Archive for 6月, 2019

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その8)

ステレオサウンド 211号を手にし119ページの写真を見た人がどう感じどう思おうと、
私は、119ページの写真は載せるべきではない、と考える。

小野寺弘滋氏本人が、あの写真を諒とした上での掲載であっても、
119ページの写真は、みっともない写真である。

これは小野寺弘滋氏がどうのこうのということではなく、
一枚の写真としてみっともなく、恥ずかしい。

こういう写真を載せてしまう。
なぜ載ってしまったのか。

結局は、編集者全員のステレオサウンド愛が欠けているからだ、
と私は思っている。

ステレオサウンド愛が欠けていることを、
私は「悪意のようなもの」につながっていく、と考える。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その7)

その1)は、
筆者チェックをやっていないものと思って書いた。

facebookでのコメントを読んで、やっている可能性もある、と思い直し、
続きを書くようにした。

(その5)、(その6)で、善意としたのは、
筆者チェックを行っていないこと、
編集部が小野寺弘滋氏の行儀の悪さを直してほしい、と思っていることを前提としている。

指摘を受けて、チェックのことを考慮すれば、
今回の写真の件は、筆者チェックをしている、していない、
さらに編集部が小野寺弘滋氏の行儀の悪さに気がついている、気がついていない、
気がついているのであれば、直してほしいと思っている、思っていない、
それぞれのケースについて考えてみようかと思ったけれど、
そんなことを長々書いたところで、ステレオサウンドの読者にとっては、
どうでもいいことではないのか、とも思う。

読み手側は、チェックしているしていない、とか、直してほしいと思っている(いない)とか、
そんなことは関係なく、ステレオサウンド 211号を手にして、119ページの写真を見ている。

コメントの方も、雑誌づくりにかかわってこられた人だ。
だからこそのコメントであった。

けれど、ステレオサウンドの読み手のどれだけが雑誌づくり、
本づくりに関っている(きた)人だろうか。

ほとんどの読み手が、雑誌づくりとは関係のない仕事をしている(いた)。
そういう人たちは、119ページの写真を見て、どう感じるだろうか。

行儀が悪い、
ふてぶてしい態度、
そんな印象を持つのではないのか。

そうだとすれば、小野寺弘滋氏を晒し者にしたといえる。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その6)

(その5)に書いたことは、私の勝手な想像でしかない。
もし、そういう意図であの写真を掲載したのであれば、
私は、そのことは編集部の善意と捉える。
消極的ではある、と感じても、善意といえよう。

もっとも、119ページの写真を見ても、本人がなんとも感じないのであれば意味ないのだが。

それでも(その1)の最後に書いているように、
あえて、119ページ掲載の写真を選んでいるのであれば、
編集者の悪意のように感じられる。

私が、この項の続きを書くきっかけとなったfacebookのコメントには、
筆者がゲラをチェックしているのではないか、とあった。

私がいたころは、そういうことはやっていなかった。
まったくやっていなかったわけではないが、基本的にはやっていなかった、といえる。

私が辞めて三十年経つわけだから、
変化もあって当然だし、いまはやっている可能性だってある。

それでも211号の特集の筆者は一人ではない。
筆者一人の記事であれば、筆者によるチェックもやるのかもしれないが、
複数の場合は、やっていない可能性が高い、と私は思っているが、
それは私がそう思っているだけで、いまのステレオサウンド編集部はやっているかもしれない。

私がいた時代はDTPの時代ではなかった。
いまは印刷されるデータは、すべてコンピューターで処理されているから、
筆者チェックも、昔と今では、そこにかかる手間はまるで違う。
それにインターネットもあるのだから。

チェックをやっている、と仮定しよう。
そうだとすれば、小野寺弘滋氏本人も、119ページの写真を見ているわけである。

本人がチェックして、編集部に何も言ってこなければ、
そのまま119ページの写真を掲載していいのだろうか。

あえて大股開きの写真を選んで、筆者チェックもしてもらった上で掲載というのは、
悪意のような、ではなく、悪意とみる。

小野寺弘滋氏がチェックの段階で何もいってこなかったら、
念押しすればいいじゃないか、と思うからだ。

こんな大股開きの、行儀の悪い写真でいいのですか、
そんなメールを送ってみればいいことではないか。

行儀の悪さをほんとうに直してほしい、とおもっているのであれば、
この段階でできることである。
あの写真を、最終的な誌面に載せる必要はない。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その5)

私が、今回ステレオサウンド 211号の119ページの写真の件を書いているのは、
小野寺弘滋氏の周りの人たちは、小野寺弘滋氏の行儀について、何も気づいていなかった、
感じていなかったのか、ということだ。

小野寺弘滋氏は、1989年にステレオサウンド入社、
2010年に退社してオーディオ評論家として活動されている。

オーディオ業界に入って三十年。
周りにいる人たちとのつきあいも、それだけ長い。

その長さのなかで、誰一人、気づいていない、ということがあるのだろうか。
直接、本人に「行儀が悪いですよ」とは言いにくいものだ。

それに誰かが言ってくれるだろう──、そんなふうに思っていたのかもしれない。

119ページの写真を、編集者が掲載したのは、
意図的だった可能性があるようにも思えてくる。

誰もいわない、誰もいえない。
それにステレオサウンドの筆者のポジションとしての、小野寺弘滋氏は上である。

昨年、ある人に、こんなことを訊かれた。
「ステレオサウンドに書いている人のトップは柳沢功力氏で、その次が傅信幸氏で……」、
その人なりの順位を聞かされた。

それに対して私は、違う、といった。
特集をみれば明らかだが、
私の印象では、柳沢功力氏と小野寺弘滋氏はほぼ同じといっていい。
その次に傅信幸氏、三浦孝仁氏、和田博巳氏という順である。

そして、ここまでがStereo Sound Grand Prixの選考委員であり、
ここではっきりとした線引きが行われている、と読める。

小野寺弘滋氏のステレオサウンドにおけるポジションは高い。
今後さらに高くなる。
そういう人に、いまさら「行儀が悪いですよ」とは、以前以上に言い難いのではないか。

ならば小野寺弘滋氏自身が気づくようにするしかない。
ステレオサウンド 211号の119ページの写真を見れば、
小野寺弘滋氏も気づくはず、という期待を込めて。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その4)

ステレオサウンド 211号の119ページの写真、
小野寺弘滋氏が大股開きで、椅子に浅く腰掛けての写真。

これだって、誰かに迷惑をかけているわけではない。
電車で、こんな座り方をされては周りの人の迷惑になるが、
119ページの写真では一人掛けの椅子だし、
両隣の椅子との間隔も十分開いているから、迷惑になってたりはしない。

けれど、インターナショナルオーディオショウでのポケットに手を突っ込んだままの印象が、
119ページの写真としっかりと結びついてくる。

それに別の方(続きを書くきっかけとなったコメントの人とは別の人)は、
あるところで小野寺弘滋氏が、119ページのような座り方をされているのを見られている。

こういう人なんだなぁ、と思ってしまう。
行儀のよくない人と思ってしまう。

とはいえ、小野寺弘滋氏の書くもの、話すことと結びつけようとは思っていない。
書くもの、話すことが面白ければ、普段から行儀がよくなくても、少なくとも私は気にしない。
周りに迷惑をかけていないのであれば。

そういうところまで、いまのステレオサウンドの書き手に求めてはいないし、
小野寺弘滋氏でも、電車で、こんな座り方はしないはずだろうから。

もちろん、受けとめ方は人それぞれだから、
私と違い、興醒めと思われた方もいる(facebookのコメントにあった)。

切り離して読む人、切り離せずに読む人、どちらもいるわけだ。
だからこそ、編集者は気をつけるべきだ、と私は思う。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(韓国、中国は……・その6)

AliExpressを見るのは楽しい。
楽しいんだけれど、なぜ、こんなに楽しんでいるのか、と自分でも不思議に思うほどである。

先週もAliExpressを眺めていた。
眺めていて、ふと気づいた。
というか思い出した、としたほうがいいかもしれない。

そうだ、同じことを、ずっと以前、
四十年以上前にやっていた。

オーディオに興味を持ち始めて、
おもにステレオサウンドを眺めては、
いろんな組合せを想像していた。

予算もいくつか設定して、
この予算ならば、スピーカーはこれに決めて、
ならばアンプは、あさかこれか、
カートリッジは……、そんなふうに組合せを楽しんでいた。

といっても、すぐにそんな組合せを自分のシステムとして導入できるわけではない。
だから、どれだけ安く仕上げられるか。
そんなことも考えていた。

当時の無線と実験には、広告がけっこう載っていた。
パーツ店、キット、基板を取り扱っている店も多く載っていた。

そうなのだ、いまのAliExpressと同じような世界が、ずっと以前の日本にもあったのだ。
そのことを思い出し、
四十年前と変らぬことも、五十すぎてもやっていることに気づいた。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: audio wednesday

第102回audio wednesdayのお知らせ(ラジカセ的音出し)

ラジカセといえば、私にとってはカセットテープのモノーラル再生である。
私が中学一年(1974年)のころ、
ステレオのラジカセはあったのだろうか。

あったのかもしれないが、中学生が小遣いを貯めた程度では手の届かないモノだったはずだ。
当時の中学生の私に買える範囲のラジカセは、すべてモノーラルだった。

私が買った(買えた)ラジカセは、だからモノーラルだった。
そのためだろう、私にはラジカセ的音出しとなると、
まずモノーラルによる音出しが浮ぶ。

ステレオラジカセが当り前になって、
最初のラジカセはステレオだった、という世代は、
私の世代よりもどのくらい下になるのだろうか。

五年くらいか、それとも十年くらいなのか。

それにスピーカーはフルレンジだけだった。
トゥイーターがついた2ウェイ仕様が標準のようになったのは、いつからだったのか。

フルレンジでモノーラルで、カセットテープの再生。
これが私のラジカセ的音出しということになる。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス ヴァイオリン協奏曲二長調 Op.77(その3)

6月5日のaudio wednesdayでは、
ジネット・ヌヴーのヴァイオリン、
シュミット=イッセルシュテット指揮北西ドイツ放送交響楽団による1948年録音のライヴ盤をかけた。

STIL盤ではなく、2016年に出たtahra盤である。
このCDは、今年一度かけている。

その時と今回とでは、電源コードの違いがある。
MCD350とMA7900の電源コード、両方が違っている。
あとはスピーカーのセッティングを、ほんのわずか変えているくらいだ。

第一楽章は22分ちょっと。
鳴り出した最初の音からして、前回とは根本的なところで違っているような気がした。

私だけでなく、ほかの人みな聴き惚れているような感じがした。
第一楽章の最後まで鳴らした。
(私としては、三楽章すべて聴きたいところだったけれど)

1948年といえば、71年前である。
古い録音はよく聴く。
この時代の、他の録音も聴く。

モノーラル録音の古い録音である。
鳴ってくる音を聴けば、新しい録音か古い録音かぐらいは誰でも感じることだ。

今回は、少し違っていた。
聴いていて、1948年という時代そのものを感じていた。

感じていた、と書いてしまったけれど、
1963年生れの私は、1948年がどういう時代だったのかを知っているわけではない。

にも関らず、聴いていて、こういう時代だったのか、と感じていた。
時代の空気を感じた──、
と書けば、そんなバカな、とか、大袈裟な、とか、いわれるであろう。

それでも、そう感じた(錯覚だとしても、だ)。

そして、川崎先生(1949年生れ)は、こういう時代に生れた人なんだ、ともおもっていた。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(余談)

昨日「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」を観てきた。

私の世代は、ゴジラやガメラの映画を観て育ったし、
テレビでは、仮面ライダー、ウルトラマンなどを見て育った、といえる。

いわゆる特撮ものをよくみていたわけだ。

別項「実写映画を望む気持と再生音(その1)」で書いたように、
「ターミネーター2」を観て、
マンガ「寄生獣」が実写化できる、と思った。

「ジュラシックパーク」の一作目を観たときは、
理想のゴジラ映画が誕生する、そう思った。

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、理想のゴジラ映画に近い。
なのに観ている途中で、「芋粥」の心境だな……、と思っていた。

何か大きな不満があったわけではない。
日本のゴジラ映画のスタッフたちがやりたかったことをすべてやっているのではないか、
そう思わせるほどの内容であり、映像のすごさである。

なのに、というより、だからこそなのだろうが、
そして私が日本人ということも関係してくるのだろうが、
「芋粥」の心境なのか……、そんなことをぼんやり思いながら観ていた。

このことはいずれ別項できちんと書くつもり。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その3)

小野寺弘滋氏が、ステレオサウンドの編集者であり、編集長であったことは知られている。
小野寺弘滋氏は、私が退社したころに入社してきた人であり、
私は小野寺弘滋氏とは面識がない。

どんな人なのかは、ほとんど知らない、といっていい。
オーディオ関係者(元をふくめて)から、こんな人だよ、という話は聞いている。
その程度であり、それだって鵜呑みにしているわけではない。

私にとって、小野寺弘滋氏の印象のほとんどは、
インターナショナルオーディオショウで、ブースで話をされている時のものである。

過去二回だけ、たまたま入ったブースで、
小野寺弘滋氏がマイクをもって話をされていたことがある。

その時の印象は、ある意味、強烈だった。
マイクを持っていない手を、ズボンのポケットに突っ込んだまま話されていたからだ。

インターナショナルオーディオショウの各ブースで、
いろんな人の話を聞いてきたが、ポケットに手を突っ込んだままという人は、
小野寺弘滋氏が初めてだったし、他にはいない。

もちろんすべてのブース、すべての人の話を聞いているわけでないから、
他にもポケットに手を突っ込んだままという人はいたかもしれない。

それでも私は、そういう人を見ていない。
小野寺弘滋氏一人だけである。

その二年後だったか、また小野寺弘滋氏が話されている時だった。
その時も、ポケットに手を突っ込んだままだった。

一回目はたまたまだったのかもしれないと思ったが、
二回目もそうだということは、そういう人なのだ、と認識した。

ポケットに手を突っ込んだまま話したところで、誰かに迷惑をかけるわけではない。
それでもいいじゃないか、といわれれば、そうかもしれない。
ただ、ポケットに手を突っ込んだまま話をしている姿は、
けっこう強烈な印象を与える。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その2)

昨晩公開した「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」は、
続きを書くつもりはなかった。

けれどfacebookでのコメントを読んでいて、続きを書くことに変更したし、
タイトルも少し変えた。

「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」から「編集者の悪意とは」にした。
ステレオサウンド 211号を取っただけである。

「ステレオサウンド 211号(ステレオサウンド編集者の悪意とは)」にするつもりは、
最初からなかった。

けれど「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」とすると、
ステレオサウンド編集者の悪意、と受けとられることも考えられる。

なので「編集者の悪意とは」へと変更した。
ステレオサウンド 211号について、これからも書いていくから、
結局、ステレオサウンド編集者の悪意について書くのではないか、と思われそうだが、
そう受けとられても仕方ないようなことも書くことになろうが、
あくまでも「編集者の悪意」がテーマである。

ここでの編集者には、元ステレオサウンドの編集者だった私も含まれる。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: 書く

毎日書くということ(もう一つのやり方)

このブログを始めるにあたって決めたのは、毎日書いて公開すること。

毎日書いて公開するには、いまやっているように、
書いたものを即公開するやり方と、もう一つ、
あるテーマを決めて、数日から一週間ほどかけて、最後まで書き上げる。
その上でいくつかに分割して、公開していくやり方も、最初に考えた。

一本書き上げたら、次のテーマで書き始める。
こうすれば、毎日書いて、毎日公開することができる。

どちらが楽かといえば、後者のやり方である。
それでもいまのやり方で始めたのは、
一日でも早くブログを開始したかったからだ。

十年以上続けていて、
何度か、後者のやり方に変更しようかと思ったことがある。
そうすれば書くペースも、公開のペースも上げられる。

でも、そうしなかったのは、時々コメントがつくからである。
コメントでなくても、友人と会っていて、ちょっときかれることがヒントになることがある。
そういうことで、書いて行く方向を少し変えていったり、
補足を加えたり、関連するテーマを思いついたりする。

続きを書くつもりがなかったけれど、コメントを読んで、
続きを書いたことも何度かある。

これはブログならではの、毎日書いて公開する楽しみだ、と感じているから、
途中で後者のやり方に変更することなく、続けている。

Date: 6月 6th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その1)

悪意をまったく持たない人がいるとは、私には思えない。
編集者もまた人間であるから、編集という行為に、
まったく悪意が現れないと言い切れるだろうか。

雑誌に掲載される写真。
たった一枚しか撮らないということはまずない。
特に試聴風景や、試聴者の集合写真など、人物を撮る場合には、何カットか必ず撮る。

おそらく、いまのステレオサウンドもそうはずだ。
複数枚のカットから、誌面に載せるカットを選ぶ。
編集者が選ぶ。いまもそのはずだ。

ステレオサウンド 211号の119ページの写真を見て、
この写真を選んだ編集者の悪意のようなものを、私は感じた。

このカット、1カットしか撮影していない、ということはないはずだ。
なのに、この一枚を選んで載せるのか──。

小野寺弘滋氏の座り方と脚の開きぐあい。
こんな一枚を選ぶ必要性は、どこにあるのか。

柳沢功力、和田博巳、三浦孝仁、三氏の座り方、脚の開きぐあいと見較べなくとも、
この写真はひどい、と多くの人が感じるはずだ。

この写真を選んだ編集者は、何も感じずに、このカットを選んだのか。
そうだとしたら、その編集者は、写真の選択だけでなく、
他のことでも、その程度の選択をしているのかもしれないし、
あえて、このカットを選んだとしたら──、
それは編集者の悪意のようにしか感じられない。

Date: 6月 6th, 2019
Cate: audio wednesday

第102回audio wednesdayのお知らせ(ラジカセ的音出し)

昨晩、喫茶茶会記に行ったら、
グッドマンのスピーカーシステムが一本だけ置いてあった。
店主の福地さんによると、戻ってきたモノ、とのこと。

以前audio wednesdayで鳴らしたグッドマンとは、別のグッドマンのスピーカーシステムである。
一本だけである。
モノーラル再生しかできないけれど、見ていて、それもいいかなぁ、と思えてきた。

私と同世代、近い世代の人にとって、ラジカセは音楽を聴く道具の出発点であったと思う。
その前に、ラジオがあっただろうけれど、ラジオは好きな時に好きな音楽を聴けるわけではない。

カセットテープに録音しておけば、聴きたい時に聴ける──、
そういう意味での出発点である。

喫茶茶会記には、ソニーのカセットデッキがある。
マッキントッシュのMA7900はモノーラルスイッチがついている。
ならばモノーラル出力にして、グッドマンのスピーカーを一本だけ鳴らす。

もちろんソースはカセットテープである。
ミュージックテープでもいいし、自分で録音したテープでもいい。

なんらかの音楽が録音をされたカセットテープを持ち寄っての音出しを、
7月のaudio wednesdayでやろう、と考えている。

7月のaudio wednesdayは、3日。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 6月 6th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その11)

昨晩のaudio wednesdayは、三ヵ月ぶりの標準システムだけによる音出しであった。
4月はメリディアンのULTRA DAC、5月はメリディアンの218を迎えての音出しであった。

マッキントッシュのMCD350、MA7900、それにアルテックを中心としたスピーカー。
今回三ヵ月前と違うのは、電源コードだけである。

しかもMA7900の電源コードは5月にすでに聴いてもらっている。
MCD350の電源コードだけ、3月に聴いてもらったのを長くして、
壁のコンセントから直接とれるようにしただけである。

音の変化は小さくなかった。
私にとってはそうしている範囲でのことであっても、
昨晩来られた方には、かなり大きな変化だったようだ。

ある人から、「変えたの電源コードだけですか」と訊ねられた。
「電源コードは変えたけれど、いちばんの大きな変化は、私の人間的成長です」、
そう返した。

私の答を、また冗談言っている、と受け止められたと思うが、
けっこう本気で言ったことだ。

「音は人なりと昔からいうでしょう」ともつけ加えた。

オーディオで音を変えるのは、特に難しいことではない。
何かを変えれば、音は変化する。
いい方向にも悪い方向にも、音は変化する。

何かを、以前のモノよりもずっと高価なモノに買い替えれば、
音の変化は、決して小さくないはず。

そういう音の変化を楽しむのも、オーディオの楽しみではある。
それでも「音は人なり」である。

結局、音を大きく変化させるのは、鳴らし手の人間的成長である。