Date: 5月 27th, 2018
Cate: 数字

300(その3)

当時のステレオサウンドのパワーアンプのリファレンスは、
マランツのModel 510Mである。

このパワーアンプの出力は256W。
250Wでもなく260Wでもなく、256Wという数字。

このくらいの値になると、そのへんの違いが聴感上わかるかというと無理であろう。
それに256Wと300Wのアンプがあって、
回路構成、コンストラクション、使用パーツも同じというアンプが仮にあったとしても、
出力の余裕が、どれだけ聴きとれるかはなんともいえない。

それに300Wという出力がほんとうに必要なのか。
SAEのMark 2500を常用されていた瀬川先生は、
ステレオサウンド 43号に《日頃鳴らす音量は0・3W以下》と書かれている。

このころのスピーカーの出力音圧レベルは90dB以下は低能率といわれていた。
93dBでも低い、といわれがちであった。
4343がカタログ上では93dB/W/m、タンノイのArdenが91dB/W/mだった。
それでもいまの平均的な出力音圧レベルよりは高い。

いまならば300Wくらいは必要という人も増えているだろうが、
当時は300Wという値は、ほんの一瞬のピークのためのものでもあった。

その、ほんの一瞬のピークも、すべての人が求めていたわけではなく、
割合としてはそう多くはなかったはずだ。

それはスーパーカーの300km/hというスピードとて同じことだろう。
カウンタックが仮に300km/h出せたとしても、いったいどこで出せるのか。

ならば、カウンタックの実際の最高速度が300km/hを切っていたとしても、
それに近い速度は出せたはずであって、たいした差はないと思う。
それでもやはり300という数字のもつ魅力というか、
単なる数字であって、そこまで出せる人なんてほんのわずかしかいないのはわかっていても、
カウンタックの速度にしても、アンプの出力にしても、
どちらもパワーであるかぎり、ロマンのようなものを感じてしまう。

Date: 5月 27th, 2018
Cate: 数字

300(その2)

そんな中学生のころ、時速100kmというのは、
高速道路でのスピードであって、
アンプの出力が100Wというのも、同じ感覚として受け止めていた。

時速200kmというのは、当時体験したことはなかった。
初めて新幹線に乗ったのは数年後だし、
いくら高速道路とはいえ時速200kmまで出す人はいなかった。

これとリンクするように、200Wの出力はさらなる大出力という領域に感じていたし、
その上の300W(300km)ともなると、最高出力(最高速度)という感覚であった。

地上で最も速いスピードとしての300km/h、
アンプで最も大出力といえる300W。
当時は、誇張なくそんな感じだった。

セパレートアンプともなると100Wの出力はそう少なくはなかった。
200Wになると、やはり数は減る。
300Wの出力ともなると、1977年でもそう多くはなかった。

300Wが珍しくなくなりつつあったけれど、
まだまだそれほど多くのアンプがあったわけではない。

アキュフェーズのM60(300W)、エトーンのExcellent Power Amp(1000W)、
ラックスのM6000(300W)、サンスイのBA5000(300W)、マッキントッシュのMC2300(300W)、
SAEのMark 2500(300W)ぐらいである。

エトーンのExcellent Power Ampは、
高さ170cmの19インチラックに収められたモノーラル管球式OTLアンプで、
重量は98kgで、消費電力は無信号時で800W(一台)、
価格は3,900,000円(一台)という規格外の製品で、A級動作でも300Wの出力をもつ。

これを別にすれば、300Wは上限の出力だった。

Date: 5月 27th, 2018
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その7)

メーカーの人の中には、
オーディオ評論家を徹底的に軽蔑している人がいる。

古くからのメーカーで、オーディオ評論家とのつきあいがながいところよりも、
新しいメーカーのほうに、そういう人はより多いように感じている。

確かに軽蔑されても仕方ない──、と私だって思う。
軽蔑されても、そのメーカーに利用価値があれば、
心の奥底ではどう思っていようが、オーディオ評論家とつきあっていくのかもしれない。

けれど、そういうメーカーのなかには、利用価値すらないと思っている人たちがいる。
だからオーディオ評論家には、まったく頼らない。

そういうメーカーが日本でも登場してきている。
そういうメーカーは、いまオーディオ評論家と名乗っている人たちにはまったく連絡をとらないので、
そういうメーカーが登場していることに、
いまのオーディオ評論家たちは気づいていないのかもしれない。

オーディオ評論家を軽蔑する人たちは、なにもメーカーだけにいるわけではない。
オーディオマニアのなかにも、昔からいる。

オーディオ評論家のいうことなんてあてにならない。
そんなのをあてにするようなオーディオマニアは、
自分の耳、感性に自信がないから、他人の耳、感性に頼ろうとする──、
そんなことも、昔からいわれ続けている。

オーディオ評論家には、オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)がいる。
私は、ここにはしっかりと線を引いているが、
オーディオ評論家を軽蔑する人のなかには、
どちらもいっしょと受け止めている人もいるように感じているし、
オーディオ評論家(職能家)のいうことを信じているオーディオマニアも、
軽蔑・侮蔑の対象なのだろう。

おそらく私も、そう見られている、であろう。
そう思われようがまったく気にならないのだが、
ひとついっておきたいのは、人に憧れることはないのか、である。

Date: 5月 27th, 2018
Cate: 数字

300(その1)

私にとって、スーパーカーの代名詞といえば、
ランボルギーニのカウンタックである。

中学生のころに盛り上っていたスーパーカーブーム。
ホンモノを見たい、と思ったのはカウンタックだった。

カウンタックを初めて見たのは、
走っているところを見たのは、東京に来てからだった。

知人で、車にまったくうとい男がいる。
私より10くらい若い。
知人は、ランボルギーニのクルマをみかけると「カウンタックだ」という。

笑い話だけれど、知人にとってもカウンタックは、どうも特別な存在のようである。

カウンタックは、いまでも憧れのクルマであり、東京にいると年に一回くらいは、
いまでも見かけることがある。

カウンタックが、いまでも特別な存在なのは、
そのデザインだけではなく、最高速度が300kmだということもある。

クルマに詳しくない私は、ずいぶん後になってカウンタックは300km出ないことを知るわけだが、
それでもカウンタックと300という数字は切り離せない。

中学二年のころ、オーディオに夢中になった。
オーディオの世界で、300という数字は、パワーアンプの出力にすぐに結びつく。

当時は100Wを超えると大出力という感じだった。
100Wを超える出力のプリメインアンプも、そう多くはなかった。

アキュフェーズのE202(100W)、ラックスのL100(110W)、パイオニアのSA9900(110W)、
ローテルのRA1412(110W)、サンスイのAU1000(110W)、AU1100(110W)、AU20000(170W)、
トリオのKA9300(120W)、ビクターのJA-S20(120W)、
ヤマハのCA1000III(100W)、CA2000(120W)、マランツのModel 1250(130W)、
このくらいである。

このころ200機種近いプリメインアンプがあって、そのうちのこれくらいである。
マッキントッシュのMA6100も70Wだった時代である。

Date: 5月 26th, 2018
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(いつまでも初心者なのか・その2)

その分野に関するすべてのことを知っているような人であっても、
その分野に入ってきたばかりの人が話すことから教わる・学ぶことは、確かにある。

子供のいうことからも教わる・学ぶこともある。
それゆえ初心者と、自らのことをいう──、
そのことも承知している。

それであっても……、だ。
そのことと初心者と名乗ることは、別のことのはずだ。

初心者とことわっておくことで、
逃げるところを用意しているだけではないのか。
そんなふうにも思えてくる「初心者ですよ」の使い方が、
SNSの普及とともに目につくようになってきている。

そんな年老いたオーディオマニアを見て、若い人がオーディオの世界に興味をもつだろうか、
入ってくるだろうか。

Date: 5月 26th, 2018
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(いつまでも初心者なのか・その1)

オーディオだけに限らないのだが、
その趣味のキャリアが長くても、己のことを「初心者ですよ」という人がいる。

そんな人を「謙虚な人だ」と思う人もいるだろうが、
私などは、「いつまで初心者でいるつもりですか」と訊きかえしたくなる。

実際にはそんてことはしないし、
おそらく「初心者ですよ」という言葉には、
「初心を忘れないようにしています」が込められているのはわかっている。

それでも、「いつまで初心者でいるつもりですか」といいたくなるのは、
初心を忘れていないベテランもいるし、
初心をとっくに忘れてしまった(キャリアの長い)初心者もいるからだ。

忘れないよう心がける初心とは、
オーディオに真剣に取り組もうと決心したときの純粋な気持のはずだ。

ならばいつまでも初心者と名乗っているわけにはいかない──、
私はそう考えるオーディオマニアだ。

Date: 5月 26th, 2018
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(余談)

(その2)へのfacebookでのコメントに、
ヤフオク!にLS5/1Aが出品されている、とあった。

KEFのLS5/1Aではなく、BBCモニターのLS5/1Aが出ていた。
ただ出品されているLS5/1Aは、付属アンプがどうもないみたいだ。

スタンドもついている。
けれど肝心の専用アンプがない。
もちろん専用アンプがなくとも、音は鳴る。
けれど(その2)に書いているように、専用アンプの高域補正がなければ、
中域より上がなだらかにロールオフしていく周波数特性である。

瀬川先生も、付属アンプで鳴らすよりも、
トランジスターアンプで鳴らすようになって本領を発揮してきた、と書かれているから、
付属アンプにこだわる必要はない。

それでも瀬川先生は付属アンプでの音を聴かれた上で、
高域補正が行われていることをわかったうえで、別のアンプで鳴らされているわけだから、
トーンコントロールで、そのへんはうまく処理されていたはずだ。

わかっている人が鳴らすのであれば、アンプがなくともかまわない、といえるが、
初めてLS5/1Aに接する人は、やはり付属アンプで鳴らす音を一度は聴いておいてほしい、と思う。
それが、ひとつの基準となる音なのだから。

私がLS5/1を手離した理由のひとつは、
ウーファーのボイスコイルの断線がある。

私が20年ほど前に鳴らしていた時点でも、製造されてから30年、
いまなら50年ほどが経過している。

スピーカーユニットのトラブル発生のリスクも考えておいたほうがいい。
ウーファーが断線しても、同じユニットを探して出して……、と考える人もいるだろう。
グッドマンのCB129Bという型番、38cm口径のウーファーである。

当時はインターネットなかった。
探すことはしなかった。
仮にCB129Bが入手できたとしても、実はそのままでは交換できない。

LS5/1(A)は、バッフル板の横幅をぎりぎりまで狭めているため、
ウーファーフレームの両サイドを垂直にカットしている。
この加工ができなければ、CB129Bを入手できても無駄になる。

他にもいくつか書いておきたいことがあるが省略しよう。
とにかくLS5/1Aは古いスピーカーである。

入札している人は、そのへんのことを分った上なのだろうか、とつい思ってしまう。

Date: 5月 25th, 2018
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その2)

セレッションのDitton 25もKEFのLS5/1A、
どちらもHF1300を二発使っている。
縦方向に二本並べて配置している。

Ditton 25のウーファーとトゥイーター(HF1300)とのクロスオーバー周波数は2kHz、
LS5/1Aは1.75kHzと発表されている。
どちらも同じくらいの値だ。

HF1300を使っている他のスピーカー、
Ditton 15は2.5kHz、B&WのDM2は2.5kHz、DM4は4kHzとなっている。
スペンドールのBCIIとBCIIIは3kHz。

Ditton 25とLS5/1Aが、他よりも若干低いのは、二本使用ということも関係してだろう。
ただ二本使うことで、高域にいくにしたがって定位への影響も懸念される。

Ditton 25はだからだろう、9kHz以上は別のユニットに受け持たせている。
LS5/1Aは2ウェイだから、どうしているかというと、
上下に配置されている上側のHF1300については、3kHzからロールオフさせている。
そのためトータルの周波数特性は高域がなだらかに減衰していくため、
専用のパワーアンプ(EL34のプッシュプル)には、高域補正回路が組み込まれている。

LS5/1Aの定位は、確かにいい。
私が一時期鳴らしていたのはLS5/1だったが、その定位の良さには、
良いことを知っていても驚かされた。

瀬川先生は、ステレオサウンド 29号にLS5/1Aの定位の良さについて書かれている。
     *
 LS5/1Aのもうひとつの大きな特徴は、山中氏も指摘している音像定位の良さである。いま、わたくしの家ではこのスピーカーを左右の壁面いっぱいに、約4メートルの間隔を開いて置いているが、二つのスピーカーの中央から外れた位置に坐っても、左右4メートルの幅に並ぶ音像の定位にあまり変化が内。そして完全な中央で聴けば、わたくしの最も望んでいるシャープな音像の定位──ソロイストが中央にぴたりと収まり、オーケストラはあくまで広く、そして楽器と楽器の距離感や音場の広がりや奥行きまでが感じられる──あのステレオのプレゼンスが、一見ソフトフォーカスのように柔らかでありながら正確なピントを結んで眼前に現出する。
     *
井上先生も、同じことを38号で書かれている。
《このシステムは比較的近い距離で聴くと、驚くほどのステレオフォニックな空間とシャープな定位感が得られる特徴があり、このシステムを選択したこと自体が、瀬川氏のオーディオのありかたを示すものと考えられる》

これはほんとうにそのとおりの鳴り方であって、
私は六畳間で鳴らしていた。
長辺方向にスピーカーを置くわけだから、かなりスピーカーとの距離は近い。

LS5/1は当然だがLS5/1Aよりも古い。
私のLS5/1は1960年前後に造られたモノ。
その30年後に、追体験していた。

Date: 5月 24th, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(病院で感じたこと)

病院では多くの人が働いている。
大学病院と呼ばれる規模のところでは、
いったいどれだけの人が働いているのだろうか。

医師、看護師、検査技師、事務関係に就く人たちは、
病院が雇っている人たちである。

この人たちの他に、
調理・配膳、掃除、ゴミ回収、リネン関係、ヘルパー、補修関係、警備などの人たちがいる。
これらの仕事に就く人たちを、病院側は外部の業者に委託していることが多い。

病院での掃除、ゴミ回収、補修関係を引き受けている会社の人から聞いた話では、
高齢化が進んでいる、ということだった。
若い人も積極的に採用している。
18歳の人もいるけれど、ある大学病院で働いている、
その会社の人たちの平均年齢は50代後半である。

若い人がいても、その数は少なく、
70をすぎても働いている人が少なくないから、である。

若い人が集まらない、らしい。
だから高齢の人たちに頼るしかない。

この会社だけではなく、リネン関係でも同じような状況らしい。
若い人がまったくいない。
ある年齢以上の人たちしか集まらない。

リネンを請け負っている会社の人たちの平均年齢も高い、とのこと。

この人たちがいなければ、病院は機能しなくなる。
汚れ物やゴミはすぐに溜ってしまうし、
病室も汚れたままになってしまう。

通院、入院している人たちは、そういう人たちの存在にあまり気が向かない、と思う。
病気、けがを治したくて通院、入院しているだから、
医師、看護師といった人たちには注意がいっても、
そうでない人たちのことは特に意識することはなくても不思議ではない。

だから気づきにくいのかもしれない。
このまま、いまの状況が進んでいくと、どうなるんだろうか。
改善される、とは思えない。

同じようなことは、実は他の業種・業界でも起っていて、進んでいるのかもしれない。
オーディオ業界も例外ではない──、そんな気がする。

Date: 5月 24th, 2018
Cate: audio wednesday

第89回audio wednesdayのお知らせ(Moanin’)

6月6日のaudio wednesdayでかけるアート・ブレイキーの「Moanin’」は、
シングルレイヤーのSACDである。

昨年秋に出たSHM盤で、2017年リマスターである。
シングルレイヤーなので、まだ聴いていない。

新しいリマスターがうまくいっているのか、
SHM盤の効果はどうなのか、そのへんはいまのところわからない。
なので6月6日当日、まったく意図しない音が鳴ってくるかもしれない。

SACDプレーヤーは、
これまでパイオニアのPD-D9をメインに使ってきた。
「THE DIALOGUE」での鮮烈な音は、
喫茶茶会記に導入されたばかりのマッキントッシュのMCD350よりも、スリリングだった。

私だけでなく、みなそう感じていた。
けれどPD-D9はその後修理に出されて戻ってきている。
基本的には変っていないはすなのだが、「THE DIALOGUE」があの時ほどスリリングではない。

5月のaudio wednesdayでは、だから途中でMCD350にした。
2月に鳴らしたときよりも、ずっと良くなっている。

MCD350そのものが特に変ったわけではないが、
こなれてきた、とでもいおうか、
以前感じた、不快な軽さがきれいになくなっている。
聴いていて、ものたりなさを覚えない。

なので「Moanin’」は、MCD350で鳴らす。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 23rd, 2018
Cate:

野上眞宏 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」(その7)

野上さんの写真について解説したり、評論しようという気はない。
それができるとも思っていない。

野上さんの写真を見て、何を感じたか、を言葉にするつもりもない。

5月18日の、白のテスタロッサは、何かを象徴しているような気がしてならないから、
こうやって書いている、ともいえる。

野上さんは写真家だ。
誰かに紹介するとき、「写真家の野上さん」といっている。

オーディオ評論家を、
オーディオ評論家(職能家)、オーディオ評論家(商売屋)というように、
写真を撮って仕事としている人すべてを、写真家と呼ぶことは抵抗がある。

写真家という言葉がすっと出てくる人、
そうではなくて、カメラマンとか、ときに写真を撮っている人といいたくなる人もいる。

「BLUE:Tokyo 1968-1972」には、さまざまな人が訪れているのを、
facebookで知っている。

そのfacebookで公開されている写真を見ていて考えていたのは、
純粋と純情について、であった。

純粋な写真家、純情な写真家、
写真家としての純粋さ、写真家としての純情さ──、
そんなことを考えているところだ。

Date: 5月 23rd, 2018
Cate:

野上眞宏 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」(その6)

赤のテスタロッサは、あのころよく見かけた。
見かけるたびに「おっ、テスタロッサだ!」と思っていた。

1990年代も終り近くになると、それほどみかけなくなったような気がする。
見かけなくなるとともに、たまに見かけても「おっ、テスタロッサだ!」と思わなくなっていた。
なんだろう、以前感じていたテスタロッサの輝きみたいなものが、
感じられなくなっていたからなのか。

製造されなくなって、それだけの時間が経てば、大切に乗られていても新車ではなくなる。
くたびれている感じのするテスタロッサも、何度か見かけた。

くたびれているからだけでもなかった。
ある時から、もう古いのかも……、とそのデザインを感じることもあった。
だから「おっ、テスタロッサだ!」だと思わなくなっていったのかもしれない。

5月18日の夜、目に飛び込んできた白のテスタロッサは、そうではなかった。
以前のように輝いていた、というより、
以前よりも輝いているように感じた。

製造されて何十年経っても、新車のような状態を維持しているクルマ(個体)を、
サバイバーと呼ぶ、らしい。
5月18日の白のテスタロッサは、まさにサバイバーなのだろう。

不思議なもので、もう古いのかも……、と感じていたデザインも、
カッコよく感じられる。

なんなんだろうなぁ……、と自分でも思っていた。
これが白のテスタロッサではなく、
他の色だったら、たとえば赤のテスタロッサが、新車同然でそこにいたとしても、
ここまで印象深く心に残っただろうか。

仮に残ったとしても、ここで書いたりはしなかったはずだ。
脈絡のないことを書いている、と自覚しながらも、
あの日の白のテスタロッサは、あの日の野上さんのモノクロの写真と無関係ではなかった、と感じている。

Date: 5月 23rd, 2018
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・その8)

オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)の違いは、
もうひとつはっきりしていることがある。

オーディオ評論家(職能家)は、読み手を持っている、といえるし、
読み手を生み、育てている。

オーディオ評論家(商売屋)の文章を読んでいる人はいるわけだから、
その人たちは、読み手であるはず──。
そう思われるだろうが、ほんとうに読み手といえる人たちだろうか。
単なる観客なのではなかろうか。

この十年ほど、よくいわれることがある。
CDが売れない、と。
でもライヴには人が入る、と。

音楽好きであれば、ライヴにも行くだろうし、CDも買う。
なのにCDは売れない(買わない人が多い)。

結局、ライヴに行くだけの人(CDを買わない人)は、
音楽の聴き手というより、観客でしかない。

観客であっても、その場にいて音楽を聴いているのだから、
それは十分、聴き手といえるはず──。
もちろんそうであれ、観客と聴き手との境界は、はっきりしているわけでもないし、
こんなことを書いている私も、はっきりとこうだ、と書ける自信はあまりない。

それでも、なんとなく感じている。

Date: 5月 22nd, 2018
Cate:

野上眞宏 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」(その5)

田舎にいたころ、スーパーカーブームがあった。
インターネットで検索すると、
1976年から’78年にかけて、とある。

私の記憶でもそのころであり、ちょうど中学生だった。
友人のひとりは、かなり夢中になっていて、それに少し感化されもした。

とはいっても田舎町のこと、
スーパーカーと呼ばれる車種と出会すことなんて、ほぼない。
あのころ地元で見たのはポルシェだけだった。

もっともポルシェはスーパーカーの範疇には入らない、らしいのだが、
中学生だった私達には、そんなことは関係なかった。

初めて見るポルシェに、みな興奮気味だったのを覚えている。
ランボルギーニ、フェラーリも見たかったが、
ついぞ見ることはなかった。

何を見て東京と実感するか、人によって違うだろうし、
私だってそれはひとつだけではないのだが、
スーパーカーブームの余波が、私の中にまだ残っている1980年代の東京を象徴するものといえば、
フェラーリやランボルギーニが、ショールームに展示されているのではなく、
道路を走っているのを、何度も見かけたことである。

ステレオサウンドで働くようになると、見る機会は格段に増えた。
終電がなくなり、タクシーで帰る時間帯、
当時のステレオサウンドがあった六本木は、フェラーリ、ランボルギーニもよく見かけた。

スーパーカーブームを体験しているといっても、詳しいわけではない。
そんな私にとって、1980年代のスーパーカーを象徴するクルマといえば、
フェラーリのテスタロッサである。

赤のテスタロッサは、これまで何度見たことだろうか。
でも白のテスタロッサを見たのは、数えるくらいしかない。

Date: 5月 22nd, 2018
Cate: audio wednesday

第89回audio wednesdayのお知らせ(Moanin’)

2016年秋に、「オーディオと青の関係(その12)」で「坂道のアポロン」について少しふれた。

「坂道のアポロン」はマンガであり、アニメにもなっている。
今年春、実写化映画が公開された。
期待半分、不安半分。観に行こうかと思いつつも、
予告編をみて、行く気が失せてしまった。

「坂道のアポロン」には、アート・ブレイキーのMoanin’がメインテーマといえる。
クラシックを聴くことが多い私でも、Moanin’は何度か耳にしている。
いい曲だと思いながらも、CDを買うことはなかった。

「坂道のアポロン」で、あらためて、いい曲だと思っていた。
映画ではMoanin’は、どう扱われていたのだろうか。
予告編だけでもおもしろければ、観に行ったのに……、
そればかりではないが、映画「坂道のアポロン」に対しては、もやもやを感じている。

そのもやもやをMoanin’を聴いて、吹き飛ばしたい。
Moanin’を、初めてaudio wednesdayに来られた方が、
「こんな音、聴いていられないよ」というくらいの音量で鳴らしたい。

アート・ブレイキーのMoanin’を鳴らす。
今回は、それだけがテーマである。

ネットワークは、前回と同じで直列型の6dBスロープである。

次回は6月6日(水曜日)。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。