Archive for 9月, 2016

Date: 9月 12th, 2016
Cate: ステレオサウンド

夏の終りに(ステレオサウンド)

野球にほとんど関心のない私でも、
広島カープが25年ぶりに優勝したことは知っているし、
いくつかのニュースを読んでいる。

その中に、広島カープは1番から9番まで、チーム生え抜きの選手、というものがあった。
他球団の有名選手を金銭トレードで獲得して、チーム強化を図るのを悪いことだとも思っていないが、
それでも広島カーブのような球団があるのか、と少し驚くとともに、
ステレオサウンドは広島カープではないな、と思っていた。

ステレオサウンドは、はっきりと広島カープとは対極の方針である。
いわば読売ジャイアンツ的である。

このことは私がいたころから編集部で何度か話していた。
生え抜きの書き手がいるだろうか。
一から書き手を育てるのかどうか。
そういうことを話していた時期がある。

ステレオサウンドに書いている人たちは、ほとんどがどこかで書いていて、
それからステレオサウンドに書くようになった人たちだ。

野球選手とオーディオ評論家は同じには語れないのはわかっている。
野球選手は同時に複数の球団に所属できないが、
書き手はいくつもの出版社の雑誌に書いていける。

そんな違いがあるのはわかったうえで書いている。
ステレオサウンド生え抜きの書き手は……、と。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その8)

ステレオサウンド別冊「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」で、
イエクリン・フロート Model 1が取り上げられている。
瀬川先生の評価は高かった。
     *
 かける、というより頭に乗せる、という感じで、発音体は耳たぶからわずかだか離れている完全なオープンタイプだ。頭に乗せたところは、まるでヴァイキングの兜のようで、まわりの人たちがゲラゲラ笑い出す。しかしここから聴こえてくる音の良さにはすっかり参ってしまった。ことにクラシック全般に亙って、スピーカーからはおよそ聴くことのできない、コンサートをほうふつさせる音の自然さ、弦や木管の艶めいた倍音の妖しいまでの生々しさ。声帯の湿りを感じさせるような声のなめらかさ。そして、オーケストラのトゥッティで、ついこのあいだ聴いたカラヤン/ベルリン・フィルの演奏をありありと思い浮べさせるプレゼンスの見事なこと……。おもしろいことにこの基本的なバランスと音色は、ベイヤーDT440の延長線上にあるともいえる。ただ、パーカッションを多用するポップス系には、腰の弱さがやや不満。しかし欲しくなる音だ。
     *
この試聴の時点で、イエクリン・フロート Model 1の入手は、
オーディオ店に行けば、すぐ買えるというものではなかったようだ。

「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」の推薦機種のところで、
《残念ながら入手が不可能らしいイエクリン・フロート》と書かれている。

Jecklin Floatはスイスのブランドだった。
正確にはどう発音するのか。
イエクリン・フロートなのか、ジャクリン・フロート、それともエクリン・フロートなのか。
ここではイエクリン・フロートを使う。

「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」が出た時点で、
イエクリン・フロート Model 1の製造中止のように思われていたが、
海外ではあたりまえに入手できていた、ともきいている。

イエクリン・フロート Model 1は、聴きたかったヘッドフォンであり、
聴けなかったヘッドフォンである。
イエクリン・フロート Model 1はコンデンサー型で、
のちのAKGのK1000の原型と捉えることもできなくはない。
つまりヘッドフォンというよりは、イヤースピーカーと云った方が、より近い。

イエクリン・フロートはその後、いろいろあったようで、ERGO(エルゴ)というブランドに変り、
コンデンサー型からAMT(Air Motion Transformer)へと変っている。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その6)

1978年のステレオサウンド別冊「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」で、
瀬川先生がヤマハのC2+B3の音について書かれている。
     *
 以前B2と組み合わせて聴いたC2だが、パワーアンプが変ると総合的にはずいぶんイメージが変って聴こえるものだと思う。少なくともB3の出現によって、C2の本当に良い伴侶が誕生したという感じで、型番の上ではB2の方が本来の組合せかもしれないが、音として聴くかぎりこちらの組合せの方がいい。B2にはどこか硬さがあり、また音の曇りもとりきれない部分があったがB3になって音はすっかりこなれてきて、C2と組み合わせた音は国産の水準を知る最新の標準尺として使いたいと思わせるほど、バランスの面で全く破綻がないしそれが単に無難とかつまらなさでなく、テストソースのひとつひとつに、恰もそうあって欲しい表情と色あいを、しかしほどよく踏み止まったところでそれぞれ与えて楽しませてくれる。当り前でありながら現状ではこの水準の音は決して多いとはいえない。ともかく、どんなレコードをかけても、このアンプの鳴らす音楽の世界に安心して身をまかせておくことができる。
     *
ヤマハのアンプの特質が、ここに表現されている。
すべてのヤマハのアンプが、ここに書かれている音を聴かせてくれるわけではないが、
ヤマハの、このころの優秀なアンプは、セパレートアンプ、プリメインアンプであっても、
まさに、ここに書かれているとおりの音といえた。

《国産の水準を知る最新の標準尺》、
これもまさにそうであった。
いつのヤマハのアンプをじっくり聴いているわけではないので、あえて過去形にしている。

《テストソースのひとつひとつに、恰もそうあって欲しい表情と色あいを、しかしほどよく踏み止まったところでそれぞれ与えて楽しませてくれる。》
これも、まさにそのとおりである。
「ほどよく踏み止まったところ」、これはほんとうにそのとおりとしかいいようがない。

そのような音のヤマハのアンプで鳴らすNS1000Mの音もまた、
他社製のアンプで鳴らすNS1000Mの音を評価していく上で、ひとつの標準尺として機能する。

ケンウッドのL02Aで鳴らすNS1000Mの音がいまも思い出せる私は、
そこにわずかなもの足りなさを感じるのかもしれない。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーのこと(その15)

スピーカーユニットを多数使うことに、別に懐疑的ではない。
けれど、若いころは、それこそ絶対的にスピーカーユニットは並列接続すべきだと考えていた。

そう思いこんでいたのは、振動板はピストニックモーションが理想であり、
振動板がピストニックモーションであれば、
その振動板が鳴らす空気もピストニックモーションである──、
そう考えていたからでもあった。

けれどピストニックモーションの幻想から一歩離れてしまえば、
振動板のピストニックモーション・イコール・空気のピストニックモーションではないことは、
容易に想像がつく。

けれど、その一歩離れることが、なかなか難しかったし、
そのきっかけとなったのが、私の場合、(その14)で書いているように1996年、
NTXスピーカーの登場まで俟たなければならなかった。

ピストニックモーションこそが……、という思いこみは、
XRT20を眺めたときに、24個のトゥイーターを並列接続にすべき、と見てしまっていたし、
XRT20以前のスピーカー、BOSEの901に関して、同じに見てしまっていた。

901は10cm口径のフルレンジユニットを9発使っている。
使用されているスピーカーユニットのインピーダンスは0.9Ω。
9発すべてを直列接続しているから、0.9×9=8.1Ωとなる。

901の存在を知ったとき、おもしろいスピーカーと思いながらも、
私だったら、絶対的に並列接続するのに、その方が絶対音は良くなるのに……、
不遜にもそう捉えてしまっていた。

振動板を動かすことと空気を動かすことは、同じではない。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その5)

ヤマハは総合オーディオメーカーであったから、
NS1000Mを鳴らすためのアンプも用意していた、と見ていい。

となるとどのアンプがそうなのか。
型番からいえばプリメインアンプのCA1000(III)となる。
価格的にもCA1000が、ヤマハが想定していたアンプのひとつと見て間違いない。

CA1000の上級機としてCA2000が登場した。
当時のヤマハにはNS2000という型番のスピーカーはなかった。
CA2000もNS1000Mのためのプリメインアンプとみていい。

ただCA1000にしてもCA2000にしても、アピアランス的にNS1000Mにマッチしているかというと、
そうとはいえず、仕上げの違うNS1000との組合せを前提しているのか。
NS1000でも、木目の色調がかなり違うのも、実際のところどうなのだろうか。

アピアランスでいえば、NS1000Mを鳴らすアンプは、
プリメインアンプの中にはなく、セパレートアンプのC2とB2の組合せとなる。

価格的なバランスは、C2が15万円、B2が20万円で、
アンプにややウェイトを置きすぎのような気もするが、非常識な組合せではない。
C2とB2で鳴らすNS1000Mの音を聴いた人は、けっこういるのではないだろうか。

私もNS1000Mは、いくつかのアンプで鳴らした音を聴いている。
ステレオサウンドで働くようになって、けっこう数を聴いている。
ヤマハのアンプで鳴らすNS1000Mの音も、もちろん聴いている。

ステレオサウンド 64号の特集では、
プリメインアンプのA8と、セパレートアンプではC50+B50、C70+B70の音を聴いている。
悪い音ではなかったはずだ。

悪い音、ひどい音であればけっこう憶えているからだ。
でも、64号を読み返しても、ヤマハのアンプで鳴らしたNS1000Mの音をうまく憶い出せないでいる。
つまり印象にのこっていないからなのだが、
それはヤマハのアンプが冴えなかったからではない。

ケンウッドのL02Aで鳴らしたNS1000Mの音が良すぎたから、
その音の印象が強すぎるためである。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: audio wednesday

第69回audio sharing例会のお知らせ

10月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

テーマは未定。
やりたいことはいくつかあっても、その準備がうまくいくかどうかと時間の都合もあるから、
いつやれるかがはっきりと決るわけでもない。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その3)

ここでのタイトルは「感覚の逸脱のブレーキ」である。
つまり感覚の逸脱をすべて否定しているわけではなく、
むしろ感覚の逸脱を怖れることはないし、
さらにいえば積極的に感覚の逸脱を行う(試みる)ことも必要だと考えている。

そのうえで感覚の逸脱の「ブレーキ」が必要となる──、という考え方である。
ブレーキがあるからこそ、信頼できるブレーキがあれば、
感覚の逸脱も逸脱しすぎるということはない。

逸脱しすぎてしまうことの怖さは、
逸脱していることを意識しなくなる(感じなくなる)ことではないだろうか。

録音・再生の約束事を無視して感覚の逸脱という暴走に、ブレーキをかけることをしない。
どんどんと逸脱していってしまう。
そういう実例を知っているからこそ、この項を書いている。

Date: 9月 10th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「気」と「手」(その1)

オーディオに不可欠なものとして、電気と空気が挙げられる。
将来はスピーカーというトランスデューサーを必要とせず、
脳に直接信号を送るという技術が生れるであろうし、
そうなったら空気は必要不可欠なものではないわけだが、
いまわれわれがオーディオと認識している現象には、
電気と空気は必要不可欠であり、
どちらにも「気」がついている。

空気も電気に形がないから、「気」なのかと思いながら、
なぜ聴き手には「手」がついているのかを考えてしまう。

書き手ならば、まだわかる。
書くためには手を使う。だから書き手。
読み手もそうだ。本を読むのに手を使う。だから読み手。

楽器の演奏者を弾き手という。
これもわかる。
楽器を弾くには手を使う。だから弾き手。

けれど聴き手はどうだろう。
ここでの聴き手は、音楽を聴く人のことである。

たとえばインタヴューをする人のことを聞き手という。
これはまだ理解できる。
相手が話したことを書き留めるために手を使う。
そんなふうに解釈できないこともない。

でも聴き手は違う。
聴く前には手を使う。
LPなりCDなりセットして、音を出すまでには、さほどでもないにしろ手を使う。
だが音を出たら、手を使うことはない。
にも関わらず聴き手というのは、なぜなのか。

「気」と「手」がいま気になっている。
関係しているように感じているからだ。

Date: 9月 10th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その2)

信号処理に関係する機能は、感覚の逸脱のアクセルとなる、ともいえる。
レベルコントロールも、音量を上げすぎと感じたら、
それは感覚の逸脱であり、レベルコントロールをすっと下げるわけだが、
感覚の逸脱ということでは音量が小さすぎるのも、感覚の逸脱といえるはずである。

音楽には、個々の楽器には適正音量があるからこそ、
上げすぎと感じるともいえる。
ならば音が小さすぎるのも、適正音量から外れているのだから、
適正音量の範囲までレベルコントロールをあげるのかといえば、
多くの場合、音量が大きいことは批判の対象となりがちなのに、
音量が小さいことはそうはならず、むしろ評価としては高くなることがある。

アクースティック蓄音器にはレベルコントロールはなかった。
レベルコントロールがつき、音量を自在に変えられるようになるのは、
電気蓄音器になってからである。

電気が蓄音器をコントロールするようになり、
レベルコントロールだけでなく、さまざまな信号処理機能が付加されていった。
フィルター、トーンコントロール、グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザー、
さらにはデジタル信号処理が加わることで、使い手がいじれる領域は拡大していっている。

感覚逸脱のアクセルは、逸脱の度合はそれぞれ違うけれど、確実に増えてきている。
怖いのは、これらを使う人が、
必ずしも感覚の逸脱のアクセルになるということを意識していないことにある。

別項で書いている「間違っている音」に関しては、その実例でもある。
最新の、それもプロフェッショナルが使う信号処理の機器を手に入れて、
あきらかに逸脱してしまっていた。

本来、これらの機器は、ブレーキとまではいえなくとも、いわば整音の機能を実現したモノである。
なのに使い手によって、反対の機能として働くことになる。

Date: 9月 9th, 2016
Cate: 柔と剛

柔の追求(その12)

ハイルドライバー(Air Motion Transformer)は原理的には同相のダイボール型である。
ADAMのAMTユニットX-ART、エラックのJET、
それ以外にもいくつかのメーカーがつくっているAMT(Air Motion Transformer)は、
ダイアフラム背面を磁気回路でふさいでしまっているため、
ダイボール特性ではなくモノポール特性としてしまっている。

ADAMにしろエラックにしろエンクロージュアのフロントバッフルにAMTユニットをとりつけている。
ESSのamt1のようにエンクロージュア上部に置いた形であればダイボール特性をいかせるが、
エンクロージュアをもつのであればそうもいかないし、
ダイアフラム背面をふさいでいなければ、ウーファーの背圧をモロに受けてしまい、
ダイアフラムがゆすられてしまう。

それを防ぐためにも磁気回路でダイアフラム背面をふさぐか、
もしくはバックキャビティをもうけるかである。
どちらにしろダイボールではなく、モノポールになる。

ハイルドライバーに対し、ピストニックモーションのユニットは逆相のダイボール型である。
ここでユニークなのは、インフィニティのスピーカーシステムである。

インフィニティは1980年ごろ、ラインナップを一新して、
中高域にEMIM、EMITと呼ばれる独自のユニットを採用するようになった。

インフィニティのこの時代のシステムがユニークなのは、
EMITをシステムの背面にも取りつけている点である。

フラッグシップモデルのIRSは前面にEMITを24、背面に12取りつけている。
普及クラスのReference Standard 4.5では前面に3、背面に1となっている。

EMITは5kHz以上を受け持っている。
つまり5kHz以上の帯域はダイボール特性であり、しかも同相のダイボールである。

Date: 9月 9th, 2016
Cate: 柔と剛

柔の追求(その11)

ステレオサウンド 72号の特集「いま、聴きたい、聴かせたい、とっておきの音」で、
朝沼予史宏氏はアクースタットのModel 1+1のところで、こう書かれている。
     *
 70年代中期以降、米国のハイエンドのオーディオシーンは静電型をはじめとするダイボール型スピーカーが牽引してきた感があるが、アクースタットの占める位置は実に興味深い。
     *
ダイボール(dipole)型と呼ばれるスピーカーは、前面と後面に等しく音を放射する。
厳密にいえばQUADのESLの前面と後面の音は等しいとはいえない。
実際のESLを分解してみれば、すぐにわかることである。

それでもコーン型ユニットの後面の音をエンクロージュアで囲ってしまったり、
ドーム型、ホーン型といった方式と比較すれば、QUADのESLも充分ダイボール型といえる。

確かにアメリカでは1970年代中期以降、マグネパンも登場しているし、
インフィニティもこのころはトゥイーターにウォルッシュ型を使い、
水平方向の無指向性を確保している。
ハイルドライバーのオリジネーターといえるESSのamt1もトゥイーターはダイボール型である。

1980年代にはいり、オールリボン型のアポジーが登場する。
このスピーカーもダイボール型である。

ただしリボン型トゥイーターの場合、多くは磁気回路でダイアフラムの背面をふさいでいるため、
ダイボール型にはなっていないものも多い。
パイオニア、デッカ、ピラミッドのリボン型、テクニクスのリーフ型がそうである。

ダイボール型が音場感豊かな音聴かせてくれる──、
そう思いこんでいる人はけっこういるようだ。
そういう人たちの中には、音場感の豊かさと音場再現を混同している人も少なくない。
私はそう感じることがけっこうある。

ダイボール型が得意とするのは、音場感なのか音場なのか。
これについては、あえてここでは述べない。
ここで書いておきたいのは、
ダイボール型には後面の音が前面の音と同相のものと逆相のものがある、ということだ。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その4)

「耳に遠く、心に近い」音と「耳に近く、心に遠い」音。
一年ほど前に書いたことだ。

後者の「耳に近く、心に遠い」音が、とても増えてきたように感じている。
ステレオサウンドで高い評価を得ているスピーカーシステムのいくつかにも、
「耳に近く、心に遠い」音のように感じている。

どのスピーカーがそうだとは書かない。

心に近い、心に遠い──ほど、主観的なことはない。
だから私にとって、私の心に近い音が、別の人にとって心に近いとは限らないし、
反対に遠いと感じることだってあるのだから。

ひとりひとりが見極めればいいことである。
同時に、私にとって「心に遠い」音を出すスピーカーを高く評価している人もまた、
私にとって「心に遠い」人ということになっているのかもしれない。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その2)

時代の軽量化。

それは残心なき時代のことのようにも感じている。

[残心]
武道における心構え。一つの動作が終わってもなお緊張を解かないこと。剣道では打ち込んだあとの相手の反撃にそなえる心の構え、弓道では矢を射たあとその到達点を見極める心の構えをいう。
(大辞林より)

Date: 9月 8th, 2016
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(その31)

接点をこまめにクリーニングする知人がいた。
彼がオーディオ機器のセッティングを大きく変更するというから手伝ってほしい、といわれた。

セッティングの変更だから、まず接続ケーブルを外していくことから始まる。
ここで気づいたのだが、確かに接点はこまめにクリーニングされているようであるが、
RCAプラグがスポッと簡単に抜けてしまった。

スピーカーケーブルに関しても同様だった。
アンプ・リアパネルのスピーカー端子、スピーカーシステム裏側のスピーカー端子、
どちらも締めがゆるかった。
ほとんど力を入れずに緩めることができた。

これでは……、と思ってしまった。
ステレオサウンドの試聴室で、長島先生は特に接点の状態を気にされた。
接点のクリーニングはもちろん、
接点の嵌合具合に関しても,つねに気を配られていた。

RCAプラグがスポッと抜ける場合だと、
ロングノーズプライヤー(ラジオペンチ)で、RCAプラグのアース側の径を少し小さくされる。
あまり小さくしてしまうと、今度はRCAジャックにささらなくなるから、
適度に抵抗が感じられる程度にする。
何事もやりすぎは禁物である。

これでしっかりと嵌合するようになるのは、あくまでもアース側だけである。
それでもゆるいのとしっかりしている状態とでは、音に違いがあらわれる。
スピーカー端子も同じだ。
意識的に緩めた状態と締めた状態の音を比較してみれば、すぐにわかることだ。

アナログディスク再生だと、シェルリード線も交換できるし、この部分にも接点がある。
この個所の接点がゆるかったり、汚れていたりしては、
それ以降の接点をきちんとしていても、台無しである。

しかもシェルリード線の嵌合が緩いまま気にしていない人は、意外に多いようだ。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その9)

昨夜(9月7日)のaudio sharing例会に来てくれた常連のAさん。
facebookに、「いい気づきを今回もいただきました」と投稿されていた。

人によるだろうが、私は「今日はいい音でした」といわれるよりも、
Aさんのように言ってくれる方を嬉しく思う。

気づき、発見、再発見。
私がオーディオ雑誌、オーディオ評論に望んでいるものである。

何を望むのか、求めるのかは人によって違うものだ。
オーディオ雑誌、オーディオ評論に、結果(答)を求める人もいよう。

そういう人にとっては、ベストバイやステレオサウンド・グランプリといった点数づけ、
権威づけに直接つながっていく賞がおもしろい、ということになるのだろう。

いま書店に並んでいるステレオサウンド 200号。
まだ見ていないが、ステレオサウンドのサイトでは、
特集は「誌面を飾った名スピーカー200選」とある。

見てなくとも、おおよその構成は想像できる。
大きく外れてはいないという自信もある。

選ばれている200のスピーカーについて、
オーディオ評論家と呼ばれている人たちが、それぞれに担当して書いているのだろう。
以前の「世界の一流品」や「ステート・オブ・ジ・アート」と同じ構成のはずだ。

「世界の一流品」や「ステート・オブ・ジ・アート」では、そういうやり方でもいいが、
今回は200号記念特集、つまり創刊50周年の記念特集であるわけだ。

ここで私が求めたいのは、50年を俯瞰しての読みものである。
つまりオーディオの系譜、スピーカーの系譜といったことを求めたいし、読みたい。

この「系譜」について、200号では語られているのだろうか。
ないような気がする。

私がこの項のタイトルを、「ヴィソニック David 50のこと」とせずに、
「瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50)」とした意図は、そこにある。