(その5)に書いたことは、私の勝手な想像でしかない。
もし、そういう意図であの写真を掲載したのであれば、
私は、そのことは編集部の善意と捉える。
消極的ではある、と感じても、善意といえよう。
もっとも、119ページの写真を見ても、本人がなんとも感じないのであれば意味ないのだが。
それでも(その1)の最後に書いているように、
あえて、119ページ掲載の写真を選んでいるのであれば、
編集者の悪意のように感じられる。
私が、この項の続きを書くきっかけとなったfacebookのコメントには、
筆者がゲラをチェックしているのではないか、とあった。
私がいたころは、そういうことはやっていなかった。
まったくやっていなかったわけではないが、基本的にはやっていなかった、といえる。
私が辞めて三十年経つわけだから、
変化もあって当然だし、いまはやっている可能性だってある。
それでも211号の特集の筆者は一人ではない。
筆者一人の記事であれば、筆者によるチェックもやるのかもしれないが、
複数の場合は、やっていない可能性が高い、と私は思っているが、
それは私がそう思っているだけで、いまのステレオサウンド編集部はやっているかもしれない。
私がいた時代はDTPの時代ではなかった。
いまは印刷されるデータは、すべてコンピューターで処理されているから、
筆者チェックも、昔と今では、そこにかかる手間はまるで違う。
それにインターネットもあるのだから。
チェックをやっている、と仮定しよう。
そうだとすれば、小野寺弘滋氏本人も、119ページの写真を見ているわけである。
本人がチェックして、編集部に何も言ってこなければ、
そのまま119ページの写真を掲載していいのだろうか。
あえて大股開きの写真を選んで、筆者チェックもしてもらった上で掲載というのは、
悪意のような、ではなく、悪意とみる。
小野寺弘滋氏がチェックの段階で何もいってこなかったら、
念押しすればいいじゃないか、と思うからだ。
こんな大股開きの、行儀の悪い写真でいいのですか、
そんなメールを送ってみればいいことではないか。
行儀の悪さをほんとうに直してほしい、とおもっているのであれば、
この段階でできることである。
あの写真を、最終的な誌面に載せる必要はない。