Archive for category テーマ

Date: 12月 15th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その2)

長島先生が、どんなふうに言われていたのかを正確に引用するために、
ステレオサウンド 38号をひっぱり出していた。

38号の特集記事「オーディオ評論家 そのサウンドとサウンドロジィ」の巻頭は、黒田先生が書かれている。
「憧れが響く」とつけられた黒田先生の文章を、だからひさしぶりに読み返していた。

すると、調教という言葉が出てきた。
この黒田先生の文章を以前に読んでいたから、
調整なのか調教なのか、ということを思いついたと、だからいえるのかもしれない。

文章を書くことに慎重な黒田先生が、調整ではなく調教を使われている。
そこのところを引用しておく。
     *
 このスピーカーならああいう音といった予断が、ぼくにも多少はあった。しかしそうしたぼくのぼくなりの予断を、オーディオ評論家八氏は、いとも見事に、くつがえした。彼らは、再生装置というレコードをきくための道具を、完璧に手もとにひきつけ、自分の音をそこからださせていた。このスピーカーならああいう音という、一種の思いこみにかなわぬ、つまりそれがもつ一般的なイメージから微妙にへだたったところでの、それぞれの音だった。しかし、それがそれ本来の持味、特性を裏切っていたというわけではない。
 したがって彼らは、それぞれの機械を、名調教師よろしく、申し分なく飼育してしまっていたといういい方も、可能になる。
 しかし、彼らは、なにゆえに、おのれの装置を調教したのか。おそらく、目的は、調教することにはなく、その先にあったはずだ。いや、かならずしもそうとはいえないかしれない。一般的にはあつかいにくいといわれている機器を、敢て、挑戦的な意味もあって、つかいこなすことによろこびを感じることもあるだろう。その場合の、つかいにくいとされている機器は、暴馬にたとえられる。暴馬を調教するには、当然それなりのよろこびがあるにちがいない。
 ここでひとつあきらかになることがある。それはオーディオ評論家とは、再生装置の調教師であり、同時に、騎手でもあるということだ。
     *
調整と調教の違いは、整えると教えるにある。
教えることで、そのモノと行動をともにすることができる、といえるのではないか。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(売れればいいのか)

附録をつければ、それで売上げが伸びるからこそ、
出版社はあれこれ附録をつけた雑誌を出すようになってしまっている。

出版界は厳しい状況にある、とよくいわれる。
そうだと思う。
だから、少しでも売上げが伸びるのであれば……、と思って附録をつける。

ステレオサウンド 197号の附録は、売上げにつながる附録とはいえないと私は思っているが、
私とは反対に、あの卓上カレンダーがついていたから買った、という人もいるであろう。

もしかしたらカレンダーによって、197号の売上げは伸びているのかもしれない。
けれど、読んでいる人はほんとうに増えているのだろうか。

本が売れればいい──、
そうやって附録をつけたりして売上げを伸ばしていく。
会社は利益をあげなければ継続していかないのだから、理解できないわけではない。

けれどそうやって伸びた売上げは、読まれることを増やしていることに必ずしもつながらない。
附録目当ての人は、附録が充実していればそれで満足する。

その7)に書いたように、
ステレオサウンドを毎号買ってはいるけれど、読んでいない、という人たちは確実にいる。

編集部としては、読まれていないステレオサウンドであっても一冊は一冊であり、
その一冊は毎号買われていくわけで、利益になっているわけだから、それでもいい──、
となるのだろうか。

何で読んだのかは忘れてしまったが、
ドイツ・グラモフォンのプロデューサーが、こんなことをいっていた。

いわゆる売れ筋の曲のカップリングに、マイナーな、あまり知られていない曲を選ぶのは、
あえてやっていることであり、我々(レコード制作者)は聴き手に認知させる、
いわば聴き手を教育するということが求められている──、
そんな趣旨のことを読んだことがある。

売れ筋の曲(録音)に、さらに売上げを伸ばすように、
同じくらい売れ筋の曲(録音)をカップリングすることだってできる。
目先の利益のみにとらわれているのであれば、そのほうがいい。

けれどレコード会社の使命というものがある。
そのことを承知している人たちは、あえてマイナーな曲をカップリングして、
その曲が少しでも世の中に広まっていくようにこころがけている。

出版社としての使命は……、どうなっているのだろうか。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その7)

その6)にコメントがあった。
コメントをくださったGravitychildさんは、私と同じだった。

カレンダーにつられて数年ぶりにステレオサウンドを購入しようと思い書店に行かれている。
けれど、カレンダーのチープさにがっかりされ、買わずに書店を後にされている。

まったく私と同じ人が、やはりいるんだ、と思いながら読んでいた。
Gravitychildさんと私、
ステレオサウンド 197号を買おうと思っていたのに買わなかった人が、ふたりはいるわけだ。
ということは、同じ人がもっといるとみていいだろう。

Gravitychildさんも私も、以前は熱心なステレオサウンドの愛読者だった。
けれどいつのころからか買わなくなってしまった。

私の周りにも買わなくなった人はいるし、
買ってはいるけれど、惰性で買っているんだけどほとんど読んでいない、という人も何人かいる。

買わなくなった人を、今回のカレンダーは買わせるきっかけだったはずだ。
けれど、編集部は何を考えてなのだろうか、あの程度のカレンダーをつけてしまった。

ステレオサウンド編集部の人たちは、あのカレンダーを組み立てて、
編集部内の自分の机の上に置いているのだろうか、
もしくは自宅に持ち帰り、自分のリスニングルームに飾っているのだろうか。

飾っていない・置いていないとしたら、
なぜその程度のカレンダーしかつけないのか、と問いたくなる。

飾っている・置いているとしたら、
ほんとうにあの程度のカレンダーで満足しているのか、と問いたくなる。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: 音影

音影と陰翳礼讃

音像と音場。
これだけでなく、音影という、再生音の捉え方があると考えるようになった。

音像はおんぞうと読む、
音場は、おんじょう、もしくはおんばと読む。
ならば音影は、おんえいとなるわけだが、いんえいとも読める。

いんえいは、陰翳でもあり、
陰翳礼讃であり、
私の中では、音影と陰翳礼讃のつながりについて書いていくのが来年のテーマになりそうだ。

Date: 12月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム
1 msg

附録について(その6)

雑誌が附録をつけるのは、売上げを伸ばすためである。
今回のステレオサウンドにしても、附録といえるような卓上カレンダーがついていたら、
私は買っていた。

附録につられて、講読をやめていたステレオサウンドを買っていたであろう。
けれどおまけ程度のカレンダーだったら、買わなかった。

こんなカレンダーをつけるくらいだったら……、と思い出したことがある。
これもずっと以前のステレオサウンドがやっていたことである。

私が毎号愉しみにしていたころのステレオサウンドには、
巻末にアンケートハガキが毎号ついていた。
毎回、びっしり書きこんで送っていた。

このアンケートハガキを返してきた読者に対して、
ステレオサウンドは発売間際になると、案内ハガキを送ってくれた。
発売になる号の表紙が印刷された、いわば絵ハガキである。

毎号、この案内ハガキが届いた。
時には、ステレオサウンド購入後に送られてくることもあった。
それでも、まだ10代の読者であった私は、これを楽しみにしていた。

ハガキ一枚であっても、嬉しい。
197号の、おそまつな卓上カレンダーよりも、あのころの案内ハガキのほうがよかったといえる。

いまではインターネットが普及しているから、新号の案内はウェブサイトでできる。
メールマガジンでもできる。
わざわざ、これらよりも経費のかかる案内ハガキを送る必要性はないという判断は、
会社経営としては間違っていないといえる。

でも間違っていないからといって、正しいわけでもないはずだ。
あのころのステレオサウンドを読んでいた私は、その嬉しさをいまも憶えている。
憶えているから、197号の卓上カレンダーによけいにがっかりした。

いまのステレオサウンド編集部には、そのころ読者だった人はいないのだろうか。

Date: 12月 14th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その1)

オーディオは使いこなしが大事だ、と誰もがいう。
私もいう。

使いこなしについては、これまで書いてきている。
これからも書いていくのだが、
使いこなしは調整とは、必ずしも同じ意味をもつわけではない。
だからこそ、「使いこなし」と「調整」というカテゴリーをわけて書いている。

もちろん同じ意味で使うこともあるし、使いこなしと調整は切り離せるわけでもない。
それでも使いこなしと調整は、微妙に違う。

使いこなしと調整の違いを、もっと端的に言い表せないのか。
そう思っている。

調整に似た言葉として、調教がある。
辞書には、馬、犬、猛獣などを訓練すること、とある。

オーディオ機器は、馬、犬、猛獣の類だろうか。
オーディオ機器はあくまでも工業製品である。
馬、犬、猛獣といった動物とは大きく違う。

それでも、「このスピーカーはじゃじゃ馬だから」という表現が昔からある。
長島先生はジェンセンのG610Bをはじめて鳴らした時の音を「怪鳥の叫び」みたいだ、
とステレオサウンド 61号で語られている。

さらに38号では、
「たとえばスピーカーでいえば、ムチをふるい蹴とばしながらつかっているわけですから」
ともいわれている。

長島先生のG610Bに対する使いこなしは、
調整よりも、調教という言葉のほうがぴったりとくる。

Date: 12月 14th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(飢餓感)

私は13の時からオーディオに興味をもった。
もっと早くから、という人もいるだろうし、少し遅くからという人もいるけれど、
多くのオーディオマニアは10代のころにオーディオに関心・興味を持ち始めた、と思う。

私が10代だったころ、オーディオ雑誌はいまよりも多く出版されていた。
けれどインターネットはなかった。
しかも住んでいたのは、東京ではなく熊本の田舎町である。

そういう環境だったから、東京に出てくるまでは、
オーディオに関しては飢餓感といえるものがあった。

飢餓感があったからこそ、何度もくり返し読んできた。
モノクロの小さな写真もくいいるように見てきた。

いまはインターネットのおかげで、オーディオに関する情報の量は、
私が10代だったころとは比較にならないほど増えている。
写真ひとつにしても、カラーが標準といえる。

粒子の粗いモノクロ写真が大半だったから、
いまのような状況は、写真ひとつにしても情報量が増えている、といえる。

その意味では、いまの10代は飢餓感を感じることはあまりないのかもしれない。
むしろ満腹感があるのではないのか。
そんなことを考えもする。

Date: 12月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その5)

ひさしぶりにステレオサウンドを購入しようと思っていた。
附録のカレンダーにつられて、である。

でも、ステレオサウンド 197号の目次をインターネットで確認すると、
「付録カレンダーの組み立て方」とある。
組み立てるカレンダーなのか、少しいやな予感がしていた。

書店に行き197号を手にした。
49号についていた卓上カレンダーのイメージで、197号を手にしたわけだが、
えっ、と思った。パラパラとページをめくっていくと、最後にカレンダーがついていた。

こういうことだったのか、とがっかりした。

49号の卓上カレンダーがどういうモノだったのかは、こまかなことは憶えていないが、
今回のようなモノではなかったことだけは確かだ。

安っぽさは、49号の附録であった卓上カレンダーにはなかった(はずだ)。
197号のカレンダーは附録なのだろうか、
おまけにしか思えなかった私は、買わずに書店を出た。

言葉の意味としては、附録もおまけも同じとしても、
言葉のニュアンスとして、微妙に違うところを感じる。

一年後の201号にも、卓上カレンダーの附録をつけてくるのだろうか。
それとも創刊50周年にむけての今回だけの附録(おまけ)だったのか。

もし201号にもつくのであれば、附録としての卓上カレンダーをつけてほしい。

Date: 12月 13th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その23)

つきあいの長い音は、そのつきあいにおいて聴き手とともに目的地をつくっていく──。

Date: 12月 13th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その22)

つきあいの長い音は、音の目的地を聴き手にわからせるものなのか。

Date: 12月 13th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その21)

つきあいの長い音──、裸形の音と向き合っていくことなのかもしれない。

Date: 12月 13th, 2015
Cate: ケーブル

ケーブル考(コネクターのこと)

1977年にマークレビンソンのコントロールアンプLNP2とJC2は、
入出力端子にCAMAC規格のLEMOコネクターを採用した。

それまではスイッチクラフト製のRCAコネクターだった。
LEMOコネクターの採用により、変換アダプターかLEMOコネクターを使った専用ケーブル、
そのどちらかが必要となる。
面倒であり制約のあるコネクターなのは、これを選んだマーク・レヴィンソン自身がよくわかっていたはずだ。
それでも、信頼性ということで、レヴィンソンはLEMOを選んでいる。

LEMOコネクターは抜き差しの際、ホット側が先に外れるし、アースが先に触れる構造である。
つまりアンプのボリュウムを上げたまま、入力ケーブルの抜き差しをやっても、
スピーカーからショック音は出てこない。

オーディオマニアならば、一度は、ケーブルを何かの拍子に抜いてしまって、
ものすごい音をスピーカーから出してしまった経験があると思う。

これはRCAコネクターの構造上、抜く場合にはアース側が先に外れ、
差す場合にはホット側に先に接触してしまうからである。

アース側が接触していれば、ホット側の抜き差しでの音は発生しない。
だからステレオアンプの場合、たとえばCDプレーヤーとの接続をケーブルを交換する際、
左右チャンネルのどちらかのケーブルを抜く際には、音は発生しない。

なぜならば、アンプの内部で左右チャンネルのアースは接続されているから、
片側のケーブルを抜いても、もう片方のケーブルが接続されているからアースは接続されていることになる。
これで安心してしまって、残りのケーブルを抜いてしまうと、ショック音は出る。

LEMOコネクターでは、そんな心配は関係なくなる。
バランス接続に使われるXLRコネクター(いわゆるキャノンコネクター)も問題はない。

いちばん普及しているRCAコネクターだけが、構造上の欠陥をいまも抱えたままである。

この問題点はずっと以前から指摘されていた。
マークレビンソンのLEMO採用以前からの指摘である。
にも関わらず、いまもそのままになっている。

使い手が気をつけていれば問題ない、とはいえる。
けれど時として不注意で……、ということはある。
しかもいまは大出力のアンプが当り前のようにある。

ケーブルの値段の上限は、まるでないかのようである。
コネクターも高価なものがいくつもある。
それでもRCAコネクターのままである。

いったいいつまでRCAコネクターのままなのだろうか。

Date: 12月 12th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(アニメソングとオーディオ・その1)

アニソンオーディオというムックが、音元出版から出ている。
不定期で、いまのところ二冊のみのようだが、売行きはどうなのだろうか。

いまのヘッドフォン・イヤフォンブームをささえているのは、
アニソンオーディオの人たちだという人もいる。

アニソンとは、アニメソングのことである。

ずっとずっと以前、ジャズがクラシックより低級の音楽としてみられていたころ、
ジャズオーディオという言葉が生れた。
アニソン(アニメソング)も、クラシック、ジャズしか聴かないような人からすれば、
当時のジャズと同じような位置づけの音楽ということになるのかもしれない。

とすれば、いつの日か、アニソンオーディオも、
現在のジャズオーディオと同じような位置づけになる可能性もあるだろう。

今日ラジオを聴いていたら、アニソンジャズという言葉をきいた。
はじめて聞く言葉だった。
アニメソングジャズの略だとすぐにはわかったし、
アニメソングをジャズにアレンジしてのものだということは想像がついたけれど、
実際にはどんな感じに仕上っているのかは、想像できなかった。

今日たまたま耳にしたのは、ラスマス・フェイバーのアルバムだった。
アニソンジャズも初めてなら、ラスマス・フェイバーも初めて知る人だった。

「ラスマス・フェイバー・プレゼンツ・プラチナ・ジャズ ~アニメ・スタンダード」はすでに五枚出ている。
日本だけの発売かと思っていたら、そうではない。

古いアニメから新しいアニメまで、かなり広くカバーしている。
短い時間ではあるもの、試聴もできる。
子供のころ、よく口ずさんでいたアニメの主題歌が、確かにジャズになっていた。
もとのアニメソングを知らない人が聴いたら、どう感じるのだろうか。
そのへんも知りたいと思わせるような出来で、
「どろろ」の主題歌をぜひ録音してほしい、とも思っていた。

1963年生れの私にとって、アニメソングの歌い手は、
佐々木功(現在ではささきいさお)と子門真人のふたりが代表的な存在だった。

ささきいさおはオーディオマニアとしても知られている。
ステレオサウンドの弟誌であるサウンドボーイの創刊号に登場されている。

そこでこんなことを語られている。
     *
ヤマトに限らず、アニメーションの主題歌ってのは、画面に負けないエネルギーを全部ぶつけるようなパワーがないとだめなんです。〝たいやきくん〟の子門真人にしてもロック調でしょう。歌謡曲の人がやると、メロディーに流れてダメになっちゃうんです。
     *
たしかにそうだった。アニメソングには、歌謡曲にはないパワーがあった。
そんなアニメソングも、いつしか変っていった。
《画面に負けないエネルギーを全部ぶつけるようなパワー》はいつしか影をひそめていった。
テレビのない生活をしているから、アニメをずっと見てきているわけではない。
見ていない時期の方が圧倒的に長い。

それでも最近のいくつかのアニメを見ていると、主題歌がずいぶんと変ってしまったことを感じる。
歌謡曲がいつしかJ-POPと呼ばれるようになった(分れていった)のと同じようなものなのか。

Date: 12月 11th, 2015
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(リザイエとノア)

少し驚いたことがある。
カウンターポイント、スレッショルド、ボウ・テクノロジーズ、マイケルソン&オースチン、VTLの修理を、
12月25日が最終受けつけとなることを、11月にノアが発表している

VTL以外のメーカーはすでに活動を停止している。
マイケルソン&オースチンといえばTVA1がその代表機種だが、TVA1は1979年に登場している。
かなり長いこと製造されてきたとはいえ、1990年ごろには製造をやめていたと記憶している。
この記憶が正しければ、最後に製造されたモノでも25年、初期のモノであれば35年以上が経過している。

ノアがカウンターポイントの修理を受けつけていたことは知っていたが、
マイケルソン&オースチンの修理をいままで受けつけていたことに、少々驚いた。
とっくに修理はやめていたものだと、勝手に思っていたからだ。

だから今回の修理をやめてしまうことを聞いても、いままでよくやってくれたな、とは思っているし、
仕方ないことだとも思っている。

けれど、昨日書いたリザイエのサイトには、
カウンターポイント、スレッショルド、ボウ・テクノロジーズ、マイケルソン&オースチン、VTLの修理を受けつけるとある。

おやっ、と思った。
なんとタイミングがいいんだろうか、と。
考えた。

これはあくまでも私の勝手な推測でしかないのだが、
リザイエの設立にはノアの協力があったのではないだろうか。
そう思えてならない。

VTL以外の会社はすでにないわけだから、修理に必要な技術資料はどこかから入手しなければならない。
それに回路図があれば、満足のいく修理ができるとは限らない。

修理には高い技術力とノウハウも必要となる。
にも関わらず、ハーマンインターナショナル、山水電気、シュリロ貿易、ヘビームーンが扱ってきたことのないブランドの修理を手がける。
ということはJBLやマークレビンソンなどと同じレベルで修理できるということのはずだ。

満足のいく修理ができないのであれば、修理を受けつけるブランドに、
カウンターポイント、スレッショルド、ボウ・テクノロジーズ、マイケルソン&オースチン、VTLは加えないはずだ。
それをあえて加えている。

これが意味することを考えると、ノアのなんらかの協力があったと。私は勝手にそう思っている。
そして技術資料、修理のノウハウ、補修部品もノアから提供があったのではないのか。

修理をただやめてしまうのではない。
ここに、ノアのオーディオの輸入商社としての義があるように感じている。

Date: 12月 10th, 2015
Cate: ロングラン(ロングライフ)

どこに修理を依頼したらいいのか(リザイエのこと)

さきほどfacebookで得たばかりの情報である。
リザイエという会社がある。
新しい会社のようだ。

デンマークのスピーカーユニットメーカー、スキャンスピークの輸入元である。
そのリザイエをここで紹介しているのは、輸入業務だけではなく、
オーディオ機器の修理も行っているからだ。

リザイエの匠たち》というページでは、
五人の写真とプロフィールがある。
シュリロ貿易、ハーマンインターナショナル、ヘビームーン、山水電気で、
長年仕事をやってこられたベテランの方々である。

山水電気、ハーマンインターナショナルの名前があることからわかるように、
JBLのスピーカーの修理をやってくれる。

それだけでなく、マークレビンソン、スレッショルド、カウンターポイントといったアンプの修理
SME、ワディアの製品の修理も行ってくる。

もちろんすべての機種の修理ができるわけではない。
製造中止になってかなりの年月が経っているモノもあるし、
すでにメーカーがなくなっているところもいくつかある。
事前に連絡して確認する必要はあるだろうが、これは仕方ないことである。

まだ実績はないに等しい会社ではあるが、
期待できる会社であり、信頼できる会社だと私は思う。

高い技術でオーディオ機器を修理してくれる会社が、こうやって増えていくのはいいことだ。
いいかげんな修理しかできないのに、
完全オーバーホール、オリジナル通りの修理を謳うオーディオ店が少なくないからだ。

なぜ、そんな店がやっていけるのか。
だまされて買う人がいるからだ。
だまされていても、買った人がシアワセならば、第三者の私がとやかくいうことではない。
だが、一人だまされる。だまされた人は、その店を信じきっている。
そうなると、だまされた人を信じている人が、その店にだまされることだってある。

そうやってあくどい商売、いいかげんな商売が成り立ってしまう。
成り立たせてしまう、ともいえる。