

形も大半は四角だったけれど、四角であればどれも同じとはいえなかった。
そのメーターがついていてカッコいいと感じさせるメーターもあれば、
ないほうがいいんじゃないか、と思いたくなるメーターもあった。

メーター付きのオーディオ機器を一度も・一台も使ったことのない人は、
当時はいなかったといえるほど、メーターがついているモノが多かった。

Date: 2月 17th, 2014
Cate: JC2, Mark Levinson

Mark Levinson JC-2(続×六・モジュール構成について)

五味先生の「オーディオ巡礼」で読める「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」に、
こう書いてあったことを思い出す。
     *
 勿論、こういう聴き方は余計なことで、むしろ危険だ。第一、当時LPを聴くほどの者が、千円程度の金に困るわけがあるまい。疵が付いたから売ったか、余程金の必要に迫られたにせよ、他の何枚かと纏めて売ったにきまっている。しかし、私には千円にも事欠く男の生活が思いやられた。つまりは私自身の人生を、そこに聴いていることになる。こういう血を通わせた聴き方以外に、どんな音楽の鑑賞仕方があろうか、とその時私は思っていた。最近、復刻盤でティボーとコルトーによる同じフランクのソナタを聴き直した。LPの、フランチェスカッティとカサドジュは名演奏だと思っていたが、ティボーを聴くと、まるで格調の高さが違う。流麗さが違う。フランチェスカッティはティボーに師事したことがあり、高度の技巧と、洗練された抒情性で高く評価されてきたヴァイオリニストだが、芸格に於て、はるかにまだティボーに及ばない、カサドジュも同様だった。他人にだからどの盤を選びますかと問われれば、「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。しかし私自身が、二枚のどちらを本当に残すかと訊かれたら、文句なくフランチェスカッティ盤を取る。それがレコードの愛し方というものだろうと思う。忘れもしない、レコード番号=コロムビアML四一七八。——白状するが〝名曲喫茶〟のお嬢さんは美貌だった。彼女の面影はフランチェスカッティ盤に残っている。それへ私の心の傷あとが重なる。二十年前だ。二十年前の、私という無名な文学青年の人生が其処では鳴っているのである。これは、このソナタがフランク六十何歳かの作品であり、親友イザイエの結婚に際し祝いとして贈られた、などということより私にとって大切なものだ。
     *
ティボーを新しいアンプ、フランチェスカッティを旧いアンプに置き換えられるのではないだろうか。

「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。
──これがオーディオだと、「そりゃ新しいアンプさ」と他所ゆきの顔で答えることが、ないわけではない。
相手によっては、そういうことがある。

でもどちらを本当に残すかとなると、必ずしも新しいアンプであるとは限らない。
五味先生がフランチェスカッティ盤を取られるように、旧いアンプを取ることがある。
それがオーディオの愛し方、とまではいわないまでも、オーディオとのつき合い方というものだと思う。

こういう心情を抜きにして、オーディオを語ったところで、何のおもしろさがあるというのだろうか。

Date: 2月 17th, 2014
Cate: JC2, Mark Levinson

Mark Levinson JC-2(続×五・モジュール構成について)

CD登場以前のコントロールアンプのライン入力の感度は、
CDプレーヤーを接続するにあたっては高いか高すぎることがほとんどである。

CDプレーヤーが投称するまでのライン入力といえば、
チューナー、カセットデッキなどだった。
これらの出力レベルは高いもので1Vで、たいていは1Vよりも低い。
0.5V、0.75Vあたりが多く、もっと低い値の機器も珍しくはない。

CDプレーヤーの出力レベルは2Vと定められている。
つまCD以前のラインレベルよりも二倍以上高い値である。
そのためCD以前に開発されているコントロールアンプでは、
CDプレーヤーを接続すると、ボリュウムをほかのライン入力よりも絞らざるを得なくなる。

このことと、当時のCDプレーヤーのライン出力のアンプは貧弱なものが多い、となぜかいわれていた。
そのためもあって、CDが登場してしばらくしたころのコントロールアンプの中には、
他のライン入力よりもCD入力だけ入力インピーダンスを高く設定しているもの、
それからハイカットフィルターを挿入しているものもあった。

CDが定着してからは、こういう仕様のコントロールアンプはなくなっていったが、
ライン入力に関して、つまりはラインアンプの仕様に関しては、
CD以前と以降とでは異っていることも少なくない。

それならばCD以降に開発されたコントロールアンプを使えば、
ゲイン/レベルの問題で頭を悩ませることもないけれど、
オーディオという趣味は、はいそうですか、と、以前のアンプを切り捨てることができないことも多々ある。

旧いアンプにこだわるのは、新しいアンプを買う予算がないからだろう、という人がいるけれど、
必ずしもそうではない。
新しいアンプには新しいアンプの魅力があることは百も承知だ。
それでもなお、憧れ、思い入れという要素を切り捨てられない人もいる。