Archive for 3月, 2020

Date: 3月 15th, 2020
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その8)

入魂の音、
それも全神経を傾注したの結果による音ではなく、
魂のこめられた音という意味での、入魂の音というのはあるのだろうか。

ありますよ、といってくる人がいる。
入魂の意味を説明したうえでも、ありますよ、といってくる人がいる。

音に魂が込められるのか──、
そのことを問いたいのではない。
その前の段階のことを問いたい。

音に魂を込める。
その魂は、どこから持ってくるのか。

そう問えば、自分の中からだ、という答が返ってくるはずだ。

人は生きているから、どこかに魂はあるといえる。
けれど、問いたいのは、あなたの魂は目覚めているのか、だ。

睡ったままの魂を、どうやって音に込めるのか。

なぜオーディオをやってきたのか。
ここまで情熱を注いできたのか。

結局、自分の魂を目覚めさせよう、としてきたのだと、
ここにきておもうようになった。

Date: 3月 15th, 2020
Cate: アナログディスク再生

トーンアームに関するいくつかのこと(その7)

マカラはメカニズムを専門とするメーカーがつくりあげたプレーヤーシステムである。
マカラの人たちは、片持ちが音にどういう影響を与えるのか、
そのことを知っていたのかどうかはわからない。

それでもメカニズムの専門家として、片持ちの製品を世の中に送り出すことはしなかった。
マカラのプレーヤーシステム4842は、いまから四十年前に登場している。

なのに現在のプレーヤーHolboが片持ちのまま製品化している。
片持ちのままのプレーヤーを、製品と呼んでいいのか、という問題はここでは語らないが、
なぜ片持ちのままなのか。

メーカーの開発者に訊くしかないのだが、
おそらくトーンアームの高さ調整との関係ではないのか、と推測できる。

片持のリニアトラッキングアームであれば、
弧を描く通常のトーンアームと同様の機構で、
トーンアームの高さを調整できる。

けれどベアリングシャフトと呼ばれているシルバーの太いパイプを両端で支えたとしよう。
この構造で、高さ調整をすると、調整箇所が二箇所になる。

エアーベアリング型のアームにとって、
ベアリングシャフトの水平がきちんとでていなければ動作に支障がでる。

片持ならば、調整箇所は一箇所で、
基本的にはプレーヤー全体の水平が確保されていれば、
ベアリングシャフトも水平ということになるし、
高さを変更しても水平は維持できている(はずだ)。

ところが高さ調整の箇所が両端二箇所ともなると、
プレーヤー全体の水平は出ていても、
ベアリングシャフトの水平は、二箇所をきちんと調整する必要がある。

いいかげんな調整では水平が微妙に狂ってしまう。
その点を防ぐには片持ち構造が、いちばん楽な方法である。

Date: 3月 15th, 2020
Cate: アナログディスク再生

トーンアームに関するいくつかのこと(その6)

ホルボのHolboというアナログプレーヤーを、
片持ちの代表例として取り上げたのには、一つだけ理由がある。

Holboは、プレーヤーシステムであるからだ。
トーンアーム単体ならば、他の例といっしょに取り上げただろうが、
くり返すが、Holboはプレーヤーシステムである。

プレーヤーシステムであるならば、
この手のエアーベアリング方式のリニアトラッキングアームの片持ちは、
メーカーが気付いているのであれば、なんとかできるからだ。

1980年第後半、アメリカからリニアトラッキングアーム単体がいくつか登場した。
それらのなかには、Holboに搭載されたトーンアームとよく似たモノがあった。

でも、それらのリニアトラッキングアームは、
既存のアームレスプレーヤーに取り付けなければならない。

取り付けのためのアームベースは、メーカーによって違ってくるが、
多くのモノは、弧を描く一般的なトーンアーム用のスペースしか想定していない。

その限られたスペースに、リニアトラッキングアームという、
別の動きをするトーンアームを取り付けなければならない。
そのために片持ちにならざるをえなかった面もあるとはいえる。
それでも工夫はできたはずだが。

エアーベアリング方式で、リニアトラッキングアームといえば、
日本のマカラが最初のモデルのはずだ。

余談だが、
1979年のオーディオフェアで発表されていたフィデリティ・リサーチのプレーヤーは、
プロトタイプであったが、このマカラをベースにしていた。

マカラのリニアトラッキングアームも、一見すると片持ちのようにみえるが、
片持ちになっていると思われる側は、下部からの支柱があるのがわかる。

Date: 3月 14th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(長生きする才能・その2)

朝の来ない夜はない、
春が訪れない冬はない、
そんなことが昔からいわれ続けている。

苦境にいる人を励まそうとしてのことなのだろうし、
自分自身に言い聞かせている人もいることだろう。

確かに、朝の来ない夜はないし、
春が訪れない冬はないのも事実だ。

けれど、ここでの「夜」と「冬」は、
いうまでもなく実際の夜と冬ではない。

人によって、その「夜」と「冬」の長さは違う。

何がいいたいかというと、
「朝」を迎えるには、
「春」を歓迎するには、長生きしなければならない、ということだ。

「朝」が来る前に死んでしまえば、それは明けない「夜」、
「春」が訪れる前にくたばってしまえば、「冬」のままだったことになる。

Date: 3月 13th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その16)

デジタルの技術の進歩は、そういったことだけでなく、
趣味のオーディオの世界では、ハイレゾ(High Resolution)の方も向いている。
サンプリング周波数は高くなっていく。

別項で書いているように、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、
さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)を目指しているかのようでもある。

こういったデジタルの技術の進歩を、歓迎はしている。
けれど一方で、危惧するところもある。

デジタルの技術の進歩は、
鳴らし手に万能感を与えるのではないか、ということだ。

鳴らし手がほんとうに万能になるのではなく、万能感を与えるだけで終ってしまうのではないのか。
そうなってしまっては、完全に誤った道となってしまう。

そんな方向にオーディオが進んでしまった時、
それだけでなくオーディオマニアが、そんな方向に進んでしまった時、
オーディオがオーディオでなくなるとき──、ではないのか。

唐突なように感じる人もいるかもしれないが、
私は、ここでイェーツのよく知られる詩の一節をおもい出す。

“In Dreams Begin Responsibilities”

この短い一節をどう訳すのか、
どう受け止めるのかは人によって、大きく違ってくるかもしれないが、
それでも、“In Dreams Begin Responsibilities”のないオーディオは、
もうオーディオではなくなっている。

Date: 3月 13th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その15)

デジタルの技術は、さらにオーディオに深く入りこんできている。
自動補正も、いまやスマートスピーカーにまで搭載されるようになってきている。

(その13)で少し触れているように、
オーディオの世界にも、自動運転的な技術が当り前のようになってきている。

それはオーディオという趣味をつまらなくするとは考えていない。
再生レベルの底上げにつながっていく、という期待を私は持っている。

やみくもにスピーカーをセットして、
各種プロセッサー類を何もわからずに使っても、
いろんな偶然が重なって、いい音が出る可能性がまったくないわけではないが、
オーディオの世界は、そんな甘いものではない。

でもデジタルの技術の進歩は、最初の一歩を確実に変えていく。
レベルを向上させてくれる。

鳴らし手は、そこからスタートできるわけである。
そこまでの苦労こそが、その人の経験(実力)になっていくのは確かだが、
それでも長いことオーディオをやっている人でも、
最初の一歩ふきんで、ずっと堂々巡りしていることだってある。

オーディオは、クルマの運転と違い、教習所がない。
基本をきちんと教えてくれる人が基本的にはいない。
それに免許もいらない。

だからこそデジタルの技術の進歩が、
教習所がわり、教えてくれる人のかわりになってくれることで、
オーディオ全体のレベルは確実に上っていくはずだ。

Date: 3月 13th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その14)

オーディオにデジタルの技術が入ってきたことで、
レベルの底上げは確実に起った。

CDが登場する以前、カセットデッキにマイコンが搭載されるようになった。
アジマス調整、バイアス調整などをマイコンが自動的に行ってくれるようになった。

それまで、もしかするといいかげんなバイアスで録音していた人もいたであろうし、
アジマスの狂ったデッキで録音・再生している人も、まちがいなくいたはず。

そういった人たちが、マイコン搭載のカセットデッキを購入するのかはその人次第だが、
少なくともマイコン搭載のカセットデッキを使えば、
上記のようなことはまず起らない。

これだけでもテープ録音・再生のレベルの底上げにはなっていた。

そしてCDとCDプレーヤーが、1982年に登場した。
いまだ、この時、オーディオ評論家がこぞってCDを絶賛したから──、
という論調で批判する人が少なからずいるが、ほんとうにそうだろうか。

アナログディスクと比較して、CDは音が硬いとか冷たいとか、ギスギスしている。
そんなことがいわれたことがある。
いまもっていっている人もいる。

これもステレオサウンドで何度も活字になっていることなのだが、
アナログディスクをよく鳴らしている人のところでは、
CDを持ち込んでも、うまく鳴ることが多かった。

CDがひどい音で鳴る場合、たいていはアナログディスクの音も、
普遍性があまりない音で、かなり独断的な音で鳴っていた。

つまり、鳴らし手の独自の世界、といってしまうときこえはいいが、
実際のところ、独断の世界ができあがっており、
そこにCDという新しいメディアを持ち込めば、拒否反応が起る。

この拒否反応は、システムの音のことでもあり、その鳴らし手のなかで起きることでもある。
その拒否反応をどう受け止めるかで、
その後の、その人のオーディオは大きく変っていくであろうし、
あいかわらず狭い世界でままかもしれない。

そういう意味でも、CDとCDプレーヤーの登場は、
再生のレベルの底上げとなった。

Date: 3月 13th, 2020
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その6)

低電流モードで使用していて気づくのは、
ディスクを数枚再生していると、やはり電源が切れてしまう、ということだ。

低電流モードに対応しているアンカーのモバイルバッテリーが到着して、
あれこれ試していて、このことがまず起った。

たまたまなのかな、と思っていたが、今日やはりディスク数枚、
時間にすると三時間くらい経過すると、同じように電源が切れてしまう。

私が使用しているアクセサリーの消費電力がかなり小さいためなのだろう。
聴いている最中に電源が切れてしまう。

ディスクをかけかえるごとに、バッテリーのスイッチをクリックすれば、
おそらく途中で電源が切れてしまうことは起きないだろうし、
あとはダミー負荷を使う、という手がある。

低電流モードで使うのがいいのか、
ダミー負荷を使って通常モードで使うのがいいのか、
バッテリーにすれば、電源に関するもろもろのことから解放されるかなぁ、
という期待があったけれど、そううまくはいかないようである。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: アナログディスク再生

トーンアームに関するいくつかのこと(その5)

B&Wの805Dのトゥイーター後方の角の先端を支えるといっても、
テンションを与えるような支え方はすすめない。

どういう素材を使うのか、どの程度の支え方にするのかによっても音は違ってくる。
が、それでも支えない状態の音と支えた状態の音の違いは、
一度、その違いを聴いてしまうと無視できないほどである。

Nautilusの場合、そのアピアランスを損ねることなく、
三本の角の先端を支えるというのは、なかなか難しいことになるだろう。

ああしてみたら、とか、こうしてみたら、と二、三、その方法を考えてはいるけれど、
試すことはまずない。それでもNautilusの音を極限まで抽き出したいのであれば、
その使い手は、なんらかの方法を考えた方がいい。

その意味で、Nautilusの開発に携わっていた人たちは、
片持ちの弊害をわかっていたはずである。

ビビッド・オーディオのGIYAシリーズをみれば、明らかだ。
GIYAを最初にみたとき、こういう処理の仕方もあるな、と感心したものだ。

もっもとB&WのNautilusの場合、
三本の片持ちの影響をすべてひっくるめてのNautilusである、
と捉えるべき考え方もできる。

どう捉えるかは、Nautilusの使い手自身が判断することだ。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その3)

映画の最初には、制作に携わった会社のロゴがいくつも、
スクリーンに映し出される。
「JUDY」では、BBC Films、Pathéなどの映し出された。

ああ、そうだ、この映画はハリウッドの映画ではないんだ、思いながら眺めていた。
制作会社には20世紀フォックスを関っているから、
イギリスだけの映画ではないわけだが、
本編が始まると、イギリスの映画だ、と思う。

何も知らずに観ても楽しめる、といえば、そうかもしれないが、
ジュディ・ガーランドについては、ある程度のことは知っておいた方が、いい。

何もかも説明してくれる映画ではない。
ジュディ・ガーランドの最後の公演となったのは、ロンドンである。
ここはカーネギーホール(アメリカ・ニューヨーク)でないことを、
映像が淡々と伝えてくれる。

観ていて、越後獅子ということばが浮んできた。
ここでの「越後獅子」は、五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくるそれである。
     *
少年モーツァルトはこういう父親に引き回されて、姉のナンネルと各地を演奏して回ったわけだ。むろん少年とは到底おもえぬハープシコードやヴァイオリンの演奏技巧をマスターしていたからなのは分っている。モーツァルトは神童だ、でも実利に聡い父の実像をおもうと、昔のたとえば越後獅子の姉弟が親方に連れられて旅から旅を稼いだのと実質どれほどの違いがあろうか。
 伝記に即して今少し丹念に生い立ちをなぞってみよう——。
 モーツァルトはこんな両親の間に生れ、父親はアウグスブルクの製本屋の出で、母はヴォルフガング湖畔の田舎娘だった。父は大司教(聖職者というよりは土地の領主ともいうべき存在)の宮廷管弦楽団の一員であるかたわら、作曲とヴァイオリンの個人教授をし、そのヴァイオリン教則本は数ヵ国語に翻訳され、非常な好評を博した。しかし息子が生れてからは、個人教授をやめ、宮廷の仕事以外はすべての時間を自ら二人の子の音楽教育に当てた。おかけで姉のナンネル(マリーア・アンナ)も、その後の演奏旅行で弟の才能が捲き起す称賛をともに分つ程になれた。この演奏旅行というのは、父親が、息子の才能は神には栄光を、わが家には利益をもたらすものであるという判断によって、思いつかれたものだとスタンリー・サディは書いている。
 少年モーツァルトが六歳のとき、バイエルン選帝侯の前で演奏するため父に伴われて姉ともどもミュンヘンへ出発した。つまり最初の演奏旅行である。ついで同じ年の九月、今度は皇帝の御前で演奏するためウインへ赴き、シェーブルン宮殿で姉弟は演奏し、皇帝・皇妃に深い感銘を与えて、燦然たる宮廷着(もっとも王室の人たちが成人して不要になった)を姉弟は贈られた。父レオポルドには金銭が授けられた。この首都ウイン滞在中、二人の天才児出現に熱狂した貴族の音楽愛好家たちの家を訪問するのに姉弟は寧日なかったが、サディによれば、こんなお祭り騒ぎめく演奏旅行が、感受性のつよい少年にどんな影響を及ぼすかは当然勘考すべきことで、
「だからというわけではないが、モーツァルトの態度のうちには、単に抑制がきかぬというよりは増長した行動がいくつかあった。たとえば、皇妃の膝の上にとびあがって接吻したり、転んだ自分を助け起してくれたマリー・アントワネット王女に求婚したり、王女にくらべてやや見劣りのする妹姫を軽蔑したりした。」(小林利之氏訳より)
 これは、子供っぽい『やんちゃ』で片付けられることだろう。しかし、立入って考えるなら、家庭の躾の問題になる。少なくとも父親レオポルドがヴォルフガング少年に注入したものは一にも二にもハープシコードやヴァイオリンの奏法であって、日常生活のマナーではなかった。母親もまたそういうマナーを我が子に躾けるような礼儀深さ、たしなみを、彼女自身の生い立ちに持っていなかった。そんな夫婦で(主としてむろん父親が)今様にいう天才教育をヴォルフガングにほどこした。事実ほどこすに足る彼は神童ではあった。しかし——従来の伝記作者は誰もこの点には触れていないが——モーツァルトが時に卑猥なことを平気で口走り、父とちがって経済的観念はまるで無く、行動に計画性が無く、およそ処世術といったものに無頓着で(あの大司教のもとを辞職して、パリへ職捜しに行くとき、モーツァルト——すでに二十一歳になっている——は、多分パリで役立つであろう多くの紹介状をすっかり家に置き忘れている)そのくせヴェルサイユ宮殿のオルガン奏者という「永続性のある地位」を世話されても、フランス音楽全体への嫌悪感もあったろうが、自分には宮廷のカペルマイスター(楽長)の地位こそふさわしいとの理由で断わっている。このときのモーツァルトは二十二歳だが、そんな若さで楽長の地位に就ける道理もないことさえ気がつかなかった——そういうモーツァルトを、いかにも〝天才肌〟という観点からのみ人は見すぎている。だがそこに、あまり身分のない夫婦がやった天才教育の〝歪み〟を看取するのは別にモーツァルトの天分を誹ることにはなるまい。かえって、この〝歪み〟を見過ごしては実生活で彼の味わわねばならなかった惨めさを見落しはしないか。
 こんな話がある。
 一七七一年の暮、当時十五歳のモーツァルトは父とともに二度目のイタリア旅行からザルツブルクに戻った。その日に父子のよき庇護者であったジギスムント大司教は他界し、後任としてかねて厳格な人物と噂のあるコロレード伯爵が任命されたが、新任のこの大司教は小心で俗物の父親と、おませで口やかましい息子への嫌悪の情を示しはじめたので、父親は、息子の才能が正当に評価されそうもない惧れから、ヴォルフガングのための永住の地をさがしはじめる。そこでフィレンツェのトスカーナ大公に斡旋を依頼するが、何ヵ月か待たされて届いた返事は悲観的なものだった。おそらくこれは、大公が母親マリア・テレジアに相談したら、次のような忠告を得たからだろうとスタンリー・サディは記している。
 忠告はこうだ——「乞食みたいに方々をうろつきまわる、役にも立たぬ者に悩まされないように」(同右)
 なんという冷酷さか。でもこれが処々を確かにうろつきまわる越後獅子親子への、上流人のもっとも至当な評言ではなかったのか? 彼女は女帝なのである。その後、父子がウインへ来て御前に伺候したときには、いかにも慈悲深げに振舞っているが、女帝なら、「慈悲深げな態度」、怪しむに当らない。レオポルドがこの時ウインへ来たのは矢張り息子のためなのだが、結局、なんの契約も得られぬままに空しくザルツブルクに帰っている。
     *
だからだろう、モーツァルトと重なってしまうところが私にはあった。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その5)

電源に関する疑問(バッテリーについて・その2)」でも書いているように、
電池の類は、私の経験、それから古くからの友人のKさんの経験でも、
残りが少なくなってきたほうが音がいい。

ということは、いま試してモバイルバッテリーに関しても同じことは当てはまるであろう。
とはいえ、消費電力がわずかなものに使っているのと、
そこそこ容量のあるバッテリーを容易したことで、
バッテリーの残量が半分以下になるまで試していない。

なのでバッテリーの残量と音の関係については、これから検証していくことになる。
残量が少なくなったほうが音がいい、という結果になると、
面倒だな、と思うところがある。

常にある程度減った状態を維持するのは面倒だからだ。
この残量と関係してくるであろうことは、
バッテリーの容量である。

今回は大容量とまではいえないものの中容量のバッテリーである。
余裕があったほうがいい……、というのは、
商用電源を使ってのことであって、バッテリーの場合はどうなのだろうか。

このあたりも検証していく必要はあるのだが、
そこまでしていくとなると、自分で納得のいく電源を作った方がいいような気がしてくる。

それにバッテリーの数がふえていくのだから、ほどほどのところでやめておくつもりだ。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その8)

岩崎先生はどうだろうか。
ステレオサウンドがメインだったと思っている人も少なくないようだ。

岩崎先生の著作集「オーディオ彷徨」は、
ステレオサウンドから出ていることが関係してのことだと思うが、
岩崎先生が書かれていたころ、ステレオサウンドを読んでいた人ならば、
決して短くない期間、まったく書かれていないことに気づかれていたはずだ。

私は41号からの読者だから、そのことを知っていたわけではない。
それでもステレオサウンド 50号には、
巻末附録としてあった、創刊号から49号までの総目次があった。

高校生だった私は、読んでいないバックナンバーのほうが何倍もあった。
だから、総目次を創刊号から順に丹念にみていった。
すると、岩崎先生の名前がまったくない号が、けっこう続いていることに気づいた。

どうしてだったのか、いまではなんとなく知っている。
なんとなくこうだったのではないか、とも思っているが、
なんとなくでしかないので書いたりはしないが、そういう時期があったのだけは事実だ。

ジャズをあまり聴かずに、スイングジャーナルもあまり読んでこなかった人にとっては、
だから岩崎先生も、ステレオサウンドがメインだったと想いがちになるが、
どちらがメインかといえば、スイングジャーナルだった、と思う。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: アナログディスク再生

トーンアームに関するいくつかのこと(その4)

アナログプレーヤー関係ではないが、
片持ちの代表的例、もっといえば片持ちのキングといえるオーディオ機器は、
やはりB&WのNautilusだ。

ウーファーをのぞく上三つの帯域のユニットの後部は、
消音構造のために、角のように伸びている。

この角は、先端が片持である。
これだけ長い片持ちのオーディオ機器は、これ以前にはなかったし、
Nautilus以降もない。
しかも三本の片持ちである。

Nautilusの、この三本の角の先端を、適切な方法で片持ちではないようにしたら、
どれだけ音が変化することだろう。

Nautilusでは試したことはないが、
B&Wの小型2ウェイの805Dでやったことはある。

805Dのトゥイーターの後方にのびる角は、さほど長くない。
それでも先端の下に支えをかましてやる──、
たったこれだけのことなのに、音は大きく変化する。

その時は、数人で聴いていた。
ギターのディスクがかかっていた。

アクースティックギターなのに、エレクトリックギターのように鳴っていた。
それが、ほんのちょっと角の先端を支えただけで、
アクースティックギターの響きに変っていった。

私の隣で聴いていた人は、高校時代にギター部にいた人で、
彼も片持ちのままの805Dのギターの音には首を傾げていたが、
私が手を加えたあとの805Dの音を聴いて、納得していた。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その4)

商用電源ではなく電池を使う、ということは、
オーディオの世界ではかなり前から行われてきている。

金田式アンプの金田明彦氏も、乾電池とスイッチング電源を組み合わせて、
かなり早い時期から試みられていたし、
私がオーディオに興味を持ち始めたころは、
ドイツのゾンネシャインのバッテリーがいい音がする、といわれてもいた。

最近では太陽電池と白熱電球を組み合わせて、
オーディオに使用する人も出てきている。
メーカー製でも、LEDと太陽電池の組合せを、ヘッドアンプの電源に採用した例がある。

その音を聴いたことはある。
おもしろいとは感じたが、どうしても大がかりとなってしまう。

この点が218に関係してくるアクセサリーに使用したいとは思わせない。

電池という電源を徹底的に追求されている人からすれば、
スマートフォン用のモバイルバッテリーを、オーディオに使うなど不徹底すぎる──、
そういわれそうだし、
ホンダがLiB-AID E500 for Musicを出してきたように、
どこかのメーカーが今後、オーディオ用モバイルバッテリーを出してくるかもしれない。

でも、いまは使えそうなモノを選んで実験したい。
スマートフォン用のモバイルバッテリーが、大きさといい、価格といい、
218に関係してくるアクセサリーに使うにはちょうどいい感じなのだから。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218はWONDER DACをめざす(その16)

メリディアンの218に手を加えては、その音を聴く。
一ヵ月ほどして、また手を加えては音を聴く──、
こんなことを半年ほどくり返してきながら思い出していたことがある。

菅野先生が、ステレオサウンド 121号、
アキュフェーズのDC300の新製品紹介記事の最後に書かれていたことだ。
《ハイテクとローテクのバランスが21世紀のオーディオを創ると私は考える》とある。

218はハイテクのオーディオ機器といえる。
私が218に加えていることはローテクもローテクといえる。

菅野先生がDC300のところで書かれている「ローテク」が、
私がやっているローテクと、まったく同じなことではないことは承知している。

それでも私がやっているのは、メーカーが量産モデルにはなかなかやらないようなこと、
まさしくローテクであり、いくつかの注意事項さえ守れば、
特に手先が器用でなくとも多くの人が実行できることである。

それでもハイテクだけでは達成できない領域が、オーディオ(音)の世界にはある。
だからこそ、ハイテクとローテクのバランスは、
これから先、ますます重要なこととなるはずだし、
私がここまで218に手を加えてきたことは、
ハイテクとローテクのバランスをとっていく行為といえるかもしれない。