Archive for 6月, 2015

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: 十牛図

十牛図(その3)

オーディオマニアである以上、十牛図の牛を「音」として、
それが無理なことであっても、そうとらえてみる。

「音」であるとすれば、
その音は、それまでの人生で得たものによる「音」なのか、
失ってきたものによる「音」なのか、
得たものと失ってきたものとが均衡している「音」なのか。

どれがしあわせなことなのか、どれがいい音なのかはわからない。
ふりかえり、自分の音が、どの「音」なのかがわかる日はくればいい、と思う。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: 「オーディオ」考

潰えさろうとするものの所在(その1)

ずっと以前は、ハイエンドという言葉の使われ方は違っていた。

ハイエンドまで素直に伸びた音といった使われ方だった。
つまり高域の上限という意味だった。
だからローエンドも使われていた。

いまハイエンドといえば、そういう意味ではなく、
非常に高額な、という意味である。
辞書にも、同種の製品の中で最高の品質や価格のもの、とある。
大辞林には例として「ハイエンドのオーディオ製品」とあるくらいだ。

英語のhigh-endをひくと、高級な、高級顧客向けの〈商品·商店〉とあるから、
いまの使われ方が正しいわけだが、
私は、このハイエンドオーディオという表現がイヤである。

このハイエンドオーディオを頻繁に使う人も嫌いになってしまうほど、
ハイエンドオーディオの使われ方には、この時代のいやらしさを感じとれるからなのだろうか。

ハイエンドオーディオとは、いったいどのくらい高級(高額)であれば、そう呼べるのか。
まだハイエンドが高域の上限として使われていたころは、
スピーカーならば一本100万円をこえるモノであれば、誰もがハイエンドオーディオだと認めていた。

いまは一本100万円の価格が付けられたスピーカーシステムを、
どのくらいの人がハイエンドと認めるのだろうか。

100万円のスピーカーはミドルレンジだよ、という人も少なくないと思う。
そう言う人たちがもっと高価なスピーカーを使っていなくとも、
いまの、一部のオーディオ機器の価格は高くなりすぎている、とはっきりといえる。

以前(ステレオサウンド 56号)で、
トーレンスのリファレンスの記事の最後に、瀬川先生はこう書かれていた。
     *
 であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
     *
考え込むか、唸るか、へらへらと笑うか……。
おそろしいことになったものだ、というしかない。

こんなふうに書いていくと、ハイエンドオーディオそのものを否定するのか、と受けとめられるかもしれない。
けれど、ここで書いていこうと考えているのは、そんなことではない。

おそろしいことになっているオーディオ機器の価格の上昇、
そのことによって失われていったものがあると考えているし、
その失われていったものは、オーディオ雑誌からも見出せなくなっているし、
オーディオ評論家からも感じられなっている──、
そんなふうにおもえてくる。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その10)

つきあいの長い音は、同時に聴き手の感覚を調整していく音でもある。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その9)

つきあいの長い音には、聴き手の感覚に合せることのできる柔軟性がある。

Date: 6月 21st, 2015
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位について書いていて)

音の品位について書いている。
音の品位を言葉で表していくことは確かに難しい。

例えば試聴記に「品位」がどの程度出てきて、
どういう意味で使われているのかを探ろうとしても、
さまざまな試聴記を読めば読むほど、わからなくなってしまうという人がいても不思議ではないし、
実のところ、よくわからないという人の方が多いのかも知れない、とも思えてくる。

私のもうひとつのブログ、the re:View (in the past)で、「品位」で検索してみると、
かなりの数が表示される。

文字だけで音の品位について理解しようと思っても、それはそうとうに困難というか無理なことではないのか、
そう思えてくる。

Date: 6月 21st, 2015
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位・その4)

ステレオサウンド60号で瀬川先生が発言された「何か」については、
菅野先生なりに、JBLの4345とマッキントッシュのXRT20の違いについて語られている。
長くなるので引用は控えておくが、ひとことで言えば、音の輪郭のシャープさである。
ただそれもはっきりとわかる違いとしてではなく、
《ほんの紙一重の違いの輪郭の鮮かさの部分》としてである。

瀬川先生も、このことにはほぼ同意されている。
     *
瀬川 ぼくが口に出すとオーバーになりかねないと言ったところは、ほぼ菅野さんのいうところと似ていますね。確かに輪郭のシャープさ、そこでしょう。
 ぼくに言わせれば、そのシャープさから生まれてくる一種の輝き──同じことかもしれないんですが──それがJBLをキラッと魅力的に鳴らす部分なんですね。それがあった方がいいとかない方がいいとかいう問題じゃない。JBLはあくまでもそういう音なんだし、マッキントッシュはあくまでもあの音なんで、そこがとにかく違いだと。
     *
「何か」のひとつは、音の輪郭のシャープさで間違いない。
けれど、あくまでも「何か」のひとつであって、すべてではない。
他の「何か」とはについて、瀬川先生の発言を拾ってみよう。
     *
瀬川 それから、菅野さんが指摘された弦、木管、これは、4345のところでも言ったように、弦のウッドの音が4345まで良くなって、やはりそれ以上のスピーカーがあるということを思い知らされた。ただ、ぼくにとって、特に弦といっても室内楽の、比較的インティメイトな弦の鳴り方、あるいは木管でもそこに管が加わったりクラリネットの五重奏とか、要するにオーケストラまでいったってそれは構わない、とにかく弦なり木管のインティメートな温かい感じね──なめらかな奥行きを伴った──それは、ぼくはマッキントッシュじゃ不満なんですよ。どっちみちぼくはアメリカのスピーカーじゃその辺が鳴らないという偏見──偏見とはっきり言っておきますが──を持っていますので。ぼくのイメージの中ではそれはイギリス(ないしはヨーロッパ)のスピーカーでなくては鳴らせない音なのです。どうせJBLで鳴らせない音なら、マッキントッシュへいくよりは海を渡っちゃおうという気がする。
     *
この弦の音。
ここにマッキントッシュのXRT20に対する菅野先生と瀬川先生の評価の違いがある。
後少しステレオサウンド 60号から世が和戦瀬戸菅野先生の発言を引用しておく。
     *
瀬川 あなたの家で「これ、弦がいいんだ」とヴァイオリンを聴かせてくれましたね。ところが、ぼくはやっぱりあのヴァイオリンの音はだめなんだ。
菅野 ぼくがいままで、ぼくの装置だけじゃない、常にずうっとJBLを好きでいろいろなところで聴いてきているでしょう。しかし、どうしてもJBLではあそこへはいかないわけ。
瀬川 JBLじゃ絶対いかない。だから、ぼくはそれがJBLで出ると言っているのじゃなくて、いっそのことヨーロッパへいってしまおうと思う。
菅野 確かにヨーロッパにはマッキントッシュに近いものがあるね(笑い)。それと同時に、ヨーロッパのスピーカーで不満なのは、ぼくは絶対的にジャズ、ロック、フュージョンが十全に鳴らせないことなんだ。ところが、マッキントッシュは、一台でその両方が出せる。これが、総合的にマッキントッシュに点数がたくさんついちゃう原因なんですね。
     *
菅野先生と瀬川先生の、音の品位に関して違っているところが、まさにここである。

Date: 6月 21st, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(違う意味での原音・その1)

オーディオの世界で原音といえば、
その定義は生の音、もしくはマイクロフォンがとらえた音、マスターテープに記録された音、
さらにはアナログディスクやCDとなって聴き手に提供されるメディアにおさめられた音、
こんなふうになる。

色の世界で原色といえば、辞書には三つの意味が書かれている。
①混合することによって最も広い範囲の色をつくり出せるように選んだ基本的な色。絵の具では赤紫(マゼンダ)・青緑(シアン)・黄,光では赤・緑・青。
②色合いのはっきりした強い色。まじり気のない色。刺激的な,派手な色。
③絵画や写真の複製で,もとの色。

つまりオーディオの世界での原音は、三番目の意味の原色にあたる。
ならば一番目、二番目の意味の原音はあるのだろうか。
あるとしたら、それはどういう音なのだろうか。

例えばUREIの813というモニタースピーカーがある。
ステレオサウンド 46号で、その存在を知った。

UREI 813のスタイルは、少なくとも私には初めて見るスタイルであった。
ウーファーが上に、中高域のユニットが下にあるのはJBLの4311もそうなのだが、
UREI 813は迫力が違った。

音はどうだったのか。
瀬川先生は46号の試聴記の冒頭に、《永いこと忘れかけていた音、実にユニークな音》と書かれている。
そしてこうも書かれている。
     *
たとえばブラームスのP協のスケールの雄大な独特な人工的な響き。アメリカのスピーカーでしか鳴らすことのできない豪華で華麗な音の饗宴。そしてラヴェル。「パリのアメリカ人」ではなくて「パリジャン・イン・アメリカ」とでも言いたい、まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ。だがそれを不自然と言いきってしまうには、たとえばバッハのV協のフランチェスカッティのヴァイオリンで、自分でヴァイオリンを弾くときのようなあの耳もとで鳴る胴鳴りの生々しさ。このスピーカーにはそうしたリアルな部分がある。アルゲリチのピアノのタッチなど、箱の共鳴音が皆無とはいえず、ユニット自体も中域がかなり張り出していながらも、しかしグランドピアノの打鍵音のビインと伸びきる響きの生々しさに、一種の快感をさえおぼえて思わず口もとがほころんだりする。だが何といっても、クラシックのオーケストラや室内楽を、ことに弦の繊細な美しさを、しみじみ聴こうという気持にはとうていなれない。何しろ音がいかにも楽天的で享楽的であっけらかんとしている。スペンドールの枯淡の境地とはまるで正反対だ。
     *
《「パリのアメリカ人」ではなくて「パリジャン・イン・アメリカ」》、
《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》、
こういう音は、二番目の意味の原色的原音といえるのではないのか。

Date: 6月 20th, 2015
Cate: JBL, Studio Monitor

JBL 4315(その3)

4315の概要がわかっても、なぜ型番が4315なのかと疑問だった。
価格的には4331よりわずかに安いだけにも関わらず、型番は4315という、
4311と同じブックシェルフを思わせる型番であるのは、なぜだろう、と。

4315のミッドハイの2105は、LE5のプロフェッショナル版であることに気づけば、答は簡単だった。
LE5は、4311のミッドレンジに採用されているユニットである。

4311もウーファーは4315と同じ12インチ口径。
つまりは4311にミッドバスを加えて4ウェイ化したモデルが4315なのではないか。
そう考えると、4315という、やや中途半端な印象の型番に納得がいく。

3ウェイの4333にミッドバスを加えたのが4341であり、その改良版が4343という捉え方もできる。
ならば4315は4311が、その開発の出発点であったと仮定してもいいのではないか。

ステレオサウンド 60号の特集の座談会で菅野先生が、JBLの4ウェイについて発言されている。
     *
 4ウェイ・システムは、確かに非常にむずかしいと思う。瀬川さんが以前「3ウェイで必ずどこか抜けてしまうところを、JBLはさすがにミッドバスで補った」という発言をされたことがあるように記憶しているんですが、卓見ですな。
     *
4315も3ウェイでどこか抜けてしまうところをミッドバスで補ったということになるのか。
そうだとしたら、この場合の3ウェイとは、4311ということになる。

抜けてしまうところを補ったからこそ、トゥイーターが2405に変更されたのではないのか。
4311のトゥイーターはコーン型のLE25。
そのままではエネルギーバランス的に不足があったのかもしれない。

とはいえ設計コンセプトは4311と4315は異る。
ネットワークをの回路図を比べてみれば、すぐにわかる。
4315のネットワークは基本的に12dB/oct減衰である。
2405のみ18dB/octとなっている。

この視点から捉えれば、4315はコンシューマーモデルのL65をベースに4ウェイ化したともみれなくはない。
どこかで以前4343と4315が並んでいる写真を見たこともある。
となると4315は4343のスケールダウン版なのか、とも思える。

はっきりと正体の掴めないところのあるスピーカーシステムともいえる4315の音は、どんなだったのか。
できれば4311、L65と比較してみたい。

いまも不思議と気になるスピーカーシステムである。

Date: 6月 19th, 2015
Cate: audio wednesday

第54回audio sharing例会のお知らせ(日本のオーディオと平面振動板スピーカー)

7月のaudio sharing例会は、1日(水曜日)です。

テーマを何にしようかと迷っていた。
いくつか候補はあった。
その中で選んだのは、1970年代の終りごろから流行となっていった平面振動板スピーカーである。

いまモニタースピーカーについて書いている中で、エスプリ(ソニー)のAPM6を取り上げている。
いま改めてAPM6を見直していると、当時は気づかなかったことがいくつも出てくる。
当然といえば当然である。

APM6が登場したころ、私は18だった。いまは52。
あのころと同じ見方しかできなかったら、バカである。

平面振動板が流行りだしたころ、
日本のメーカーはすぐに流行に飛びつく、といった批判があった。
たしかにいくつものメーカーが平面振動板スピーカーを出してきた。

だが改めて、これらの平面振動板スピーカーを見直すと、
むしろ通常のコーン型、ドーム型を使ったスピーカーよりも、
ずっとメーカーならではの特色が出ている、といえる。

コーン型ユニットならば、
振動板の材質や頂角、カーヴドコーンかストレートコーンか、エッジの種類はなにか、
そういった細かな違いはある。

それでもコーン型ユニットの基本的構造はどのメーカーも同じである。
けれど平面振動板のスピーカーは違っていた。
表から見ているだけでは、どれも平面振動板であっても、
ユニットの裏側を見れば、コーン型ユニットよりも、構造の違いがはっきりとしている。

残念なことに日本のオーディオメーカーは平面振動板をやめてしまったといえる。
もしあと10年続いていたら……、といまごろおもっている。
遅すぎるのはわかっていても、
それでもあの時代の平面振動板スピーカーと日本のオーディオについては、
きちんと捉えなおし考え直す必要がある。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 6月 19th, 2015
Cate: 「オーディオ」考

なぜオーディオマニアなのか、について(その5)

オーディオは音楽を聴く道具である──、
このことについてもきっちりと書いていこうと考えているが、
ここでは一応、オーディオは道具である、ということにしておく。

録音された音楽を聴くには、なんらかの再生装置(オーディオ)が最少限必要であり、
そこでのオーディオは道具ということになる。

道具を辞書でひくと、いくつかの意味があり、
ここでの道具とは、他の目的のための手段・方法として利用される物や人、ということになる。

別項「background…」でも書いているが、
音楽も場合によっては、道具となってしまう。

たとえばヒーリングミュージック。
音楽(ミュージック)の前に、何かをつけてしまうことで、
音楽は音楽そのものではなくなってしまうおそれが生じてくる。

モーツァルトの音楽が、バックグラウンドミュージックとして使われる。
ヒーリングミュージックとして使われる。

ここでのモーツァルトの音楽は、道具としての音楽となってしまう。

10年くらい前からか、もっと前からだったか、
日本酒の製造過程でモーツァルトの音楽を流していると、より美味しくなるとか、
牛にモーツァルトの音楽を聴かせると、肉が美味しくなるとか、
そういったことが騒がれたことがある。

ここでのモーツァルトの音楽もまた、道具としての音楽になっている。

モーツァルトの音楽が、ヒーリングミュージック、バックグラウンドミュージック、
何かを美味しくするために使われる場合には、
実演のモーツァルトが鳴らされることはまずない。
ほぼすべて何らかの再生装置になって、モーツァルトの音楽が流され、
バックグラウンドミュージックとして使われたり、ヒーリングミュージックとして使われたりする。

となると、この場合の再生装置、つまりオーディオは、
モーツァルトの音楽を道具としての音楽にするための道具ということになってしまう。

Date: 6月 19th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続・録音の現場でも)

録音の現場での、ある話を、その現場にいた人から聞いている。

クラシックの録音現場に、ある人が見学に来た。
取材でもあったようだ。
この人は、スタジオにはいってくるなり、
「このマイクロフォンのセッティングは間違っている」と言ったそうだ。

独り言で、誰にも聞こえないようにではなく、
かなりの大きな声だったらしい。

見学に来た人は、録音のプロフェッショナルではないらしい。
ただ録音のことはよく勉強している人らしい。
それにしても、である。

音も聴かずに、ただマイクロフォンのセッティングを見ただけで、
間違っていると断言したのは、
彼が理想のマイクロフォン・セッティングと考えているやり方と違っていたからでしかない。

さまざまなレコードを聴き、最良の録音と思えるレコードについて調べていく。
どういう器材を使い、どういうマイクロフォン・セッティングだったのか。
そこにある法則が見出せたとする。

特にマイクロフォン・セッティングが同じであれば、
そのマイクロフォン・セッティングが彼にとっての理想のやり方となるのは、
理解できないわけではない。

それでも音も聴かずに、ただ見ただけで、
自分が理想と考えているマイクロフォン・セッティングが違うだけで間違っている、と断言できるのは、
しかも録音の現場において、その録音を行っている人に対して聞こえるようにいってしまうのは、
呆れるを通り越して、ある意味、すごいとしかいいようがない。

彼は同じマイクロフォン・セッティングをすれば同じ音で録れると思っているのだろうか。
彼はヤーコプ・シュテンプフリの言葉をどう受けとめるのだろうか。

Date: 6月 19th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その6)

一般的なウーファーであるコーン型だと振動板の中心は奥にある。
つまり凹みがある。
大口径になればなるほど凹みは大きくなる(奥に引っ込む)傾向にある。

ドーム型は逆ドーム型のモノもあるが、大半は前面に出ている。
コーン型と反対で凸である。

ホーン型はホーンの形式による。
基本的にはホーンなので奥に長いわけだが、
音響レンズがついていると、前に張り出している

平面振動板には、当然なのだが、この凹凸がない。
それが平面振動板ユニットの、他の方式のユニットにはないメリットではあるものの、
実際にフロントバッフルにとりつけてスピーカーシステムとしてまとめてみると、
それまでの凹凸のあったスピーカーシステムを見馴れた目には、
振動板だけでなく、フロントバッフル全体も平面(平板)な印象になってしまいがちだ。

エスプリ(ソニー)のAPM8が細かな凹凸だらけのAGバッフルを採用したのは、
もちろん音質面での配慮からだろうが、
外観が平板にならないように、という意図もあったのかもしれない。

テクニクスのSB-M1の左右両端の把手も、そういう意図があるのかもしれない。
テクニクスの発表資料には、指向特性の改善に貢献している、とあるが、
果して、どれだけの効果があるのだろうか。

私がそう思ってしまうのは、SB-M1のレベルコントロールもそうだからだ。
ミッドバス、ミッドハイ、トゥイーター、それぞれ連続可変のレベルコントロールをもつ。
つまり三つのツマミを配したパネルは、フロントバッフルより奥まった位置に取りつけられている。
この部分には凹みができている。

エスプリのAPM6には、レベルコントロールはない。
このレベルコントロールの有無、その取りつけ方法。

ここからいえるのは、聴感上のS/N比に対する配慮の違いだ。

Date: 6月 18th, 2015
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その7)

数ヵ月前、友人と思われる学生ふたりが電車で話しているのが耳に入ってきた。
スマートフォンに関する話題だった。
ひとりはAndroidのスマートフォンを使っているようだった。
しかもいろいろと情報を積極的に得ているようでもあった。

もうひとりはiOS、つまりiPhoneを使っている人だった。
この人は、積極的にiOSについての情報を得ているわけではないようだった。

Androidに詳しい方が、iPhoneユーザーに自慢していたのが、そこでの会話だった。
「iPhoneでは、こういうことができないだろう」ということをくり返していた。

iPhoneユーザーは、AndroidユーザーがAndroidに詳しいほどにはiOSに詳しくないから、
何ひとつ反論できずに、ただ黙っていた。

Androidユーザーは、だからiPhoneよりもAndroidのスマートフォンが優秀だ、といいたげだった。
これと同じ話は、インターネットでも目にすることがある。

iPhoneには、こういう機能がない、Androidにはある。
だからAndroidが優秀なのだ、という。

実際に機能的に比較したら、Androidの方が多機能なのだろう。
そのことでAndroidを優秀を思う人がいるわけだ。

けれどスマートフォンのOSとしての優秀性は、機能の多さだけで決るものではない。
そんなことは明白なことだと思っていた。
けれど、どのくらいの割合なのかはわからないけれど、
多機能であることが優秀であること、と思ってしまっている人がいるのは確かだ。

多機能だから良しとする考えが、
選択肢が増えれば良し(豊かになっている)と捉えてしまうのではないか。

Date: 6月 18th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その5)

ソニーもテクニクスも、それ以前に、
型番にMonitorとつくスピーカーシステムは作ってこなかった。
それが1981年のほぼ同時期に、APM6 MonitorとSB-M1(Monitor 1)を出してきた。

APM6とSB-M1、このふたつのスピーカーシステムを比較してみると、
ソニーとテクニクスの違いが実に興味深い。

APM6はすでに書いているように2ウェイ。
SB-M1は4ウェイ。
どちらも平面振動板ユニットを全面的に採用しているが、
ソニーは角形に対してテクニクスは円型という違いがある。

どちらもアルミハニカム材を使用しているが、
ハニカムコアがソニーは均一であるのに対し、
テクニクスは扇のように、中心部はコアの密度が高く、外周にいくほどコアの間隔が広がっていく。
それから駆動方式というか構造も違っている。
こんなふうに、それぞれの違いを書いていくと、それだけでけっこうな長さになっていくので、
外観からうかがえることに絞って書いていく。

SB-M1はJBLの4343を意識しているところは、ソニーのAPM8と同じである。
4ウェイのバスレフ型で、エンクロージュアの外形寸法も、APM8とSB-M1ともに、4343とほぼ同じである。

しかもSB-M1はエンクロージュアの仕上げも4343をかなり意識している。
とはいえデザインの見事さでは4343のレベルには達していない。

SB-M1は4343を意識しているスピーカーであるから、エンクロージュアは一般的な形である。
ラウンドバッフルを採用したりしていない。

わりとのっぺりした印象のSB-M1だが、フロントバッフルの両端に把手がついている。
これがけっこう長い。
ウーファーからミッドバスまでのスパンとほぼ同じである。
これが視覚的アクセントになっているわけだが、
聴感上でもアクセントになっている。

Date: 6月 17th, 2015
Cate: 十牛図

十牛図(その2)

その1)を書いてから三年半。
十牛図の牛が何を表わしているのか。

いまも(その1)に書いたことだと思っている。
けれどこの三年半のうちに変ったこともある。
三年半前に思ったことを、別の言葉でいいかえれば、それは「限界」なのかもしれないと。