Archive for 11月, 2016

Date: 11月 23rd, 2016
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その22)

BBCモニターのLS3/5Aは好きなスピーカーである。
いまも好きなスピーカーといえる。

私にとってのLS3/5Aとは、ロジャース製の15ΩインピーダンスのLS3/5Aである。
そのLS3/5Aを初めて聴いた時から、
この音のまま、サイズが大きくなってくれたら……、
そんな無理なことを考えたし、LS3/5Aと共通する音色を聴かせてくれるスピーカーが登場すると、
これはLS3/5Aの延長線上にあるスピーカーかどうかを判断するようになっていた。

メリディアンのM20。
LS3/5Aと同じ口径のウーファーを上下二発配し、中間にトゥイーター。
ユニットのそのものはLS3/5Aのそれと近い。

M20はパワーアンプを内蔵していたアクティヴ型だった。
専用スタンド(脚)が最初からついていた。

M20をメリディアンのCDプレーヤーと接いで鳴ってきた音には、ころっとまいってしまった。
私には、LS3/5Aの延長線上にはっきりとあるスピーカーと感じた。

LS3/5Aよりも音量も出せるし、その分スケールもある。
反面、小さなスケールから感じる精度の高さはやや薄れたように感じても、
音色は共通するところがあり、この種の音色に当時の私は弱かった。

M20はずいぶん迷った。
買いたい、と本気で考えていた。
買っておけばよかったかな、と思ったこともある。

その後、数多くのスピーカーが登場し、そのすべてを聴いたわけではないが、
めぼしいモノは聴いてきた。
LS3/5A、M20、ふたつのスピーカーがつくる線上に位置するスピーカーは、
私にとってはひさしく登場しなかった。

同じLS3/5AとM20がつくる線上であっても、
人によって感じる良さは共通しながらも違ってくるだろうから、
あのスピーカーは延長線上にある、という人がいても、
私にとってはベーゼンドルファーのVC7まではなかった。

VC7を初めて聴いた時、LS3/5A、M20の延長線上にある。
しかもずいぶん時間がかかったおかげか、
LS3/5AとM20の距離よりもずっと離れた位置にVC7はいるように感じた。

Date: 11月 23rd, 2016
Cate: D130, JBL

ミッドバスとしてのD130(その12)

《世の中には男と女しかいない、その男と女が寝室でやることはしょせんきまっている》
と書かれたのは五味先生。

そこでの行為は生殖のためでもあるし、快感を求めてでもあるし、
目の前にいる、いま触れている相手の鼓動を感じる行為でもある。

寝室での男女の行為は、第三者に見せる行為ではない。
なかには見せることに快感を感じるようだが、寝室という密室での行為だから、
鼓動を感じることができるとはいえないだろうか。

オーディオに何を求めるのかは同じようであって、人によって大きく違うこともある。
音楽の鼓動を聴く、という行為を追い求めている聴き手を、
だから肉食系という表現を使った。

肉食系には、もうひとつ、
人にむやみに聴かせない、という意味も込めている。

そこでの行為が見せるものでないように、
そういう意味での肉食系オーディオの音は、むやみに誰かに聴かせるものではない──、
そんなふうに感じているからだ。

同時に草食系という表現を使いたくなる音が増えてきているように感じるのは、
スピーカーの性能向上がその理由ではなく、インターネットのここまでの普及により、
オーディオマニア同士の交流が、以前には考えられないほど活発になってきたこと。
それと無縁とは思えない。

どこかに正確な統計があるわけではないが、
あきらかに互いの音を聴くことは、インターネット以前よりもはっきりと増している、はずだ。

誰かに自分の音を聴いてもらう、
誰かの音を聴きに行くことにもメリット、デメリットがあるだろう。

誰かに聴かせることを意識した途端に、何かが知らぬうちに変っていくようになる。
それは必ずしもいい方向ばかり行くわけではない。

そこに気づかずに聴きに行ったり、聴きに来てもらったりをくり返すうちに、
草食系的面が頭を擡げてる。
そんなことはない、とはっきり否定できる人がいるだろうか。

Date: 11月 23rd, 2016
Cate: 型番

ヤマハの型番(Cの意味)

ヤマハの型番について、時折触れている。
スピーカーシステムのNSはNatural Soundのはずだし、
コントロールアンプのCI、C2などのCはControlだし、
パワーアンプのBI、BSはBasicのはずである。

アナログプレーヤーはYPで始まる。
これはYamaha Playerであろう。

これまで考えてきてわからないのがある。
スピーカーユニットのJAである。

トゥイーターであれ、フルレンジであろうと、
ウーファー、スコーカー、コンプレッションドライバーまでJAで始まる。
このJAは、どういう意味をもっているのか。

そしてもうひとつわからないのが、
プリメインアンプのCA2000、CA1000IIIのなどのCA。
同じ意味でチューナーのCT、レシーバーのCRもそうだ。

CAのAはAmplifierであろう。
CTのTはTuner、CRのRはReceiverで間違いないだろう。

プリメインアンプ、チューナー、レシーバーに共通してつけられている、このCは何なのか。
ヤマハはA1以降、プリメインアンプの型番はAで始まるように変更している。
チューナーもTで始まるようになった。
レシーバーは、そのころはカタログから消えていた。

コンテンポラリー(contemporary)なのだろうか。
それともまったく違う意味なのだろうか。
何の意味ももたないということは、ないと思う。

解く鍵は、フロントパネルの色かもしれない。
C2やB2といったセパレートアンプは、当時黒だった。

プリメインアンプはCA-V1は黒だったが、それまではシルバーパネルだった。
チューナーもレシーバーもシルバーだった。

Date: 11月 22nd, 2016
Cate: D130, JBL

ミッドバスとしてのD130(その11)

D130の低域を拡充するのにE145が最適なような気がする。
もちろんD130とE145は同口径だから、E145はダブルにしたい。

E145の出力音圧レベルはカタログ発表値で98dB/W/m。
ダブルで使って3dB音圧は上昇するから101dB。
D130の102dB/W/mと近似となる。

エンクロージュアは……。
こんなことを考えていると、楽しい。
実現するか(できるか)は関係なく、愉しくなってくる。

D130もそうだし、2440(2441)といったコンプレッションドライバー、
E145のようなウーファー、この種のJBLのユニットは、妄想をたくましくしてくれる。

私自身が求めている音とは方向が違っていようと、愉しくなってくる。

一時期、肉食系男子、草食系男子といういいかたがあった。
最近ではあまり聞かなくなったようだが、オーディオにもあてはまるところはあると感じている。

私にとって、ここで挙げているJBLのユニットは、
肉食系的性格のユニットといってもいいだろう。

E145を自分で鳴らしたことはない。
150-4Hを採用したDD55000は、何度もステレオサウンド試聴室で聴いている。
ローエンドまで充分にのびている音ではない。
ダブルにしたところでのびるわけではなく、エネルギーが増す。

低域のエネルギーの再現性で、E145ダブルは比類なき音を聴かせてくれそうだ。

結局、音楽を聴く行為は、その音楽の鼓動を聴く、といってもいい。
演奏者の鼓動でもあり、作曲者の鼓動でもある。

私が肉食系の音と感じるのは、まさにここに理由がある。
鼓動を、そのエネルギーをロスなく届けてくれる。

Date: 11月 22nd, 2016
Cate: D130, JBL

ミッドバスとしてのD130(その10)

D130をミッドバスにするのであれば、ウーファーはどうするか。
もっといいウーファーというか、ぴったりくるウーファーがあるような気がしていた。

そうだ、そうだ、と思い出したのがJBLのE145である。
ステレオサウンド 60号の特集でも取り上げられている4676-1。

このシステムはフロントショートホーン型エンクロージュア4550に、
E145-16を二発、中高域には2441(二発)+2350ホーンという組合せ。

4550の重量だけでも88kgあるため、総重量は141kg。
4676-1は型番が示すようにサウンドリインフォースメントおよびシアター用であり、
出力音圧レベルは104dB/W/mと発表されている。

JBLのウーファーでKシリーズは楽器用ということだった。
EシリーズはKシリーズを受け継ぐながらも、サウンドリインフォースメント用としても使われる。

Eシリーズの15インチ口径のウーファーには、E130(フルレンジ)、E140、E145があり、
18インチ口径がE151である。

これらの中でE145のフレームだけが異る。

JBLのウーファーは取付け用金具MA15でフロントバッフルに固定する。
15インチでも18インチでも、その点は同じだ。

だがE145はMA15が使えない。
コーン紙外周のフレームの厚みがボリュウムある形状になっていて、
そのこととも関係しているのが、コーンの頂角だ。

アルテックのウーファーよりも浅めのJBLのウーファーの中で、
E145は深めの頂角になっている。
つまり150-4Cと共通する点をもつウーファーといえる。

E145はDD55000のウーファーとして採用されている。
その際の型番は150-4Hである。

Date: 11月 22nd, 2016
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その10)

自作のレベルはさまざまだ。
キットを購入して組み立てるのも自作であるし、
自分で設計し、部品を集めて加工して組み上げるのも自作である。

部品を買ってきて(集めて)、組み上げることを自作とすれば、
カートリッジをヘッドシェルに取りつけるのも、自作の第一歩だと考えている。

スピーカーのキットを組み立てるのと、
カートリッジをヘッドシェルに取りつけて、リード線をつなぐのは、
基本的に同じことと私は捉えているし、自作の基本でもある。

こんなことを書くのは、
インターネットのオークションやSNSなどで、
オーディオマニアのカートリッジの写真を目にする機会が増えたからである。

単売されていたヘッドシェルには取りつけネジが付属していた。
長さは一種類ではなく、三種類ぐらいは最低でもあった。

オーディオクラフトはBS5という真鍮製のネジとナットを製品として出していた。
そのころヘッドシェルの付属ネジは大半がアルミだった。
アルミと真鍮で音が同じならば、わざわざBS5を買う必要はないわけだが、
音は変る。だからBS5を買うわけだ。

BS5は長さの違う七種類のネジが入っていた。
花村圭晟氏が社長だったころのオーディオクラフトらしいアクセサリーである。

ヘッドシェルによってはネジが貫通するタイプがある。
この手のヘッドシェルだと、使い手の性格の一面が出る、と昔から思っている。

ネジの長さに無頓着な人が、意外に多い。
ネジ貫通型のヘッドシェルの場合、ナットを当然使うから、長すぎても取りつけられる。
けれどナットからネジがはみ出す部分が長すぎる。

なぜもっと短いネジを使わない(選ばない)のかと、その度思う。
ナットからネジがほんの少しだけ出ていればいいのに……、と思う。

見た目が悪いだけではない、
ナットからはみ出したネジは共振体でもある。

私がカートリッジの取りつけが自作の基本というのは、ここにある。
適切な長さのネジを選ぶことができないのならば、自作には向かない。

Date: 11月 21st, 2016
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏からの宿題

私にとってのステレオサウンドは、というと、
まず41号から61号まで21冊とその間に出た別冊が、まずある。

リアルタイムで読んできた、純粋に読み手として読んできたステレオサウンドだけに、
私にとってのステレオサウンドとは、ここである。

その次に創刊号から40号までと、別冊である。
それから62号から89号。これは編集者として携わってきたステレオサウンドだ。

90号からのステレオサウンドもわけようと思えばいくつかにわけられるけれど、
ひとつにしておく。

私にとって中核といえる41号から61号のステレオサウンドについて、
「ステレオサウンドについて」で触れてきた。
この項を書くために、手元にバックナンバーをおいてページをめくってきた。
当時のことを思い出していた。

思い出しながら書いていた。
その過程で、瀬川先生からの宿題がいくつもあることを感じていた。

人によっては「ステレオサウンドについて」はつまらなかったかもしれない。
また古いことばかり書いている、と思った人も少なからずいたはずだ。

読み手のことを考えずに書いていたわけではないが、
「ステレオサウンドについて」は私にとって、
瀬川先生からの宿題をはっきりと認識するための作業であった。

Date: 11月 20th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その114)

ステレオサウンド61号が書店に並んだのは、冬休みに入って帰省してからだった。
61号の特集こそ、瀬川先生がいてほしい企画である。
よけいに、瀬川先生の不在を感じていた。

特集の最終ページをめくると、
「オーディオ界の巨星墜つ 瀬川冬樹氏追悼」の文字があった。

61号を手にして、私にとってステレオサウンドのおもしろさは、
瀬川先生の文章を読むことにあったことを、再確認していた。
五味先生が亡くなられてから、その傾向は強くなっていた。

1980年4月、五味先生、
1981年11月、瀬川先生、
私はオーディオの指標、そして音楽の聴き方の指標をなくしてしまった。

冬休みが終り、東京にもどってきた。
学校に通う日々。
1月の中ごろだった、帰宅すると、当時は寮住まいだったから、
寮母さんが、「電話ありましたよ、ステレオサウンドというところから」と伝えてくれた。

瀬川先生の死を知ってから一ヵ月経っていなかった。
あのときは頭の中が真っ白になった、
このときは耳を疑った。

1981年、私はステレオサウンド編集部宛に手紙を何通か書いていた。
おもしろいことを書くやつがいるということで、目に留ったようだ。
手紙にはしっかり住所だけでなく、寮の電話番号も書いていた。

それでも連絡があるとは思っていなかった。
これがきっかけとなって、働くようになった。

純粋に読者として読んだステレオサウンドは、だから61号までである。
この項も、これで終りである。

Date: 11月 20th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その113)

ステレオサウンド 61号の表紙はタンノイのG.R.F. Memoryだ。
特集が「ヨーロピアン・サウンドの魅力」だから、好適な選択といえよう。

60号の表紙のアルテックのシステムの規模と、
61号のG.R.F. Memoryのシステムとしての規模は、
そのままアメリカという国の大きさとヨーロッパのそれぞれの国の大きさを如実に表している。

私は、この61号の発売を楽しみにしていた。
瀬川先生が退院されて登場されている、と思い込んでいたからだ。

瀬川先生の訃報は新聞に載っていた(そうだ)。
そのころは金のない学生だったから新聞を講読する余裕はなかった。
瀬川先生が亡くなられていることを知らずに、61号の発売を心待ちにしていた。

そのころ秋葉原にあった石丸電気本店の書籍売場は、
一般の書店よりもオーディオ、音楽関係の雑誌は少し早く並ぶ。

冬休みに入るある日、秋葉原に行った。
目的はステレオサウンド 61号を買うためである。
1981年12月、ステレオサウンドは遅れていた。
だから、わざわざ秋葉原まで行った。

たしか12月19日だった、と記憶している。
石丸電気レコード館にもまだステレオサウンド 61号は並んでなかった。

レコード芸術の最新号はあった。
夏にはじまった瀬川先生の新連載は一回だけで休載になっていた。
再開したかな、と思いながら手にとりページをめくった。

そこで、瀬川先生の死を知った。
頭の中が真っ白になる──、
この時がまさにそうだった。

何も考えられない状態があることを、はじめて体験した。
手にとったレコード芸術を、反射的に書棚に戻した。
信じられなかったからだ。

戻したレコード芸術をもう一度手にした。
そうすれば、瀬川先生の死がなかったことになる──、
そんなバカなことを期待して、だった。

そんな奇蹟は起るわけはない。
秋葉原からの帰りの電車、何をおもっていたのか、おもいだせない。

Date: 11月 20th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その112)

ステレオサウンド 60号の特集に登場するのは、
アルテック、JBL、インフィニティ、ESS、ウェストレイク、マッキントッシュ、
クリプシュ、エレクトロボイスの大型スピーカーシステムである。

試聴は岡俊雄、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹の四氏。
ただ瀬川先生は途中から入院されているため、クリプシュとエレクトロボイス、
それからまとめの座談会には参加されていない。

まだ読み手だったころ、瀬川先生の途中からの不在が熱っぽさを感じない理由と思った。
けれどアルテックはA4、A5、Mantaray Horn Systemの三機種、
JBLはD44000 Paragon、4676-1、4345の三機種、
残りのブランドは一機種ずつであるから、瀬川先生は主だった機種に関しては聴かれている。

瀬川先生の不在は、60号を熱っぽく読めなかった理由とはならない。
60号の不完全燃焼は、ステレオサウンド編集部の不得手による、といまは断言できる。

60号の特集の扉に、15周年記念の第一弾とある。
ということは61号は第二弾の特集が組まれるわけで、
それはヨーロピアン・サウンドだろう、と予想がつく。

61号では瀬川先生も退院されているだろう……、とこのときは呑気に思っていた。
60号には瀬川先生の書き原稿はなかった。

Date: 11月 20th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その111)

誌面から直接音が聴こえてくるのならば、オーディオ雑誌は苦労しない。
音は聴こえてこない。

誌面からは直接熱も伝わってこない。
このことは編集部で働くことで実感したことだ。

ステレオサウンドは総テストを主として行ってきた。
総テストのやり方はいろいろ試してきていた。
そしてある程度は掴んでいた、と思う。
総テストは、ステレオサウンド編集部の得手であった、少なくともこのころは。

ステレオサウンド 60号の特集は、大型スピーカーシステムのテストといえばそうではあるが、
総テストという性格の企画ではないし、そういう記事づくりもやっていない。
そうなるとステレオサウンド編集部の不得手な面が出ているのではないだろうか。

こういう記事(企画)だと、作り手側の熱を伝えたからといって、
読み手が熱っぽく読んでくれるとは限らないことを、
編集の仕事をやっていた実感するようになっていった。

作り手側の熱と読み手側にとっての熱と感じるところには、
相違があるのを知らなければならないことも学んだ。

60号の特集は座談会としてまとめられている。
うまくまとめられている、とは思う。
読んで得られることもあった。

でも熱っぽくは、どうしても読めなかった。
その理由を考えずに、編集の仕事はできない。

ステレオサウンド 60号を、熱っぽく読んだ、という人がいたら教えてほしい、
それは思い込みでなく、ほんとうに熱っぽく読んだのか、
どう熱っぽく読んだのかを。

Date: 11月 20th, 2016
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その24)

Beogram 8000はデザインが優れていたために損をした──、
そう書いた。

損をしたのは、B&Oなのだろうか。
B&Oは、それまでのことから各国でどういう扱いをされるのかは在る程度予測していたはず。
Beogram 8000のダイレクトドライヴの方式は、あまり注目されないことはわかっていたと思う。

だから、損をしたのはB&Oというより、われわれだと思う。
われわれとはオーディオ雑誌の編集者、オーディオ評論家を含むオーディオマニアである。

B&Oはデザインの優れたオーディオをつくる会社、というバイアスが、
われわれにあったことが、Beogram 8000の内側に関心をもつことをしなかった。

いまもアナログプレーヤーについては、
その21)で書いたような、議論になっていない議論のようなことが行われている。
本質から外れての、議論になっていない議論のようなことにしか思えないことが少なくない。

そういうところでB&Oのダイレクトドライヴ方式が話題になることはない。

もしアナログプレーヤーの開発にかかわることができるのならば、
私は、B&Oと同じく電力計の原理によるダイレクトドライヴを推す。
Beogram 8000の構造とは違う構造をとる。

Date: 11月 20th, 2016
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その23)

「これはデザインで損している」とか「デザインで得している」とか、
そういった評価みたいなことを聞くことがある。

こんなことをいう人は、デザインを付加価値としてしか捉えていない。
だから、損している、得している、といったことをいうのだろう。

B&OのBeogram 8000は、そんな次元の話ではなく、
デザインで損している、といえる。
デザインが悪いからでもなく、デザインを付加価値と見てのことでもない。

デザインが優れていることで、デザインのことでしか語られないことがある。

B&Oは新製品を毎年のように出す会社ではなかった。
Beogram 8000の前のモデル、Beogram 2402、Beogram 4004はベルトドライヴだった。
Beogram 2402は1980年の新製品である。

Beogramシリーズはデザインとリニアトラッキングアーム、それにフルオートであること、
この三つのことがまず語られる。

その内側に盛り込まれている技術については、あまり語られることはない。
Beogram 8000がダイレクトドライヴになったことは知っていても、
一般的なダイレクトドライヴと同じ方式だと思っている人が大半かもしれない。

しかもB&Oは、あまり技術的なことをことこまかに語ることはしない。
Beogram 8000が「デザインで損している」とは、そういう意味である。

Beogram 8000は1981年の新製品である。
ダイレクトドライヴ方式についての音質面での追求が、
各メーカーでなされている時期であり、それぞれに工夫があった。

これらについてはオーディオ雑誌で取り上げられていたのに、
ダイレクトドライヴの技術的な考察からのBeogram 8000の記事はなかった。

Date: 11月 19th, 2016
Cate: 欲する

資本主義という背景(その5)

丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節を引用するのは、これで三回目だ。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。
     *
現代の資本主義についての文章に思えてならない。
《真の文化や芸術から離れてしまった心》、《虚栄の空間を果てしなくさまよう》、
《結実の方向へ突き進むことはけっしてなく》、《それらしい雰囲気のみで集結》、
これらは現代の資本主義のもつ側面を表現していると思えるのだ。

Date: 11月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その110)

60号はステレオサウンド創刊15周年号であり、
特集「サウンド・オブ・アメリカ」も創刊15周年記念特集の第一弾である。

この特集は、いつものステレオサウンドの試聴室ではなく、
大正末期に建築されたという洋館の大広間(約54畳)で行われている。

古い建物だからエレベーターはなく、大広間は二階。
搬入作業はさぞ大変だったと思う。
搬入作業の様子も写真に撮られている。

この大広間は広いだけでなく、それに見合った天井の高さ(3.5m)がある。
アルテックのA4が置かれても余裕がある。

スピーカーも大型のモノばかりが集められている。
アンプもそれに見合ったモノとして、
コントロールアンプはマッキントッシュのC29とC32、
マークレビンソンのLNP2とML7、
それにマランツのModel 7、
パワーアンプはマッキントッシュのMC2255とMC2500、
マークレビンソンのML2(4台)、ML3、マランツのModel 9、
ハーマンカードンのCitation XX、スレッショルドSTASIS 1とSTASIS 2、
マイケルソン&オースチンのTVA1、アキュフェーズM100である。

アナログプレーヤーはトーレンスのReferenceである。
スピーカー、アンプ、プレーヤーの総重量は4.6トンとのこと。

準備も大変だっただろうが、片付けも大変だったはずだ。

──こうやって書いていくと、創刊15周年記念にふさわしい企画(特集)と思える。
私も、当時そう思って読んだ。

けれど編集部の大変さは、読み手には関係のないことである。
よくやったな、と思っても、それ以上のものは伝わってきにくい内容だった。

面白いはずだ……、と思い込もうとしていた。
これだけのことをやっているのだから……、と。

でも、何度読み返しても、つまらないといわないが、
そこに熱さがあったかといえば、私に関してはあまり伝わってこなかったというしかない。