Archive for 3月, 2017

Date: 3月 17th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」と「3月のライオン」(その2)

「3月のライオン」は単行本の一巻だけは読んでいた。
それからNHKで放送されているアニメをみた。

ていねいにつくられているアニメであり、すぐれたアニメである。
一話目冒頭のモノクロのシーンは原作のマンガにはない。
アニメで加えられたシーンであるが、このシーンが静かな迫力を生んでいる。

アニメの監督は新房昭之氏。
「3月のライオン」の作者・羽海野チカ氏が「この人に!」とおもっていた人だそうだ。

アニメ「3月のライオン」に登場する人たちは、みな表情豊かだ。
アニメが画が動くし、音声もつく。
アニメをみなれた後で、
それもすぐれた出来のアニメ(そう多くはないけれど)を見たあとで、原作のマンガ、
つまり音声もなし、動きもなし、色もなしの二次元の領域に留まっている表現に触れると、
その世界に慣れるまでに、わずかな寂しさのようなものを感じることがある。

けれど「3月のライオン」にはそれがない。
むしろ動きも、音声も、色もないマンガの表情の豊かさに気づかされる。

特に川本三姉妹の表情は、じつに豊かだ。
その表情を生み出しているのは線である。
その線をみていると、この人はいったいどれだけの線を描いてきたのか、
そして見てきたのか、ということを考える。

才能をどう定義するか。
そのひとつに、どれだけの圧倒的な量をこなしているかがある、と私は思っている。

Date: 3月 17th, 2017
Cate: 新製品

新製品(TANNOY Legacy Series・その9)

Eatonは、聴く前から欲しい、と思っていた。
理由は、瀬川先生のフルレンジから発展する4ウェイのシステム構築案を読んでいたからだ。

このブログでも何度か書いているので詳しくは書かないが、
フルレンジから始めて、次にトゥイーターをつけて2ウェイにして、その次はウーファーを足して3ウェイ、
最後にミッドハイ(JBLの175DLH)を加えての発展型4ウェイである。

もちろん一度にすべてのユニットを揃えて4ウェイを構成してもいいけれど、
学生の私にとってフルレンジから、というのはそれだけで魅力的にうつった。

オーディオのグレードアップには無駄が生ずるものだ。
けれど、この案ならば無駄がない。
スピーカーというものを理解するのにも、いい教材となるはず、と思っていた。

Eatonから始めれば、フルレンジといっても同軸型2ウェイだから、
周波数レンジ的にも不満はでない。
つぎにウーファーをたして3ウェイにして、最後にスーパートゥイーターをつければ、
瀬川先生の4ウェイ案と同じになる。

人によってはウーファーよりもトゥイーターを先に足すだろうが、
私はウーファーを先に足すタイプである。

4343のミッドバスの2121とHPD295Aはどちらも10インチ口径。
4343のミッドバスとミッドハイを同軸型ユニットに受け持たせることで、
ここのスピーカーユニットが距離的に離れることもある程度抑えられる。

Eatonという完成したシステムが中核になるわけだから、
自作にスピーカーにおこりがちな独りよがりなバランスになる危険性も少なくなるはず。

同口径のユニット搭載のStirlingでも、同じことはやれる、といえばやれるけれど、
Eatonとはエンクロージュアのデザインの違いがあることが大きい。
特に現在のStirlingは、こういう使い方には完全に向かないデザインになっている。

Date: 3月 16th, 2017
Cate: Leonard Bernstein

ブルックナーのこと(その2)

別項のためにステレオサウンド 16号を開いている。
16号でのオーディオ巡礼には、瀬川先生のほかに、山中先生と菅野先生も登場されている。

このころの山中先生はアルテックのA5に、
プレーヤーはEMTの930st、アンプはマッキントッシュのMC275を組み合わされていた。
     *
そこで私はマーラーの交響曲を聴かせてほしいといった。挫折感や痛哭を劇場向けにアレンジすればどうなるのか、そんな意味でも聴いてみたかったのである。ショルティの〝二番〟だった所為もあろうが、私の知っているマーラーのあの厭世感、仏教的諦念はついにきこえてはこなかった。はじめから〝復活〟している音楽になっていた。そのかわり、同じスケールの巨きさでもオイゲン・ヨッフムのブルックナーは私の聴いたブルックナーの交響曲での圧巻だった。ブルックナーは芳醇な美酒であるが時々、水がまじっている。その水っ気をこれほど見事に酒にしてしまった響きを私は他に知らない。拙宅のオートグラフではこうはいかない。水は水っ気のまま出てくる。さすがはアルテックである。
     *
アルテックでブルックナーか、
と読んだ時から思っていたけれど、なかなか聴く機会はこれまでなかった。

アルテックといっても604ではなく、ここでのアルテックは劇場用スピーカーとしてのアルテックであり、
A5、最低でもA7ということになる。

周りにA5(A7)を鳴らしている人はいないが、
喫茶茶会記のスピーカーのユニット構成は、A7に近い。
アンプもMC275ではないけれど、MA2275がある。

もらろん山中先生の鳴らし方ではないけれど、
これまで私がブルックナーを聴いてきたシステムとは傾向が違うし、
いちどブルックナーを聴いてみようかな、と思っている。

audio wednesdayのどこかでやってみたい。

Date: 3月 16th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その6)

《──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう》
と書かれている。

LPを大切に扱っていても、何かの拍子に疵をつけてしまうことがある。
青くなる瞬間だ。

買いなおそうと思いつつも、学生のころは買いたいレコードとふところ具合を勘案して、
そのまま聴き続けることもあった。
針飛びするほどならば買いなおすけれど、それほどでもない。

LPの疵。
カチッ、カチッという疵音。
五味先生が書かれている。
     *
 フランクのソナタは、言う迄もなく名曲である。LP初期のころ、フランチェスカッティとカサドジュのこのイ長調のソナタを聴きに、神保町の名曲喫茶へよく私は行った。昭和二十七年の秋だった。当時はLPといえば米盤しかなく、たしか神田のレコード店で一枚三千二百円だったとおもう。月々、八千円に満たぬ収入で私達夫婦は四畳半の間借り生活をしていた。収入は矢来町にある出版社の社外校正で得ていたが、文庫本を例にとれば、一頁を校正して五円八十銭もらえる。岩波文庫の〝星〟ひとつで大体百ページ、源泉徴収を差引けば約五百円である。毎日、平均〝星〟ひとつの文庫本を校正するのは、今と違い旧カナ使いが殆どだから大変な仕事であった。二日で百ページできればいい方だ。そういう収入で、とても三千円ものレコードは買えなかった。当時コーヒー代が一杯五十円である。校正で稼いだお金を持って、私はフランクのソナタを聴きに行った。むろん〝名曲喫茶〟だから他にもいいレコードを聴くことは出来る。併し、そこの喫茶店のお嬢さんがカウンターにいて、こちらの顔を見るとフランクのソナタを掛けてくれたから、幾度か、リクエストしたのだろう。だろうとはあいまいな言い方だが私には記憶にない。併し行けば、とにかくそのソナタを聴くことができたのである。
 翌年の一月末に、私は芥川賞を受けた。オメガの懐中時計に、副賞として五万円もらった。この五万円ではじめて冬用のオーバーを私は買った。妻にはこうもり傘を買ってやった。そうして新宿の中古レコード屋で、フランクのソナタを千七百円で見つけて買うことが出来た。わりあい良いカートリッジで掛けられたレコードだったように思う。ただ、一箇所、プレヤーを斜めに走らせた針の跡があった。疵である。第三楽章に入って間なしで、ここに来るとカチッ、カチッと疵で針が鳴る。その音は、私にはこのレコードを以前掛けていた男の、心の傷あとのようにきこえた。多分、私同様に貧しい男が、何かの事情で、このレコードを手離さねばならなかったのであろう。愛惜しながら売ったのだろう。私の買い値が千七百円なら、おそらく千円前後で手離したに違いない。千円の金に困った男の人生が、そのキズ音から、私には聴こえてくる。その後、無疵のレコードをいろいろ聴いても、第三楽章ベン・モデラートでピアノが重々しい和音を奏した後、ヴァイオリンがあの典雅なレチタティーヴォを弾きはじめると、きまって、架空にカチッ、カチッと疵音が私の耳にきこえてくる。未知ながら一人の男の人生が浮ぶ。
(フランク『ヴァイオリン・ソナタ』より)
     *
《勿論、こういう聴き方は余計なことで、むしろ危険だ》とも書かれている。
そのとおりである。
けれども……、である。
それでも……、だ。

Date: 3月 15th, 2017
Cate: 五味康祐

続・無題(その8)

カザルスによるモーツァルトのト短調交響曲は素晴らしい。
キズの無い演奏ではないけれど、
なまぬるく感じられたト短調交響曲をきいたあとは、
カザルスの演奏を聴きたくなることが多い。

澱の溜まったようなト短調をきいたあとは、ブリテンのト短調を聴くことがある。

人によって、そんな時に聴くト短調は、私と同じ選択もあれば違う選択もある。
これまでにどれだけのト短調の録音がなされたのか知らない。
かなりの数なことは確かだ。

カラヤンの演奏も含まれる。
カラヤンといえば、五味先生はモノーラル時代のカラヤンは認められていても、
帝王と呼ばれはじめたあとのカラヤンについては、厳しいことを書かれている。

瀬川先生はカラヤンの演奏を好まれていた、と書かれたものから読みとれる。

五味先生はステレオサウンド 16号のオーディオ巡礼で瀬川先生のリスニングルームを訪問されている。
     *
 瀬川氏へも、その文章などで、私は大へん好意を寄せていた。ジムランを私は採らないだけに、瀬川君ならどんなふうに鳴らすのかと余計興味をもったのである。その部屋に招じられて、だが、オヤと思った。一言でいうと、ジムランを聴く人のたたずまいではなかった。どちらかといえばむしろ私と共通な音楽の聴き方をしている人の住居である。部屋そのものは六疂で、狭い。私もむかし同じようにせまい部屋で、生活をきりつめ音楽を聴いたことがあった。いまの私は経済的にめぐまれているが、貧富は音楽の観照とは無関係だ。むかしの貧困時代に、どんなに沁みて私は音楽を聴いたろう。思いすごしかもわからないが、そういう私の若い日を瀬川氏の部屋に見出したような気がした。貧乏人はジムランを聴くなというのではない。そんなアホウなことは言っていない。あくまで音楽の聴き方の上で、ジムランでは出せぬ音色というものがあり、たとえて言えばフュリートはフランス人でなければ吹けぬ音色があり、弦ではユダヤ人でなければどうしてもひき出せぬひびきがある、そういう意味でカルフォルニア製の、年数回しか雨の降らないような土地で生まれたJ・B・ランシングには、絶対、ひびかぬ音色がある。クラシックを聴くジムランを私にはそれが不満である。愛用する瀬川さんはだから、ジャズを好んで聴く人かと思っていた。
 ところが違った。彼のコレクションは一瞥すればわかる、彼はクラシックを聴いている。むかしの小生のように。
     *
瀬川先生はステレオサウンド 39号で「天の聲」の書評を書かれている。
その中に、こうある。
     *
 五味康祐氏とお会いしたのは数えるほどに少ない。ずっと以前、本誌11号(69年夏号)のチューナーの取材で、本誌の試聴室で同席させて預いたが、殆んど口を利かず、部屋の隅で憮然とひとりだけ坐っておられた姿が印象的で、次は同じく16号(70年秋号)で六畳住まいの拙宅にお越し頂いたとき、わずかに言素をかわした、その程度である。どこか気難しい、というより怖い人、という印象が強くて、こちらから気楽に話しかけられない雰囲気になってしまう。しかしそれでいて私自身は、個人的には非常な親近感を抱いている。それはおそらく「西方の音」の中のレコードや音楽の話の書かれてある時代(LP初期)に、偶然のことにS氏という音楽評論家を通じて、ここに書かれてあるレコードの中の大半を、私も同じように貧しい暮しをしながら一心に聴いていたという共通の音楽体験を持っているからだと思う。ちなみにこのS氏というのは、「西方の音」にしばしば登場するS氏とは別人だがしかし「西方の音」のS氏や五味氏はよくご存知の筈だ。この人から私は、ティボー、コルトオ、ランドフスカを教えられ、あるいはLP初期のガザドウシュやフランチェスカフティを、マルセル・メイエルやモーリス・エヴィットを、ローラ・ボベスコやジャック・ジャンティを教えられた。これ以外にも「西方の音」に出てくるレコードの大半を私は一応は耳にしているし、その何枚かは持っている。そういう共通の体験が、会えば怖い五味氏に親近感を抱かせる。
     *
けれどふたりのカラヤンに対する評価は違う。

Date: 3月 14th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(中古オーディオ店の存在・その1)

オーディオがブームだったころ、吉祥寺にはオーディオがいくつかあった。
オーディオガラという、鉄製のプレーヤーキャビネットを製作しているところもあったし、
パルコの地階にはダイナミックオーディオもあったし、ジャズ喫茶も多かった。

住みたい街No.1である吉祥寺(最近の調査ではそうではなくなったようだが)に、
オーディオ店はつい最近までオーディオユニオンだけだった。

今日西荻窪に用があり、吉祥寺まで五日市街道を歩いていた。
いつもなら途中で左に曲り駅に向うのだが、今日は少しまっすぐ歩いた。
するとハードオフが見えてきた。

ハードオフについての説明はいらないだろう。
ハードオフの店舗が少しずつ増えてきたころは、
店舗を見付けては覗いていた。

そのころはオーディオ的には穴場といえるところもあった。
これが、この値段なの? ということが時々あった。
でもここ数年、中古オーディオの価格は、他のオーディオ店と対して変らなくなった。
そうなるとハードオフから足は遠ざかる。

理由はオーディオ機器の扱いがぞんざいだからだ。
他の中古オーディオ店がていねいに扱っていると見えるほどに、
ハードオフの扱いはぞんざいだった。

ハードオフもいくつも店舗があるからすべての店舗がそうであるとはいわないが、
少なくとも私が行ったことのある店舗はすべてぞんざいとしか思えなかった。

けれど吉祥寺にできたハードオフ オーディオサロンは、違っていた。
だから、ここで書いている。

まず建物が新しい。
三階にオーディオサロンがある。
店舗が広いから、ゆったりと展示してある。

これまでのハードオフのぞんざいな扱いではない。
オーディオ機器として扱っている店舗である。

ハードオフという名称を使わない方がいいのでは……、と思ってしまうほど、
他の店舗とは違って見える。

ちょっと心惹かれるモノがいくつかあった。

見ていて、楽しい、と感じていた。
あの人には、こんなモノがあったよ、
また別の人には、これがあったよ、と写真を撮ってメールしたくなる気分になっていた。

オープンして数ヵ月くらいだから、品揃えもいいのかもしれない。
今後、どうなっていくのかはなんともいえないが、
少なくとも吉祥寺にオーディオの活気が戻ってくるのかもしれない、とは思える。

Date: 3月 14th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その5)

音も音楽も所有できない、と考えている私でも、
音楽を所有できる瞬間はある、と思っている。
     *
「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるか、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニィの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」
「モオツアルト」の中でも最も有名な一節である。なに、小林秀雄でなくなって、俺の頭の中でも突然音楽が鳴る。問題は鳴った音楽のうけとめかただが、それを論じるのが目的ではない。
 だいたいレコードのコレクションというやつは、ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、やっと百枚ほどたまったころが、実はいちばん楽しいものだ。なぜかといって、百枚という文量はほんとうに自分の判断で選んだ枚数であるかぎり、ふと頭の中で鳴るメロディはたいていコレクションの中に収められるし、百枚という分量はまた、一晩に二〜三枚の割りで聴けば、まんべんなく聴いたとして三〜四カ月でひとまわりする数量だから、くりかえして聴き込むうちにこのレコードのここのところにキズがあってパチンという、ぐらいまで憶えてしまう。こうなると、やがておもしろい現象がおきる。さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。するともう、ジャケットをそのまま元のところへ収めて、ああ、今夜はもういいやといった、何となく満ち足りた気持になってしまう。こういう体験を持たないレコード・ファンは不幸だなあ。
     *
瀬川先生の「虚構世界の狩人」からの引用だ。

確かに、こういう体験を持っている。
それも瀬川先生が書かれているように、学生のころはひと月に一枚くらいしか買えなかった、
それが少しずつ増えてきて、ニ〜三枚のペースで買えるようになった。

わずかだったコレクションも増えていく。
確かに百枚くらいまでは、こうい体験があった。

コレクションが少ないからくり返し聴く。
そうすることで細部までいつのまにか記憶している。
そこまで来て、こういう体験はふいに訪れる。

頭の中で一斉に、そのレコードにおさめられている音楽が鳴り出す。
聴かずとも満ち足りた気持になる。

それはほんの一瞬である。
一瞬のうちに、音楽が一斉に鳴り出すからだ。

この一瞬こそが、音楽を所有できる、といえる。
けれど、それは一瞬で終ってしまう。

Date: 3月 13th, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(たまのテレビで感じること・その1)

テレビは持っていない。
テレビなしの生活のほうが、テレビありの生活よりも倍ほど長くなった──、
と書くとテレビ嫌いのように思われるだろうが、
むしろ逆でテレビがあると、一日見ているからテレビを持たない生活にしているだけである。

友人宅に遊びに行った時にテレビがあって、何かの放送が流れていると、
かなり真剣に見ているようである。本人にその気はないのだが、
数人の友人から「なに、そんなに真剣にテレビを見てるんだ」といわれたこともある。

ほんとうにたまにしか見ないから、そんなふうに見えるのかもしれないし、
たまにしか見ないから、ついていけないことがある。

お笑い番組は、私にとってそうである。
30年以上テレビなしの生活を続けていると、まったく笑えない。

お笑い番組が好きな知人が大笑いしているのを見ても、こちらはクスッとも笑えない。
私がテレビを見る時間はわずかだし、その中でお笑い番組はさらに少ないのだから、
どの番組なのかは書かないし、どの芸人がそうなのかとも書かない。
他のお笑い番組ならば、笑えるのかもしれない、と思いつつも、
私がテレビを見なくなっているあいだに、
お笑い番組はテレビ(お笑い番組)を見続けていないと笑えないようになってしまったのかと思った。

一見さん、おことわり的なものを感じる。
芸人が笑いを追求して、マニアックな方向に行ってしまったようには感じない。

先日、茂木健一郎氏が、日本のお笑い芸人に対して否定的な発言をして話題になった。
その指摘が正しいのかどうかは、テレビを見ていない私にはなんともいえないが、
私がたまに見るお笑い番組に感じてしまうことと無関係でもないようだ。

オーディオにも、そういうところがないと言い切れるだろうか。

Date: 3月 13th, 2017
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その4)

メーカーにとっても輸入元にとっても、自社製品、扱い製品の評価が高いことに文句はない。
つねに高い評価ばかりが得られるわけではない。

低い評価はないにこしたことはないが、
低い評価がなされたときにメーカーと輸入元は、受けとめ方に差があるように感じる。

メーカーは、評価の対象となったオーディオ機器を開発し製造している。
輸入元は、輸入しているだけである。開発・製造しているわけではない。

この立場の違いが、
低い評価(というよりメーカー側が気づいていない長所と短所)の受けとめ方に関わってくる。

短所をできるだけなくして、
さらに長所を活かして改良モデルを開発することができるのがメーカーである。
すべてのメーカーがそうだとは思っていないが、多くのメーカーがそうであろう。

けれど輸入元はどうだろうか。
低い評価が拡散してしまうことで、売上げに影響を与えるかもしれない。
そこでの低い評価に、建設的な意見があったとしても、
そのことを海外のメーカーに伝え、よりよい製品への改良していこうと考えているところもあれば、
そうでない輸入元もあるはずだ。

どこの輸入元が前者であり、後者がどこだとかは書かないし、
輸入元それぞれの内情を知っているわけでもない。
それでもこれまでの海外製品の扱い方をながく見ていると、
ここは前者だろうな、あそこは後者だろうな、というぐらいの見当はつく。

今回の逸品館のOPPOのSonica DACの評価が妥当なのかは、
Sonica DACの音を聴いてない私には、これ以上のことはいえない。

それでも逸品館の評価からOPPOの輸入元OPPO Digitalが得られることはあったのではないだろうか。
それに販売店と輸入元の関係だから、文字だけの一方的なものではなく、
直接の話もできるのだから(実際に電話で話されているのだから)、落し所はあったように思う。

Date: 3月 13th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(贅沢な環境)

三日前の「会って話すと云うこと(その12)」で書いた
「若い才能は育ってきているけれど、贅沢な環境は失われつつある」。

昨晩「瀬川冬樹という変奏曲(その6)を書いていて、気づいたことがある。
瀬川先生はマランツのModel 7を買ったときのことを書かれている。
JBLのSA600を輸入元の山水電気から借りて、初めてその音を聴かれたことを書かれている。
JBLの175DLH、375と蜂の巣ホーンのことを書かれている。

そこには瀬川先生の驚きがある。
     *
 何度も書いたように、アンプの回路設計はふつうにできた。デザインや仕上げにも人一倍うるさいことを自認していた。そういう面から選択を重ねて、最後に、マランツの回路にも仕上げにも、まあ一応の納得をして購入した。さんざん自作をくりかえしてきて、およそ考えうるかぎりパーツにぜいたくし、製作や調整に手を尽くしたプリアンプの鳴らす音というものは、ほとんどわかっていたつもりであった。
 マランツ7が最初に鳴らした音質は、そういうわたくしの予想を大幅に上廻る、というよりそれまで全く知らなかったアンプの世界のもうひとつ別の次元の音を、聴かせ、わたくしは一瞬、気が遠くなるほどの驚きを味わった。いったい、いままでの十何年間、心血そそいで作り、改造してきた俺のプリアンプは、一体何だったのだろう。いや、わたくしのプリアンプばかりではない。自作のプリアンプを、先輩や友人たちの作ったアンプと鳴きくらべもしてみて、まあまあの水準だと思ってきた。だがマランツ7の音は、その過去のあらゆる体験から想像もつかないように、緻密で、音の輪郭がしっかりしていると同時にその音の中味には十二分にコクがあった。何という上質の、何というバランスのよい音質だったか。だとすると、わたくしひとりではない、いままで我々日本のアマチュアたちが、何の疑いもなく自信を持って製作し、聴いてきたアンプというのは、あれは一体、何だったのか……。日本のアマチュアの中でも、おそらく最高水準の人たち、そのままメーカーのチーフクラスで通る人たちの作ったアンプが、そう思わせたということは、結局のところ、我々全体が井の中の蛙だったということなのか──。
(ステレオサウンド 52号より)
     *
ここには、きっと驚きだけでなく悔しいという感情もあったのではないだろうか。
井の中の蛙だったということなのか──、と書かれている。

当時の、どんな日本のアンプもModel 7には遠く及ばなかったのだから。
そこに悔しいという感情がないはずがない。

そして悔しいというおもいが、
その後の、いま私が贅沢な環境だったと感じている時代につながっていっているはずだ。

Date: 3月 12th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹という変奏曲(その6)

ステレオサウンド 62号と63号の「音を描く詩人の死 故・瀬川冬樹氏を偲ぶ」。
そこに、ある。
     *
 二カ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下ろしたのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
 公園の向うの河の水は澱んでいて、暖さの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
 そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、思わぬ発見がある。あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何かを発見をして、私は少しも飽きない。
 高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いている人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうかな、などと考える。考えながら、このゴミゴミした街が、それ全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
 高いところから風景を展望する楽しさは、なにも私ひとりの趣味ではないと思うが、しかし、全体を見通しながらそれと同じ比重で、あるいはときとして全体以上に、部分の、ディテールの一層細かく鮮明に見えることを求めるのは、もしかしたら私個人の特性のひとつであるかもしれない。〟
 昨年の春、こういう書きだしではじまる先生のお原稿をいただいてきた。これはその6月に発刊された特別増刊号の巻頭にお願いしたものであった。実は、正直のところ、私たちは当惑した。編集部の意図は、最新の世界のセパレートアンプについての展望を書いていただこうというものであった。このことをよくご承知の先生が、あえて、ちがうトーンで、ご自身のオーディオ遍歴と、そのおりふしに出会われた感動について描かれたのだった。
 その夏のさかり、先生が入院され、その病状についてうかがった。そのころから、すこしずつ、この先生の文章が気になりはじめてきたのだった。
 担当編集者のMによる、先生は私たちのこの主題のために3本の原稿をほとんど書きあげられていて、そのうちの1本をMに度したあと、あとの2本はひきだしにしまってしまわれたという。
 先生はたしかに『ステレオサウンド』の読者をことさらに大切にしておられた。しかし先生のような、ながいキャリアのある筆者がひとつの依頼された主題のために3本のながい原稿を書かれるというのは異例のことである。
 先生は事実としてはご自分の病気についてはご存じではなかった、という。しかしなんらかの予感はあったのではないだろうか?
 そう考えなければ、この文章のなかにただよっている、ふしぎな諦感と焦燥、熱気と静寂、明快なものと曖昧なもの、その向う側から瀬川先生が、私たちに語り遺そうとしているもののおびただしさの謎をときぼくしいくことはできないだろう。
 思えばあれは先生の遺書だったのだ。
 それはあからさまにそういうかたちで書かれているものではないから、私たちは「謎」を解かなければならない。
 その謎は解くことができるかどうか? わからない。しかし努力してみよう。いや、そうしなければならないのではないだろうか?
     *
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の「いま、いい音のアンプがほしい」は、
約一万四千字の長さだ。
ひきだしにしまわれたのこり二本も、同じくらいの長さだったのか。

おそらくそのうちの一本は、
編集部からの依頼「最新の世界のセパレートアンプについての展望」を書かれたのだろう。
それは「コンポーネントステレオの世界」の’79年度販、’80年度販の巻頭の記事、
これに近いものだったはずだ。

しまわれてしまった、もう一本の内容は、わからない。

Date: 3月 11th, 2017
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その3)

facebookで日本オーディオ協会をフォローしているから、
日本オーディオ協会がシェアした記事(投稿)は、私のfacebookに表示される。

ついさっきfacebbokを見ていたら、日本オーディオ協会がOPPO Digitalの投稿をシェアしていた。
OPPO Digitalは、KADOKAWA運営のASCII.jpの記事をシェアしている。

記事のタイトルは、『品薄で入手難、個人的にも興味があった「Sonica DAC」の実力は?』
Sonica DACの、逸品館の評価に輸入元は噛みついていて、
一方で、ASCII.jpの評価はfacebookでシェアしているわけだから、お気に召したようである。

このタイミングは偶然なのであろう。
にしても、タイミングがよすぎるし、あからさますぎるとも感じる。

輸入元がSonica DACの記事に求めているのは何かがわかりすぎる──、
といったら言い過ぎだろうか。

Date: 3月 11th, 2017
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その2)

今回の逸品館とOPPOの件を読んでいて、思い出したことがある。

私がまだステレオサウンドにいたころ、
あるスピーカーの新製品の記事に対し、輸入元からクレーム的なことがきたことがあった。

柳沢功力氏が、そのスピーカーを担当されていた。
記事に「悪女の深情け」とあった。

もちろんいい意味で使われていた。
けれど、「悪」という一文字が使われていたのが輸入元の気に障ったようだ。

悪女の深情けは、ありがた迷惑だという意で使う、と辞書にはあるが、
そこでは、情の深い音を聴かせる、という意でのことだった。

そのことは前後の文章を読めばすぐにわかることだった。
にも関わらず、クレーム的なことが来た。

柳沢功力氏の話だと、最初は輸入元の担当者も喜んでいた、
けれどとある販売店から、何かをいわれたそうである。
それをきっかけに、ころっと態度が変ってしまった、ということらしい。

当惑とは、こういうことなのか、と当時思っていた。
書かれた柳沢功力氏も編集部も、放っておこう、ということで一致した。

このことは今回の逸品館とOPPOの件とは違うけれど、
輸入元の仕事とは──、について考えるのであれば、似ているというより、
同じであると捉えることもできる。

Date: 3月 11th, 2017
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その1)

昨晩、寝る前にfacebookを見ていたら、えっ?、と思うようなことがあった。
逸品館がOPPOの取り扱いをやめる、とそこには書いてあった。

リンク先のソナス・ファベールのVenere Sの試聴記事を読む。
昨晩は酔いが残っていたら、そのまま寝てしまったが、
そうでなければ、そのままブログを書いていた。

こんなことをやる輸入元があるのかと思った。
記事の最後に太字で書き加えられている。
その冒頭に、次のように書かれてあった。
     *
※このページを最初書いたときに、「oppo」社の商品を低く評価したとoppo Japanに判断され、即時「逸品館でoppoの製品は売らせない。即時契約を解除する」旨の連絡が、oppo代表取締役から、弊社の「社員宛」にありました。文章の不適切と思われる部分を訂正し、翌日こちらから電話しましたが、契約解除の方針は変わらないと言うことでした。
     *
私が逸品館の、そのページを読んだときにはすでに「不適切と思われる部分」が訂正されたあとである。
最初は、どう書かれていたのかはわからない。

それに逸品館の言い分はウェブサイトにあるが、
この件に関するOPPOの輸入元の言い分はない。

だから逸品館の言い分だけを読んで──、ということは控えたいが、
それでも、輸入元の判断・行動には首を傾げざるをえない。

今回のことは輸入元として賢明なことなのだろうか。
輸入元の仕事とは──、ということをさらに考えるきっかけともいえる。

Date: 3月 10th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その12)

今日は飲み会(パーティか)だった。
表参道にあるとある事務所での、それは行われていた。

私としては、まあまあの量飲んだので、いまもほどほどに酔っている。
酔っている状態で、今日は書いている。
このブログを書くために途中で抜け出して帰ってきた。

30人以上の人が来ていた。
すごいにぎわいだった。

何人かの方と話した。
あるメーカーの人がいた。
このブログを読んでいる人ならば、みな知っているメーカーである。

そのIさんが、
「若い才能は育ってきているけれど、贅沢な環境は失われつつある」
といわれた。

まったく同感である。
オーディオ業界は、若い才能が育ってきているか疑問も残るが、
他の分野では確かに若い才能は育ってきている、といえるだろう。

けれど贅沢な環境は失われつつある、のもまた事実である。

オーディオの場合、特に失われつつある、といえるかもしれない。

いろんな人が集まる場になれているわけではない。
今夜は、とある女性に「気弱にならない」ともいわれた。
そういうタイプの私でも、誘いがあると出掛けていくのは、
やはり人と会って話すのは楽しいからである。

ステレオサウンドにいたら、多くの人と会えたであろうが、
それはすべて仕事が関係してのことであり、ステレオサウンドという看板があってのことである。

そういうこととは関係なく、会って話せるというのは楽しい。