Archive for category テーマ

Date: 3月 15th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続々・認識の違い)

使いこなしは、音を良くしていくための作業であるならば、
使いこなしはまた技でもあるといえる。

使いこなしには、だからさまざまな技がある。
自己流の技もあれば、多くの人がやる技もある。
そして、それらの技は同じように見えても、技なのだから技倆の差がある。

技倆の差があるから、使いこなしの名人・達人と呼ばれる人もいる(自称の人も多いけれど)。

使いこなしは技ならば、
その技はどんな技なのか、と考えてしまう。

音を良くする技ではある。
けれど、そこだけではないような気がするからだ。

使いこなしは、自己を認識する技とも思っている。

Date: 3月 14th, 2015
Cate: 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(その2)

「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント」に、瀬川先生が書かれている。
     *
むかしたった一度聴いただけで、もう再び聴けないかと思っていたJBLのハーツフィールドを、最近になって聴くことができた。このスピーカーは、永いあいだわたくしのイメージの中での終着駅であった。求める音の最高の理想を、鳴らしてくれる筈のスピーカーであった。そして、完全な形とは言えないながら、この〝理想〟のスピーカーの音を聴き、いまにして、残酷にもハーツフィールドは、わたくしの求める音でないことを教えてくれた。どういう状態で聴こうが、自分の求めるものかそうでないかは、直感が嗅ぎ分ける。いままで何度もそうしてわたくしは自分のスピーカーを選んできた。そういうスピーカーの一部には惚れ込みながら、どうしても満たされない何かを、ほとんど記憶に残っていない──それだけに理想を託しやすい──ハーツフィールドに望んだのは、まあ自然の成行きだったろう。いま、しょせんこのスピーカーの音は自分とは無縁のものだったと悟らされたわたくしの心中は複雑である。ここまで来てみて、ようやく、自分の体質がイギリスの音、しかし古いそれではなく、BBCのモニター・スピーカー以降の新しいゼネレイションの方向に合っていることが確認できた。
     *
ハーツフィールドの当て字のペンネーム、芳津翻人(よしづはると)を使われていたことでも、
瀬川先生のハーツフィールドへの憧れはわかるというもの。

なぜ瀬川先生はハーツフィールドに、「イメージの中での終着駅」を見いだされていたのだろうか。
ハーツフィールドは、JBLのスピーカーシステムの中でも、ひときわ光を放っている。
どんなスピーカーなのかわからずハーツフィールドの写真を初めてみた瞬間、
私の中にも憧れは生れていた。

ハーツフィールドを置けるだけのしっかりしたコーナーを用意できれば、
それはつまりそれだけの財力があるということでもあるわけだから、
ハーツフィールドが似合うコーナー、そういう部屋で音楽を聴く、ということは、
一般的な日本住宅で生れ育った私にとっては、リッチなアメリカという異文化への憧れでもあった。

でも私にとっては〝理想〟のスピーカーではなかった。
強い憧れを抱くスピーカーではあってもだ。

けれど瀬川先生は、〝理想〟のスピーカーと表現されている。
その〝理想〟のスピーカーの音を聴き、求める音でないことを気づかれる。

《それだけに理想を託しやすい──》と瀬川先生は書かれている。
ハーツフィールドを〝理想〟のスピーカーとされたのは、なんだったのだろうか。

「スピーカーを選ぶ」とは、瀬川先生にとってはどういうことだったのだろうか。

Date: 3月 13th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続・認識の違い)

みな、使いこなしは大事だというし、使いこなしに気をつかっている、ともいう。
「何を変えたんですか」といきなりいってきた人も、常日頃そういっていた。
にも関わらず「何を変えたんですか」である。

この「何を変えたんですか」は、
念のため書いておくが、スピーカーの位置、向き、その他の使いこなしに関係することではなく、
システムの一部、もしくはすべて、つまりオーディオ機器を何か買い替えたんですか、という意味である。

「何を変えたんですか」と口にした人を紹介したのは私だった。
彼に悪いことしたな、とも思ったし、そういう人だったのか、とも思っていた。

システムのどこかを買い替えれば音は確実に変る。
良くなるかどうかの保証はないけれど、音は変る。

スピーカーの位置・向きを変えても、音は変る。
買い替えのような派手さはない、地味な作業ではあるが、音は変る。

どちらも使いこなしといえないわけではない。
とことん買い替えずに使いこなしていっても、
いつかは使っているオーディオ機器の限界が感じられてくる時期が来るであろう。
そういうときの買い替えは、使いこなしのうちに含まれる。

だが買い替えが、必ずしも使いこなしといえるわけではない。
そんなことは、オーディオマニアならばみなわかっていることのはずだ。

私が二度三度、同じ人の音を聴きたいと思う理由のひとつは、
その人がどう音と向き合い、使いこなしていくのをみたい(聴きたい)からだ。

スピーカーの力量に対して、明らかにアンプが力不足であるならば、
「アンプを買い替えたので、聴きに来ませんか」と誘われれば、もちろん行く。

けれど力不足とはいえないアンプを持っているにも関わらず、
使いこなしが不十分でスピーカーがうまく鳴っていないのであれば、
その人から聞きたいのは「きちんと調整したので聴きに来ませんか」である。
「アンプを買い替えたから、聴きに来ませんか」ではない。

Date: 3月 13th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(認識の違い)

もう十年くらい前のことだ。
ある人のリスニングルームで音を聴かせてもらった。
ちょっと意外な感じがした。
口には出さなかったけれど、聴かせてくれた人はそのことを感じとっていたのかもしれない。

数ヵ月後、連絡があった。
「聴きに来ませんか」だった。
自信ありげな口調のような気がした。

数ヵ月前に感じていた意外な感じは見事に消えていた。
いい音になっていた。

システムのどこかが変っていたわけではない。
CDプレーヤー、アンプ、スピーカーも同じままだ。
ラック、ケーブルの類も前回と同じだった。

変ったのは、スピーカーの位置と角度だけだった。
だから感心した。

彼は私だけでなく、もうひとりにも連絡していた。
そのもうひとりとは、私といっしょに聴きに行った人である。

彼が連絡した時に、もうひとりはこういった。
「何を変えたんですか」と。

彼はがっかりした、と私にいった。
そうだ、と思う。

音が良くなった、だからその喜びを誰かと共有したい。
できれば音、オーディオのわかっている人と。

システムはいっさい変更せずに、使いこなしだけでそうした場合にはよけいに、そう思う。

なのに「何を変えたんですか」である。
結局、もうひとりを誘うのを彼はやめてしまった。

Date: 3月 13th, 2015
Cate: 快感か幸福か

オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器(その4)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 1で、瀬川先生が書かれていることが、
この項を書いてみようと思ったきっかけになっている。
     *
音を聴き分ける……と書いたが、現実の問題として、スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなく、その音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
 もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
 たしかに、ひとつの研究機関としての組織的な研究の目的によっては、人間の耳を一種の測定器のように──というより測定装置の一部のように──使うことも必要かもしれない。いま紹介した某研究所長の発言は、そういう条件での話、であるのだろう。あるいはまた、もしかするとあれはひどく強烈な逆説あるいは皮肉だったのかもしれないと今にして思うが、ともかく研究者は別として私たちアマチュアは、せめて自分の装置の音の判断ぐらいは、血の通った人間として、音楽に心を躍らせながら、胸をときめかしながら、調整してゆきたいものだ。
 そのためには、いま音質判定の対象としている音楽の内容を、よく理解していることが必要になる。少なくともテストに使っている音楽のその部分が、どういう音で、どう鳴り、どう響き、どう聴こえるか、についてひとつの確信を持っていることが必要だ。
     *
まったくそのとおりであり、
音の聴き分けの判断で大事なのは、音楽の鳴り方がどう変化したのかを聴き分けることである。

けれど50をこえて思うのは、音楽をまったく聴き手に感じさせない音もあってもいいじゃないか、だ。
以前から、そしていまもオーディオマニアは音楽ではなく音を聴いている、といわれる。

そういう人もいるけれど、そういう人でさえ、
100%音だけを聴いているとはいえないはずだ。
どこかで音楽を聴いているのではないか。

純粋に音を聴くという行為は、オーディオマニアとはいえ、可能なのだろか。

もちろん、それは音楽をおさめたLPなりCDを再生してのことである。
戦車やジェット機、蒸気機関車などの音をおさめたディスクを再生してのことではない。

「音楽は聴いていない」と言い切れるのだろうか。
そうでなければ、音楽を聴いている、ともいえないのではないか。

Date: 3月 12th, 2015
Cate: オプティマムレンジ

オプティマムレンジ考(その8)

オーディオは、ほんのささいなことによっても音は変ってしまう。
こんなことで変ってほしくない、という気持ももちながら聴いても、
どこかを変えれば、音はわずかであったり、ときにはかなりの変化量であったりするけれど、
必ず音は変化する。

何をやっても音の変らない装置を開発できれば、
これは皮肉ではなく、素晴らしいことだと思う。
(ただし、ひどい音ではなくて、いい音の装置という前提はつくけれど)

なぜ、こんなにも音は変化するのか。
無数に、その理由はあるはずだろうが、ひとつはっきりと大きい理由としてあげられるのは、
オーディオの帯域幅が広いから、だと考えている。

人間の可聴帯域といわれている20Hzから20kHzまでは、10オクターヴである。
この10オクターヴにわたる帯域幅こそが、オーディオの難しさの根本的な原因のような気がする。

いま話題になることが多いハイレゾリューション(ハイレゾとは書きたくない)。
高域は20kHzよりも上まで延びるようになった。
40kHz以上でも、プログラムソースに信号として記録できるようになっている。
もっともっとも高域の限界は延びていく。

低域はハイレゾリューション以前から、かなり低いところまで記録できている。
アナログディスクでは8Hzまでカッティングが可能だし、
CDでは理論的には0Hzまで可能である。

低域は仮に10Hzだとすると、高域が20kHzまでであれば、11オクターヴに拡大する。
高域が40kHzまでになれば12オクターヴになる。80kHzで13オクターヴ。
帯域幅は広くなっていく。

帯域幅が広くなっていくことは技術の進歩ではある。
けれど、そこに懸念はないと言い切れるだろうか。

Date: 3月 12th, 2015
Cate: ケーブル

ケーブル考(その4)

中学、高校のころはケーブルは人の体にあてはめれば、
血管、神経というふうに考えていた。

たしかに血管でもあり神経でもある。
電源ケーブル、アンプ、チューナー、CDプレーヤーなどの内部配線における電源ラインは、
血管にたとえたほうがいいと思う。
信号ラインは、だから神経にあてはまる。

でも、ここで考えたいケーブルは、あくまでもオーディオ機器同士を接続するためのケーブルである。
アンプなどの内部配線ではなく、
その外側にあるケーブルであり、これらのケーブルの両端にはコネクターが存在する。
このコネクターは接点と言いなおしてもいい。

CDプレーヤーとアンプを接続するケーブルは、神経ともいえる。
アンプとスピーカーを接続するケーブルは、神経でもあり血管ともいえる。

そういうことは承知のうえで、ケーブルとは何かを考えるようになると、
あえて人の体にあてはめるのであれば、関節ということに行き着く。

Date: 3月 12th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その3)

オーディオの想像力の欠如が生むのは、硬直化であり、
硬直した企画・規格であり、ここから何が生じるのかははっきりとしている。

Date: 3月 11th, 2015
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その1)

古書店に、きれいなステレオサウンドのバックナンバーが並んでいるのを見つける。
きれいであることは嬉しい。
けれど、きれいであるということは、そのステレオサウンドはほとんど読まれていないということでもある。

これは、元とはいえ編集者だった者には悲しくみじめな気持になる。

そういえば、定期購読しているけれど、ここ十年くらいほとんど読んでいない、という声もきく。
別にステレオサウンドに限ったことではない。
他の雑誌・書籍についても同じことがあり、同じことがいえる。

私のところには、ステレオサウンド 38号が二冊ある。
一冊は岩崎先生が読まれていた38号である。
かなりボロボロになっている。

この38号は39号、40号などといっしょに私のところにある。
38号だけがボロボロになっている。

岩崎先生にしっかりと読まれたことで、38号は「本」としての役目を果したといえる。
岩崎先生によって「本」になったといえる。

書店に並んでいるのは、たしかに本である。雑誌であり書籍である。
けれど購入されても、禄に読まれなければ、紙の束でしかない。
しかも何も書かれていない紙の束は他の用途に使えるが、
印刷されている紙の束は、あまり他のことには使えない。

出版社にとっては、読まれようが読まれまいが、売れればそれでいい、ともいえる。
発行部数が多ければ広告は多くはいってくるし、広告料も強気でいられる。
それでもいいのが資本主義(商業主義)なのかもしれない。

どれだけの人が読み、どれだけの人が読まないのかはわからないが、
読んでいない人がいることは事実である。
そういう「本」になりそこね紙の束のままで終えてしまうものに、
文章を書いていくことに、まったく疑問を持たずにいられるのだろうか。

疑問を持っている人、いない人がいると思う。
疑問をもたずに書いている人は、商業主義的書き手といえるのか。

そして編集者は……、とおもう。

Date: 3月 11th, 2015
Cate: バスレフ(bass reflex)

バスレフ考(調整の仕方)

バスレフ型の音(低音)を極端に嫌う人がいる。
そういう人の中には、バスレフ型のスピーカーで聴く場合、
曲ごとにバスレフポートのチューニングをするという人もいる。

ポートになにもつめない状態。つまりメーカーの意図通りの使い方。
ポートに吸音材をつめていく。
吸音材の種類を変えたり、量を変えたりしてチューニングしていく。

バスレフ型のスピーカーを使った経験のある人ならば、
一度は試したことのある人も多いと思う。
いい悪いではなく、かなりの変化があるのは確かで、
でも、曲ごと(レコードごとに)ポートのチューニングを変えるというのは、
やっている本人にしてみれば最適のチューニングポイントを見つけ出して、
それに合わせる行為と思っているだろうが、
実のところ、最適のポイントから少しズレているからこそ、極端なことに走ってしまうともいえなくもない。

もちろんすべての曲(レコード)に対して、最適のポイントが必ずしもあるとはいえない。
けれど、そんな極端なことをやっている(やらざるをえない)のは、
どこか間違っているのではないか、と疑うことも必要ではないのか。

バスレフのチューニングは手軽にやれる。
しかもすぐに元に戻せる。

音に不満がある場合、
それは必ずしもバスレフポートに原因があるとは限らないのだが、
それでもバスレフポートのチューニングをすることを否定はしない。

あれこれやってみて経験を増やしていくことは大事だからだ。

そういえば、井上先生が以前、バスレフ型の簡単なチューニング方法を書かれている。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」パイオニア号に載っている「音づくりチャレンジプラン」。

ここにこんなことを書かれている。
     *
①アンプの入力端子のプラス側にシールドされていないコードをさし込み、ハム音を出す。このときの出力はできるだけ小さくしておき、だんだん必要な音量にあげること、最初からボリュウムを上げておくとアンプやスピーカーを破損する場合もある。このハム音によって低域のバスレフチューニングをとる。角型ダクトの場合には、ある程度の厚さをもつ板を入れることによりダクトの容積が可変できるので便利だ。このハム音によって低域のレスポンスの変化を聴きとる。
②乾電池の使い古したものを使う方法もある。電池の両端にスピーカー端子をつけたときは、電池の内部抵抗だけでアンプの実装状態に近くなり、放した瞬間は、オープンになったときと同じで、音の消え方が大体判断できるわけだ。こうして電池によって音の立上りや立下りが、とくに低域についてよくわかるので、バスレフチューニングをとる場合などには役立つ方法だ。
     *
試されるのであれば、井上先生が書かれている注意点を守ることである。

Date: 3月 11th, 2015
Cate: JBL, ステレオサウンド

JBL DD77000とステレオサウンド 200号

JBL PROFESSIONALのスタジオモニターM2の存在を二年遅れで知り、
発表当時から知っていた人からすれば、いまさら……、と思われていようと、
M2というスタジオモニターは非常に興味深いだけでなく、
なぜM2に採用された技術がコンシューマー用スピーカーに採り入れられていないのかについて、
つい考えてしまう。

少なくともデュアルダイアフラムのD2ドライバーは、
すぐにもコンシューマー用に採用されても不思議でないのに……、である。

なぜか、という答はすぐに思いつく。
来年(2016年)は、JBL創立70周年である。
ということは、60周年記念モデルのDD66000に代るモデルとしてDD77000が開発中と考えられる。

JBLに関心のある人ならば、多くの人がDD77000の登場を予測しているだろう。
どういうシステム構成になるのか、DD66000と何が同じで何が違ってくるのか。

その最大のヒントとなるのが、D2ドライバーの存在といって間違いはないはず。
DD77000にはデュアルダイアフラムのコンプレッションドライバーが搭載されるはず。

ウーファーはM2と同じシングルなのか、DD66000と同じダブルなのかはわからない。
ホーンの形状もM2のホーンに多少変更が加えられるのか。
少なくとも材質は変更されるように思う。

それからM2はマルチアンプ駆動なのに対して、DD77000はネットワーク内蔵となることは間違いないだろう。
M2は単なるマルチアンプ駆動ではない。
そのへんをネットワークでどう対応するのか、もしかするとオプションでマルチアンプ駆動、
それも専用アンプとデジタル信号プロセッサーによるものが用意されるのだろうか。

M2はクラウン(アムクロン)のアンプがそうであるから、
DD77000では同じハーマングループのマークレビンソンのアンプが専用アンプとなるのか。

こんなことをM2の存在を知ってからの数日、考えていた。
この予測がどこまで当るのかは来年になればはっきりする。

仮にDD77000が登場するとして、それはいったいいつになるのか。
これに関してはけっこう自信がある。
おそらく9月になるはずだ。

2016年9月に出るステレオサウンドは200号、つまり創刊50周年記念号である。
ここに合わせてくるし、200号の表紙はDD77000のような気がしている。

つまりステレオサウンド 200号でDD77000はお目見えとなるはずだ。
発表は9月よりも少し早いかもしれない。
それでも情報解禁はステレオサウンド 200号の発売日になるのではないか。

あと一年と六ヵ月である。

Date: 3月 10th, 2015
Cate: バッハ, マタイ受難曲

カラヤンのマタイ受難曲(その5)

カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーによるマタイ受難曲を聴き終えて、
もう一度、黒田先生の「バッハをきくのはメービウスの輪を旅すること」を思い出していた。

メビウスの環の裏と表、
カラヤンの場合、片方がマタイ受難曲でもう片方がパルジファルであるような気がしたからである。
メビウスの環だから、どちらが表で裏なのかは同じことであるから、
マタイ受難曲が表でパルジファルが裏とはいえない。

続いているように聴こえてくるのは、
ずっと以前とはいえ「バッハをきくのはメービウスの輪を旅すること」を読んでいたからなのか、
そしてマタイ受難曲を聴く前にも読み返していたからなのか。

なんにしても、いまの私はカラヤンのマタイ受難曲とパルジファルを切り離して受けとめることはできない。

そしてすこしだけ思うのは、
マタイ受難曲もパルジファルと同レベルの録音であったなら……、である。

Date: 3月 9th, 2015
Cate: アナログディスク再生

建造物としてのアナログプレーヤー(その1)

スタートレックに登場するU.S.S. ENTERPRISE NCC-1701。
スタートレックをみるたびに、アメリカが生んだ最高のデザインのひとつだと思うとともに、
アナログプレーヤーに、このカタチをもってこれないだろうか、とも思ってしまう。

エンタープライズ号は建造物である。
アナログプレーヤーもまた建造物として捉えた方がいいのではないか。

これまでにいくつかの、そう捉えられるアナログプレーヤーが登場しているものの、
エンタープライズ号の域に達しているとは、まだまだいえない。

Date: 3月 8th, 2015
Cate: 快感か幸福か

オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器(その3)

はっきりとドンシャリ型といえる音は、下品である。
けれど、ドンシャリすれすれといえる音を出すオーディオ機器(特にスピーカーにおいては)が、
魅力的に聴こえることがあるのも事実である。

たとえばイギリスのスピーカー、フェログラフのS1。
     *
 聴きようによっては、いわゆるドンシャリすれすれのような特異なバランスだが、音像定位のシャープさ、音色の独特の魅力、デザインの美しさ、ともかく捨てがたい製品。
(ステレオサウンド 35号)
     *
瀬川先生が書かれたものだ。
S1は初期のモノと後期のモノとでは音のバランスに違いがあるといわれている。
ドンシャリすれすれなのは、おそらく初期のS1のことだろう。

人によっては、S1の音のバランスはあきらかにドンシャリだと感じるかもしれない。
けれど瀬川先生にとっては、あくまでもドンシャリすれすれであり、ドンシャリではない。

それはやはり下品な音かそうでないかによって、その境界線は決ってくるからである。
総じてフェログラフのS1と同時代のイギリスのスピーカーシステムの音のバランスは、
ドンシャリすれすれまでいかなくとも、ドンシャリ的傾向のモノがいくつかあった。

ステレオサウンド 36号「実感的スピーカー論 現代スピーカーを展望する」の中で、
瀬川先生は書かれている。
     *
数年前からイギリスの新しい世代のスピーカー、KEFやB&Wやスペンドールやフェログラフなどの新顔が少しずつ入ってきた。その新顔たちにまず顕著だったのが、先にも書いたハイの強調である。B&WのDM2など、13キロヘルツから上にスーパートゥイーターをつけて、あくまでも高域のレインジを延ばす作り方をしている。この方法論はスペンドールにも受け継がれている。ハイを延ばすことの割合に好きなはずの日本でも、12~13キロヘルツ以上にトゥイーターのユニットを一個おごるという作り方は、かつてなかった。
 しかしレインジを延ばしたことが珍しいのであるよりも、その帯域をむしろ我々には少しアンバランスと思えるくらい強調した鳴り方におどろかされ、あるいは首をかしげさせられる。イギリス人の耳は、よっぽど高音の感度が悪いんじゃないかと冗談でも言いたくなるほど、それは日本人の耳にさえ強調しすぎに聴こえる。同じたとえでいえば、イギリス人は中音域を張らすことをしない。弦や声に少しでもやかましさや圧迫感の出ることを嫌うようだ。そして低音域は多くの場合、最低音を一ヵ所だけふくらませて作る。日本にも古い一時期、ドンシャリという悪口があったように、低音をドンドン、高音をシャリシャリ鳴らして、中音の抜けた音を鳴らしたスピーカーがあったが、イギリスのは、低音のファンダメンタルは日本のそれより低く、高音は日本より高い周波数で、それぞれ強調する。むろん中域が〝抜けて〟いたりはしない。音楽をよく知っている彼等が、中音を無視したりはしない。けれど、徹底的におさえこむ。その結果、ピアノの音が薄っぺらにキャラキャラ鳴ったり、サックスの太さやスネアドラムのスキンの張った感じが出にくかったり、男声が細く上ずる傾向さえ生じるが、反面、弦合奏や女声の一種独特の艶を麻薬的に聴かせるし、楽器すべてをやや遠くで鳴らす傾向のある代りにスピーカーの向う側に広い演奏会場が展開したような、奥行きをともなって爽やかに広がる音場を現出する。
     *
ドンシャリといっても、
ドンとシャリとがどれだけ離れているのか、
そして中音域が抜けていないこと、
これらによって、ドンシャリとドンシャリすれすれの境界線ができてくるのではないだろうか。

Date: 3月 7th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その2)

オーディオの想像力の欠如が端的にあらわれたのが、
「名作4343を現代に甦らせる」の記事であり、その試聴記である。