Mark Levinson JC-2(続×六・モジュール構成について)
五味先生の「オーディオ巡礼」で読める「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」に、
こう書いてあったことを思い出す。
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勿論、こういう聴き方は余計なことで、むしろ危険だ。第一、当時LPを聴くほどの者が、千円程度の金に困るわけがあるまい。疵が付いたから売ったか、余程金の必要に迫られたにせよ、他の何枚かと纏めて売ったにきまっている。しかし、私には千円にも事欠く男の生活が思いやられた。つまりは私自身の人生を、そこに聴いていることになる。こういう血を通わせた聴き方以外に、どんな音楽の鑑賞仕方があろうか、とその時私は思っていた。最近、復刻盤でティボーとコルトーによる同じフランクのソナタを聴き直した。LPの、フランチェスカッティとカサドジュは名演奏だと思っていたが、ティボーを聴くと、まるで格調の高さが違う。流麗さが違う。フランチェスカッティはティボーに師事したことがあり、高度の技巧と、洗練された抒情性で高く評価されてきたヴァイオリニストだが、芸格に於て、はるかにまだティボーに及ばない、カサドジュも同様だった。他人にだからどの盤を選びますかと問われれば、「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。しかし私自身が、二枚のどちらを本当に残すかと訊かれたら、文句なくフランチェスカッティ盤を取る。それがレコードの愛し方というものだろうと思う。忘れもしない、レコード番号=コロムビアML四一七八。——白状するが〝名曲喫茶〟のお嬢さんは美貌だった。彼女の面影はフランチェスカッティ盤に残っている。それへ私の心の傷あとが重なる。二十年前だ。二十年前の、私という無名な文学青年の人生が其処では鳴っているのである。これは、このソナタがフランク六十何歳かの作品であり、親友イザイエの結婚に際し祝いとして贈られた、などということより私にとって大切なものだ。
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ティボーを新しいアンプ、フランチェスカッティを旧いアンプに置き換えられるのではないだろうか。
「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。
──これがオーディオだと、「そりゃ新しいアンプさ」と他所ゆきの顔で答えることが、ないわけではない。
相手によっては、そういうことがある。
でもどちらを本当に残すかとなると、必ずしも新しいアンプであるとは限らない。
五味先生がフランチェスカッティ盤を取られるように、旧いアンプを取ることがある。
それがオーディオの愛し方、とまではいわないまでも、オーディオとのつき合い方というものだと思う。
こういう心情を抜きにして、オーディオを語ったところで、何のおもしろさがあるというのだろうか。