Date: 3月 12th, 2017
Cate: 瀬川冬樹
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瀬川冬樹という変奏曲(その6)

ステレオサウンド 62号と63号の「音を描く詩人の死 故・瀬川冬樹氏を偲ぶ」。
そこに、ある。
     *
 二カ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下ろしたのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
 公園の向うの河の水は澱んでいて、暖さの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
 そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、思わぬ発見がある。あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何かを発見をして、私は少しも飽きない。
 高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いている人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうかな、などと考える。考えながら、このゴミゴミした街が、それ全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
 高いところから風景を展望する楽しさは、なにも私ひとりの趣味ではないと思うが、しかし、全体を見通しながらそれと同じ比重で、あるいはときとして全体以上に、部分の、ディテールの一層細かく鮮明に見えることを求めるのは、もしかしたら私個人の特性のひとつであるかもしれない。〟
 昨年の春、こういう書きだしではじまる先生のお原稿をいただいてきた。これはその6月に発刊された特別増刊号の巻頭にお願いしたものであった。実は、正直のところ、私たちは当惑した。編集部の意図は、最新の世界のセパレートアンプについての展望を書いていただこうというものであった。このことをよくご承知の先生が、あえて、ちがうトーンで、ご自身のオーディオ遍歴と、そのおりふしに出会われた感動について描かれたのだった。
 その夏のさかり、先生が入院され、その病状についてうかがった。そのころから、すこしずつ、この先生の文章が気になりはじめてきたのだった。
 担当編集者のMによる、先生は私たちのこの主題のために3本の原稿をほとんど書きあげられていて、そのうちの1本をMに度したあと、あとの2本はひきだしにしまってしまわれたという。
 先生はたしかに『ステレオサウンド』の読者をことさらに大切にしておられた。しかし先生のような、ながいキャリアのある筆者がひとつの依頼された主題のために3本のながい原稿を書かれるというのは異例のことである。
 先生は事実としてはご自分の病気についてはご存じではなかった、という。しかしなんらかの予感はあったのではないだろうか?
 そう考えなければ、この文章のなかにただよっている、ふしぎな諦感と焦燥、熱気と静寂、明快なものと曖昧なもの、その向う側から瀬川先生が、私たちに語り遺そうとしているもののおびただしさの謎をときぼくしいくことはできないだろう。
 思えばあれは先生の遺書だったのだ。
 それはあからさまにそういうかたちで書かれているものではないから、私たちは「謎」を解かなければならない。
 その謎は解くことができるかどうか? わからない。しかし努力してみよう。いや、そうしなければならないのではないだろうか?
     *
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の「いま、いい音のアンプがほしい」は、
約一万四千字の長さだ。
ひきだしにしまわれたのこり二本も、同じくらいの長さだったのか。

おそらくそのうちの一本は、
編集部からの依頼「最新の世界のセパレートアンプについての展望」を書かれたのだろう。
それは「コンポーネントステレオの世界」の’79年度販、’80年度販の巻頭の記事、
これに近いものだったはずだ。

しまわれてしまった、もう一本の内容は、わからない。

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