二度目の「20年」(戻っていく感覚)
「五味オーディオ教室」と出逢ってから40年。
遠くに来た、という感覚がある。
年齢的にも遠くに来た。
他の意味でも遠くに来た。
遠くに来たからこそ、戻っていく感覚が強くなっている。
そのくらい「五味オーディオ教室」は40年前の私にとって遠くにあった。
「五味オーディオ教室」と出逢ってから40年。
遠くに来た、という感覚がある。
年齢的にも遠くに来た。
他の意味でも遠くに来た。
遠くに来たからこそ、戻っていく感覚が強くなっている。
そのくらい「五味オーディオ教室」は40年前の私にとって遠くにあった。
オーディオの想像力の欠如がしているところに、オーディオの規範はない。
オーディオの想像力の欠如が、セッティング、チューニングの境界をさらに曖昧にしている。
五年ほど前のステレオサウンドで、
ファインチューニングとつけられた記事が短期連載されていた。
この記事を読んで、
そうか、いまのステレオサウンドは、ここに書かれていることをチューニングと称するのか、
そう思ったものだ。
おそらくセッティングとチューニングについてじっくり考えたうえでのタイトルではないはずだ。
たしかにチューニングとセッティングは、その境界が曖昧でもある。
にしても……、である。
結局、わかったつもりで留まっているからのタイトルである。
同時に、セッティングとチューニング、さらにはエージングについて、
考え抜くことを一度もやったことのない者がつけたタイトルともいえる。
セッティングとチューニングの境界については、
すぐには、はっきりとした答が出せるわけではないが、
それだからこそ、セッティングとチューニングの使い分けには慎重であるべきだ。
そして、このことには、別項で書いている正しい音、正しい聴き方にも深く関係してくる。
2017年最初のaudio wednesdayは、1月4日。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
そういう視点でとらえれば、
スレッショルドのパワーアンプSTASISシリーズのプリント基板の色も青である。
STASIS回路は、それまでのパワーアンプの設計手法とは違う。
NFBに極度に頼ることなく、静特性ではなく動特性を重視した、といえるだけに、
プリント基板に青を採用したようにも、私は捉えている。
そのころのアンプのプリント基板で青色のものがあっただろうか。
ステレオサウンド 58号の表紙にSTASIS 1が登場している。
天板を取った状態で、メイン基板が写っている。
青色なんだ、と思った。
ソニーのウォークマンは、
それまでのテープデッキは録音機能があるのが当然だという考えに対してのアンチテーゼ、
ここでもこじつけることができる。
そして青といえば、EIZOのFORIS.TVがある。
加賀群青のテレビである。
川崎先生のデザインである。
FORIS.TVは、あのころの液晶テレビに対してのアンチテーゼだ、と、
加賀群青という色だけでも、そう捉えることができる。
青について書く気になったのは、AMPZiLLA 2000の存在がまずあり、
AMPZiLLA 2000のデザインについて、あまりにも無理解な文章を目にしたからである。
オーディオにおける青の意味はあるとしても、
それが各メーカーで共通しているわけでもないだろう。
JBLの青とソニーの青とが、同じ意味が込められているわけでもないだろう。
それは承知のうえで、オーディオにおける青には、アンチテーゼの意味が込められているように感じる。
私がそう感じているだけであるにすぎない。
けれど(その1)に書いたステレオサウンドのロゴの青。
1966年にステレオサウンドが創刊されたとき、日本にはどんなオーディオ雑誌があったのかをふり返れば、
私はそこにアンチテーゼの意味を感じてしまう。
そうだとしたら、いまのステレオサウンドのロゴに青はふさわしくない。
JBLのスタジオモニターのバッフルの青にしても同じだ。
それまでスタジオモニターといえばアルテックの604を収めたモノが圧倒的シェアだった。
そこにJBLは切り込んでいった。
4300シリーズは最初からブルーバッフルだったわけではない。
4350、4341といった4ウェイのシステムからの青である。
これらの4ウェイ・モデルは、全帯域にわたる指向特性の改善・均一化を図って、である。
単に周波数特性を広げたかったわけではない。
ユニット構成をみれば、そのことはすぐに気づくはず。
最低域を受け持つウーファーと最高域をうけもつトゥイーターは、
3ウェイの4333と同じなのだから。
だからJBLのスタジオモニターの青は、
アルテック604に代表される従来のスタジオモニターの主流に対しての青として感じる。
JBLのLE15Aの青は、それまでのJBLのウーファーのあり方とは違う設計であり、
ある意味、それまでのウーファー設計へのアンチテーゼと捉えようとすればできなくもない。
もちろん、オーディオにおける青の意味を、私がこじつけてそう捉えているだけといえば、
たしかにそうだ。
それでも、オーディオにおける青は、他の色とは違う意味があるはずだ。
ソニーにも、ウォークマンの他にも青がある。
1999年に登場したSCD1である。
SACDプレーヤーでSCD1のサイドは、青である。
同時に発表されたコントロールアンプTA-E1もサイドは青だし、
パワーアンプTA-N1は両サイドのヒートシンクが青である。
面積的にはTA-N1の広いけれど、私の印象ではSCD1の青がいちばん強い。
SACDプレーヤーの第一号機というイメージが重なってなのだろうか。
ここでも、なぜ? と思う。
ソニーのようなメーカーが、サイドだけとはいえ青を採用している。
SME(ソニー・ミュージックエンタテインメント)から第一回新譜として発売された13タイトルに、
マイルス・デイヴィスの”Kind of Blue”が含まれていたからなのだろうか。
ステレオサウンド 131号に、ソニーの出井伸之氏と菅野先生の対談が載っている。
表紙はSCD1である。
*
出井 SACDは在る意味で、いろいろなものにたいするアンチテーゼです。日本の近代産業はずっと〝量〟を追求してきました。〝量〟というのは作れば作るほど〝質〟から離れていきます。「安くて良い」というのは、基本的に「最高級」のものを犠牲にしてしまう傾向がありますね。その意味では〝量〟にたいするアンチテーゼなのです。
ソニーのCDプレーヤー第1号機、CDP101は、横幅が(標準的なコンポーネントサイズの430mmではなく)355mmでしたが、あれは〝量〟を志向したからなのです。小さく作ったのは「たくさん売るぞ」という意思表示だったのです。このSACDプレーヤー第1号機、SCD1(横幅430mm、重さ約27kg)は逆なんですね。
*
SCD1の青は、アンチテーゼの色なのだろうか。
JBLには、スタジオモニターのフロントバッフルの他に、もうひとつ青がある。
ウーファーのLE15Aのフレームが、初期のころは青だった。
JBLのユニットは美しい。
ドライバーやホーンはエンクロージュアの上に置かれて使われることもあるが、
ウーファーはエンクロージュアに収められるユニットである。
フレームの色が何色であれ、使っている(鳴らしている)人からは、その色は見えない。
にも関わらずLE15Aは、初期のころ青に塗装されていた。
他のJBLのユニットで、フレームが青に塗装されていたのはあるのだろうか。
なぜ青だったのか。
誰が青にしたのか。
わからない。
LE15Aの開発者のバート・ロカンシーが青に決めたのか。
それともアーノルド・ウォルフが決めた青なのか。
LE15Aの青が、のちのスタジオモニターの青に引き継がれたのだろうか。
1月生れだから、一ヵ月もしないうちにひとつ歳を重ねる。
1月には成人式という行事がある。
ハタチになれば酒も煙草も解禁になるわけだが、
ハタチになった日とその前日とでは、何が違うのかといえば、
何も違わないといえる。
24時間でどれだけ人の体が変化するかというと、ほんのわずかだろうし、
それを本人も周りの人も感じとることはできないほどのわずかな差(変化)である。
ということは誕生日ととその前日がそうであるなら、
前日と前々日にも同じことがいえるわけだ。
二日前と三日前とでは……、三日前と四日前とでは……、
こんなふうに考えていくと、何も変っていないと、いえる。
そんな屁理屈めいたことを考える。
けれど一年前とでは、はっきりと違う。
ほんのわずかな差(変化)が積み重なって、歳をとる。
どういうことで自分の齢を実感するかといえば、
いろんなことがある。
私にとって意外なことといえば、
カルロス・クライバーの実演を聴いたことがある、と話すと、
若い人から驚かれることである。
人によっては、幻のコンサートを聴いたんですか、とまでいわれる。
こちらとしては、それほど大層なことをいっているつもりはない。
チケットを取るのも、そんなに苦労したわけでもなかった。
1986年のバイエルン国立歌劇場管弦楽団の公演を二回、
1988年のスカラ座の引越公演で、「ボエーム」を聴いている。
私としては三回しか聴けなかった、という感じなのだが、
羨望の眼差とはこういうものなのか、と思えるくらいに、
羨ましがられたこともあった。
そうか、と思った。
カルロス・クライバーを聴いたことがある、ということは、私にとっては、
フルトヴェングラーをきいたことがある、という人が目の前にあらわれるのと同じことなのだ。
世代が違うから、若い人にとってはカルロス・クライバーが、
私にとってはフルトヴェングラーが、というだけのことなのだろう。
20年ほど前に、増永眼鏡からanti gravityのメガネが登場した。
川崎先生のデザインである。
anti gravityを見た時から、ずっと考えていた。
この発想はオーディオに応用できるはずだ、と。
ただ漠然と考えていた。
どこに応用できるのかも、最初は思いつかなかった。
四六時中考えていたわけではないが、
ときおり思い出して考えていた。
数年経ったころ、あっ、そうだ、と思いついた。
ラックに使えることに気づいた。
それから10数年が経っているが、
どこからもanti gravityといえる構造のラックは登場していない。
実際にどういう構造にしていくのかを考えていくと、
汎用性をどう実現するかという点で難しい面がある。
とはいえ解決できないわけでもない。
(実際に試作してみないとはっきりとはいえないけれども)
anti gravityといえるラック。
そろそろどこかから登場するのか、
それとも自分でつくるしかないのか。
オーディオの想像力の欠如から生れる浅陋、
浅陋のままつくられる商業誌は、誌面を彩っても賎陋でしかない。
今日は12月30日。
今年もあとわずかだというのに、今日一日何をしていたかというと、
「3月のライオン」を一話から見ていた。
11話すべて見た。
さらに前半総集編も見ていた。
音楽はくり返し聴いても、映画やドラマはあまりくり返しはしない。
短期間でのくり返しはほとんどない。
にも関わらず「3月のライオン」は短期間でのくり返しで見た。
一本あたり約25分。
総集編をふくめて12本だから約六時間費やした。
オープニングもエンディングも飛ばさずに見た。
無駄な見方であり、無駄な時間の過ごし方ということになる。
この六時間をブログ書きに費やせば、けっこう本数書ける。
でも見ていた。
ほぼ続けて見ていた。
誰とも話すことなく独りで見た。
寂しい年末の過ごし方といえば、そうだ。
そんなことはわかったうえで見たのだ。
2016年の終りに、この作品と出あえて良かった、と思っている。
50もすぎれば時間が過ぎ去っていくのを早く感じるものとはいえ、
短いようでいて一年はやはり長い。
あれこれあるものだ。
そして感じることがある。
オーディオに限っても、いろいろあった。
だから「3月のライオン」をもう一度一気に見た。
聴く機会はないが、
サイモン・ラトル/ベルリン・フィルハーモニーのダイレクトカッティング盤の登場は、
私にとっては、今年イチバンのニュースである。
アナログディスクのブームにのっかって、安易な製造をしているところもある。
アナログディスクの売行きが伸びているのはニュースで知ってはいる。
だからといって、アナログディスク・ブームとは捉えていない。
そういうところに、ベルリン・フィルハーモニーのダイレクトカッティング盤である。
どこか気概のあるレーベルが、ダイレクトカッティングに挑戦してくれないか、
と思っていた。でもそれは音楽のジャンルに関係なく小編成のものであって、
この時代にオーケストラものが、ダイレクトカッティングされるとは、まったく予想していなかった。
ダイレクトカッティング盤だから、当然限定である。
日本の割当は500セット(六枚組である)。
価格は89,000円(税抜き)。
すぐに売りきれるものだと思っていた。
欲しい、と思う人だけでなく、転売目的で買う人もいるからだ。
エソテリックが出しているSACDも、転売目的で買う人が少なくないと聞いている。
そういう時代だから、予約だけで売切れだと思っていたら、
意外にもまだ在庫が残っている。
ベルリン・フィルハーモニーのfacebookでも、まだ買えることを伝えている。