Archive for 11月, 2019

Date: 11月 14th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その5)

今年は、電源コードを自作した。
計七本作った。

気に入って使い続けてくれる人たちがいるから、
自己満足で終っているわけではない。

喫茶茶会記のメリディアンの218にも、私自作の電源コードが使われている。

電源コードとはいえ、自作は面倒と思うところも少しはある。
秋葉原に材料を買いに、何度も行く。

行くのは楽しいから、その都度行くようにしている。
帰宅して、ケーブルの先端を剥いて加工する。

夜、一人でこんなことをやっていると、何が楽しいんだろうか、
という疑問みたいなことも思ったりする。

最初の一本は楽しい。
それは、どういう音がするのかという未知の楽しみがあるからだ。

二本目以降は、基本的にそれはないから、黙々と自作する。
それでも続けているのは、使い続けてくれる人がいるからである。

Date: 11月 14th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その4)

今年は、菅野先生が亡くなられて一年であり、
黒田先生が亡くなられて十年である。

オーディオ界に、先生と呼べる人がいなくなっての月日がある。
この月日が、これからながくなっていくばかりである。

Date: 11月 14th, 2019
Cate: 香・薫・馨

陰翳なき音色(その3)

「明瞭さとは明暗の適当な配置である。」ハーマン。傾聴!
(ハーマンは「北方の魔術師」と言われた思想家。)

ゲーテ格言集に、こう書いてある。
これが真理であるならば、
暗のない明瞭さは存在しないわけで、
いまハイエンドオーディオと呼ばれるスピーカーのなかには、
暗のない世界を進んでいるモノがあるように感じる。

それらのスピーカーは、精度の高い音とか精確な音という評価を得ているようだが、
明瞭な音と、ほんとうに評価できる音なのだろうか。

そして、もうひとつ思うことは、暗のところにこそ、
香り立つ何かがひそんでいるような、ということだ。

(その1)と(その2)で、
カルロ・マリア・ジュリーニの「展覧会の絵」とブラームスの第二交響曲について触れた。
どちらの曲も、アメリカのオーケストラとヨーロッパのオーケストラを指揮した録音がある。

昨晩、別項「素朴な音、素朴な組合せ(その26)」で、
アルカイックスマイルと四六時中口角をあげた表情の意識的につくっている人のことを書いた。

このことも、ここで書いたことに関係してくるように感じてもいる。

口角をつねに上げっ放しの表情こそ、陰翳なき音色といえる。

Date: 11月 14th, 2019
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その2)

宿題としての一枚。
気づくといえば、若かった自分からの宿題といえる一枚もあるといえる。

あのころは、あんなふうに鳴らせていたのに……、
なぜか、いまはさほど魅力的に鳴らせないディスクがあるといえばある。

若かった自分からの宿題なのだろう。

Date: 11月 14th, 2019
Cate: きく

試聴と視聴と……(その2)

その1)の最後に、
試聴は、為聴なのか、と書いた。

最近では、(しちょう)は思聴でもある、と思うようになってきた。

Date: 11月 14th, 2019
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その1)

児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲を、
菅野先生からの宿題のような一枚だ、とおもっている。

宿題としての一枚は、これだけではない。
菅野先生からの宿題だけではなく、
瀬川先生からの宿題のように、こちらが勝手に受けとっている一枚もある。

数は多くはない。
愛聴盤とは、少し違う意味あいの、存在の大きなディスクでもある。

宿題としての一枚。
けれど、宿題として出してくれた人たちは、もういない。

宿題としての一枚。
持っているほうが幸せなのか、持っていない方がそうなのか。

宿題としての一枚。
持っていないのか、それともあることに気づいていないだけなのか。

Date: 11月 14th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その3)

ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、あまり聴かない。
それでも児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲集は、
あと一ヵ月、入荷すれば買うに決っている。

audio wednesdayで、このディスクを鳴らせば、
そこそこの音では鳴ってくれる、と思っている。

聴いている人は、けっこういい音じゃないですか、といってくれるかもしれない。
そうであっても、私の耳に、菅野先生の鳴らされた音がはっきりといまも残っているから、
誰かが褒めてくれたとしても、埋められない何かを、強く感じとってしまうことになるはずだ。

菅野先生のところで聴いていなければ、
このディスクは、優秀録音盤で終っていたであろう。

でも、聴いているのだから、
聴かない(鳴らさない)わけにはいかないディスクでもある。

どこか、このディスクは、菅野先生からの宿題のようにもおもえてくる。

Date: 11月 14th, 2019
Cate:

賞からの離脱(BCN+Rの記事・その3)

ベストバイという特集記事がある。
私にとって、最初のベストバイは、43号だった。
35号が、ステレオサウンド最初のベストバイの号である。
1975年の夏号だから、49年前のことだ。

ステレオサウンドで働くようになって、
辞めてからもそうなのだが、これまで何人かの方に、
ベストバイって、大変なんでしょうね、そんなことをいわれた。

そんなふうにきいてきた人たち皆、
ベストバイの選考にあたって、
オーディオ評論家は、ベストバイの対象となっているオーディオ機器すべてを、
スピーカーやアンプの総テストと同じように聴き直している、と思っていた。

そう思っている人がいるのか、と逆にこちらが驚いた。
43号を手にしたとき、私は中学三年だった。

43号の前に、42号と41号を読んでいた。
42号はプリメインアンプの総テストであた、
特集の巻頭には、試聴方法のページがあった。

43号のベストバイの特集には、各筆者によるベストバイ定義についての文章はあったが、
試聴方法については、当然ながらなかった。

だからというわけでもないが、ベストバイはあらためて総テストをしているわけではない、
そう理解していた。

総テストや新製品の試聴、メーカーや輸入元での試聴、
自宅の試聴、そういった機会の積み重ねから選んでいる──、
そのころからそう思っていただけに、
ベストバイの選考のために試聴をやっている──、
そう思っている人がいたのは意外でもあった。

けれど、そう訊いてきた人たちの考えていることもわかる。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その2)

ケント・ナガノ指揮、児玉麻里のピアノによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番を聴いたのは、
2008年のことだった。

別項「ベートーヴェン(その3)」で書いていることのくり返しになるが、
「これ、聴いたことあるか?」と言いながら、菅野先生はCDを手渡された。
ケント・ナガノと児玉麻里……、彼らによるベートーヴェン……、と思った。

菅野先生は、熱い口調で「まさしくベートーヴェンなんだよ」と語られた。
菅野先生の言葉を疑うつもりはまったくなかったけど、
それでも素直には信じてはいなかった。

音が鳴ってきた。
「まさしくベートーヴェン」だった。

一楽章が終る。
いつもなら、そこで終る。
けれど、もっと聴いていたい。
そう思っていた。

ほんとうにすばらしい演奏であり、その演奏にふさわしい音だったのだから。
菅野先生も、この時の音には満足されていたのか、
「続けて聴くか」といわれた。

首肯いた。
最後まで聴いた。

このベートーヴェンが、菅野先生のリスニングルームで聴いた最後のディスクである。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: ラック

ラックのこと(その15)

私がいたころ、ステレオサウンドの試聴室のラックは、
ヤマハのGTR1Bだったことは、何度か書いている。

GTR1Bには棚板が一枚付属していた。
試聴室では棚板を使うことはなかった。

GTR1B一台に、オーディオ機器は一台、という使い方だった。
GTR1Bの天板にアンプなり、CDプレーヤー、アナログプレーヤーを置く。

GTR1Bの中には、何も置かない。
置くとしても、コントロールアンプで電源部が外付けになっている製品では、
その電源部を置くことはあったが、
他のオーディオ機器を収納することはなかった。

収納することはなかったので、GTR1Bはラックというよりも置き台としての存在だった。
しかもGTR1B同士はぴったりつけることは絶対にしなかった。
5mmか1cmくらいは離していた。

理由は音質上の点からである。
試聴室という環境だから、こういう使い方ができる、というか許されるわけで、
家庭でこんな使い方はやりたくても、なかなかできなかったりする。

つまりラックとは、複数のオーディオ機器を収納する機能である。
けれど、その機能を考えてデザインされたラックは、ほとんどないようにみえる。

いま市販されているラックの詳細のすべてを知っているわけではない。
それでも、オーディオショウでよく使われるラックをみて、
ラックとしての機能をきちんとデザインしている、と思える製品はみたことがない。

それぞれに創意工夫が施されているが、
そのラックに収納する複数のオーディオ機器のさまざまな相互干渉を抑える、
そのことに留意していると思えないからだ。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その1)

キングインターナショナルから、
児玉麻里(ピアノ)、ケント・ナガノ/ベルリン・ドイツ交響楽団による
ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集が、SACDの四枚組で発売になる。

児玉麻里/ケント・ナガノによるベートーヴェンは、
菅野先生のリスニングルームで聴いている。
別項「マイクロフォンとデジタルの関係(その2)」で書いている。

第一番と第二番のカップリング(2006年録音)のCDである。
ノイマンが開発したデジタルマイクロフォンのデモンストレーションの意味あいもあっての録音だった。

菅野先生のところで聴いた音は、
まさしくベートーヴェンの音楽は、動的平衡の音による建造物だった。

すぐには入手できなかったCDだが、数年後には入手できた。
いまでも発売されている。

もちろん買った。
とうぜんだが、菅野先生の音のようには鳴らない。

こんなふうに書くと、音だけ優れた録音と思われそうだが、
演奏も素晴らしい。
素晴らしいからこそ、動的平衡の音による建造物と感じたのだ。

この録音も、今回のSACD全集に含まれている。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その26)

数年前に友人宅に遊びに行った時、テレビで日本のドラマを見ていた。
そこに出てくる男優の一人の口元が、つねに口角が上っているのが、気になった。

辛そうな表情を演じている時でも、口角が上っている。
どんな表情の時でも、そうなのだ。
だからなのか、その男優の演技・表情に違和感を覚えた。

いつのころからか口角を上げよう、みたいなことがいわれ始めた。
ヘの字に曲げてぶすっとしているよりは、いい印象を与えるだろうが、
その男優のように、ずーっと口角が上りっ放しでは、もうおかしい、というか、
笑う場面でもないに、つい笑いたくなってくる。

ドラマのスタッフは、誰も何もいわなかったのか。

そういえば、つい先日も口角を上げっ放しの人がいた。
人前で話すこともある仕事をしている人だ。
もう、ずーっと口角が上っている。

話していない時も話している時もそうである。
もう不自然な表情である。
少なくとも私はそう感じていた。

その人は、見た目を重視しているのだろうか。
そういえば「人は見た目が9割」という書籍が売れている、ともきいている。

その人は、鏡の前で口角を上げながら話すことを練習しているのか。
そんなことを思いながら、その人の話を聞いていた。

その25)で、アルカイックスマイルのことを書いた。
アルカイックスマイルとは、辞書には、
《古典の微笑。ギリシャの初期の彫刻に特有の表情。唇の両端がやや上向きになり、微笑みを浮かべたようにみえる》
とある。

唇の両端が上向きになるのだから、口角を上げた表情ではあるが、
上に挙げた二人の男性の表情は、アルカイックスマイルではない。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その3)

今年は、ほんとうにひさしぶりにデッカのデコラを聴くことが叶った。
しかもコンディションの非常にいいデコラである。

10月のひどい台風の過ぎ去った日に聴いた。
グラシェラ・スサーナの歌もかけてもらった。

10月のaudio wednesdayと11月のaudio wednesdayのあいだに聴いている。
デコラを聴いていたから、
この経験があったからこその、
11月のaudio wednesdayでの218の音につながっていた、と思っている。

ほかの人には理解してもらえそうにないことだろうが、
ほんとうにそうなのだ。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その2)

2018年12月に、来年はわがままでいよう、と書いた。
これまで抑えてきたけれど、わがままをはっきりと出して行く、と。
2019年、わがままでいられたかな、とふりかえっている。

ふりかえっているくらいだから、まだまだだった、と反省している。
だから、今年も書いておく、
来年は、きっちりとわがままを貫き通そう。

オーディオに関するかぎり、わがままでいよう。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その1)

ここ数年、12月になったら、一年をふり返って的なことを書いている。
今年も12月になったら書くつもりでいた。

けれど12月に書き始めたら、書き終わらないうちに来年になりそうなので、
まだ11月だけど早めに書き始めたい。

今年も、新しく知りあえた人たちがいる。
audio wednesdayを毎月第一水曜日にやっているからこそ、知りあえる人がいる。

audio wednesdayをやるのは楽しい反面、
時には面倒だな、と思うことだってある。
5月には100回目をやった。

あとどれだけ続けるのか(というか続くのか)は、
私自身にもわからない。

毎月やっていて、誰も来なくなったら終りにする。
一人でも来てくれるのであれば、続ける。
決めているのは、それだけである。

去年も書いているが、
来年もいまごろも、また同じことをきっと書いているだろう。

昨年、ULTRA DACのエヴァンジェリストのつもりでいる、と書いた。
今年もそうだった、といえる。

加えて今年は218のエヴァンジェリストでもあった、といっていいかも。

ゆえに今年いちばん驚いたのは、メリディアンの輸入元がオンキヨーに、
12月から変るということだ。

突然の発表だった。
発表後に、オンキヨーに関するニュースがいくつかあった。
オンキヨー、大丈夫なのか、と心配になる。

この心配は、私の場合、メリディアンがどうなるのか、という心配である。