第七回audio wednesday (next decade)
第七回audio wednesday (next decade)は、4月5日。
参加する人は少ないだろうから、詳細はfacebookで。
開始時間、場所等は参加人数によって決める予定。
第七回audio wednesday (next decade)は、4月5日。
参加する人は少ないだろうから、詳細はfacebookで。
開始時間、場所等は参加人数によって決める予定。
(その11)に、facebookにコメントがあった。
ゾノトーンのツイートへのリンクがあった。
そのゾノトーンのツイートは知っていた。
どんな内容かといえば、オーディオアクセサリーを購入する際、
頼りにする情報源は何か、というアンケートである。
結果は、
メーカー発信情報が11%、
オーディオショップ意見が13%、
オーディオ雑誌社の記事が6%、
その他インターネット情報が70%、
である。
メーカー発信情報もインターネットでのことだろうから、
その他インターネット情報とあわせると81%となる。
オーディオ雑誌は、わずか6%である。
このリンクを投稿された方も指摘されているが、
この結果は、ソーシャルメディア上でのものだから、
この数字をそのまま鵜呑みにはできない面もある。
それでもインターネット上の情報を頼りにする人は、かなり多いとはいえよう。
だから、現実にはオーディオ雑誌は読まれていない、
だから封殺も何もない──、とコメントにはあった。
コロナ禍前だったら、今回のコメントにかなり同意しただろうが、
コロナ禍を経て、オーディオマニアのインターネットの活用の具合を、
少しばかり知ることで、実際はけっこう違っている、という認識をもつにいたっている。
ゾノトーンのアンケートは、比較的若い世代の方によるものだろう。
一方、ステレオサウンドの読者の年齢層は、60代より上である。
ビクターが五十年ほど前に数回行った生演奏とのすり替え実験。
いまの技術でもう一度やってみたら、どういうことになるのだろうか──、
オーディオマニアならば、そんなことを想像する人も少なくないだろう。
とはいえ、いま、そんな公開実験を行なうメーカーはない、とずっと以前からあきらめていた。
実際、生演奏とのすり替え実験はずっと行われていない。
先月、ソーシャルメディアを眺めていたら、
無人オーケストラコンサートの告知が表示された。
なんだろう? と思って詳細をみたら、
文字通りの無人オーケストラによるコンサートである。
ホールのステージには、椅子がある。
そこに演奏者が座っているのではなく、スピーカーが置かれている。
一度録音して、それをスピーカーから再生するというコンサートで、
スピーカーの数はオーケストラの演奏者の数と同じである。
これはなにがなんでも聴いておかなければ──、と思った。
それからfacebookでシェアした。
オーディオマニアならば関心をもつ人が多いはず、と思ったけれど、
予想に反し、いいねをつけてくれた人は二人だけだった。
そんなものなのか……、と思っていた。
昨日(3月25日)、横浜みなとみらいホールに行ってきた。
無人オーケストラコンサートを聴くためである。
○○○の△△△とあったら、
それがオーディオについてのことだったら、
○○○はブランド(メーカー)、△△△には型番が入るとも、ふつうは思う。
JBLの4343とかジャーマン・フィジックスのTroubadour 40といったふうにだ。
ところが、数日前にソーシャルメディアに表示された投稿を見ていたら、
△△△のところが価格になっていた。
○○○の百万円のアンプとか、○○○の百五十万円のCDプレーヤー、
そんな書き方だった。
○○○の百万円のアンプでも、それがどの製品なのかはわかる。
過去の製品も含めると、百万円のアンプは数機種がそこにあてはまったするが、
現行製品もしくは近年の製品となると、どの製品なのかはわかる。
型番を書いていることと同じことといえば、そうなのだが、
ならばなぜ、この投稿者はこんな書き方をするのだろうか、と思う。
素直に型番を書けばすむところを、型番ではなく価格を書くのはどうしてなのか。
それだけ高価なオーディオ機器をいくつも、自分は所有していると自慢したいのか。
それならば、素直に型番を書けばいいことだ。
ブランド名と型番が書いてあれば、その製品がいくらなのかは、
たいていのオーディオマニアはすぐにわかることなのだから。
高価なオーディオ機器を購入するのは、本人の努力の証しともいえる。
なのだから、自分はこんなオーディオ機器を持っている、
それらのオーディオ機器で聴いていることを自慢したい気持はわかるし、
そのことをとやかくいうつもりはない。
くどいようだが、なぜ型番ではなく価格を、そこに書くのか。
どんな理由が、どんな意味があるのだろうか。
(その10)に、facebookにコメントがあった。
とりあげないということには封殺するという意図を感じることがある、というものだった。
同じことは感じていた。
MQAのことを肯定も否定もしない。
ただとりあげないだけ。
つまり封殺したいのだろう、と。
仮にそうだとして、ほんとうに封殺できると編集部(編集者)は考えているのか。
昔のステレオサウンドだったら、もしかした、そんなこともできたかもしれない。
けれど、いまのステレオサウンドができるだろうか。
それに、いまはインターネットが普及して、ソーシャルメディアもまた普及している。
そういう時代においては、もう無理なはずだ。
いまのところ、日本ではTIDALのサービスは開始されていない。
日本でMQAを聴くには、MQA-CDを買ってくるか、
e-onkyoで購入・ダウンロードするくらいしかない。
けれどTIDALが始まったら──。
MQAのデコード機能をもつD/AコンバーターやCDプレーヤーを持つ人は、
TIDALでMQAが聴けるのなら、試しに聴いてみようか、と思うことだろう。
MQAのコアデコードの音だったり、フルデコードの音であったりする。
フルデコードの音を聴いた人ならば、なにかを感じるはずだ。
聴いた人すべてが、MQAを肯定するとはかぎらない。
やっぱりMQAなんて──、という人もいるけれど、
MQAって、いいな! と感じる人もいる。
TIDALが日本で始まる、
つまりMQAでさまざまなアルバムを聴けるようになったとき、
ステレオサウンドのMQA無視のやり方に疑問をもつ人も現れる。
今年の1月に六十になった。
同級生もみな六十になったわけで、
たぶん同窓会があるんだろうなぁ、ぐらいには思っていた。
少し前に実家の母から電話があって、同窓会の知らせがあった、とのことだった。
6月にやる、とのこと。
3月ではなく6月なのは、コロナ禍の影響があってのことなのだろう。
幹事をやっているHさんは、実家からわりと近いところに住んでいる。
小学生だったころ、ひどい喘息だった。
Hさんには、小学一、二年、同じクラスだったこともあり、お世話になっていた。
Hさんは、わざわざ実家を訪れて、同窓会のことを知らせてくれた、とのこと。
Hさんの話によると、同級生の三十人ほどがすでに亡くなっている、ということだった。
三十人というのが、多いの少ないのか、なんとも難しいところなのだが、
三十人ときいて、そんなに──、と思った。
同じクラスだった同級生も三十代半ばで亡くなっている。
他の人たちは同じクラスになったことはないから、
名前も顔もわからないのだけれど、それでも三十人という数字は、頭から離れない。
編集者(編集部)には、記事をつくらない(とりあげない)自由があるといえば、そういえる。
だからステレオサウンド編集部がMQAをとりあげないのも、
それは編集部の自由といえばそうである。
三年ほど前に、逆木 一氏のブログのことを書いた。
逆木 一氏はアンチMQAである。
自身のブログで、「さよなら、MQA」を公開されている。
「さよなら、MQA」を読んで、どうおもうのかは、その人次第だ。
逆木 一氏の意見に、まったく同感という人もいるだろうし、
こういう意見の人もいるだろうな、とおもう人、
MQAの肯定している人からすれば、なにかいいたくなるか、
もしくは黙っておこう、とおもったのかもしれない。
逆木 一氏を、「さよなら、MQA」をどう読むか、その評価とは別に、
ステレオサウンドの態度と逆木 一氏の態度は、大きく違うことだけは認めている。
逆木 一氏は、きちんと自身の意見・立場を表明している。
それすらせずに、ただただ無視していくだけのオーディオ雑誌がステレオサウンドであることが、
ステレオサウンドはずいぶん変質してしまったなぁ……、とおもわせる。
(その7)で触れているChatGPT。
(その7)の時点で、見出しくらいはChatGPTにまかせられるのではないのか──、
そんなことも考えていた。
二日ほど前だったか、ソーシャルメディアを眺めていたら、
ChatGPTに、日経、文春、東スポ風に見出しをつけさせてみた、という投稿があった。
それぞれに日経風、文春風、東スポ風である。
何も破綻していない。
やはり見出しをつけることは、簡単すぎることになっているのだろう。
見出しのつけ方をアレンジできるくらいなのだから。
オーディオ雑誌の見出しも、いますぐChatGPTにまかせてもいいぐらいだろう。
ChatGPTの使い方によって、いくつもの見出しを作ってくれるから、
編集者の仕事は、その中から選ぶだけ、ということになる。
ChatGPTは、まさしく日進月歩といっていい。
いまは、こんなことを書いているくらいだけど、
半年後には編集作業のいくつかはChatGPTにまかせたほうがクォリティが高くなるくらいには、
なっていてもおかしくない。
オーディオの究極のかたち、
もしくはオーディオの行き着くところとして、
直接脳に信号を送るということが、昔から語られている。
いまもそうらしい。
けれど考えてみてほしい。
スピーカーからの音を聴くという行為は、
肌感覚もともなってのことである、と。
脳に直接音楽信号を送れば、
いろんなことに悩まされずにすむけれど、
それですべてが解決する、というよりも満足できるようになるのだろうか。
ヘッドフォン、イヤフォンでしか音楽を聴かない(聴いたことがない)人は、
肌感覚はむしろ煩わしいのかもしれない。
そういう人は、脳に音楽信号を送るのを、理想として捉えているのかもしれないが、
スピーカーで聴くことをながいこと続けてきて、
しかもそれに飽きない人もいて、そういう人はもしそういうことが可能になったとしても、
スピーカーからの音で音楽を聴いていることだろう。
スピーカーといえば通じるのだけれども、
あえてラッパと呼びたくなる性質のモノがある。
そういうスピーカーもあれば、トランスデューサーと呼びたくなるモノもある。
いい悪いではなく、本質的なところでの違いからくるものだ。
けれど、この違いは、聴く音楽に深く関わってこよう。
音楽のジャンルということではない。
演奏家のスタイルというか、そういうことに深く関係してくる。
ラッパと呼びたくなるスピーカーを好んで聴く人がよく聴く演奏家と、
トランスデューサーと呼びたくなるスピーカーを好んで聴く人がよく聴く演奏家、
同じことは、まずないだろう。
キリル・コンドラシンとコンセルトヘボウ管弦楽団による「シェエラザード」。
これも、瀬川先生が熊本のオーディオ店でかけられた一枚だ。
クラシックでデジタル録音が増えて始めたころで、
記憶違いでなければ、瀬川先生は、フィリップス初のデジタル録音だと話されていた。
けれどアナログ録音のようである。
瀬川先生の勘違いだったのか、
ほんとうにデジタル録音だったのか、同時にアナログ録音も行われていたのか。
瀬川先生は、とにかく音が美しいといわれていた。
ソロ・ヴァイオリンもふくめて、弦楽器の音について触れられていた。
コンドラシンの「シェエラザード」の少し前、
フィリップスの録音について、瀬川先生は高く評価されていた。
ステレオサウンド 56号で、こう書かれている。
*
けれど、ここ一〜二年来、その状況が少しばかり変化しかけていた。その原因はレコードの録音の変化である。独グラモフォンの録音が、妙に固いクセのある、レンジの狭い音に堕落しはじめてから、もう数年あまり。ひと頃はグラモフォンばかりがテストレコードだったのに、いつのまにかオランダ・フィリップス盤が主力の座を占めはじめて、最近では、私がテストに使うレコードの大半がフィリップスで占められている。フィリップスの録音が急速に良くなりはじめて、はっきりしてきたことは、周波数レンジおよびダイナミックレンジが素晴らしく拡大されたこと、耳に感じる歪がきわめて少なくなったこと、そしてS/N比の極度の向上、であった。とくにコリン・デイヴィスの「春の祭典」あたりからあとのフィリップス録音。
*
そのことがコンドラシンの「シェエラザード」で、さらによくなっている──、
そんなことも話されながらかけられた一枚である。
リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」は、あまり聴かない。
ディスクもほとんど持っていない。
たまに聴く時は、コンドラシン指揮の「シェエラザード」である。
あの時聴いた音は、完全に美化されている。
美化されまくっている、といってもいいくらいである。
こうなってしまうと、もう現実の音は追いつけないのかもしれない。
チャック・マンジョーネの“Children of Sanchez”も、
“THE DIALOGUE”的なところで、
宿題としての一枚ではなく宿題的な一枚である。
“THE DIALOGUE”ほどではないけれど、
“Children of Sanchez”の音には、驚いた。
これもまた瀬川先生が4343がかけられた音を聴いての驚きである。
二年ほど前にも書いているように、マサカリ低音の凄さだった。
切れ味のよい低音という表現があるが、
その切れ味は、どんな刃物によるものなのか、それによってもずいぶんと印象は違ってくる。
かみそりのような切れ味もあれば、
包丁のような切れ味もある。
さらには日本刀、鉞(マサカリ)のような切れ味もある。
鉞を持ったことはないが、重量がしっかりとあることはわかる。
そういう刃物による切れ味は、カミソリによる切れ味とは違って当然である。
4343が現役だったころ、そういう低音で“Children of Sanchez”で鳴ってくれたし、
それだけでは“Children of Sanchez”のディスクは満足のゆく再生とは鳴らない。
“Children of Sanchez”と“THE DIALOGUE”、
この二枚は、どうしても4343での音と切り離すことができない。
それは、あの時代に、そういう音で聴いてきたからであって、
そんなことを体験してこなかった人にとっては、宿題としての一枚にはならないであろう。
ステレオサウンド 46号の特集は「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質を探る」、
この試聴テストには、ドイツのK+HのOL10というモデルが登場している。
OL10の試聴記の最後に、瀬川先生はこう書かれている。
《私がもしいま急に録音をとるはめになったら、このOL10を、信頼のおけるモニターとして選ぶかもしれない。》
これを読んで、無性にOL10が聴きたくなった。
といっても、46号は1977年に出ている。
まだ熊本に住んでいるころで、
熊本のオーディオ店でK+Hのスピーカーを扱っているところはなかった。
1981年に東京に出て来たからでも、オーディオ店でK+Hを見かけたことはなかった。
1982年からステレオサウンドで働くようになっても、K+Hのスピーカーを聴く機会は訪れなかった。
もう聴く機会はない、となかばあきらめているけれど、
それでもいいじゃないか、とおもう気持も持っている。
聴けなかったからこそ、
その音の良さを想像する楽しみがあるからだ。
OL10は、瀬川先生が、録音の仕事をするようになったら──、と書かれている。
ここだけで、OL10の音を想像する楽しみは、一段と増したからだ。
こういうひとことが書ける人こそがオーディオ評論家(職能家)である。
アニー・ディラードの「本を書く」。
昨日、ソーシャルメディアで知ったばかりの一冊だ。
ながらく絶版で古書もかなりの高値がついていたのが、ようやく復刊されたとのこと。
といっても一年前に出ている。
今日、最寄りの書店に行ったけれど、そこにはなかった。
明日にでも、大型書店で購入するつもりなのだが、
本を書く。
このことを改めて意識させられた。
こうやってブログを書いていると、文章を書くということであって、
本を書く、という意識はなかった。
ステレオサウンドにいたころも本をつくるという意識はあったけれど、
そこに載る文章を書いていても、本を書くということを意識していたかといえば、
ほぼなかった。
だから、いま「本を書く」ということを考える。
「オットーという男(A Man Called Otto)」を昨日、観てきた。
回想シーンがときおり挿まれながら物語は進行する。
半ばほどでの回想シーン。
このシーンで流れてきたのが、ケイト・ブッシュの“THIS WOMAN’S WORK”だった。
不意打ちだった。
このシーンで、“THIS WOMAN’S WORK”を使うのか──、
そんなふうにも感じながらも、胸にずしんと響いてきた。
ケイト・ブッシュの“THIS WOMAN’S WORK”が使われていることを事前に知っていたならば、
そのシーンがきたところで、ここで使われるんだろうな、と予測できたことだろう。
でも知らなかった。
それゆえの不意打ちでもあった。