老いとオーディオ(齢を実感するとき・その1)
1月生れだから、一ヵ月もしないうちにひとつ歳を重ねる。
1月には成人式という行事がある。
ハタチになれば酒も煙草も解禁になるわけだが、
ハタチになった日とその前日とでは、何が違うのかといえば、
何も違わないといえる。
24時間でどれだけ人の体が変化するかというと、ほんのわずかだろうし、
それを本人も周りの人も感じとることはできないほどのわずかな差(変化)である。
ということは誕生日ととその前日がそうであるなら、
前日と前々日にも同じことがいえるわけだ。
二日前と三日前とでは……、三日前と四日前とでは……、
こんなふうに考えていくと、何も変っていないと、いえる。
そんな屁理屈めいたことを考える。
けれど一年前とでは、はっきりと違う。
ほんのわずかな差(変化)が積み重なって、歳をとる。
どういうことで自分の齢を実感するかといえば、
いろんなことがある。
私にとって意外なことといえば、
カルロス・クライバーの実演を聴いたことがある、と話すと、
若い人から驚かれることである。
人によっては、幻のコンサートを聴いたんですか、とまでいわれる。
こちらとしては、それほど大層なことをいっているつもりはない。
チケットを取るのも、そんなに苦労したわけでもなかった。
1986年のバイエルン国立歌劇場管弦楽団の公演を二回、
1988年のスカラ座の引越公演で、「ボエーム」を聴いている。
私としては三回しか聴けなかった、という感じなのだが、
羨望の眼差とはこういうものなのか、と思えるくらいに、
羨ましがられたこともあった。
そうか、と思った。
カルロス・クライバーを聴いたことがある、ということは、私にとっては、
フルトヴェングラーをきいたことがある、という人が目の前にあらわれるのと同じことなのだ。
世代が違うから、若い人にとってはカルロス・クライバーが、
私にとってはフルトヴェングラーが、というだけのことなのだろう。