Archive for category テーマ

Date: 1月 16th, 2017
Cate: audio wednesday

第73回audio wednesdayのお知らせ(アナログディスク再生・序夜)

2月1日のaudio wednesdayは、アナログディスク再生をやる。
具体的にどんなことをやるのかは決めていないにも関わらず、
モノーラルLP再生の回もやりたいと考えている。

昨年3月のaudio sharing例会では、モノーラルCDを聴く回をやった。
JBLのホーン2397にスロート2329を使うことで、
一本のホーンに二発のコンプレッションドライバー2441を取りつけての音出しだった。

ウーファーはアルテックの416-8Cで、左右のエンクロージュアを近接させて、
その上に2441二発というシステム構成だった。

LCネットワークではなく、モノーラルということなので、
マッキントッシュのMA2275の左チャンネルをウーファーに、
右チャンネルをトゥイーターにふりわけてのバイアンプドライヴとした。

アナログディスク再生・序夜の次回は、同じことをアナログディスクでやりたい。
モノーラルLPにしぼって、2441二発のシステムで、バイアンプドライヴというシステムである。

2月1日のaudio wednesdayは、ガラードの401にオルトフォンのSPUとRMG309の組合せによる。
かけるのはステレオLPが主になる。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 16th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その7)

何をやったのかを具体的に書かないのは、
1月4日に喫茶茶会記における音の変化を聴いていない人に、
どれだけ細かく書いたところで意味がない、と思っているからだ。

仮に具体的に書いたところで、同じことを読んだ人がやったところで、
同じにはならない。
なぜかといえば、同じことをやったつもりでも、同じようなことでしかないことが大半だからである。

私がやったことと同じことができる人ならば、
すでにやっているか、どんなことをやったのかがおおよそ想像がつくはずだ。

それに喫茶茶会記のスピーカーは、いわゆる自作スピーカーに類するモノである。
既製品のスピーカーシステムに応用できることもあれば、そうでないこともある。

私は、その場に来てくれて、そこでの音の変化を感じ取ってくれた人には、
出し惜しみはしない。
訊かれたことにはできるだけ答えるようにしている。

それでも、そこでやったことをそのまま、
その人がその人のシステムに応用できるかは別の話である。

重要なのは何をやったかではないから、
ここで具体的なことは書かないだけである。

「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」の七曲目にしぼって、
チューニングをすすめていった。

最初にやったことが効いた。はっきりとした手応えだったから、次にとりかかれる。
ここで 三段階の音を聴いてもらう。
次にまた別のことをやる。
ここでも三段階の音を聴いてもらった。

こうすることで、演奏の場の感じが変っていく。
秩父ミューズパーク音楽堂での録音である。
このホールには行ったことはない。

ウェブサイトによれば、定員600人の大きさのホールである。
スピーカーのチューニングをするまでの音では、
どこで録音したんだろうか、と思っていた。
録音データはその時点では見てなかった。

チューニングをやっていくと、能の舞台のように感じられてきた。

Date: 1月 15th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(7000本をこえて感じていること)

昨年のうちに7000本目を書いた。
10000本まで書くことを、目標としている。
10000本書いたら、少しは達成感を得られるのだろうか。

ちょうど半分の5000本目は2014年のうちに書いている。
けれど半分まで来た、という実感はなかった。
2015年に6000本目を書いた時も同じだった。

2016年12月に7000本目を書いて、やっと半分まで来た、と感じられた。
数字的には2/3をこえている。
けれど残り1/3を切って、ようやく、あと半分、という感じなのだ。

残り3000本弱で書く内容を、
これまで書いてきた7000本と同じにすること。
つまりそれだけ凝縮した内容にすること。
そのことをどこかで意識しているから、ようやく半分という感じなのだろう。

そうでなければ10000本目に達成感はないのかもしれない。

Date: 1月 15th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その6)

話を1月4日のことに戻そう。

ディスクを決めて、ボリュウムの位置もいっさいいじらず、
①の音から⑧の音まで聴いてもらった。

同じディスクでそのまま続けることも考えたが、
気分転換を兼ねて、セッティング、チューニングとは関係なく、
他のディスクを聴いてもらった。

そして常連のHさんが持参されたCD「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」をかける。
まず一曲目を聴いて、七曲目を聴いた。

七曲目を聴いてもらい、いま鳴っている音をどうしたいか、
不満はどこにあるのかを、Hさんにきいた。

こうしてほしい、という要望があった。
その点は、私も感じていたことであり、
それが録音によるものなのかがはっきりとしていなかった。

どこをいじる。
三つほどすぐに浮んだ。
三つすべてを一度にいじるのではなく、まず最初にどこにするのか。

これはほぼ直感的に決めた。
スピーカーのところに行き、わずかなところを変える。
時間はほとんど掛からない。左右のスピーカーに対して行っても、30秒程度のことである。

傍で見ていると、何をやっているのかはっきりとしない、
その程度のことを変えてみた。

これだけのことであっても、音の変化ははっきりと、大きかった。
不満と感じていたところがかなり解消された。

これにはHさんも、かなり驚かれた。
①から⑧までの音の変化を聴いてきて、さらに驚かれた。

同じ状況でどこをいじるのかは人によって違ってくる。
私は、ここだ、と感じたところをいじったわけだ。
それは直感であり、
これまでのセッティングとチューニングの経験とオーディオの想像力によって裏打ちされた直感である。

Date: 1月 15th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その22)

オーディオの想像力の欠如によって、オーディオの音色の表現が失われつつある。

Date: 1月 13th, 2017
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(マランツ Model 7・その1)

マランツのModel 7は、多くの人がヴィンテージアンプと認める存在だろう。

ヴィンテージという言葉を使うことにいささかの抵抗感がある私でも、
Model 7はヴィンテージアンプかと問われれば、そうだ、と答えそうになる。

ヴィンテージアンプ、ヴィンテージスピーカーなど、
オーディオの世界でヴィンテージが使われるようになる以前、
マランツのModel 7はどんなふうに呼ばれていたのか。

銘器、名器とは昔から云われていた。
そういうこととは別に、何と呼ばれていたのかと思っていたら、
山中先生がステレオサウンド 50号で、クラシックスタンダードという言葉を使われているのを見つけた。

たしかにModel 7はクラシックスタンダードといえる。
ヴィンテージと呼ばれるオーディオ機器のすべてが、クラシックスタンダードではない。
クラシックスタンダードといえるオーディオ機器の方が少ない。

「クラシックスタンダードといえるモノ」というタイトルでも書いていけそうである。

Date: 1月 13th, 2017
Cate: 訃報

宇野功芳氏のこと(あと少し追補)

「男の隠れ家」6月号増刊の「音楽の空間」には、
宇野功芳氏のリスニングルームの記事だけではなく、
「音の良いコンサートホール」という記事も載っていて、宇野功芳氏が書かれている。

取り上げられているのホールは、
サントリーホール、東京文化会館、東京芸術劇場、東京オペラシティコンサートホール、
ザ・シンフォニーホール、いずみホール、紀尾井ホール、府中の森劇場 ウィーンホール、
リリア音楽ホール、上野学園 石橋メモリアルホール、ヤマハホールである。

この記事を読んでいると、
宇野功芳氏が音楽評論だけでなく指揮も仕事とされていたことを思いだす。

それぞれのホールの客席での音・響きについては、
行ったことのある人ならば、書こうと思えば書ける。

でも宇野功芳氏はそれだけでなく、ステージ上での音・響きについても書かれている。
これは指揮者でなければ書けない。

サントリーホールについて書かれているところだけ引用しておこう。
     *
 特筆すべきは指揮台上のひびきで、オーケストラの音が下からはもちろん、天井からも降ってきて、ハーモニーに体全体が包まれる。その美しさと幸福感は味わった者でなければ分からないだろう。音楽ホールでいちばん大切なのは舞台の天井が高く、残響が強く、長くつくことだ。これが良いホールの第一条件であり、本欄に取り上げた大ホール、中ホール、小ホールはすべてサントリーに劣らず、中にはさらにすばらしいところもある。問題は舞台上の音がダイレクトに客席に伝わるかどうかである。サントリーがすばらしいのはその落差が小さいことと、音の悪い席が少ないことで、開場当時に比べるとまるで別のホールのようだ。
     *
サントリーホールはカラヤンがアドバイスをしたホールと知られている。
カラヤンがどんなアドバイスをしたのかはわからない。
宇野功芳氏の文章を読んで、
ステージ上の指揮台での音・響きの良さを実現するためのアドバイスだったのかも思った。
それだけではないにしても。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その5)

引用した五味先生の文章だけでは、
セッティングとチューニングの違いについて私がいいたいことが何なのか、
はっきりとしないじゃないか、と思われるかもしれない。

映画「ピアノマニア」だけを観ても、そうかもしれない。

でも、「ピアノマニア」を観て、
五味先生の文章を読み、
セッティングとチューニングについて、そしてその違いについて考えてきた人ならば、
セッティングとチューニングの違いについて、何かを掴めているはずだ。

ただ漫然とオーディオをやってきた(いる)人、
セッティングとチューニングを一緒くたに捉えてしまっている人、
数年前のステレオサウンドの「ファインチューニング」というタイトルに、
何の疑問も感じなかった人は、
「ピアノマニア」を観て、五味先生の文章を読んでも、
私がいいたいことは何ひとつわかってくれないであろう。

結局のところ、そういう人は、オーディオの想像力が欠如しているのだから。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その4)

ピアノの調律に関する話は「西方の音」の中の「大阪のバイロイト祭り」に出てくる。
     *
 大阪のバイロイト・フェスティバルを聴きに行く十日ほど前、朝日のY君に頼んであった調律師が拙宅のベーゼンドルファーを調律に来てくれた。この人は日本でも有数の調律師で、来日するピアニストのリサイタルには、しばしば各地の演奏会場に同行を命ぜられている人である。K氏という。
 K氏はよもやま話のあと、調律にかかる前にうちのピアノをポン、ポンと単音で三度ばかり敲いて、いけませんね、と言う。どういけないのか、音程が狂っているんですかと聞いたら、そうではなく、大へん失礼な言い方だが「ヤマハの人に調律させられてますね」と言われた。
 その通りだ。しかし、我が家のはベーゼンドルファーであってヤマハ・ピアノではない。紛れもなくベーゼンドルファーの音で鳴っている。それでもヤマハの音がするのか、それがお分りになるのか? 私は驚いて問い返した。一体どう違うのかと。
 K氏は、私のようにズケズケものを言う人ではないから、あいまいに笑って答えられなかったが、とにかく、うちのピアノがヤマハの調律師に一度いじられているのだけは、ポンと敲いて看破された。音とはそういうものらしい。
 大阪のワグナー・フェスティバルのオケはN響がひく。右の伝でゆくと、奏者のすべてがストラディバリウスやガルネリを奏してもそれは譜のメロディをなぞるだけで、バイロイトの音はしないだろう。むろんちっとも差支えはないので、バイロイトの音ならクナッパーツブッシュのふった『パージファル』で知っているし、ベームの指揮した『トリスタンとイゾルデ』でも、多少フィリップスとグラモフォンの録音ディレクターによる、音の捕え方の違いはあってもまさしく、バイロイト祝祭劇場の音を響かせていた。トリスタンやワルキューレは、レコードでもう何十度聴いているかしれない。その音楽から味わえる格別な感銘がもし別にあるとすれば、それはウィーラント・ワグナーの演出で肉声を聴けること、ステージに作曲者ワグナーの意図したスケールと色彩を楽しめることだろう。そうして確かにそういうスケールがもたらすに違いない感動を期待し、何カ月も前から大阪へ出掛けるのを私は楽しみにしていた。この点、モーツァルトのオペラとは違う。モーツァルトの純音楽的な美しさは、余りにそれは美しすぎてしばしば登場人物(ステージの)によって裏切られている。ワグナー論をここに述べるつもりは今の私にはないし、大阪フェスティバルへ行くときにもなかった。ワグナーの音楽は私なりにもう分ったつもりでいる。舞台を観たからって、それが変るわけはない。そんな曖昧なレコードの聴き方を私はしていない。これは私に限るまい。強いていえば、いちどステージで観ておけば、以後、レコードを聴くときに一そう理解がゆくだろう、つまりあくまでレコードを楽しむ前提に、ウィーラント・ワグナーの演出を見ておきたかった。もう一つ、大阪フェスティバル・ホールでもバイロイトのようにオーケストラ・ボックスを改造して、低くさげてあるそうだが、そうすれば音はどんな工合に変るのか、それも耳で確かめたかった。
 ピアノの調律がおわってK氏が帰ったあと(念のため言っておくと、調律というのは一日で済むものかと思ったらK氏は四日間通われた。ベーゼンドルファーの音にもどすのに、この努力は当然のように思う。くるった音色を——音程ではない——元へ戻すには新しい音をつくり出すほどの苦心がいるだろう)私は大へん満足して、やっぱり違うものだと女房に言ったら、あなたと同じですね、と言う。以前、ヤマハが調律して帰ったあとに、私は十歳の娘がひいている音を聞いて、きたなくなったと言ったそうである。「ヤマハの音にしよった」と。自分で忘れているから世話はないが、そう言われて思い出した。四度の不協和音を敲いたときに、音がちがう。ヤマハに限るまい、日本の音は——その調律は——不協和音に、どこやら馴染み合う響きがある。腰が弱く、やさしすぎる。
     *
「西方の音」を読んだ当時は、ピアノの音色の話として捉えた。
それに関する話として読んだ。

ある時期から、セッティングとチューニングについてとしても捉えられることに気づいた。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その21)

オーディオの想像力の欠如がしていては、あるべき世界(音)を聴くことはできない。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオの対岸にあるもの」について(その2)

“See the world not as it is, but as it should be.”
「あるがままではなく、あるべき世界を見ろ」

gleeの最後に、このことばが登場する。

オーディオにもあてはまるといえる。
あるがままではなく、あるべき世界を聴け、といえる。
あるべき世界は、あるべき音ともいえる。

けれどオーディオの難しさは、
あるがままとあるべき世界の両方を聴くことを求められるところにある。

オーディオの対岸にあるもの。
それは聴き手の聴き方によっても違ってこよう。

あるがままを聴いている人が、オーディオの対岸にあると感じているもの
あるべき世界を聴いている人が、オーディオの対岸にあると感じているもの、
あるがままとあるべき世界を聴いている人が、オーディオの対岸にあると感じているもの、
──こういうことを考えている。

Date: 1月 11th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その3)

19時開始時点の音を便宜的に①の音とする。
一度セッティングを戻した(崩した)音が②の音、ケーブルを交換した音が③の音、
トーンコントロールをバイパスしたのが④の音、MA2275のメーターをOFFにしたのが⑤の音……、としていくと、
CDプレーヤーのディスプレイをOFFにしたのが⑧の音であり、
この⑧の音と①の音は同じであり、
②の音が聴感上のS/N比も悪く、クォリティ的にも冴えない音であり、
段階を踏むごとに聴感上のS/N比は向上していっている。

①の音と②の音の差が、だからいちばん大きい。
オーケストラの国籍が判然としない音になるばかりか、
コントラバスが②の音では、
巨人が巨大なコントラバスを一人で弾いているかのような鳴り方に近くなる。

②から③、③から④へ……、
コントラバスの鳴り方の変化は顕著だった。
オーケストラにおけるコントラバスの鳴り方になっていく。
オーケストラの国籍も定まってくる。

ここまで聴いてもらったところで質問があった。
チューニングなのか、セッティングなのか、という質問だった。

「セッティングです」と即答した。
そう言いながら思い出していたのが「ピアノマニア」という映画のことだった。

ちょうど五年前に公開されている。
この映画については2012年1月に書いている。

「ピアノマニア」はドキュメンタリー映画である。
だから主人公ではなく主役といえるのは、
スタインウェイの調律師、シュテファン・クニュップファーである。

シュテファン・クニュップファーの調律をどう見るか。
オーディオにおけるセッティングとチューニングの違いが描かれている、ともいえる。

とはいえ「ピアノマニア」を観ていない人には、ことこまかに説明する必要があるけれど、
セッティングなのか、チューニングなのかを訊いてきたHさんは、
「ピアノマニア」を観ている人であるから、通じるところがある。

ここで「ピアノマニア」について書くことはしない。
けれどピアノの調律に関して思い出したことは、もうひとつある。
五味先生が書かれていた文章である。

Date: 1月 10th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その2)

後述するが、ケーブルを作ってきてよかったと思ったのは、
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」を鳴らしたからだった。

このCDでのチューニングの際の音の変化を聴いていて、
喫茶茶会記標準のケーブルでは、こうはうまくならなかったという判断があったからだ。

ケーブルを交換したあとは、アンプのMA2275をいじった。
フロントパネルについているスイッチ(ツマミ)をいじる。

まずトーンコントロールをバイパスする。
それからメーターをOFFにする。
その他にふたつほどやっている。
このふたつは、フロントパネルのスイッチとは関係のないことだ。

ここまでやった時点で、CDプレーヤーのディスプレイをOFFにする。
ディスプレイをON/OFFできるCDプレーヤーは他にもいくつかある。
試されたことのある方の中には、それほどの変化はなかった、と思われたかもしれない。

でも、あるレベルのセッティングをしていれば、
CDプレーヤーのディスプレイのON/OFFによる音の差ははっきりと出る。

だからこそ、1月4日のaudio wednesdayでは、
CDプレーヤーのディスプレイのOFFを後にもってきた。

ここまでやって、19時開始時点の音に戻ったわけである。
それは正しく19時開始時点の音であった。

同じことをくり返しているわけだから、同じ音になるわけだが、
これがうまくできない人もいるのではないだろうか。

試聴で大事なのは、再現性である。
音楽の再現性という意味ではなく、
同じことをくり返したら、同じ音を出せるという意味での再現性である。

この再現性こそがセッティングの領域である。

Date: 1月 9th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオの対岸にあるもの」について(その1)

昨晩、ほぼタイトルだけの「オーディオの対岸にあるもの」に、
facebookで数人の方からコメントがあった。

コメントを読んで、タイトルを「再生音の対岸にあるもの」にしなくてよかった、思っていた。

オーディオは再生音といえるのは確かだが、
オーディオ・イコール・再生音ではないことも確かだ。

「オーディオの対岸にあるもの」の「オーディオ」は、
人によって違うはずである。

Date: 1月 8th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの対岸にあるもの(序)

オーディオについて、再生音について考えるために思いついたタイトル。
いまのところタイトルでしかない。