老いとオーディオ(齢を実感するとき・その3)
五味先生は、以前、こう書かれていた。
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ポリーニは売れっ子のショパン弾きで、ショパンはまずまずだったし、来日リサイタルで彼の弾いたベートーヴェンをどこかの新聞批評で褒めていたのを読んだ記憶があり、それで買ったものらしいが、聴いて怒髪天を衝くイキドオリを覚えたねえ。近ごろこんなに腹の立った演奏はない。作品一一一は、いうまでもなくベートーヴェン最後のピアノ・ソナタで、もうピアノで語るべきことは語りつくした。ベートーヴェンはそういわんばかりに以後、バガテルのような小品や変奏曲しか書いていない。作品一〇六からこの一一一にいたるソナタ四曲を、バッハの平均律クラヴィーア曲が旧約聖書なら、これはまさに新約聖書だと絶賛した人がいるほどの名品。それをポリーニはまことに気障っぽく、いやらしいソナタにしている。たいがい下手くそな日本人ピアニストの作品一一一も私は聴いてきたが、このポリーニほど精神の堕落した演奏には出合ったことがない。ショパンをいかに無難に弾きこなそうと、断言する、ベートーヴェンをこんなに汚してしまうようではマウリッツォ・ポリーニは、駄目だ。こんなベートーヴェンを褒める批評家がよくいたものだ。
(「いい音いい音楽」より)
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「他人の褒め言葉うのみにするな」というタイトルがつけられている。
ハタチそこそこのころ、ポリーニのベートーヴェンを聴いた。
名演とは思わなかったけれど、
五味先生がここまで書かれた理由はよくわからなかった。
「ベートーヴェンをこんなに汚してしまう」とある。
こことのところが大事にもかかわらず、ここがいちばんわからなかったところでもあった。
ポリーニの演奏は、コンサートでも聴いているし、
その後出てきた録音もすべてではないが、けっこう聴いてきた。
アバドとのバルトークのピアノ協奏曲は素晴らしい、と聴いた瞬間思ったし、
いま聴いても、ポリーニの代表作といえると思う。
でもポリーニのベートーヴェンを聴くことはなかった。
そうやって三十年が経ち、バッハの平均律クラヴィーアを聴いた。
ようやくわかった、と思えた。
音が濁っていると感じて、五味先生の文章を読み返した。
そうか、汚してしまう、と五味先生は書かれていたのか。
音が濁っていては、その作品を汚している、ともいえる。
私もそう感じた──、という人はごくわずかかもしれない。
ポリーニの音が濁っているのではなく、
お前が出している音が濁っているんだろう、とか、
お前の耳が濁っている、だろう、といわれるだろうけど、
そう聴こえるということは、私にとっては大事なことである。