Archive for category テーマ

Date: 5月 20th, 2017
Cate: Reference

リファレンス考(その9)

コンシューマーオーディオのバランス伝送は、
コントロールアンプとパワーアンプ間で始まった。
それからCDプレーヤーの出力もバランス対応のモノが登場しはじめた。

そうなってくるコントロールアンプはバランス出力だけでなく、
バランス入力も備えるようになってくる。

最近ではMC型カートリッジのバランス接続が流行しはじめているようだが、
これは、それまで片側が接地されていたのを浮しただけともいえ、
バランス接続というよりもフローティング接続といったほうがいい。

MC型カートリッジのバランス化は、ハイフォニックが1980年代後半に行っていた。
カートリッジ内の発電コイルの中点からリード線を引き出し、
トーンアームもそれに応じて内部配線を通常の四本から六本にしたワンポイント型、
昇圧トランスも一次側巻線にセンタータップを設けたモノが用意され、
カートリッジ、トーンアーム、昇圧トランスと一式揃えることで、
バランス伝送を行うというものだった。

いまバランス接続(伝送)といっている方式は、
SMEの管球式フォノイコライザーSPA1HLのころからある。

SPA1HLは昇圧トランスを内蔵していた。
一次側巻線の片側は接地されていなかった。
入力端子は一般的なRCAコネクターで、トーンアームの出力ケーブルに二芯シールドケーブル、
もしくは同軸ケーブルならばその上に銅箔テープかアルミホイルを巻いてアースに落とすか、
このふたつで対応できる。

SPA1HLが登場したころ、SMEのトーンアームのケーブルも二芯シールド型が出てきた。
このケーブルのシールドはRCAプラグの外側には接続されていない。
リード線が引き出されていて、つまりアース線が三本になり受け側のアース端子に接ぐ。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: デザイン

表紙というデザイン(その1)

ステレオサウンドの表紙といっても、最初に書くのは別冊の表紙についてである。

1976春に瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」が出た。
表紙にはビクターのスピーカーシステムSC3II、B&Oのアナログプレーヤー、
エンパイアの4000D/IIIカートリッジ、SMEの3009/SII Improved、
QUADのコントロールアンプ33とチューナーFM3、マランツのModel 510Mパワーアンプ、
B&OのBeomaster 4000レシーバー、ヤマハのカセットデッキTC800GL、
これらを正面から撮った写真をぴっちりとレイアウトしてある。

「コンポーネントステレオのすすめ改訂版」も同じデザインで、
スピーカーはJBLの4343、ダイヤトーンのDP-EC1アナログプレーヤー、
テクニクスのプリメインアンプSU8080、コントロールアンプはマークレビンソンのJC2、
パワーアンプはヤマハのB2、チューナーはトリオのKT9100、
オルトフォンのカートリッジMC20にソニーのカセットデッキTC-K7にかわっている。

「続コンポーネントステレオのすすめ」も同じだ。
こちらはスピーカーがパイオニアのS933、アナログプレーヤーはB&O、
ラックスのプリメインアンプL3、オンキョーのレシーバーTX55、
QUADのコントロールアンプ44、マイケルソン&オースチンのTVA1パワーアンプ、
オルトフォンのカートリッジMC30、テクニクスのトーンアームEPA500、
ヤマハのカセットデッキK1である。

目次には表紙デザイン=塚本健弼、表紙写真=亀井写真事務所とある。

1977年12月に出た「コンポーネントステレオの世界 ’78」も基本的には同じ表紙である。
スピーカーはJBLの4333A、アナログプレーヤーはソニーのPS-X9、
パイオニアのプリメインアンプA0012、ヤマハのチューナーT2、
テクニクスのコントロールアンプSU-A2、QUADの405パワーアンプ、
SMEのトーンアーム3009 SeriesIIIにスタントンのカートリッジ881S、
それにミニスピーカーとしてヴィソニックのDavid50で、
「コンポーネントステレオのすすめ」と少し違うのは、
それぞれのオーディオ機器の周りに切取り線といえる点線で囲ってある。

もちろん表紙デザインは塚本健弼、表紙撮影は亀井良雄と同じである。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その23)

スピーカーは決った。
次に決めるのはアンプである。

何を持ってくるか。
スピーカーは現行モデルだから、妄想組合せとはいえ、
アンプも現行モデルの中から選びたい。

どのアンプがぴったりくるであろうか。
想像するしかないのだが、楽しい時間である。

昔、瀬川先生が、アンプ選びが難しいのは、
人にたとえればスピーカーはその人の外面であり、
アンプは人の内面に関係してくるようなものだから、といわれた。

そういうところは確かに、アンプの違いによる音の違いには、ある。
ここで、またふと思い出すのは、小林利之氏が書かれていたことだ。

ステレオサウンド 30号で、
クーベリック/ベルリンフィルハーモニーによるドヴォルザーク交響曲全集について書かれている。
その最後に、こうある。
     *
カラヤンと同様にクーベリックも健康な心を持ったファンに推めたい演奏をする指揮者である。ということは、心にかげりを持つタイプの聴き手には、あまりにもそれらは美しく優しいから屢屢たえがたい苦痛を覚えさかねないのである。そして音楽は、いつも健康な心の人のためだけあるものではないのだから、いろんなタイプの演奏が求められてしかるべきだ。クーベリックがあれば、あとはいらぬなどと言い切ることは、したがって不可能なことなのである。
     *
ずっと以前に読んでいて、記憶にのこっていた。
でもステレオサウンドの何号に載っているのか思い出せずにいた。
別項のために30号をひっぱり出していて、あぁ、ここだった、と、やっと続きを書けるようになった。

カラヤンの演奏が、健康な心を持った聴き手のため、ということに、
完全には同意できないけれど、なるほどそうかもしれない、と思う気持もある。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: Reference

リファレンス考(その8)

試聴室でのリファレンス機器に求められるのは、
安定動作の他にもいくつかある。

1970年代までは機器同士の接続はアンバランス接続のみ、といえた。
パワーアンプでバランス入力を備えているモノもわずかとはいえあったが、
アンバランス入力も備えていて、試聴はアンバランスで行われていた。

SUMOのThe Power、The Gold、それからマークレビンソンのML2も、
バランス入力をもっていた、というよりも、バランス入力が標準だったといえる。

コントロールアンプとパワーアンプ間をバランス接続するようになったのは、
コンシューマーオーディオでは、1980年代に入ってから、
アキュフェーズからC280、サンスイからB2301が登場してからだった。

C280はバランス出力を備えたコントロールアンプ、
B2301はバランス入力を備えた、というより、全段バランス構成(SUMOのアンプもそうである)。
でも、この時点では、アキュフェーズにはバランス入力をもつパワーアンプ、
サンスイにはバランス出力のコントロールアンプがなかったこともあり、
バランス接続の音、アンバランス接続の音がどう違うのかは、
このふたつのメーカーの組合せによって行われた。

バランス入出力にはXLR端子が使われる。
1番がアースで、2番、3番がホットもしくはコールドと標準である。
アメリカとヨーロッパでホットとコールドは入れかわるが、
アースが1番なのは共通している。

ところがアキュフェーズとサンスイのバランス接続には問題があった。
どちらだったのかは忘れてしまったが、
1番をアースにせず、3番をアースにしていたからだ。

つまり通常のバランスケーブルで、このふたつのアンプを接続すると、
アンバランスになっていた、というオチである。

このことはすぐに直されているから、市販されたモノではこんなことは起っていないはずだ。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その4)

(その3)に対して、facebookでコメントがあった。
三人の方からのコメントのうち二人のコメントに、作品という言葉があった。

作品か……、と思った。
コメントをそのまま引用しない。
上記リンクのfacebookは非公開にしている。
コメントを書かれる方も非公開ということで、ということだってある。

もちろん公開してもいい、という方もおられるだろうが、
あくまでもaudio sharingのfacegookグループは非公開であるから、
そこでのコメントを、ここでそのまま引用することは控えている。

コメントを読まないとわかりにくいところもあると思う。
非公開にしているけれど、参加希望があれば原則として誰であろうと承認している。

オーディオ機器を作品と呼ぶ場合があるし、そう呼ぶ人もいる。
呼ぶ人には、作り手側の人も使い手側の人もいる。

どのオーディオ機器を作品と呼び、呼ばないのか、
その線引きは人によって違うし、曖昧でもある。

オーディオ機器は工業製品である。
以前書いているが、レコード(アナログディスク、CD,ミュージックテープなど)も工業製品である。
大量にプレスもしくはダビングされて製造されるのだから。

同じ工業製品であり、オーディオ店、レコード店で販売される時点では商品である。
けれどオーディオは製品でもある。
レコード(録音物)はどうかというと、
音楽雑誌、オーディオ雑誌で批評の対象となる際に、製品批評とも商品批評ともいわない。

そういう違いが生じるのは、
オーディオ機器と言う工業製品とレコードという工業製品とでは、
価格の設定に大きな違いがあるからだ。

Date: 5月 18th, 2017
Cate: 広告

新製品と広告(補足)

3月末に駅に掲示してあったテクニクスの広告について書いている。
私が見たのは中野駅だったが、いくつかの駅でも掲示してあったようだ。

そのテクニクスの広告が、記事になっている。

Date: 5月 18th, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その14)

少し長い引用だが、まず読んでいただきたい。
     *
この本を書くきっかけは、音楽が好きで、レコードやテープやFM放送を少しでも良い音で再生したいと思うごくふつうのオーディオの愛好家のために、いままでのような『学問』ではなく、オーディオ装置の購入から運用までのほんとうの基本の部分を、広く浅く、しかも堅くるしくならないような、眺めて楽しい本を作ってみたいという、本誌編集長とわたくしの考えが一致したところから始まった。白状すればそれはいまから二年以上もまえのことだった。ところが生来怠けもののわたくしが、多忙にかまけて手をつけずにいるあいだに、どんどん月日が流れてゆき、編集長もついにしびれをきらして、ホテルにカンヅメという強行手段に出て、とうやら日の目をみることになったというのが実情である。
 この本の計画を立てるに際して心がけたことは、次の四つであった。
 第一に、この本はオーディオのマニアのための本にしないこと。言いかえれば、再生音楽を楽しむためにオーディオシステムを購入するが、そのための知識は最少限に止めたいと考えておられる音楽の愛好家に読んで頂くための本にすること。
 第二に、少なくともわたくし自身がこの道に30年近くも遊んでなお飽きないどころか、ますますオーディオの深さに魅入られているということが証拠であるように、オーディオの世界は際限のない広さ・深さを持っているのだから、たとえ手引書であっても、オーディオを単なる実用のものというとらえ方でなく、その気になりさえすればひとり人間が一生の伴侶とするに十分に応えてくれるほど楽しいものだということを、ぜひとも匂わせたかった。いまや大型電気メーカーをも十分に潤すほどの大きな産業にまで普及したオーディオだが、とうぜんのことながら、もはや趣味の世界とは無縁の、いわば家庭電化製品と同列にオーディオがとらえられ、そういう形で売られている。しかし本書はあくまでも、オーディオと音楽の接点から深い趣味の世界を覗いて頂きたいという意図で書いた。
 第三に、図や写真をできるだけ多く使って、視覚的に文章を補足すること。とうぜん、数式などは避けること。それは一般愛好家に理解して頂くため方法であるにしても、オーディオの魅力が単に音楽を良い音で鳴らすというにとどまらず、精密なメカニズムの美しさを十分に表現したかったためでもある。したがってカラー写真の仕上りにもできるだけ留意して頂いている。
 第四に、おそらくいままでの入門書と最もちがうところは、パーツの選び方の項目がある意味でひどく抽象的な表現にならざるをえなかったことかと思う。いろいろな機会に、パーツを選ぶための「カタログの数字の読み方」を教えてほしいという質問を受ける。しかしわたくしは、カタログ上の数値は、ものの質の良さを読みとるにはほとんど役に立たないという考え方をかたくなに守っている(実際、わたくし自身が自分のためのオーディオパーツを選ぼうとするとき、カタログのデータはほとんど無視して、ただ実物に触れ、音を鳴らしてみて、現物で納得して購入している)ので、もっともらしい解説を書く気にならなかったためである。データ上の数値は、むしろパーツを購入してからあと、接続や使いこなしの上で役に立つにすぎないものがほとんどなのだ。したがって本書で重点を置いたのは、購入前の考え方のまとめかたと、購入後の使いこなしの二点であって、パーツを選ぶ際には、眺め、触れ、聴くしかないというわたくしの主張から、むしろ聴きくらべの注意の方に主力をそそいだつもりである。

 この本の完成までには、いうまでもいことだが多く方々のお力添えを頂いている。ものを書き始めて25年にもなりながら生まれて初めて一冊ぜんぶ書き下ろしという体験で、途中で方向を見失いそうになっていたとき、「結局瀬川個人のものの見方しかないのだから当りさわりのない入門書ではなく、瀬川個人の説をつらぬきなさい」と強くはげましてくださった坂東清三氏には、ほんとうにお礼を言わなくてはならない。
     *
瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」のあとがきからである。
「コンポーネントステレオのすすめ」は1975年12月に出ている。
好評だったので、1977年に改訂版が、1979年に「続コンポーネントステレオのすすめ」が出ている。

「コンポーネントステレオのすすめ」は入門書である。
瀬川冬樹によるオーディオの入門書であり、
「コンポーネントステレオのすすめ」がどういう内容の本であるのかは、
あとがきを読めばわかる。

Date: 5月 18th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その3)

思い出してみると、ステレオサウンド時代、
試聴用にメーカー、輸入元に依頼することを、製品手配といっていた。
商品手配といったことはなかった。

これは私だけでなく、他の人も同じである。

製品か商品か。
そんなこと、どうでもいいことじゃないか、といってしまえば、
それでオシマイになってしまうような些細なことであろう。

でも、決してそういう違いではないということを知っていた人は昔からいる。
     *
 ほんとうに、いま、目の前で演奏しているとしか思えないほど、迫真的な音がスピーカーから再生されるのを聴けば、誰だってびっくりする。また、そんな音を自分のスピーカーから鳴らしてみたい、と思う。ナマそっくりの音を再生する。また再生してみたい。これはオーディオの大きな部分を占める楽しみにちがいない。
 けれど、オーディオの楽しみはそればかりではない。仮に音量(音の大きさ)の問題ひとつだけとりあげてみても、実演よりもはるかに大きな、また逆にはるかに小さな音量でも、音楽は別の魅力で聴こえてくる。スピーカーを通してしか、再生装置を通してしか、味わうことの出来ない魅力、それこそオーディオの魅力、ではないだろうか。あるひとつのオーディオ製品があってこそ、楽しめる音の世界がある。その製品がもしも無かったとしたら、そういう楽しい世界がありえなかったような、そんな製品がある。そのことは、いままであまり明確にされていなかったのではないだろうか。
 製品あってのオーディオの魅力、を語るためには、当り前のことだがその製品について、できるだけ詳しく語らなくてはならない。けれど反面、それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している。そのことは重々承知のうえで、あえて、そこを避けて通ることをしなかった。
     *
これは、瀬川先生の「続コンポーネントステレオのすすめ」のあとがきからの引用だ。
《それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している》
とある。

「続コンポーネントステレオのすすめ」は1979年秋ごろに出ている。
1980年に読んでいる。
あとがきのところも読んでいる。

けれど、そのころ(17歳だった)は、
《それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している》
このところに目は留っても、このことについて深く考えることはしなかった。

Date: 5月 18th, 2017
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(テクニクスの広告)

現在のオーディオ雑誌に掲載されているオーディオの広告については、
あれこれ書きたいことはあるが、ここでは控えておこう。

また昔の話を書くことになるが、
1978年のテクニクスの広告。
「テクニクスカセットデッキ物語」という9ページのカラーページから成るものがあった。

この「テクニクスカセットデッキ物語」の第四章。
リモートコントロールという見出しがついている。

カセットデッキRS-M85の写真もあるが、第二章でとりあげられていて、
ここ第四章ではRP070というリモートコントロールユニットがメインである。

キャッチコピーは、こうある。
《技術が進歩すると、オーディオ機器はハイ・フィデリティになる。
 音楽に対してだけでなく、人間に対しても……。》

ボディコピーの最後には、こうある。
《この機器に込められた「技術の進歩はリスナーに対してのフィデリティに貢献する」という哲学。
 テクニクスがオーディオに心を燃やす理由が、ここにある。》

いまのテクニクスは、どうなのか、そのことに触れたいわけではない。
人間に対してのハイ・フィデリティ、
リスナーに対してのハイ・フィデリティ、
意外に見落しがちなことのように思う。

約40年前の広告を見て、考えている。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: audio wednesday

第77回audio wednesdayのお知らせ(THE DIALOGUE)

オーディオラボの「THE DIALOGUE」は、
ほんとうは5月のaudio wednesdayで、
アルゲリッチのチャイコフスキーのピアノ協奏曲とともに鳴らすつもりでいた。

ハイブリッド盤を注文していたけれど、届いたのはaudio wednesdayの二日後だった。
間にあわなかった。
なので、6月のaudio wednesdayは、「THE DIALOGUE」だけに的をしぼって音出しをしようと思う。

スピーカーのセッティングは、ここ数回はこれまでとは違うやり方をとっている。
今回は両方を試しながらも「THE DIALOGUE」を聴きながらのチューニングを予定している。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ショウ雑感

2017年ショウ雑感(その7)

ダイヤトーンのブースで一曲目にかけられたのは、
ヨアヒム・キューンのBirthday Edition

このディスクの簡単な説明が、Dさんからあった。
どの出展社のブースでも、ディスクの説明はある。ないところもあるけれど。

ただ、その解説もとりあえずやっています、というところだと、
聞いているのが億劫になる。
そんなに長い時間でもないのに、早く音を聴かせてほしい、と思う。

そんなところが意外にも少なくないのだが、
もう少し、そのディスクとその音楽についての話を聞きたい、と思わせるところがある。

通り一遍の解説は聞きたくない。
なのに、そんなことをわざわざ話すところがある。

それから、こういうところもある。
このディスクの聴きどころはここで、
その部分がこういうふうに、これから聴かせる音は再生してくれます、といったところがある。

そういうところに限って、そんなふうには鳴ってくれなかったりする。
なのに話をした人は、いかにもそういう音が鳴ってくれたでしょう、という顔をしているし、
聴いている人の中にも、そうだった、という感じで頷いている人がいる。

けれどわかっているところは、そんなことはいわない。
聴きどころはいっても、そこがどういうふうに鳴るのかまではいわない。

オーディオショウでの音出しの前の、わずかな時間の話で、
次に鳴ってくる音はほぼ決ってしまうところがある。
話し方のうまいへたではない。

ダイヤトーンのDさんの話は、期待をもたせるものであった。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ドン・ジョヴァンニ(カラヤン・その3)

浅里公三氏の「待った甲斐があった」の理由も、
まちがいなく黒田先生と同じ理由のはず。

ステレオサウンド 30号のモーツァルトの三大オペラのディスコグラフィをつくられたのは、
浅里公三氏なのだから。

評論家の書くものなど、読み価値がない、という意見もある。
評論家といってもさまざまだから、
そういいたくなる人がいるのは否定しない。

それでも真摯に評論という仕事を考えている人がいる。
そういう人が書くものは、何かに気づかせてくれる。

レコード(録音)の聴き手としての歴史を積み重ねてきた人と、
そうでない者との聴き方の差があるのは当然だ。

黒田先生、浅里公三氏が、
そういわれた理由に気づいたからといって──理由でもあり想いでもある──、
カラヤンのドン・ジョヴァンニを聴いての、私の中での評価が大きく違ってくるということはない。
そうなのだが、それでもその理由を知る前と後とでは、
カラヤンのドン・ジョヴァンニに対する聴き方だけでなく、
レコード(録音)された音楽に対する聴き方に変化が生じる。

このことは大事にしたい。
自分の耳への問いかけを忘れた聴き方はしないためにも。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ドン・ジョヴァンニ(カラヤン・その2)

ステレオサウンドで働くということは、
仕事のあいまにステレオサウンドのバックナンバーを読める、ということでもある。
あくまでもあいまにだから、興味のある号から手にとることになる。

30号の特集は「最新プレーヤーシステム41機種のテストリポート」。
割りと早く読んだほうだが、記事のすべてをその時に読んでいたわけではなかった。
音楽ページは目を通しただけのところもあった。

しばらく見逃していた記事が、「ディスコグラフィへの招待」である。
30号ではモーツァルトの三大オペラで、
ここで黒田先生は「ディスコグラフィからみた三大オペラ」を担当されている。

そこに
《この曲に関して興味ぶかいのは、あのディスクエンサイクロペディストともいうべきカラヤンが、いまだにこの曲をレコードにしていないことだ》
とある。

モノーラル時代にフィガロの結婚、魔笛、コシ・ファン・トゥッテをEMIに録音している。
なのにドン・ジョヴァンニは録音していない。
黒田先生は、ベームも同じようなことがいえる、と書かれ、
ベームはフィガロの結婚、魔笛、コシ・ファン・トゥッテは二度ずつ録音している(1974年時点)のに、
ドン・ジョヴァンニは一回だけである、とも。

デッカがモーツァルト生誕二百年を記念しての全曲盤録音にしても、
フィガロの結婚はクライバー、コシ・ファン・トゥッテと魔笛はベーム、
ドン・ジョヴァンニはクリップスの起用に、《考えてみれば、おかしい》とされている。

確かにクリップスは、グレン・グールドはモーツァルト振りとして評価しているが、
世間一般には、クライバー、ベームと肩を並べる指揮者とはいえない。

なぜなのか。
黒田先生は、ドン・ジョヴァンニのレコード(録音)が少ないことの理由で、
ひとつだけわかっているのは、《歌い手をそろえにくいこと》と指摘されている。

詳しいことはステレオサウンド 30号を読んでいただくとして、
ここだけ引用しておこう。
     *
 大指揮者たちが、とかく「ドン・ジョヴァンニ」を敬遠しがちなのは、そういうことがあるからと思う。いかにカラヤンだろうと(いや、カラヤンだからこそ、といいなおすべきだろう)「ドン・ジョヴァンニ」に人をえなくては、「ドン・ジョヴァンニ」の全曲盤はつくらないだろうし、その理想的なドン・ジョヴァンニをえるのが、ひどくむずかしいとなれば、カラヤンとわずとも、二の足をふまざるをえないのかもしれぬ。
     *
ステレオサウンド 30号の黒田先生の文章を読んで、
カラヤンのドン・ジョヴァンニに、満を持して、と書かれた理由がやっとわかった。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ドン・ジョヴァンニ(カラヤン・その1)

ステレオサウンド 75号から黒田先生の「ぼくのディスク日記」が始まった。
80号の「ぼくのディスク日記」は、それまでとは少し違う、と感じられる一文があった。
     *
 ディスク日記にカセットテープを登場させるのもどうかと思い、一瞬ためらったが、ディスクがないのであるから、やむをえない。しかも、このカセットテープは、「ノット・フォー・セール」である。これもまた、ハンブルクのポリドール・インターナショナルにいる友だちからの、もらいものである。なんだか、今回の「ディスク日記」はもらいものばかりでまかなっているようで、いささか気がひける。
 これは、「プレゼンテイション86」という、ドイツ・グラモフォンが宣伝用につくったカセットテープである(ドイツ・グラモフォン 419548・4)。ここには、近々ドイツ・グラモフォンやアルヒーフで発売になるはずのディスクに収録されている演奏の抜粋が、おさめられている。どのようなものがそこに入っているかというと、カラヤンの最初のレコーディング(!)である「ドン・ジョヴァンニ」の一部とか、バーンスタインの、ニューヨーク・フィルハーモニーを指揮してのマーラーの第七交響曲や、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮しての同じマーラーの第九交響曲の一部などである。
 書いておきたいのは、カラヤンの「ドン・ジョヴァンニ」についてである。そこでは、序曲と、「カタログの歌」の後の合唱のナンバー、それにドン・ジョヴァンニのセレナーデだけしかきけないが、期待をかりたてられずにいられないような演奏である。ようやくのことでカラヤンによって録音された「ドン・ジョヴァンニ」を、一刻も早くきいてみたいと、首を長くしている。
     *
カラヤンのドン・ジョヴァンニは1985年に録音され、
1986年に発売になった。

黒田先生は別のところで、「満を持して録音」といった表現を使われていた、と記憶している。
それまで黒田先生の書かれるものを読んできた者は、
黒田先生をが昂奮を抑えきれずにいられることを感じとれたはずだ。

1986年は私は23。
ドン・ジョヴァンニをそれほど聴いていたとはいえない。
持っていたのはフルトヴェングラーのだけだった。
ジュリーニ、クリップス、ベームは、部分的には聴いたことがあっても持っていなかった。

そんなところにいた聴き手だったから、
黒田先生のなぜそこまで昂奮されているのかを、よく理解できていたとはいえなかった。

浅里公三氏も、待った甲斐があった、といったことを書かれていた。
もちろん買った。聴いた。

でも黒田先生、浅里公三氏のようにいくつものドン・ジョヴァンニを聴いてきたわけではない。
そんな未熟な聴き手は、カラヤンのドン・ジョヴァンニのすごさを、
その時点でどこまで感じとれていたかははなはたあやしい。

だから「それにしても……」というところがかすかに残った。
それが消え去ったのは、もう少し先だった。

Date: 5月 16th, 2017
Cate: ディスク/ブック

フィガロの結婚(クライバー・その1)

いまではクライバーと書けば、カルロス・クライバーを指す、といってもいい。
私も世代としてはカルロス・クライバーの方である。

カルロス・クライバーは、コンサートで聴くことができたが、
エーリッヒ・クライバーは1956年に亡くなっているから、
エーリッヒ・クライバーを聴く(聴いた)ということは、
1963年生れの私にとっては、残された録音を聴くということになる。

エーリッヒ・クライバーのレコードよりも、カルロス・クライバーのレコードを先に聴いていた。
ベートーヴェンの五番、七番、ブラームスの四番、
魔弾の射手、椿姫、こうもりなどは、
エーリッヒ・クライバーの演奏を聴く前にカルロス・クライバーの演奏(レコード)で聴いている。

それでも私のなかでは、エーリッヒ・クライバーの存在は大きい。

黒田先生が「音楽への礼状」で書かれている。
     *
 つい先頃、はじめて指揮をなさったメトロポリタン歌劇場でも、あなたは、ボエームをとりあげましたね。そしてこの秋の日本でも、「ボエーム」です。そのことについて、不満のあるはずもありません。あなたの「ボエーム」は絶品です。何度でもききたい。しかし、ききてのききたがる作品だけをくりかえし演奏していることによって、あなたは、あなたの意識しないところで、ブランド化している。その結果、あなたは、阿呆のグルーピーを育てています。
 あなたは、あなたのお父上、エーリッヒ・クライバーが、今から六十年以上も前の一九二五年に、ベルリン国立歌劇場で、ベルクのオペラ「ヴォツェック」を上演するために百二十八回ものリリハーサルをおこなったことを、どのようにお考えでしょうか? 一九二五年のききてにとって、あのベルクの「ヴォツェック」の音楽がどのようにきこえたか、これは想像にあまりあります。しかし、あなたのお父上は、聴衆の熱狂が期待できるはずもないことを、やってのけた。
     *
エーリッヒ・クライバーは、ブランド化することはなかった。
時代が違う、といえばそれまでだが、
たとえ時代が同じであったとしても、ブランド化したとは思えない。

そういうエーリッヒ・クライバーの残したフィガロの結婚が、
タワーレコードからSACDで出ている。

エーリッヒ・クライバーのフィガロの結婚は、1955年の録音にも関わらず、
ステレオで残っている。
ワンポイントマイクで録られている。

最初はモノーラルLPで登場した、と聴いている。
ステレオディスクの規格が45/45方式に正式に一本化され、
ステレオLPとして登場した。

再生機器の進歩が、この録音を色褪ない。
録音だけではない。
     *
 クライバーの演奏も軽みや弾みのあるものではないが、クレンペラーの演奏にきかれるような重みからは、遠い。これは世間でよくいわれるウィーン風な演奏の典型といってもいいものだ。音楽の流れは、大変にしなやかで、ソロをとる楽器のねいろはいとも芳しい。情緒ゆたかな演奏だが、クライバーはそれにおし流される一歩手前でふみとどまっている。そのクライバーの節度が、この決して新しいとはいえないレコードをふけこませないでいるようだ。
(ステレオサウンド 30号「ディスコグラフィからみた三大オペラ」より)
     *
録音もそうだ、節度あるからこそ、色褪ないでいられる。