Archive for 9月, 2009

Date: 9月 16th, 2009
Cate: 黒田恭一

ステレオサウンド(黒田恭一氏のこと)

ステレオサウンド 172号に、傅さんが追悼文を書かれている。

それにしても、なぜ傅さんだけなのか。

時間の余裕はあったのだから、他の人にも依頼してほしかったと、編集部に注文をつけたくなる。
私が編集者だったら、傅さんと黛健司さんに依頼する。
黛さんこそ、黒田先生の文章にたびたび登場する「M君」「M1」で、
編集者として、ふかく黒田先生とのつきあいがあった人なのに……、と思った。

今回載っていないということは、
黛さんが、黒田先生について書かれる文章を読む機会は、もうないかもしれない。

もったいないことだと思う。

Date: 9月 15th, 2009
Cate: ショウ雑感

2008年ショウ雑感(その2・続×十八 補足)

1998年5月に、AppleからiMacが発表になった。
翌日には、個人のウェブサイトでも、あちこちで取りあげられていて、
私がみたかぎりでは、すべて絶賛だった。

G3プロセッサーを搭載して、USBの、はじめての採用と同時に、SCSIやADBなどを廃止。
たしかに内容のわりには、価格は抑えられていた。

このことも高く評価されていたが、それ以上に、絶賛されていたのはiMacのデザインについてだった。
誰も、iMacのデザインに疑問をもっている人は、少なくともネット上ではみかけなかった。

でも発表された写真をみても、
360度回転して見ることができるQuickTime VRのファイルをダウンロードして、
いろんな角度からどう見ても、変なデザインにしか見えなかった。
なぜ、多くの人が、これを褒めるのか、まったく理解できなかった。

実物を見れば、印象も変るのかもと思い、
8月の発売前に、新宿の高島屋に、実物が展示されたのを見に行った。
ガラスケースに収められたiMacを見て、やっぱり変なデザインと確信した私は、
iMacの発売日前日に、PowerBook 2400Cを購入した。

iMacの登場のころから、「かわいい」ということばが使われはじめたような気もする。

とにかく液晶ディスプレイ以前のiMacのデザインを、すこしもいいとは思っていない私は、
あきらかに少数派なのだろうが、だからといって、オーディオ機器のデザインについて、
賛同をまったく得られなくても、変に感じるものについては、きっちりと書いていく。

Date: 9月 14th, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その60)

量感というものは、あらためて考えてみると、ふしぎな面がある。

スピーカーならば、多少周波数特性のカーブと関係しているところがあるが、
それでも出しゃばった帯域において、量感が豊かというわけではない。

アンプやCDプレーヤーとなると、周波数特性的には、ほとんど差はない。
可聴帯域内は、いまやどんなローコストのアンプもフラットである。

低域の量感に富むアンプの周波数特性が、低域で盛り上がっていることはないし、
その逆の、量感に乏しいからといって、周波数特性のカーブに落ち込みがあるわけでもない。
にもかかわらず、量感の違いは、はっきりと聴きとれる。

スピーカーならば、エンクロージュアの響き(鳴り)が関係している、
アンプ関係ならば、電源の規模に関係している、という理由も、すべてではない。

電源部が充実しているアンプでも、マークレビンソンのML2Lのように、
引き締まった低域は、量感に富むという表現とは違う。
エネルギー感ともまた、量感は違うのだから。

Date: 9月 14th, 2009
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(その24)

「ステレオは飾りモノじゃないんだよ」といって、
岩崎先生は、JBLのコントロールアンプ、SG520の汚れを落とそうとはされなかった、ときいている。

中野で開かれていたジャズ喫茶でも使われていたことと、リスニングルームで喫煙されていたことで、
フロントパネルは、かなり汚れていたにもかかわらず、内部は新品同様にきれいにされていた、ともきいている。

アンプ内部にほこりがたまり、トランジスターや抵抗、コンデンサーのリード線にヤニがついたりしていては、
本来の性能(音)は発揮できない。そんな状態では、対決するなんてできない。

大音量は、そして、皮膚感覚を呼び起こすためでもあったように思う。

音を聴くのは耳だけだが、音を感じるのは耳だけではなく、からだ全体である。
五感をとぎすますためにも、皮膚感覚にうったえるだけの音量が必要だったのかもしれない。

Date: 9月 14th, 2009
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(その23)

「音に対決する」といったような息づまる聴き方──、サウンド誌No.7に、岩崎先生は、こう書かれている。

ここにも「対決」ということばが出てくる。
この項の(その1)に引用した
「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」という岩崎先生のことばがある。

対決するにあたって、岩崎先生にとってどうしても必要だったのは、
雑念を浮かべることさえ不可能な大音量であったと思う。

対決に邪魔なのは、いうまでもなく雑念である。
雑念まじりで対決しようものなら、あっけなく負ける。
そういう聴き方を岩崎先生は、ずっとされてこられたのだろう。

だから対決するような音楽ではない場合には、小さな音で聴かれたのだろう。

それでは、なぜ、岩崎先生は対決されたのか、が残る。

Date: 9月 14th, 2009
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(その22)

小さな音量で、小さい音をはっきりと聴きとるには、スピーカーに近づけば、いい。
たしか、そんなことを以前、どこかに書かれていた。

ということは、岩崎先生にとって大音量は、
小さい音(細かいところ)まではっきりと聴きたいためだけではないことがわかる。

なんのための大音量なのか、を、あらためて考えてみたい。
ステレオサウンド 38号で語られている。
「インストゥルメンタルのときは、確かに普通のひとよりも大きな音量で聴いています。かなり昔からそうです。たとえば、ジャズを聴くのだったら、15インチのスピーカーでなければ絶対にダメだと、ずいぶん昔から思っていた。」

そして38号の訪問記事のなかには、こうある。
     *
大音量で鳴らされるジャズに、しばらく耳を傾ける。いや、その音は、耳を傾けるなどという趣きではなく、ただひたすら聴いているほかにはいかなるてだてもないほどだ。しかし、雑念を浮かべることさえ不可能なその大音量ぶりは、官能的といいたいような快感をよびおこしてくれたのである。

Date: 9月 13th, 2009
Cate: ショウ雑感

2008年ショウ雑感(その2・続×十七 補足)

A100をつくりあげたエンジニアは、このパネルフェイスに満足しているのか、を知りたい。
A100の中身をつくりあげた人の感性からすれば、
あのパネルフェイスに満足しているとは、どうしても思えない。

ここから先は、満足していないと仮定した上で、勝手に書いていくことを、ことわっておく。

A100のデザインの問題点は、どこにあるのだろうか。
デザイナーに問題がある、デザイナーに責任がある、と考える人もいるだろうが、はたしてそうだろうか。
問題はそれだけだろうか。

A100は、社内のデザイナーの手によるものなのか、外部のデザイナーの仕事なのか、は知らない。
どちらにしても、デザイナーから提出されたデザインを検討し、最終的な判断した人がいるわけだ。
それが、ひとりで決めたことなのか、それとも合議制でのことなのかも、どちらでもいい。

問題は、それを製品化してしまった組織自体にある、といいたくなる。
つまり、デザインがきちんとなされていないのは、A100のパネルフェイスではなく、組織であるということだ。
組織としてのデザインがしっかりしていれば、こういうことは起こり得ないはずだ。

数年前に、エソテリックから出たA-Z1、S-Z1を思い出す。

Date: 9月 13th, 2009
Cate: ショウ雑感

2008年ショウ雑感(その2・続×十六 補足)

アンプのフロントパネルは、いわば「顔」である。
だからというわけではないが、エソテリックのA100を見ると、人の顔を連想してしまう。

ボリュウムのツマミが鼻のようだし、その上のプッシュボタンが横一列に並んでいるのは、
なんとなく目のような感じもする。
おそらく、そんな感じをうけてしまうのは、フロントパネルの両端を削っているからだろうと、思う。

ツマミ、ボタン類が少ないため、ややもすると平板的な印象のフロントパネルになりがちなだけに、
おそらくアクセントをつけるために、陰影を付けて立体的に見せたいがためにこうしたのかもしれない。
これがなんとも、コケた頬に見えてしまう。

こう見えてしまうは、私だけなのかもしれないが、いちどそう見えてしまうと、
どうしても貧相な印象につながっていく。精悍な印象には、どうしても見えない。

見れば見るほど、内部のつくりと、ミスマッチだろうと思えてくる。
内部の作りから判断して、A100は力作だと、先に書いた。
そう感じさせる、精悍な印象が、A100の内部にはある。

なのに、なぜ、このパネルフェイスなのか。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その58)

絶対にあり得ないことと、はじめにことわっておくが、もし長島先生が、
バーンスタインよりもインバルのマーラーを高く評価される人だとしたら、
この項の(その50)(その51)に書いた国産パワーアンプを、高く評価されていただろう。

私にしても、インバルのを好む耳(感性)をもっていたとしたら、
その国産パワーアンプの欠点には気がつかずに、「いい音だ」と満足していただろう。

インバルの演奏(音といいかえてもいいと思う)と、その国産パワーアンプの音には共通するものがある。
先に、ピアニシモの音に力がない、と書いたが、これに通じることでは、
音の消え際をつるんとまるめてしまう、そんな印象をも受ける。
それに力がないから、だらっとしている。消えていくより、なくなっていく。

だから、ちょい聴きでは、「きれいな音」だと感じるが、決して「美しい音」とは、私は感じない。
長島先生も、「美しい」とは感じられないはずだ。

この手の音を、「ぬるい」「もどかしい」と感じるところが私には、どうもあるようだ。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その57)

同席していた編集者の一人は、バーンスタインのマーラーを聴いてひとこと、
「チンドンヤみたい」と呟いた。
そのときは、いきおいで、長島先生とふたりして、
「マーラーをわかっていないな」と、彼に対して言ってしまったが、
バーンスタインの感情移入の凄まじさを拒否する人もいるだろう。
そういう人にとっては、インバルのマーラーのほうが、ぴったりくるのかもしれない。

彼には彼なりのマーラーの聴き方があっただけの話だ。
だから、バーンスタインとインバル、どちらのマーラーが演奏として優れているのか、
普遍性をもち得るのか、を議論しようとは思わない。

聴き手の聴き方が違うだけのことであり、この聴き方の違いが、「音は人なり」へとつながっていくと思う。

同じ環境、同じ装置を与えられても、私と、バーンスタインのマーラーを「チンドンヤ」といった編集者とでは、
そこで響かせる音は、正反対になってとうぜんだろう。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その56)

長島先生が来られた。
試聴に入る前に、とにかくバーンスタインのマーラーを聴いてもらう。

さっき聴いたばかりの第5番をもういちど鳴らす。
冒頭のトランペットの鳴り出した瞬間から、長島先生が身を乗り出して聴かれている。
途中でボリュウムを下げる雰囲気ではない。1楽章を最後までかけた。

満足された顔で、どちらからともなく「インバルのをちょっと聴いてみよう」ということになり、
インバルのCDをかけた。すぐにボリュウムをしぼった。
長島先生と私は、インバルのマーラーを「ぬるい」と感じていた。もどかしい、とも感じていた。

インバルのマーラーは、バーンスタインのマーラーの前では聴く価値がない、といいたいわけでなはい。
長島先生と私が求めていたマーラーは、バーンスタインの演奏のほうだったというだけである。

Date: 9月 11th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その55)

旧録音の、ニューヨークフィルとのマーラーに、特別な感慨はなかったが、
それでも1970年代後半からのウィーンフィルとのベートーヴェン、
1980年代前半、デジタル録音で、やはりウィーンフィルとのブラームスを聴いて、
バーンスタインという指揮者に、つよい関心をもつにいたった。

1985年、イスラエルフィルと来日したときも、聴きにいくほど、
バーンスタインの熱心な聴き手になりつつあった。

つまり、新録音のマーラーに対して、あまり関心がないとはいいつつも、
もしかしたら、という期待ももっていた。
第1楽章の、トランペットのファンファーレが鳴る。
この時点で、インバルの演奏とは、空気がまったく違っていた。

漠然と、こういうマーラーが聴きたいと思っていた以上のマーラーが、響いてきた。
無性に嬉しかった。1楽章を聴き終えたところで、そろそろ長島先生が来られる時間となった。

Date: 9月 10th, 2009
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その54)

バーンスタインが、ドイツ・グラモフォンにてマーラーの全集の再録音にとりかかったことは知っていた。
けれども、CBS時代の、ニューヨーク・フィルとのマーラーをいくつか聴いてみても、
すでに私がマーラーを積極的に聴きはじめたときには、もっと新しい録音で、
他の指揮者による演奏がいくつも出始めていただけに、格段魅力的な演奏とは感じなかったこともあって、

新録音には、ほとんど関心がなかった。

それでも第4番と5番が出たときには、もうインバルの演奏は聴きたくない、という反動から、
試しに買ってみるか、という軽い気持で手にした。

ちょうど午後から長島先生の試聴がはいっている日の、昼休みの時間のことである。
会社に戻り、すぐに試聴室に行く。
すでに、試聴準備は午前中にすませていたし、電源も入れっぱなしでウォームアップもしている。
CDさえセットすれば、すぐに聴ける状態になっている。

Date: 9月 9th, 2009
Cate: ショウ雑感, 瀬川冬樹

2008年ショウ雑感(その2・続×十五 補足)

いままで読んできたオーディオ評論のなかで、デザインに関して強烈に記憶に残っているのは、
ステレオサウンド 43号の、瀬川先生のトリオのコントロールアンプ、L07Cに対する記事だ。

43号では、L07Cについて、上杉先生、菅野先生も書かれているが、
デザインについてはひとことも触れられていない。

ひとり瀬川先生だけが、L07Cのデザインについて、「試作品かと思った」と書かれ、
「評価以前の論外」であり、さらに「目の前に置くだけで不愉快」とつづけられ、
あきらかに、ここからは瀬川先生の怒りが感じられる。

たしかに、中学2年だった私の目から見ても、試作品のような仕上りのように感じられたが、
なぜ、瀬川先生の怒りが、そこまでなのかについては、理解できなかった。

Date: 9月 9th, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その59)

低音の量感ということでは、ヨーロッパのほうが、アメリカよりも、
瀬川先生の求められていた、いい意味でのふくらみ、そして包みこまれるような量感は豊かであったし、
このことが、アナログプレーヤーにおいて、
フローティング型が、ヨーロッパから多くが登場したことにつながる気がする。

アナログディスク再生においてハウリングが発生していたら、
低音の量感を求めることはできない。
量感うんぬんは、ハウリングマージンが十分確保されていてこそ、の話だ。

ただトーレンスやリンのようなフローティング型プレーヤーは、日本家屋で、和室で使用する場合には、
床があまりしっかりしていないことと関係して、針飛びという問題が発生する。
あくまでフローティング型プレーヤーは、しっかりした床が条件として求められる。

そのせいか、1970年代、まだまだ和室で聴く人が多かったと思われる時代に、
フローティング型プレーヤーはなかなか受け入れられなかったのだろう、と考えている。