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Date: 6月 3rd, 2012
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その1)

オーディオ機器のなかにも、ロングラン製品と呼ばれるものがある。
ロングセラー製品、ロングライフ製品と呼ばれることもある。

ステレオサウンドでも、以前「ロングラン・コンポーネントの秘密をさぐる」という連載が数回続いた。
1回目の47号のデンオンDL103シリーズ、ダイヤトーン2S305、ラックス38シリーズから始まり、
2回目の48号ではJBLのパラゴン、オルトフォンのSPUシリーズ、QUADのESL、
3回目の49号ではグレースのF8シリーズ、フィデリティ・リサーチのFR1シリーズがとりあげられた。

すぐに気がつくのはカートリッジが半数を占めていること。
47、48、49号とも1978年の発行の号だからCDは登場していないとはいえ、
スピーカーシステムよりもカートリッジがわずかとはいえ多く、
しかもカートリッジのすべてはシリーズ展開されているという共通点がある。

ステレオサウンドの、この企画はロングランというタイトルからもわかるように、
あくまでも現行製品という条件がある。

ロングランとは”a long run”であり、演劇、映画などの長期公演のことである。
だからロングラン・コンポーネントはいいかえるとロングセラー・コンポーネントということでもある。
長く市場で売られ続けている製品として、
ステレオサウンドの「ロングラン・コンポーネントの秘密をさぐる」である。

ステレオサウンドの「ロングラン・コンポーネントの秘密をさぐる」は残念なことに3回で終ってしまった。
個人的にはもっと続いてほしい企画だった。
まだまだロングラン・コンポーネントと呼べるものはいくつもあった。
例えばSMEのトーンアームがそうだし、EMTの930st、927Dstがある。
アンプはどうしても改良のスピードが、カートリッジやスピーカーといった変換器よりも速いために、
なかなかロングラン(ロングセラー)と呼べるものは少ないけれど、
1978年の時点では、少しロングセラーと呼ぶには足りなかったのかもしれないが、
マークレビンソンのLNP2は十分ロングラン(ロングセラー)アンプである。

スピーカーは、スピーカーシステムとしてよりも、スピーカーユニットにロングラン(ロングセラー)は多い。
カートリッジがアナログプレーヤーシステムの一部分としてあるのと同じように、
スピーカーユニットもスピーカーシステムの一部分としてロングラン(ロングセラー)は実に数多くある。
アルテックの604シリーズ、JBLのD130、375、075など。
タンノイのデュアルコンセントリックユニットもそうだ。
日本のモノではダイヤトーンのP610が、すぐ浮ぶ。
スピーカーユニットについては、ここでひとつひとつ名前を挙げていくと、かなりの数になる。

オルトフォンのSPUシリーズはいまも健在だし、デンオンのDL103シリーズも残っているものの、
いまではロングラン(ロングセラー)コンポーネントは少なくなってしまった。
スピーカーユニットの多くは消えてしまった。
スピーカーシステムのロングランとなると、タンノイのウェストミンスター。
あとは何があるだろう……と考え込まなければならない。
考えれば、いくつか出てくる。
でも、なんとなくではあるが、昔のロングラン・スピーカーシステムよりも影が薄い気がしなくもない……。

そういえばオーディオ雑誌でも、ロングラン、ロングセラーという言葉をあまりみかけなくなった。

けれど使い手側にとってロングランとなると、ここに別の意味あいが加わってくる。
その使い手にとって現行製品という意味でのロングランになり、
かなり以前に製造中止になってしまったモノでも、
ずっと使い続けられていくのであればロングラン・コンポーネントになる。

ここではロングセラーという意味はないけれど、ロングライフという意味はある。
ロングラン(ロングライフ)のモノとはいったいどういうものか。
どういう条件を満たしているのか、を考えると、そこにはデザインが重要な要素を持っていることに気づく。

Date: 6月 2nd, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続々続・原音→げんおん→減音)

音を調整していく上で行っている行為──、
たとえばボリュウムの上げ下げ、スピーカーシステムのレベルコントロールの調整、
グラフィックイコライザーやパラメトリックイコライザー、トーンコントロールを使っているのであれば、
各種ツマミの調整、これらはすべて音を減らす行為である。

と書くと、スピーカーシステムレベルコントロールは、たいてい真ん中の位置に0ポジション(フラット)があり、
レベルを上げることもできる、と。
グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザーにしてもそうだ、と。
ボリュウムも同じだろう、と。

でも、これらはすべて減衰量を調整しているだけである。
つまりそのオーディオのシステムでだせる最大のエネルギーを減らすことで、バランスを整えている。

スピーカーシステムのレベルコントロールで、たとえばトゥイーターのレベルを0ポジションから右回りにまわす。
トゥイーターのレベルは当然高くなる。
これはトゥイーターのレベルが相対的に増えているだけであって、
絶対的にみればそのトゥイーターが出し得る最大レベルから
減衰量を0ポジションの位置にあるときよりも少なくしているだけことである。
0ポジションにおいて減衰量がたとえば6dBだとしたら、
レベルコントロールを少しあげたことによって減衰量を6dBよりも少ない、4dBとか3dBにしているだけである。
レベルコントロール(アッテネーター)によって減衰させていることにはかわりはない。

アッテネーターは減衰器である。

グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザーでのツマミの操作もそうだ。
0ポジション(フラット)の位置からツマミをあげれば、その帯域での出力レベルは増す。
でもそれはグラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザーに上昇分だけの余剰ゲインをもたせており、
それよりも減衰量が多いか少ないかだけのことである。

つまりボリュウムを最大にして、トーンコントロールやイコライザー類のツマミをすべて最大限にあげて、
スピーカーシステムのレベルコントロールもすべて最大にする。
この状態でまともな音が聴けることは、まずないけれど、
この状態こそが、そのシステムが出し得る最大のエネルギーである。

これを整えるためにトゥイーターのレベルを下げたり、スコーカーのレベルも下げる。
グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザー、
トーンコントロールのツマミも最初は真ん中にもってくる。
そして肝心のボリュウムも下げるわけだ。

レベルを上下するということは、減衰量を可変していること。
レベルを上げたつもりでも、それは減衰量を以前の状態よりも減らした、ということである。
それを「上げた」と、いわば錯覚している、ともいえる。

Date: 6月 1st, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続々・原音→げんおん→減音)

断わっておくが、情報量が多いのは困る、少ない方がいい、と考えているわけではない。
基本的に録音側での情報量が多くなっていくのは歓迎するのだが、
再生側でそれをそのまま再生することももちろん重要なことではあるものの、
限られたなかでのオーディオゆえの独自の世界を築こうとするのであれば、
ある程度の情報量の取捨選択に近いことが求められるし、それがひとつの再生側の「美」につながっている。

このことは、オーディオに関心をもち始めたころから知っていたことである(知っていただけだった、当時はまだ)。
「五味オーディオ教室」に、それは書いてある。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
     *
オーディオをやってきて30数年が経ち、五味先生が当の昔に書かれているところに来たわけだ。
マッキントッシュのMC3500のように、「音のすみずみまで容赦なく音を響かせる」のもよかろう。
でも、MC275のごとく「必要な一つ二つ輪郭を鮮明に描くが、
簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかして」しまう自由が聴き手にはある。

減音には、だからもうひとつの意味がある。
減りゆく音、減ってしまった音(失われた音)のことだけではなく、
聴き手があえて減らす音としての減音があり、聴き手はここで試されている、ともいえよう。

Date: 5月 31st, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続・原音→げんおん→減音)

マイクロフォンについてはいずれ書きたいと思っているので、
ここではこれ以上PZMについてはふれないものの、
どんなに性能が優れたマイクロフォンであっても、演奏の場のすべての音を電気信号に変換することはできない。
まずここで失われる音がある。その音の信号処理をみていっても、多かれ少なかれ失われていく音がある。

伝送系においても音は失われていく。
まったく失われない箇所というのは、オーディオの系の中にはない。

それから失われるまではいかないまでも、
歪やノイズや、その他の要因による固有音が附加されていくことによって、
これらにマスキングされて失われたように感じてしまう音もある。

音が失われていく箇所を、録音の現場から再生の現場までひとつひとつ丹念に数え上げていったら、
気の遠くなるような数になり、それらによって失われていった音がどれだけあるのか正確にはっきりと掴むことは、
正直、誰にもできないことである。

技術の進歩は、録音系ではできるだけ多くの音を収録する方向に、
再生系ではできるだけ多くの音を再現する方向にある。
情報量ということでは、確実に増えてきているし、情報量が多いことが良しとされる。

私も20代のころは、よく「情報量が」ということを口にしていた。
いまも情報量は、基本的に多いほうがいいということには変りはない。
けれど……、とも思う。

情報量は再生系、再生の現場においては、音量と密接に関係している。
音量との関係は絶対に切り離せないことである。

つまり情報量が増えていくほどに、リスニング環境のS/N比のはっきりとした改善がないかぎり、
音量は増していかざるをえない。
音量が増すことは、それなりの音量で聴くことになる。
そういう環境にある人でも、大音量を好まない人もいる。
音量の自由度は、オーディオの大切なことのひとつである。
その音量の自由度が、情報量が飛躍的に増えていくほどに、狭まっていく。

Date: 5月 31st, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その4)

なにがあったもので、なにがなくなったもの、と私が感じているのについてあえて書かないのは、
なにももったいぶって書かないのではない。

岩崎先生の文章や対談、座談会を読めばわかることだから、書かないだけのこと。
その岩崎先生の文章、発言はaudio sharingで「オーディオ彷徨」を公開しているし、
「オーディオ彷徨」の電子書籍(ePUB形式)にしたものもダウンロードできるようにしている。
まだまだすべてではないにしても、
かなりの数の個々のオーディオ機器について書かれたものはthe Review (in the past)で公開している。
それ以外の文章、座談会、対談はfacebookページの「オーディオ彷徨」を利用して公開しているのだから、
私が読んできた岩崎先生の文章、発言に関してはすべて読めるようにしている。
これから先も公開していく文章は増えていく。

だからこれらを読めば、すぐには無理かもしれないがいつの日か、はっきりとわかるはずである。
1回読んだだけでわからなければ、
それでもなにがあって、なにがなくなったのかを知りたければ、くり返し読めばいい。
集中して読むことで見えてくるものは、必ずある。
人によって、その時間は半年だったり、1年だったり、もしくはそれ以上かかるかもしれない。

それでもわからない人もいるかもしれない。
でも、それは「読んでいない」からだ。
そういう人に限って、「いまさら岩崎千明なんて」「岩崎千明なんてたいしたことない」などという。

そういう人は、もともと大切なものがなかった人だ、いまもない人だ。

Date: 5月 30th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その3)

昨年後半から、岩崎先生の文章の入力を中心にあれこれ作業している。
facebookの「オーディオ彷徨」でそれらは公開しているし、試聴風景の写真もスキャンしては公開している。

写真に関しては紙質のあまりよくないページからスキャンだし、
写真自体も小さな扱いのことが多いから、画質はよくないものが多い。
それでもある程度数がまとまってきたのを、岩崎先生の文章とあわせて眺めていると、
オーディオ雑誌にあの時代にあったもの、いまの時代になくなったもののひとつが、私の中でははっきりしてきた。
(なくなった、は少し言葉が過ぎる気もするが、もうほぼなくなりつつある……)

はっきりしてきた「目」で、いまのオーディオ雑誌はそっちの方向へつき進むように見えてしまう。
この方向性は、これからも変ることなく、ますますそっちの方向へと行くのであろう。

Date: 5月 30th, 2012
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その9)

昨夜(その8)を書き終わった後、
眠りにつくまでのわずかのあいだに、
その知人と私のあいだにも、実はオーディオが「介在」していたのかも……、と、
そんなことを、ただぼんやりとおもっていたわけだが、
だとしたら、そこに介在していたオーディオとはなんだったんだろう、とも考えていた。

そこに答らしきものを見つけたいわけでもないから、
考えはじめたら眠りにつくのをさまたげるだけだから、それ以上深く考えることはしなかった。

Date: 5月 30th, 2012
Cate: audio wednesday

第17回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、6月6日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 29th, 2012
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その8)

私は、音楽と聴き手の間にオーディオをおいたわけだが、
だからといって音楽と聴き手のあいだの距離をオーディオが絶対的に支配していると考えているわけではなく、
この距離は、ほとんど聴き手の音楽に対する姿勢によって決ってくる。

そうやって決った距離を、途中に介在するオーディオがより引きつける(惹きつける)方向に作用するのか、
それとも文字通り介在することで距離が開いていくのか──、
実はこれも聴き手次第である。

私は音楽と聴き手を結ぶ線上にオーディオを置くから、
介在ということをことさら意識するのかもしれないし、
知人のように三角形の位置関係に配置するのであれば、オーディオは介在とは意識しないのかもしれない。

この話を知人としたときには、そこまで突っ込んだところまで話が発展しなかったから、
彼がどうオーディオの存在を捉えているのかははっきりしないが、
少なくとも「介在」というふうには捉えていない、とはいえるだろう。

それが知人のオーディオへの取組みであって、
介在とすることが私のオーディオへの取組みであるだけの話で、
それは、知人と私が、あるオーディオ機器を高く評価していた場合にも、
同じ価値観からの評価の一致とはいえないことにも連なっていく。

共通して、高く評価するオーディオ機器の数がどれだけ多かろうと、
その良さをふたりで話し合って共通するところがいくつあろうと、
それはオーディオ機器としての能力の高さ──、
つまりアンプならばアンプとしての、スピーカーならばスピーカーとしての能力、
性能の高さを確認しただけのことかもしれないし、これが客観的評価なのかもと思う。

その一方で、なぜ、このオーディオ機器を高く評価するのだろうか、とお互いに思っているところは、
知人にもきっとあるはず。
つきあいが長ければ、なんとなくその理由は頭では理解できたとしても、
あくまでもそれは頭での理解でしかなく、心からの共感ではない。

心からの共感なくして、どんなにつきあいが長かろうと、
結局どこかはかない、もろいだけのつきあいだったのかもしれない。

Date: 5月 28th, 2012
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その7)

家庭で好きなときに好きな音楽を聴くためにはオーディオ機器が必要になり、
オーディオ機器が音楽と聴き手のあいだに介在することになる。
これは、これからさきどんなに技術が進歩していっても、オーディオ機器の「介在」がなくなることは、まずない。

音楽と聴き手の間に介在しているのはオーディオ機器だけではない。
そこには録音・再生のプロセスにともなうすべてのものが介在しているわけで、
ここで考えたいのは再生系におけるオーディオの介在であり、
再生系での音楽があり、聴き手がいて、オーディオ機器があるわけだが、
この3つの関係をどう並べるのか、以前、知人と話したことがある。

その知人はこの3つは三角形を形成する関係にある、という。
私は、というと、音楽と聴き手を結ぶ線の上にオーディオ機器が介在している──、
そういう位置関係にある、と話した。

どちらの考えが正しいのか間違っているのかではなく、これはその人のオーディオに対する考え方の違い、
オーディオを介して聴く音楽への考え方、というよりも接し方だろうか、その違いが表れてきただけのことだ。

ひとりは三角形(つまりは平面)を描き、ひとりは一本の線を描く。

私はオーディオ機器を、音楽と聴き手の間に介在すると位置づけてはいるが、
これはあくまでも「現状においては」ということであって、
望むのは、オーディオ機器は音楽の後に位置してほしい。

これも直線の関係である。

オーディオ機器は音楽の後にいて、音楽という風を聴き手に向けて興してほしい。
だが、実際には音楽と聴き手の間に、オーディオ機器はいる。

Date: 5月 27th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音)

減音──、減りゆく音、減ってしまった音とすれば、それは録音系、再生系で失われていく音のこととなる。

マイクロフォンが空気の振動を電気信号に変換することから録音・再生のプロセスは始まるわけだが、
まずマイクロフォンが、その演奏の場にときはなたれた音のすべてを捉えているわけではない。
仮にマイクロフォンの振動板がとらえた音をなんの損失もなく100%電気信号に変換できたとしても、
マイクロフォンがすべての音を歪めずに拾えるとはいえない。

マイクロフォンには当然ながら、大きさがある。
どんな小さなマイクロフォンでもどこにマイクロフォンが設置されているのかすぐにわかる大きさはある。
マイクロフォンの中にも小さなモノもあれば比較的大きなモノもある。
つまりある大きさをもったモノが音を捉えるために設置されることで、
音の通り道の一部にマイクロフォンが立ちはだかっているのと同じことともいえる。

こんなことを考えるようになったのは、1980年ごろにアムクロン(クラウン)がPZMを出したからだ。
PZM(Pressure Zone Microphone)を、
(たしか無線と実験だったと記憶しているが)最初記事を読んだ時は、
なぜこういうマイクロフォンにする必要があるのか、なかなか理解できなかった。

私がPZMの記事を見かけたのは、その一回きりだったし、実際に使ったことはない。
録音においてどんな特徴をもつのかはわからない。
それでも、いまもクラウンがPZMを作りつぐけているということは、プロの現場で支持されているからであろう。
決してキワモノのマイクロフォンではないのだと思う。

実際のところはどうなのかはわからないが、私なりにPZMの形態とその使い方から考えると、
通常のマイクロフォンを通常の設置の仕方では、
音の波紋がきれいに拡散していくのを歪めてしまう可能性があり、
それを回避するためのモノとして登場してきた──、
そう思えてならない。

Date: 5月 26th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続々続・作業しながら思っていること)

トリオ・ブランドでの製品、ケンウッド・ブランドの製品の中からひとつ選ぶのは、
プリメインアンプのKA7300Dである。

1977年当時、78000円だった、いわば中級クラスのプリメインアンプが、
いまも欲しいトリオのオーディオ機器である。

L02T、L02Aの例を持ち出すまでもなく、このころのトリオはケンウッド・ブランドで意欲的な製品を出していた。
完成度の高いモノもあったし、どこか実験機的な未消化の部分を残したモノもあったけれど、
ケンウッドは次はどんなアプローチをしてくるんだろうか、という楽しみ、期待もあった。

そういうケンウッド・ブランドの製品と較べると、KA7300Dには際立った特徴はない、といえばない。
トリオ・ブランドの他の製品と較べても、どこか際立っているところがあるかといえば、あまりない。

型番末尾のDからわかるように旧作KA7300をDCアンプ化したKA7300Dの登場は私が中学3年のとき。
いつかはマークレビンソンLNP2、SAE Mark2500……、そんなことを妄想している日々において、
KA7300Dはがんばれば手の届きそうなところにいてくれた、良質なアンプだった。

KA7300DとKEFの104aBを組み合わせることができたら─……、この組合せを手に入れることができたら……、
そんなことを思っていたから、いまでもトリオのオーディオ機器として真っ先に頭に浮び、
そして欲しいと思うのは、このKA7300Dとなってしまう。

このころのトリオのプリメインアンプは型番の下三桁の番号によって、
設計者が違うためなのか、音の傾向も異る、といわれていた。
300がつくシリーズはクラシックがうまくなるプリメインアンプだったようで、
KA7300Dの上級機としてKA9300もあった(価格は150000円)。

KA9300の音は聴いたことがないけれど、評判の良かったアンプである。
KA7300Dと聴き比べれば、そこには値段の差がはっきりと音に表れてくるだろうが、
KA9300には思い入れもないし、なぜか欲しいと思ったことは一度もない。
KA9300ならば、ケンウッド・ブランドのL01Aが、その後に透けて見えてくる感じがあるからだろうか。

いま冷静に振り返ってみても、この時代のプリメインアンプは充実した内容のモノが割と多かったと感じる。
だからといって、それより後に登場したアンプよりも音がいい、というわけではない。
いまとなっては旧いアンプだし、中級機だったからそれほど耐久性のあるパーツが使われているわけでもない。
手入れも必要となってくる。内部に手を入れることになったら、私だったら、少し手を加えることになる。

面倒といえばたしかにそうなんだけれども、この時代のプリメインアンプのいくつかは、
そうやって使ってみるのも楽しいだろうな、と思わせてくれる。

KA7300Dは、私にそう思わせてくれるプリメインアンプの中で、価格的に安いモノだ。

Date: 5月 22nd, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続々・作業しながら思っていること)

チューナーの名器といえば、まず浮ぶのはマランツの10Bと、
その設計者であるセクエラが、自分の名前をブランドとしたセクエラのModel 1が、
それぞれ真空管、トランジスターのチューナーの、価格的にも性能的に最高のチューナーとして存在している。

国産メーカーでは高周波に強いメーカーとしてトリオがある。
ケンウッドと社名を変更したいまでもアマチュア無線機を製造しているトリオは、
1957年に日本初のFMチューナーを開発したメーカーであり、その前身は高周波部品を手掛ける春日無線である。

社名がトリオ時代だったころ、アメリカでは使用していたブランド、ケンウッドを,
国内では最高級ブランドとして使いはじめたのが、1979年に発表したプリメインアンプL01A、
チューナーのL01T、アナログプレーヤーのL07Dからである。

いまではすっかり昔のケンウッド・ブランドのイメージはなくなってしまっているけれど、
1981年のL02T、翌82年のL02Aのころのケンウッドのブランド・イメージはマニア心をくすぐってくれた。

プリメインアンプのL02Aの価格は55万円。
いまではプリメインアンプでも100万円を超すものが珍しくなくなっているけれど、
この時代に55万円という価格は、きちんとしたセパレートアンプが購入できる金額でもあった。

L02Aよりも先に登場したケンウッド・ブランドのセパレートアンプ、L08CとL08Mはトータルで48万円。
プリメインアンプのL02Aの方が価格的に高かっただけでなく、
トリオという会社がケンウッドというブランドにかける熱意が感じられるモノだった。

L02Aは測定データも良かった。
ステレオサウンド 64号で長島先生がやられた、
負荷インピーダンスを8Ωから1Ωへと順次切替えを行っての測定で、
もっとも優秀な結果を出したのが、実はL02Aだった。

64号ではプリメインアンプだけでなくセパレートアンプも含まれている。
価格的にはL02Aよりもずっと効果で物量も投入されているパワーアンプよりも、L02Aは優っていた。

このL02Aとペアとなるチューナーとして開発されたL02Tが、
国産チューナーとしては最高のモノといってもいいだろう。

けれど、トリオの現在までの製品で、ひとつだけとなったら、L02Tは選ばない。

Date: 5月 21st, 2012
Cate: 朦朧体

ボンジョルノはLCネットワーク支持なのか

アンプの鬼才とたとえられるジェームズ・ボンジョルノ。
いま現在Ampzilla 2000で復帰し、ボンジョルノのつくるアンプに魅かれてきた者にとっては、
これからも、いまぐらいの規模でいいから、ずっと続いていってほしいと願いたくなる。

ボンジョルノはGASの設立者として、日本では広く知られるようになったわけだが、
GAS以前にもアンプ設計の仕事には携わっており、彼の経歴はAmpzilla 2000のウェブサイトで見ることができる。

ハドレー(このブランドを知らない世代のほうがいまや多いのかもしれない)のパワーアンプ、622C、
マランツのMode1 15といった旧いソリッドステートアンプから始まっており、
アンプだけでなくチューナーやカートリッジの設計・開発も行っていたことが、わかる。

GAS、その次に始めたSUMOは彼の会社である。
ここではアンプ、チューナー、カートリッジを作っている。
いまの会社ではチーフエンジニアとしてAmpzilla 2000、Son of Ampzilla、Ambrosiaを生み出している。

ふと気づくのは、マルチアンプシステムに欠かすことのできない
エレクトリックデヴァイディングネットワーク(チャンネルデヴァイダー)がないことだ。

チューナーも手掛けることのできたボンジョルノにとっては、
エレクトリックディヴァイディングネットワークにおいても、非凡なるモノをつくってくれたように思う。
なのにボンジョルノは手掛けていない。

正しくは日本のクラウンラジオから3ウェイのエレクトリックデヴァイディングネットワークを出している。
ただ、このクラウンラジオの製品がどういったものかは私は知らないし、
SUMO時代にThe Goldの採用し特許を取得している回路は、クラウン・ラジオへ売却している。
(日本にはクラウン・ラジオがあったため、アメリカのアンプメーカー、CROWNがそのブランド名を使えず、
アムクロンとして流通しているわけだ。)

このころのボンジョルノはSumoがうまくいかず大変だったと聞いているから、
クラウン・ラジオへの特許の売却はそういう事情だったのかもしれない。
このクラウン・ラジオから出た製品は、ボンジョルノがつくりたいモノとして製品化したのか、
それともクラウン・ラジオからの依頼として設計したモノなのかは、まったくわからない。

ただGAS時代、SUMO時代にもエレクトリックディヴァイディングネットワークは手掛けていないことからすると、
ボンジョルノ自身は、エレクトリックデヴァイディングネットワークを必要としていない男なのだろう。
つまりマルチアンプ駆動には関心がない、マルチアンプの必要性を感じていない、ということだろう。

ボンジョルノは、いったいスピーカーシステムは、何を鳴らしているんだろうか。

Date: 5月 20th, 2012
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その28)

仮に巨大な振動板の平面型スピーカーユニットを作ったとしよう。
昔ダイヤトーンが直径1.6mのコーン型ウーファーを作ったこともあるのだから、
たとえば6畳間の小さな壁と同じ大きさの振動板だったら、
金に糸目をつけず手間を惜しまなければ不可能ということはないだろう。

縦2.5m×横3mほどの平面振動板のスピーカーが実現できたとする。
この巨大な平面振動板で6畳間の空気を動かす。
もちろん平面振動板の剛性は非常に高いもので、磁気回路も強力なもので十分な駆動力をもち、
パワーアンプの出力さえ充分に確保できさえすればピストニックモーションで動けば、
筒の中の空気と同じような状態をつくり出せるであろう。

けれど、われわれが聴きたいのは、基本的にステレオである。
これではモノーラルである。
それでは、ということで上記の巨大な振動板を縦2.5m×横1.5mの振動板に二分する。
これでステレオになるわけだが、果して縦2.5m×横3mの壁いっぱいの振動板と同じように空気を動かせるだろうか。

おそらく無理のはずだ。
空気は押せば、その押した振動板の外周付近の空気は周辺に逃げていく。
モノーラルで縦2.5m×横3mの振動板ひとつであれば、
この振動板の周囲は床、壁、天井がすぐ側にあり空気が逃げることはない。
けれど振動板を二分してしまうと左側と振動板と右側の振動板が接するところには、壁は当り前だが存在しない。
このところにおいては、空気は押せば逃げていく。
逃げていく空気(ここまで巨大な振動板だと割合としては少ないだろうが)は、
振動板のピストニックモーションがそのまま反映された結果とはいえない。

しかも実際のスピーカーの振動板は、上の話のような巨大なものではない。
もっともっと小さい。
筒とピストンの例でいえば、筒の内径に対してピストンの直径は半分どころか、もっと小さくなる。
38cm口径のウーファーですら、6畳間においては部屋の高さを2.5mとしたら約1/6程度ということになる。
かなり大ざっぱな計算だし、これはウーファーを短辺の壁にステレオで置いた場合であって、
長辺の壁に置けばさらにその比率は小さくなる。