Archive for 1月, 2017

Date: 1月 14th, 2017
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(その18)

その17)で、BBCモニターのライセンス料について触れた。
そのことがあるから、素直にBBCモニター、復権、とは言い切れないもどかしさがつきまとう。

勘ぐりすぎの可能性もわかっている。
ライセンス料はすでになくなっている可能性も十分あるが、
BBCの経営状況に関する記事を数年前に読んでいるから、そう思えないところが残ってしまう。

BBCモニターの新形がまだ登場していた時代、
BBCモニターとしてのヘッドフォンはないのだろうか、と思ったことがある。

小型モニター、可搬型モニターとしてのLS3/5Aの存在があったにしても、
ヘッドフォンをBBCではまったく使っていなかったのだろうか。

使っていたとしても、簡単なチェックのみで、音質にはこだわっていなかったのか。
それとも既製品のヘッドフォンで優秀なモノを選定して使っていたのだろうか。

少なくともBBCモニターとしてのヘッドフォンの存在はなかったようだ。

BBCモニターとしてのスピーカーシステムには、
loudspeakerの略であるLSから始まる型番がつけられている。
アンプの型番はAMで始まる(amplifierの略だ)。

ならばヘッドフォン(headphone)だから、HPで始まるモニターとしてのヘッドフォンはなかったのか。

ここでふと考えるのは、いまはヘッドフォンがブームである。
となると、BBCモニターを謳うヘッドフォンが登場してくるかもしれない。

もしBBCモニター・ヘッドフォンなるものが登場したら、
やはりライセンス料がいまも……、ということにつながっていく。

Date: 1月 13th, 2017
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(マランツ Model 7・その1)

マランツのModel 7は、多くの人がヴィンテージアンプと認める存在だろう。

ヴィンテージという言葉を使うことにいささかの抵抗感がある私でも、
Model 7はヴィンテージアンプかと問われれば、そうだ、と答えそうになる。

ヴィンテージアンプ、ヴィンテージスピーカーなど、
オーディオの世界でヴィンテージが使われるようになる以前、
マランツのModel 7はどんなふうに呼ばれていたのか。

銘器、名器とは昔から云われていた。
そういうこととは別に、何と呼ばれていたのかと思っていたら、
山中先生がステレオサウンド 50号で、クラシックスタンダードという言葉を使われているのを見つけた。

たしかにModel 7はクラシックスタンダードといえる。
ヴィンテージと呼ばれるオーディオ機器のすべてが、クラシックスタンダードではない。
クラシックスタンダードといえるオーディオ機器の方が少ない。

「クラシックスタンダードといえるモノ」というタイトルでも書いていけそうである。

Date: 1月 13th, 2017
Cate: 五味康祐

「三島由紀夫の死」

12日、TBSの番組で、三島由紀夫が自決する九ヵ月前の未発表の録音テープの一部が放送された。
新聞でもニュースとなっている。

五味先生の「天の聲」に「三島由紀夫の死」が収められている。
初めて読んだ時も、その後、何度か読み返した時も、
そして、ついいましがた読み返した時も「三島由紀夫の死」には圧倒されるものがある。

最後のところだけを書き写しておく。
     *
 本気なら、あの切腹もそうなのか? 壮烈な三島美学の完結だという見方があるが、この話を聞いて私は涙がこぼれた。三島君はヤアッと大声もろとも短剣を突立てたそうだ。切腹の作法で、武士が腹を切るのに懸け声をあげるなどは聞いたことがない。切腹には脇差を遣って短刀はつかわない。それにあの辞世である。「益荒男が……」と短冊に書いて「三島由紀夫」と署名してあった。辞世には名前は入れないのが故実である。三島君は、わざわざ姓まで書き加え、更に落款を押している。ものを知らぬにもほどがあると、普通なら私は呆れたろう。週刊誌にこの『辞世』のグラビアを見た時はぼろぼろ涙がこぼれた。三島君が武士の作法を知らぬわけはないと思う。あれは死をかけた三島君の狂言ではないのか。三島君はあの衝撃的な自決を計算しないで行なったように見えるが、檄に見られる稚さと、落款と、署名と短刀でのかけ声をおもうと、抱きしめてあげたいほどの凡夫だ。精一杯、三島君はやったのだ。なんという素晴らしい男か。虚飾の文学を、彼に冠せられていた天才の虚名を、彼はその血で粉砕して死んだ。あの自決はナショナリズムなんかではない、文学者三島由紀夫の死だ。ナショナリズムなら、三島君はあのバルコニーで割腹しながら自衛隊員に話しかけたと私は思う。そうすればヤジは飛ばなかったろう。目の前で腹を裂いて叫ぶ男の声を、人は聴いたろう。三島君の名を以てすればあの場合、それはできたはずである。村上義光の最期のように。だが三島君はしなかった、詩人の含羞みを知っていたからだ。
 彼はナショナリストではない。文学者だ、文学者が志すところを述べ、ジャーナリズムのすべての虚飾を粉砕して死んだのだ。これほど誠実な作家の死に方はない。断じて彼は軍国調の復活など意図していない。麗々しい美文の内容空疎なおのれの作品を三島君は誰よりも知っていて、血で贖った。世間が彼の死にうたれたのはそんな人間としての誠実さに対してだった。今こそ、そういう意味でもぼく達は大切な日本人を、この日本で失った。人さまにはどう見えようと私はそう思う。そう思う。
     *
三島由紀夫は《ワグナーをよく聴いている》とある。

Date: 1月 13th, 2017
Cate: 訃報

宇野功芳氏のこと(あと少し追補)

「男の隠れ家」6月号増刊の「音楽の空間」には、
宇野功芳氏のリスニングルームの記事だけではなく、
「音の良いコンサートホール」という記事も載っていて、宇野功芳氏が書かれている。

取り上げられているのホールは、
サントリーホール、東京文化会館、東京芸術劇場、東京オペラシティコンサートホール、
ザ・シンフォニーホール、いずみホール、紀尾井ホール、府中の森劇場 ウィーンホール、
リリア音楽ホール、上野学園 石橋メモリアルホール、ヤマハホールである。

この記事を読んでいると、
宇野功芳氏が音楽評論だけでなく指揮も仕事とされていたことを思いだす。

それぞれのホールの客席での音・響きについては、
行ったことのある人ならば、書こうと思えば書ける。

でも宇野功芳氏はそれだけでなく、ステージ上での音・響きについても書かれている。
これは指揮者でなければ書けない。

サントリーホールについて書かれているところだけ引用しておこう。
     *
 特筆すべきは指揮台上のひびきで、オーケストラの音が下からはもちろん、天井からも降ってきて、ハーモニーに体全体が包まれる。その美しさと幸福感は味わった者でなければ分からないだろう。音楽ホールでいちばん大切なのは舞台の天井が高く、残響が強く、長くつくことだ。これが良いホールの第一条件であり、本欄に取り上げた大ホール、中ホール、小ホールはすべてサントリーに劣らず、中にはさらにすばらしいところもある。問題は舞台上の音がダイレクトに客席に伝わるかどうかである。サントリーがすばらしいのはその落差が小さいことと、音の悪い席が少ないことで、開場当時に比べるとまるで別のホールのようだ。
     *
サントリーホールはカラヤンがアドバイスをしたホールと知られている。
カラヤンがどんなアドバイスをしたのかはわからない。
宇野功芳氏の文章を読んで、
ステージ上の指揮台での音・響きの良さを実現するためのアドバイスだったのかも思った。
それだけではないにしても。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その5)

引用した五味先生の文章だけでは、
セッティングとチューニングの違いについて私がいいたいことが何なのか、
はっきりとしないじゃないか、と思われるかもしれない。

映画「ピアノマニア」だけを観ても、そうかもしれない。

でも、「ピアノマニア」を観て、
五味先生の文章を読み、
セッティングとチューニングについて、そしてその違いについて考えてきた人ならば、
セッティングとチューニングの違いについて、何かを掴めているはずだ。

ただ漫然とオーディオをやってきた(いる)人、
セッティングとチューニングを一緒くたに捉えてしまっている人、
数年前のステレオサウンドの「ファインチューニング」というタイトルに、
何の疑問も感じなかった人は、
「ピアノマニア」を観て、五味先生の文章を読んでも、
私がいいたいことは何ひとつわかってくれないであろう。

結局のところ、そういう人は、オーディオの想像力が欠如しているのだから。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その4)

ピアノの調律に関する話は「西方の音」の中の「大阪のバイロイト祭り」に出てくる。
     *
 大阪のバイロイト・フェスティバルを聴きに行く十日ほど前、朝日のY君に頼んであった調律師が拙宅のベーゼンドルファーを調律に来てくれた。この人は日本でも有数の調律師で、来日するピアニストのリサイタルには、しばしば各地の演奏会場に同行を命ぜられている人である。K氏という。
 K氏はよもやま話のあと、調律にかかる前にうちのピアノをポン、ポンと単音で三度ばかり敲いて、いけませんね、と言う。どういけないのか、音程が狂っているんですかと聞いたら、そうではなく、大へん失礼な言い方だが「ヤマハの人に調律させられてますね」と言われた。
 その通りだ。しかし、我が家のはベーゼンドルファーであってヤマハ・ピアノではない。紛れもなくベーゼンドルファーの音で鳴っている。それでもヤマハの音がするのか、それがお分りになるのか? 私は驚いて問い返した。一体どう違うのかと。
 K氏は、私のようにズケズケものを言う人ではないから、あいまいに笑って答えられなかったが、とにかく、うちのピアノがヤマハの調律師に一度いじられているのだけは、ポンと敲いて看破された。音とはそういうものらしい。
 大阪のワグナー・フェスティバルのオケはN響がひく。右の伝でゆくと、奏者のすべてがストラディバリウスやガルネリを奏してもそれは譜のメロディをなぞるだけで、バイロイトの音はしないだろう。むろんちっとも差支えはないので、バイロイトの音ならクナッパーツブッシュのふった『パージファル』で知っているし、ベームの指揮した『トリスタンとイゾルデ』でも、多少フィリップスとグラモフォンの録音ディレクターによる、音の捕え方の違いはあってもまさしく、バイロイト祝祭劇場の音を響かせていた。トリスタンやワルキューレは、レコードでもう何十度聴いているかしれない。その音楽から味わえる格別な感銘がもし別にあるとすれば、それはウィーラント・ワグナーの演出で肉声を聴けること、ステージに作曲者ワグナーの意図したスケールと色彩を楽しめることだろう。そうして確かにそういうスケールがもたらすに違いない感動を期待し、何カ月も前から大阪へ出掛けるのを私は楽しみにしていた。この点、モーツァルトのオペラとは違う。モーツァルトの純音楽的な美しさは、余りにそれは美しすぎてしばしば登場人物(ステージの)によって裏切られている。ワグナー論をここに述べるつもりは今の私にはないし、大阪フェスティバルへ行くときにもなかった。ワグナーの音楽は私なりにもう分ったつもりでいる。舞台を観たからって、それが変るわけはない。そんな曖昧なレコードの聴き方を私はしていない。これは私に限るまい。強いていえば、いちどステージで観ておけば、以後、レコードを聴くときに一そう理解がゆくだろう、つまりあくまでレコードを楽しむ前提に、ウィーラント・ワグナーの演出を見ておきたかった。もう一つ、大阪フェスティバル・ホールでもバイロイトのようにオーケストラ・ボックスを改造して、低くさげてあるそうだが、そうすれば音はどんな工合に変るのか、それも耳で確かめたかった。
 ピアノの調律がおわってK氏が帰ったあと(念のため言っておくと、調律というのは一日で済むものかと思ったらK氏は四日間通われた。ベーゼンドルファーの音にもどすのに、この努力は当然のように思う。くるった音色を——音程ではない——元へ戻すには新しい音をつくり出すほどの苦心がいるだろう)私は大へん満足して、やっぱり違うものだと女房に言ったら、あなたと同じですね、と言う。以前、ヤマハが調律して帰ったあとに、私は十歳の娘がひいている音を聞いて、きたなくなったと言ったそうである。「ヤマハの音にしよった」と。自分で忘れているから世話はないが、そう言われて思い出した。四度の不協和音を敲いたときに、音がちがう。ヤマハに限るまい、日本の音は——その調律は——不協和音に、どこやら馴染み合う響きがある。腰が弱く、やさしすぎる。
     *
「西方の音」を読んだ当時は、ピアノの音色の話として捉えた。
それに関する話として読んだ。

ある時期から、セッティングとチューニングについてとしても捉えられることに気づいた。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その21)

オーディオの想像力の欠如がしていては、あるべき世界(音)を聴くことはできない。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオの対岸にあるもの」について(その2)

“See the world not as it is, but as it should be.”
「あるがままではなく、あるべき世界を見ろ」

gleeの最後に、このことばが登場する。

オーディオにもあてはまるといえる。
あるがままではなく、あるべき世界を聴け、といえる。
あるべき世界は、あるべき音ともいえる。

けれどオーディオの難しさは、
あるがままとあるべき世界の両方を聴くことを求められるところにある。

オーディオの対岸にあるもの。
それは聴き手の聴き方によっても違ってこよう。

あるがままを聴いている人が、オーディオの対岸にあると感じているもの
あるべき世界を聴いている人が、オーディオの対岸にあると感じているもの、
あるがままとあるべき世界を聴いている人が、オーディオの対岸にあると感じているもの、
──こういうことを考えている。

Date: 1月 11th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その3)

19時開始時点の音を便宜的に①の音とする。
一度セッティングを戻した(崩した)音が②の音、ケーブルを交換した音が③の音、
トーンコントロールをバイパスしたのが④の音、MA2275のメーターをOFFにしたのが⑤の音……、としていくと、
CDプレーヤーのディスプレイをOFFにしたのが⑧の音であり、
この⑧の音と①の音は同じであり、
②の音が聴感上のS/N比も悪く、クォリティ的にも冴えない音であり、
段階を踏むごとに聴感上のS/N比は向上していっている。

①の音と②の音の差が、だからいちばん大きい。
オーケストラの国籍が判然としない音になるばかりか、
コントラバスが②の音では、
巨人が巨大なコントラバスを一人で弾いているかのような鳴り方に近くなる。

②から③、③から④へ……、
コントラバスの鳴り方の変化は顕著だった。
オーケストラにおけるコントラバスの鳴り方になっていく。
オーケストラの国籍も定まってくる。

ここまで聴いてもらったところで質問があった。
チューニングなのか、セッティングなのか、という質問だった。

「セッティングです」と即答した。
そう言いながら思い出していたのが「ピアノマニア」という映画のことだった。

ちょうど五年前に公開されている。
この映画については2012年1月に書いている。

「ピアノマニア」はドキュメンタリー映画である。
だから主人公ではなく主役といえるのは、
スタインウェイの調律師、シュテファン・クニュップファーである。

シュテファン・クニュップファーの調律をどう見るか。
オーディオにおけるセッティングとチューニングの違いが描かれている、ともいえる。

とはいえ「ピアノマニア」を観ていない人には、ことこまかに説明する必要があるけれど、
セッティングなのか、チューニングなのかを訊いてきたHさんは、
「ピアノマニア」を観ている人であるから、通じるところがある。

ここで「ピアノマニア」について書くことはしない。
けれどピアノの調律に関して思い出したことは、もうひとつある。
五味先生が書かれていた文章である。

Date: 1月 10th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その2)

後述するが、ケーブルを作ってきてよかったと思ったのは、
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」を鳴らしたからだった。

このCDでのチューニングの際の音の変化を聴いていて、
喫茶茶会記標準のケーブルでは、こうはうまくならなかったという判断があったからだ。

ケーブルを交換したあとは、アンプのMA2275をいじった。
フロントパネルについているスイッチ(ツマミ)をいじる。

まずトーンコントロールをバイパスする。
それからメーターをOFFにする。
その他にふたつほどやっている。
このふたつは、フロントパネルのスイッチとは関係のないことだ。

ここまでやった時点で、CDプレーヤーのディスプレイをOFFにする。
ディスプレイをON/OFFできるCDプレーヤーは他にもいくつかある。
試されたことのある方の中には、それほどの変化はなかった、と思われたかもしれない。

でも、あるレベルのセッティングをしていれば、
CDプレーヤーのディスプレイのON/OFFによる音の差ははっきりと出る。

だからこそ、1月4日のaudio wednesdayでは、
CDプレーヤーのディスプレイのOFFを後にもってきた。

ここまでやって、19時開始時点の音に戻ったわけである。
それは正しく19時開始時点の音であった。

同じことをくり返しているわけだから、同じ音になるわけだが、
これがうまくできない人もいるのではないだろうか。

試聴で大事なのは、再現性である。
音楽の再現性という意味ではなく、
同じことをくり返したら、同じ音を出せるという意味での再現性である。

この再現性こそがセッティングの領域である。

Date: 1月 9th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオの対岸にあるもの」について(その1)

昨晩、ほぼタイトルだけの「オーディオの対岸にあるもの」に、
facebookで数人の方からコメントがあった。

コメントを読んで、タイトルを「再生音の対岸にあるもの」にしなくてよかった、思っていた。

オーディオは再生音といえるのは確かだが、
オーディオ・イコール・再生音ではないことも確かだ。

「オーディオの対岸にあるもの」の「オーディオ」は、
人によって違うはずである。

Date: 1月 8th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの対岸にあるもの(序)

オーディオについて、再生音について考えるために思いついたタイトル。
いまのところタイトルでしかない。

Date: 1月 8th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その3)

五味先生は、以前、こう書かれていた。
     *
 ポリーニは売れっ子のショパン弾きで、ショパンはまずまずだったし、来日リサイタルで彼の弾いたベートーヴェンをどこかの新聞批評で褒めていたのを読んだ記憶があり、それで買ったものらしいが、聴いて怒髪天を衝くイキドオリを覚えたねえ。近ごろこんなに腹の立った演奏はない。作品一一一は、いうまでもなくベートーヴェン最後のピアノ・ソナタで、もうピアノで語るべきことは語りつくした。ベートーヴェンはそういわんばかりに以後、バガテルのような小品や変奏曲しか書いていない。作品一〇六からこの一一一にいたるソナタ四曲を、バッハの平均律クラヴィーア曲が旧約聖書なら、これはまさに新約聖書だと絶賛した人がいるほどの名品。それをポリーニはまことに気障っぽく、いやらしいソナタにしている。たいがい下手くそな日本人ピアニストの作品一一一も私は聴いてきたが、このポリーニほど精神の堕落した演奏には出合ったことがない。ショパンをいかに無難に弾きこなそうと、断言する、ベートーヴェンをこんなに汚してしまうようではマウリッツォ・ポリーニは、駄目だ。こんなベートーヴェンを褒める批評家がよくいたものだ。
(「いい音いい音楽」より)
     *
「他人の褒め言葉うのみにするな」というタイトルがつけられている。

ハタチそこそこのころ、ポリーニのベートーヴェンを聴いた。
名演とは思わなかったけれど、
五味先生がここまで書かれた理由はよくわからなかった。

「ベートーヴェンをこんなに汚してしまう」とある。
こことのところが大事にもかかわらず、ここがいちばんわからなかったところでもあった。

ポリーニの演奏は、コンサートでも聴いているし、
その後出てきた録音もすべてではないが、けっこう聴いてきた。

アバドとのバルトークのピアノ協奏曲は素晴らしい、と聴いた瞬間思ったし、
いま聴いても、ポリーニの代表作といえると思う。

でもポリーニのベートーヴェンを聴くことはなかった。
そうやって三十年が経ち、バッハの平均律クラヴィーアを聴いた。

ようやくわかった、と思えた。

音が濁っていると感じて、五味先生の文章を読み返した。
そうか、汚してしまう、と五味先生は書かれていたのか。
音が濁っていては、その作品を汚している、ともいえる。

私もそう感じた──、という人はごくわずかかもしれない。
ポリーニの音が濁っているのではなく、
お前が出している音が濁っているんだろう、とか、
お前の耳が濁っている、だろう、といわれるだろうけど、
そう聴こえるということは、私にとっては大事なことである。

Date: 1月 8th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その2)

ポリーニのバッハの平均律クラヴィーアが出たのは、七年前のこと。
ポリーニのバッハは聴いたことがなかった。
聴いたことのある人は、七年前、どのくらいいたのだろうか。

ポリーニが、やっとバッハを弾く。
それだけで聴いてみたいと思った。
でもなぜか買いそびれてそのままだった。

12月も終り近くになって、聴く機会があった。
これがポリーニのバッハか、と思ったのはわずかのあいだだった。

聴き進むうちに気づく。
音が濁っている、と感じたのだった。

こう書いてしまうと、誤解されるのはわかっている。
ポリーニのピアノの音が濁っているわけがないじゃないか、といわれるはずだ。

技巧的に音が濁っている、と感じたのではなかった。
違う意味での、音が濁っているだったのだ。

だから聴いているうちにいらいらし始めている自分に気づく。
怒りに近いものまで感じていた。

そして思い出した。
五味先生がポリーニが弾くベートーヴェンに激怒された、と書かれていたことを。
こういうことだったのか、とひとり得心がいった。

五味先生が激怒された理由と、私が怒りを感じてきた理由が同じという保証はどこにもない。
まったく違っているかもしれない。
そう頭ではわかっていても、そう得心したとしか書きようがない。

Date: 1月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その1)

1月4日のaudio wednesdayは、
セッティングとチューニングの境界をテーマにしていた。

当日は17時くらいからセッティング開始して、約一時間ほどで終了。
その後、確認の音出し。そして、いくつかの確認。

つまり在る程度セッティングを終えた状態で、開始時間の19時。
まずこの状態で、試聴ディスクを聴いてもらう。

ディスクは変えず、音量もいっさい変えず(レベルコントロールには触れていない)、
セッティングを数段階前の状態に戻して、同じディスクの同じところを聴いてもらう。

そうとうに音は変化している。
そしてひとつずつセッティングを変えていく。

まずCDプレーヤー(ラックスD38u)とプリメインアンプ(マッキントッシュMA2275)間のケーブルを変える。
喫茶茶会記で使っているケーブルから、私が自作してきたケーブルへ変えた。

特に高価なケーブルを使ったモノではない。
切り売りで1mあたり数百円の、いわばありきたりのケーブルである。
RCAプラグを含めて、製作にかかった費用は二千円ほど。

高価なケーブルによる音の変化を聴いてもらいたかったのではなく、
ケーブルの接続方法による音の変化を聴いてもらいたかったから、ケーブルを作ってきたし、
特別なケーブルを使用することはしなかった。

それにチューニングとしてではなく、セッティングとしてのケーブル交換の意味合いもある。
ここでの音の変化はかなりある。
高価なケーブルをあれこれ使う前に、やること(目をつけるところ)があるわけだ。