Archive for 6月, 2016

Date: 6月 18th, 2016
Cate: 広告

広告の変遷(リンの広告)

数日前に、the re:View (in the past)に、
リンのLP12の広告をアップした。

現在のリンの輸入元の広告ではなく、その前のオーデックスの広告、
1979年のスイングジャーナルに掲載された広告である。

オーデックスの、この広告は見た記憶がなかった。
ステレオサウンドには載っていなかった、と思う。

ここで取り上げているのは、いい広告だと思うからだ。
イラストと文字だけ、モノクロのページの広告。
素人目に見映えのするカラー写真が使われているわけでもない。
しゃれたキャッチコピーがあるわけでもない。

でも、私はこれをいい広告だと思っている。
同時に、この広告だけでなく、オーデックス時代のリンLP12の広告を思い出してみると、
トータルでみても、いい広告をやっていたな、と思える。

見映えのする広告といい広告は、必ずしも同じではない。

一ヵ月ほど前、書店でステレオを手にして驚いたことがある。
パッと開いたところがちょうど目次だった。
目次の片隅に広告索引があり、その小ささに驚いた。

これだけしか広告が入っていないのか、と思ってしまうほどに少なかった。
オーディオアクセサリーも開いてみた。
こちらも目次に広告索引がある。

いまオーディオ業界は、こういう状況にあるのか、と驚き、
どちらの雑誌も、これでよくやっているな、と変なところで感心してしまう。

オーディオの広告は、はっきりと減っている。
そういう状況で、いい広告は思えるものがどれだけあるだろうか。

むしろ見映えだけの広告が増えているのではないだろうか。

Date: 6月 18th, 2016
Cate: audio wednesday, LNP2, Mark Levinson

LNP2になぜこだわるのか(その11)

アクースタットのModel 3を聴いたとき19歳だった。
欲しい、と思ったことは告白しておく。
無茶苦茶高価なスピーカーではなかったから、かなり無理すれば手が届かないということはなかった。

若かったから、そういう無茶もやれないわけでもなかった。
それでも欲しい、と思いながらも、欲しい! とまではいかなかった。

若さは馬鹿さで、突っ走ることはしなかった。
それはなぜだろう、と時折考えることもあった。

ある日、ステレオサウンドのバックナンバーを読んでいた。
32号、チューナーの特集号を読んでいた。

伊藤先生の連載「音響本道」が載っている。
32号分には「孤独・感傷・連想」とある。

タイトルの下に、こう書いてあった。
     *
孤独とは、喧噪からの逃避のことです。
孤独とは、他人からの干渉を拒絶するための手段のことです。
孤独とは、自己陶酔の極地をいいます。
孤独とは、酔心地絶妙の美酒に似て、醒心地の快さも、また格別なものです。
ですから、孤独とは極めて贅沢な趣味のことです。
     *
ここのところを読み、なにかしら感じた人は、ぜひ本文も何らかの機会に読んでほしい。

私がそうだ、これだったのか、と思ったのは、
《孤独とは、酔心地絶妙の美酒に似て、醒心地の快さも、また格別なもの》のところだ。

醒心地の快さ──、
私はアクースタットのModel 3から感じとることができなかった。
だから欲しい! とはならなかった、といまはおもう。

Date: 6月 17th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その14)

わかったつもりで留まっている(満足している)人を相手に商売をしたほうが、
つねにわかろうとしている人を相手にするよりもずっと楽である。

楽であるから、よほど気をつけていないとそちらへ転んでいる。
しかもそのことに気がつきにくい。

五年前に「オーディオにおけるジャーナリズム(その11)」を書いた。
そこで書いたことを、ここでもう一度書いておく。
     *
わかりやすさが第一、だと──、そういう文章を、昨今の、オーディオ関係の編集者は求めているのだろうか。

最新の事柄に目や耳を常に向け、得られた情報を整理して、一読して何が書いてあるのか、
ぱっとわかる文章を書くことを、オーディオ関係の書き手には求められているのだろうか。

一読しただけで、くり返し読む必要性のない、そんな「わかりやすい」文章を、
オーディオに関心を寄せている読み手は求めているのだろうか。

わかりやすさは、必ずしも善ではない。
ひとつの文章をくり返し読ませ、考えさせる力は、必要である。

わかりやすさは、無難さへと転びがちである。
転がってしまった文章は、物足りなく、個性の発揮が感じられない。

わかりやすさは、安易な結論(めいたもの)とくっつきたがる。
問いかけのない文章に、答えは存在しない。求めようともしない。
     *
けれど、いまのオーディオ雑誌は、あきからにこうである。
わかったつもりの人を相手にした誌面づくりとしか思えない。

そんな誌面づくりをしているうちに、作り手側も、いつしかわかったつもりの域で留まっている。

Date: 6月 17th, 2016
Cate: Marantz, Model 7

マランツ Model 7はオープンソースなのか(その3)

ウィリアムソンアンプはイギリスから登場した。
ほぼ同時代にアメリカからはオルソンアンプが登場している。

向うを張る、という表現があるが、
オルソンアンプはまさしくウィリアムソンアンプの向うを張る、といえるパワーアンプである。

オルソンアンプはRCAのスピーカーLC1による生演奏すり替え実験に使われていることでも知られている。
ウィリアムソンアンプとは、違いはどこにあるのか。
似ているところもある。
位相反転はどちらもP-K分割である。
出力段はどちらも三極管接続である。

電圧増幅段にはどちらも6J5と6SN7が指定されている。

けれど決定的に違うのは、オルソンアンプは無帰還アンプであるということ。
三極管接続した6F6を四本使ったパラレルプッシュプルで、出力は5W。

ここもウィリアムソンアンプと違うところである。
出力段のバイアスも違う。ウィリアムソンアンプは固定バイアス、オルソンアンプは自己バイアス。
よってオルソンアンプにはDCバランスの調整もない。

電源部もウィリアムソンアンプはコンデンサー入力のチョークコイル使用に対して、
オルソンアンプはチョークコイルを省いている。

ウィリアムソンアンプの追試・実験は当時の日本では困難であったが、
オルソンアンプはそうではないように、一見思える。
出力トランスの問題もないし、チョークコイルも不要だし、
アンプ製作にかかるコストも負担が少ないオルソンアンプはすんなり作れたか、というと、
どうでもそうではなかったらしい。

まず電源部。
オルソンアンプは450WV・50μFのコンデンサーを使っている。
チョークコイルを省いているための、この容量であるわけだが、
当時の日本製の電界コンデンサーで、
この規格のものとなると入手困難か非常に高くつくものであったらしい。

それだけでなく出力段の6F6の使い方も、
アメリカ製の6F6の使用を前提としているため、
日本製の6F6を使ってオルソンアンプをそのまま作ってしまうと、
最大定格以上のプレート電圧がかかってしまうため、わずか数日で6F6がダメになってしまう、とのこと。

RCAの6F6を使えば問題なく動作するそうだ。

いまならばオルソンアンプをそのまま再現することは特に難しいことでない。
けれどウィリアムソンアンプ、オルソンアンプが発表された1950年ごろの日本は、そうではなかった。

Date: 6月 17th, 2016
Cate: 境界線

境界線(その12)

コントロールアンプとパッシヴ型フェーダーとを、
同じに捉える、同じに位置づける人もいようが、
境界線について考えれば考えるほど、
コントロールアンプとパッシヴ型フェーダーをそうは考えられない。

その10)で、コントロールアンプの領域について書いた。
私が考えるコントロールアンプの領域は、
コントロールアンプに接続されるケーブルすべてを含めて、である。

同時にフェーダーに関しては、減衰量をもつ(自由に可変できる)ケーブルとして考えられるわけだから、
ケーブル+フェーダー+ケーブルという、ひと括りの存在として考えられる。

そう考えた場合、CDプレーヤーとパワーアンプ間にフェーダーがあるとすれば、
CDプレーヤーとパワーアンプ間のケーブル+フェーダー+ケーブルは、
CDプレーヤーに属するものであり、それはCDプレーヤーの領域と考える。

ここでコントロールアンプがオーディオの系にある場合とそうでない場合の境界線が違ってくる。
話を簡単にするためにプログラムソースとしてCDプレーヤーのみを想定する。

コントロールアンプがあれば、つまりオーディオの系における中心として捉えれば、
境界線はCDプレーヤーとコントロールアンプ間、コントロールアンプとパワーアンプ間、
パワーアンプとスピーカー間との三つにあると考える。

これがパッシヴ型フェーダーとなると、CDプレーヤーとパワーアンプ間、
パワーアンプとスピーカー間の二つになってしまう。

それだけでなく(その10)を読んでいただきたいのだが、
パッシヴ型フェーダーでは、
フェーダーを含めてパワーアンプに接続されるケーブルまでがCDプレーヤーの領域である。

コントロールアンプの場合は、CDプレーヤーとコントロールアンプ間のケーブルは、
コントロールアンプの領域と考えているわけだから、
境界線の数だけでなく、その位置もコントロールアンプとパッシヴ型フェーダーとでは違ってくる。

Date: 6月 17th, 2016
Cate: Marantz, Model 7

マランツ Model 7はオープンソースなのか(その2)

オーディオ機器の中で、オープンソースに成りえるのは、やはりアンプであろう。
スピーカーシステムだとエンクロージュアは木工を得意とする人ならば、
同等かそれ以上のモノをつくれる。

けれどスピーカーユニットはそうはいかない。
細かな仕様まで公開されていたとしても、
個人がその仕様書を見て、同じユニットをつくれるかというと、そうとうに困難である。

フレームはどうするのか、マグネットは……。
振動板は……、そんなことを考えてみると、
スピーカーのオープンソースは難しい、といえるし、
アンプの方がオープンソースに向いている、ともいえる。

ラジオ技術の1949年3月号に、ウィリアムソンアンプの記事が載っている。
Wireless World(1947年4月号、5月号)に発表された記事を元にしたものである。

KT66の三極管接続を出力段に使いながらも、NFBをかけている。
しかもかなりNFB量(20dB)は多いものだった。

記事には回路図やシャーシーに関するだけでなく、出力トランスの仕様まで出ていたそうだ。
いいかげんな出力トランスでは、ウィリアムソンアンプなみのNFBはかけられない。
実際のウィリアムソンアンプにはパートリッジ製が使われていたそうだ。

日本には、その頃ウィリアムソンに使える出力トランスはなかった、と聞いている。
オーディオフェアの第一回開催時に、
山岸無線というメーカーがウィリアムソンアンプ用のトランスを展示しているが、
実はケースだけであり、中身はなかったそうである。

この時代、日本ではウィリアムソンアンプの追試をやろうとしても無理だった。
管球式パワーアンプでは、出力トランスがネックになることがある。

もうひとつの例を挙げれば、マッキントッシュの管球式パワーアンプがある。
当時すでに日本にもマッキントッシュのアンプの情報は入ってきていて、
ずいぶんマッキントッシュ型の出力トランスの試作は行われた、と聞いている。
しかしレアショートの問題があって、同等のトランスはつくれなかった、そうだ。

この話はよく聞いている。
そのころの日本のトランスは絶縁材ひとつとっても、十分な性能・品質でなかった、と。

Date: 6月 16th, 2016
Cate: 型番

型番の読み方

オーディオ機器の型番が単語であれば、読み方に迷うことはないが、実際にはそうでもない。
オーディオ機器の型番はたいていはアルファベットと数字の組合せであるから、
アルファベットの部分はいいが、数字の部分をどう読むのか。人によって違ってくる。

マランツのModel 7をモデル・ナナと読む人はあまりいない。
ほとんどの人がモデル・セブンという。
このへんはまだいい。

JBLの4343となると、どうだろうか。
私はヨン・サン・ヨン・サンと読んでいる。
でも中にはヨンセンサンビャクヨンジュウサンと読む人もいる。
どちらが正しいか、ということはいえない。

4343はアメリカの製品だから、アメリカでの発音が正しい、ということになる。
4343をJBLの人たちはどう発音していたのか。
いまになって、きちんと確認しておけばよかった、と後悔している。

おそらくだが、43・43、つまりforty-three forty-threeではないかと思う。
4350はforty-three fiftyになるはずだ。

その4350を日本語だとヨン・サン・ゴ・マルと私は読む。
ヨン・サン・ゴ・ゼロでもいいわけだが、ヨン・サン・ゴ・マルである。
私のまわりでも、ヨン・サン・ゴ・マルの人が多い。

けれどこれが同じJBLの075になると、ゼロ・ナナ・ゴであって、マル・ナナ・ゴの人は、
少なくとも私のまわりにはいない。

2405は、ニィ・ヨン・ゼロ・ゴだが、ニィ・ヨン・マル・ゴの人もいる。
D130はどうか。
ディ・イチ・サン・ゼロかディ・イチ・サン・マルかというと、
私はディ・ヒャクサンジュウである。

175、375はイチ・ナナ・ゴ、サン・ナナ・ゴなのに、D130に関してはヒャクサンジュウなのだ。

私が大好きなスピーカーであるロジャースのPM510。
これはピー・エム・ファイブ・テンが正しい。
ステレオサウンド 56号、瀬川先生がそう書かれている。

Date: 6月 16th, 2016
Cate: Marantz, Model 7

マランツ Model 7はオープンソースなのか(その1)

私が読みはじめたころの無線と実験には、
毎号、国内外のオーディオ機器の回路図が載っていた。

それ以外にも、オーディオ雑誌には、
過去のオーディオ機器の回路図が載っていることはけっこうあった。

有名なところではマランツのModel 7とマッキントッシュのC22。
同時代の、管球式コントロールアンプとしてもっとも知られる存在の二台は、
フォノイコライザーの回路が対照的ともいえる。

技術解説の記事、コピー製作の記事などで、
Model 7、C22の回路図はたびたび登場していた。
トランジスターアンプでも、JBLのSG520、SA600などの回路図も、割と載っていた方だ。

ある時期から、メーカー製のオーディオ機器の回路図が載る記事は減ってきた。
いまはどうか、というと、インターネットの普及により、
過去の製品に限れば、回路図だけでなくサービスマニュアルも公式、非公式で公開されている。
探すのにほとんど苦労はいらない、といえる状況になってきている。

サービスマニュアルとなると、
回路図だけでなくシャーシー構造、調整の仕方など、詳細な情報が載っている。
QUADの405のサービスマニュアルを見ると、405は小改良が加えられている、といわれてきたことが、
はっきりとわかる。
405から405-2になるまでにもいくつかのヴァージョンがある。

自分が気に入っているオーディオ機器のサービスマニュアルは、非常に勉強になる。
便利な時代である。

同時に、そういったサービスマニュアルを手にして見ていると、
これはオーディオのオープンソースといえるのだろうか、と考えてしまう。

オープンソース(open source)は、コンピューター関係から来ているわけで、
言葉通りであれば、ソースコードを公開する、という意味になる。

ソースコードは、オーディオではいわゆる回路図である。
オーディオ機器は回路図だけではまったく同じモノがつくれるわけではない。
ならばオーディオの世界では回路図が公開され、
細かな仕様まで公開されているとなると、オープンソースといえるのだろうか。

例えばマランツのModel 7ほど、オーディオ雑誌で取り上げられているアンプはない。
回路図の掲載回数においてもそうだし、Model 7の技術解説記事も多い。
日本マランツは1978年にModel 7とModel 9のキットを出している。
Model 7KとModel 9Kはトータルで80万円という、キットとしては最も高価なモノだった。

これに製作のコストがかかる。
目に見えるコストとそうでないコストがかかるわけで、その意味でも決してお買得な買物ではなかった。
それでもModel 7KとModel 9Kが存在していたということは、
オーディオ機器のオープンソースということを考えるにあたって、重要なことのように思える。

Date: 6月 16th, 2016
Cate: audio wednesday, LNP2, Mark Levinson

LNP2になぜこだわるのか(その10)

ステレオサウンド別冊 Sound Connoisseur(サウンドコニサー)で、
黒田先生は”Friday Night In San Francisco”について、こう語られている。
     *
このレコードの聴こえ方というのも凄かった。演奏途中であれほど拍手や会場ノイズが絡んでいたとは思いませんでしたからね。拍手は演奏が終って最後に聴こえてくるだけかと思っていたのですが、レコードに針を降ろしたとたんに、会場のざわめく響きがパッと眼の前一杯に広がって、がやがやした感じの中から、ギターの音が弾丸のごとく左右のスピーカー間を飛び交う。このスペクタキュラスなライヴの感じというのは、うちの4343からは聴きとりにくいですね。
     *
まさしく、この通りの音がアクースタットのコンデンサー型スピーカーから鳴ってきた。
《会場のざわめく響き》が拡がる。
もうこの時点で耳が奪われる。
そのざわめきの中から、ギターの音が、まさしく《弾丸のごとく》飛び交う。

私は黒田先生とは逆にアクースタットで聴いた後に、JBLのスピーカーで聴いた。
確かにスペクタキュラスな感じは、聴きとりにくかった。

アクースタットの音は、新しい時代の音だ、といえた。
では、全面的にJBLのスピーカーよりも優れているのかといえば、そうではない。
いつの時代も、どのオーディオ機器であれ、すべての点で優れている、ということはまずありえない。

アクースタットの音は、黒田先生も指摘されているように、
かなり内向きな音である。
それこそ自分の臍ばかりを見つめて聴いている──、
そんなふうになってしまいそうな音である。

いわゆるコンデンサー型スピーカーというイメージにつきまといがちな、
パーカッシヴな音への反応の苦手さ、ということはアクースタットからはほとんど感じられなかった。

けれど《三人のプレーヤーの指先からとびだす鉄砲玉のような、鋭く力にみちた音》かというと、
ここには疑問符がつかないわけではない。

黒田先生は「コンポーネントステレオの世界 ’82」で、
パコ・デ・ルシアがきわだってすばらしく、
ジョン・マクラフリンはちょっと弱いかな、と書かれているが、
その後、このディスクを手に入れて自分で鳴らしてみると、
アクースタットでの、あの時の音は、パコ・デ・ルシアの音がちょっと弱いかな、
と思わせてしまうところがあったことに気がつく。

順番が変るわけではないから、
ジョン・マクラフリンはちょっと弱いかな、が、もう少し弱くなる。

こんなことを書いているが、
アクースタットで初めて聴いた”Friday Night In San Francisco”の音は、
私にとって、このディスクの鳴らし方のひとつのリファレンスになっている。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その3)

別項で、気が違うからこその「気違い」と書いた。
わかったつもりで留まらず、わかろうと進んでいくのが、結局はマニアということだ。

気が違うからこそマニアであり、
その「気」は、いつしか「鬼(き)」となっていくのではないだろうか。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その13)

ここまで書いてきて思い出すことがある。
「五味オーディオ教室」にこう書いてある。
     *
 よくステレオ雑誌でヒアリング・テストと称して、さまざまな聴き比べをやっている。その結果、AはBより断然優秀だなどとまことしやかに書かれているが、うかつに信じてはならない。少なくとも私は、もうそういうものを参考にしようとは思わない。
 あるステレオ・メーカーの音響技術所長が、私に言ったことがあった。
「われわれのつくるキカイは、畢竟は売れねばなりません。商業ベースに乗せねばならない。百貨店や、電気製品の小売店には、各社のステレオ装置が並べられている。そこで、お客さんは聴き比べをやる。そうして、よくきこえたと思える音を買う。当然な話です。でもそうすると、聴き比べたときによくきこえるような、そんな音のつくり方をする必要があるのです。
 人間の耳というのは、その時々の条件にひじょうに左右されやすい。他社のキカイが鳴って、つぎにわが社の音が鳴ったときに、他社よりよい音にきこえるということ(むろんかけるレコードにもよりますが)は、かならずしも音質自体が優れているからではない場合が多いのです。ときには、レンジを狭くしたほうが音がイキイキときこえる場合があります。自社の製品を売るためには、あの騒々しい百貨店やステレオ屋さんの店頭で、しかも他社の音が鳴ったあとで、美しく感じられねばならないのです。いわば、家庭におさまるまでが勝負です。さまざまな高級品を自家に持ち込んで比較のできる五味さんのような人は、限られています。あなたはキチガイだ。キチガイ相手にショーバイはできませんよ」
 要するに、聴き比べほど、即座に答が出ているようでじつは、頼りにならぬ識別法はない、ということだろう。
 テストで比較できるのは、音の差なのである。和ではない。だが、和を抜きにして、私たちの耳は、音の美を享受できない。ヒアリング・テストを私が信じない理由がここにある。
     *
あるステレオ・メーカーの音響技術所長の
「畢竟は売れねばなりません。商業ベースに乗せねばならない」は、そうであろう。
商売であるのだから、売れて利益が出ないことには、あとが続かない。
商売であれば、できれば効率よく稼ぎたい、とも思うだろう。

だとしたら、誰を相手にすれば効率よく商売ができるのか、となると、
いうまでもなく「わかったつもり」の人相手である。

あるステレオ・メーカーの音響技術所長はだから、
五味先生のことを「あなたはキチガイだ。キチガイ相手にショーバイはできませんよ」という。

キチガイは気違い、と書く。
気が違う人である。
この意味でなら、五味先生は確かに「気違い」といえる。

五味先生は自身のことを
「私はキカイの専門家ではないし、音楽家でもない。私自身、迷える羊だ」と書かれている。
五味先生は、わかったつもりの人ではない。

だから、私にとってはわかったつもりの人と五味先生とでは、気が違う、ということになる。
五味先生はわかったつもりのところで留まっていない。

私もわかったつもりのところで留まる気は毛頭ない。
そのことで気違いと呼ばれるのならば、なんら気にしない。
むしろ誇らしく思う。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その12)

わかったつもりの人がやらかすことは、他にもある。
とあるオーディオ店でのことだ。

どういう店なのか、少しでも書くとすぐにでも特定されてしまうそうなだけに、
店に関してはこれ以上書かないが、
そこでの試聴会に参加した人から直接話を聞いている。

そこであるスピーカー(4ウェイのマルチアンプシステム)が鳴らされた。
私にこの話をしてくれた人も、そのスピーカーを鳴らしている人である。
だからこそ、音が出た瞬間に、片チャンネルのミッドバスが逆相になっていることがわかった。

その人は、そのことを指摘した。
けれどその店の人は、そんなことはない、と確認もせずにそのまま試聴をすすめていったそうだ。
結局、最後ではミッドバスが片チャンネルのみ逆相だということがはっきりした、とのこと。

誰にでも間違いはあるのだから、指摘された時点で確かめればいいことだ、と思う。
けれどそのオーディオ店の人は、それをやらなかった。
プライドがそれを許さなかったのか。

私は、その同じところで、左右チャンネルが反対に接続されている音を聴いたことがある。
左のスピーカーから右チャンネルの音が鳴ってきた。
これは、ミッドバスが片チャンネル逆相よりもすぐにわかることである。

けれど、このスピーカーは、
それまでずっと左右チャンネルが反対に接続されたまま鳴らされていた、ということだった。
笑い話というよりも、もうおそろしい話というべきである。

ペアで数百万円するスピーカーが、そんな状態で鳴らされている。
このスピーカーの輸入元の人たちが知ったら、どんな気持になるだろうか。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: audio wednesday, LNP2, Mark Levinson

LNP2になぜこだわるのか(その9)

”Friday Night In San Francisco”のことを、まったく知らないわけではなかった。
1981年12月に出たステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’82」の巻末に、
「オーディオ・ファンに捧げるNEW DISC GUIDE」というページがある。

黒田恭一、歌崎和彦、坂清也、安原顕、行方洋一の五氏が、
1981年に発売された新譜レコードから、演奏だけでなく、録音・音質の優れたものを選ぶ、という記事。

黒田先生が挙げられていたのは、まずカラヤンの「パルジファル」。
そうだろうと思いながら読んだ。
ステレオサウンド 59号でも、この「パルジファル」について書かれていたからだ。

この他に六枚のディスクを挙げられていて、
その中に”Friday Night In San Francisco”があった。
     *
「スーパー・ギター・トリオ・ライヴ」(CBSソニー30AP2136)をとりあげておこう。ノーマルプライスの盤(25AP2035)でもわるくないが、とりわけ音の力という点で、やはりひとあじちがう。一応500円の差はあるようである。それで「マスターサウンド」シリーズの方のレコードをあげておく。
 アル・ディ・メオラ、パコ・デ・ルシア、それにジョン・マクラフリンがひいている、ライヴ・レコーディングによるギター・バトルである。ライヴ・レコーディングならではの雰囲気を伝え、しかも三人のプレーヤーの指先からとびだす鉄砲玉のような、鋭く力にみちた音がみごとにとらえられている。パコ・デ・ルシアがきわだってすばらしく、アル・ディ・メオラがそれにつづき、ジョン・マクラフリンはちょっと弱いかなといった印象である。
 冒頭の「地中海の舞踏/広い河」などは、きいていると、しらずしらずのうちに身体から汗がにじみでてくるといった感じである。このトラックはパコ・デ・ルシアとアル・ディ・メオラによって演奏されているが、まさに火花をちらすようなと形容されてしかるべき快演である。音楽もいいし、音もいい。最近は、とかくむしゃくしゃしたときにはきまって、このレコードをとりだしてかけることにしている。
     *
読んではいたけれど、その日まで”Friday Night In San Francisco”のことは忘れていた。
アクースタットのModel 3から鳴ってきたパコ・デ・ルシアとアル・ディ・メオラ、
このふたりのギターの音に衝撃を受けて、聴き終ったころに、そういえばと思い出していた。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: audio wednesday

第66回audio sharing例会のお知らせ(今年前半をふりかえって)

7月のaudio sharing例会は、6日(水曜日)です。

今年は1月、3月、4月、5月、6月と音を出してきた。
途中でセッティングを変えたり、チューニングを施したりもした。
音を聴いている人が先入観をもたないように、ということで、
どんなことをやっているのかは詳しくは説明しなかった。

なので聴いていた人たちにはやや不親切な内容だった、とも思っている。
今回は今年行なった五回の音出しで何をやってきたのかを詳細に話す予定である。

セッティング、チューニングの参考になれば、と考えている。
今回は音なし、である。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 6月 14th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ステレオサウンド 61号・その2)

ステレオサウンド 42号と43号には、
「ステレオサウンド創刊10周年記念オーディオ論文入選発表」という記事がある。

ステレオサウンドが創刊10周年を記念して、オーディオをテーマとした論文を募集したもので、
締切日までに57篇の応募があった、とある。

優秀論文として3篇、佳作として5篇が選ばれていて、
42号と43号に優秀論文が掲載されている。
最優秀論文は該当作品がなかった、ともある。

審査には第一次がステレオサウンド編集部、
第二次が井上卓也、岡俊雄、黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹、坂清也、山中敬三、
ステレオサウンド編集長の八氏によって行われている。

ステレオサウンド 59号の158ページには、
創刊15周年を記念しての論文を募集している。
ここではテーマが四つ挙げられている。
 ①筆者への手紙
 ②わが愛するコンポーネント
 ③MY SOUND GRAPHITY
 ④五味康祐論

締切りは1981年の9月1日、12月1日、1982年の3月1日、6月1日の四回で、
それぞれの応募作の中から入選作と佳作を選び、一年間を通しての入賞作の中から、
検出したものには特選賞が与えられる、というものだった。
賞金もついていた。
入選作に10万円、佳作に3万円で、特選賞には30万円だった。

読者の論文募集は、59号が最後だった(と記憶している)。
創刊20周年での募集はなかった。それ以降もなかった。
次号でステレオサウンドは創刊50周年を迎えるが、読者の論文募集はない。

このことをどう捉えるか。
このことだけで考えるのか、他のことと関連付けて考えるのかによっても変ってくる。
ステレオサウンドをどう捉えているかによってもそうだし、
それ以上に、創刊20周年時には瀬川先生はもうおられなかったことが強く関係している。
私は、いまそう考えている。