Archive for category テーマ

Date: 11月 7th, 2018
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(韓国、中国は……・その3)

1970年にトランジスタ技術別冊として「世界の名器に挑戦」というムックが出ている。
出ていることは知っているけれど、手にとって読んだことはない。

内容は、海外の有名アンプのコピー(クローン)を製作するというもの。
コントロールアンプでは、マランツのModel 7T、JBLのSG520、
マッキントッシュのC27とC26、ダイナコのPAT4、QUADの33、CMラボラトリーズのCC2。
パワーアンプは、マランツのModel 15、JBLのSE400S、ダイナコのStereo 120、
アコースティックのModel I、QUADの303、アルテックの351C、CMラボラトリーズの350、
プリメインアンプはJBLのSA600が取り上げられている。

おもしろい企画だと思うし、この時代ならではの企画でもあろう。

スピーカーシステムでは、同じ企画はいくつもある。
自作のパラゴン、自作のハーツフィールドなどの記事は、過去にいくつもあった。

どこまで本物に迫れるか。
自作する人の腕の見せどころでもあるし、
本物に迫ろうとすればするほど、本物を買った方が結果としては安くつくのではないのか。

それでも人は作る。

AliExpressでオーディオに関するものを検索していくと、
1970年代の日本のオーディオのありかたと重なってくるところがあるようにも感じる。

そういえば、そのころ日本にはジムテックというメーカーがあった。

Date: 11月 5th, 2018
Cate: Kate Bush, ディスク/ブック

Kate Bush – Remastered

ケイト・ブッシュのリマスターの告知は知っていた。
LPとCDの予約が始まっているのも、もちろん知っている。

今日、Kate Bush – Remastered – Adという動画を見た。
最後に、LP – CD – Digitalとある。

Digitalが意味するのは、配信なのだろう。

Date: 11月 4th, 2018
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(韓国、中国は……・その2)

AliExpressには、クレルのKSA50そっくりのアンプが見つかる。
内部の写真も見ることができる。

1980年代には、クレルの偽物が話題になったことがある。
外観はクレルのKSA50、KSA100とそっくり。
けれど中身はすかすかで、持ってみれば軽いから、音を聴かずとも偽物とわかる。

その偽物のクレルとAliExpressで売られているKSA50のクローンは、そこが違う。
中身もKSA50そっくりに造られている。

おそらく回路もKSA50そのままなのだろう。
この時代のクレルのパワーアンプの回路図はインターネットで検索すれば、すぐに見つかる。
使用しているトランジスターは、多少違っている可能性はあるだろうが、
互換性のあるトランジスターに置き換えられている、と思う。

コンストラクションは、ほぼそのままといえる。
ヒートシンクとファンの位置関係もKSA50の通りだし、
シャーシーの構造は同じとはいえないものの、近づけるよう努力の跡はわかる。

アレンジが加えられているように見えない。
KSA50の音を、できるかぎり再現しようとしたアンプなのか、とも思えてくる。

音は実際のところ、聴いてみないとなんともいえない。
購入しない限り、聴く機会もないだろう。
だからよけいにあれこれ想像してしまう。

KSA50は35年以上前のアンプである。
それのクローンを、中国のどこか(誰か)が製造している。

AliExpressでは、売れた台数が表示されている。
AliExpressでだけで売っているのではないだろうけど、
それほど売れているわけではないようだ。

にも関らず、これだけのクローンアンプを製造し続けている理由を知りたい。

Date: 11月 3rd, 2018
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その6)

正直ということは、ここで書いていることとも結びついてくる。
その1)で書いているグルジェフのことば、
その目覚めるとは、正直ということなのかもしれない。

ならば、私は目覚めている、という人もいようが、
ほんとうに正直だといえるのか。

知らず知らずのうちに、己を騙している──、
そうでないと言い切れるのか、と。

Date: 11月 2nd, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その8)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
結局、正直でなければ、裸の音楽は鳴ってこない。

Date: 11月 2nd, 2018
Cate: 書く

毎日書くということ(答えではなく……・その5)

(その1)で、
1万本に近づいたときに、究極の答え、最終的な答えにたどりつけるのか。
そのためには究極の問いを見つけることになる、と書いた。

いまこれが8919本目である。
どうにか一万本に近づいてきた、といえる本数になって、
しかも十年、毎日書いてきて、最終的な問いが見えてきた。

別項で書いていることである。
正直なのか、という問いこそが、最終的な問いとなってくる予感がある。

Date: 11月 2nd, 2018
Cate: 映画

バルバラ セーヌの黒いバラ

「私は、マリア・カラス」が12月21日から上映されるのを楽しみにしていたら、
その前にバルバラの映画「バルバラ セーヌの黒いバラ」が11月16日から上映になる。

バルバラの映画のあとには、アストル・ピアソラの映画も公開になる。
ピアソラ 永遠のリベルタンゴ」である。12月1日からだ。

三本、どれも見逃せない。

Date: 11月 1st, 2018
Cate: audio wednesday

第94回audio wednesdayのお知らせ(歌謡曲を聴く)

今月のaudio wednesdayは7日、テーマは「歌謡曲を聴く」。
広く日本語の歌を聴こう、ということで、歌謡曲という定義にこだわってはいない。

私が持っていく予定のディスクは、グラシェラ・スサーナに、
薬師丸ひろ子の「Cinema Songs」、
それから柳兼子の「現代日本歌曲選集 日本の心を唄う」の三枚は確実だ。

喫茶茶会記のスピーカーは、ホーン周りがこれまでとはかなり違っている。
まだ一部仕上げが残っているが、二週間ほど前に行った作業後の音は、
時間がなく、実は私も聴いていない。

こんなふうに鳴るはず、という予想はあるけれど、
その予想をこえたところで鳴ってくれるのか、それとも予想を下回る鳴り方なのか、
私自身も楽しみにしている。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 11月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その18)

十年ほど前からか、KYという略語が流行り出した。
空気を読め、空気が読めない、という意味で使われていた。

誰がいい出したのか、
どうして、こんな略語が流行ったのか。
研究している人はいるのだろうが、
私は、これも「私を不快にさせるな」というところから来ているように感じている。

よかれ、と思って言ったことが、相手を不快にさせることはある。
わたしなんて、しょっちゅうといえるほうだろう。

八年前もあった。
あきらかにおかしな音を聴かされた。
25年のつきあいのある男の音だった。

そのことをやんわりと指摘した。
そのくらい、おかしな音(間違っている音)だったからだ。
彼の出す音は、バランスを欠いた音である。
そのことはわかっていても、その時の音は、バランスのおかしさという範囲を逸脱した音だった。

でも、その音は彼にとって自慢の音だったようで、
彼とのつきあいはそれっきりである。
彼にしてみれば、「私を不快にさせるな」もくしは「私を不快にさせやがって」なのだろう。

それは彼の自尊心を傷つけた(無視した)からなのか。
いまとなってはどうでもいいことなのだが、
それにもかかわらず、こんなことを書いているのは、
時として不快な気持になる誰かの言動は、
己が本当に正直なのか、という確認につながっていくようにも、私は思っている。

本当に私は正直なのか、音楽の聴き手として、
オーディオマニアとして正直なのか、という確認作業は、とても大事なことである。

Date: 10月 31st, 2018
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(子供の質問)

駅からの帰り道。
前を歩いている女の子(幼稚園児くらい)が、お母さんにしきりに訊いていた。
「お化けはどうしてこわいの? お化けはどうやって怖がらせるの?」と。

お母さんは、うまく答えられずに困っていたようだった。
それでも女の子は、何度も同じことをいっている。

子供の質問。
たとえば、空はどうして青いの?とか、
飛行機はどうして飛ぶの?とかだったら、
いまではスマートフォンがあるから、パッと調べてなんとなくではあっても、答えられる。

けれど、今日の女の子の質問に答えるのは、難しい。
女の子がいうお化けとは、どうも幽霊のことのようだった。

幽霊を見たことがない。
いるという人もいれば、いないという人もいる。

お母さんが、どちらなのかはわからない。
いるのかいないのか、それすらはっきりしない幽霊が、
どうやって人を怖がらせるのか。

幽霊は怖いものだという認識があるだけで、
ただ目の前に現われただけの幽霊は、ほんとうに怖いのだろうか。

こちらに害を及ばさなければ、ただ見えているだけともいえる。
考えても答は出そうにない。

けれど、オーディオにも似たようなこと、同じようなことがいえるのではないのか。
そんなことをぼんやり考えながら、帰宅していた。

Date: 10月 30th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その9)

ヘッドフォン祭のあとの、仲良しチームでの飲み会。
ここでも、メリディアンのULTRA DACのことが話題になった。

仲良しチームの三人で、ULTRA DACを聴いているのは私だけ。
あとの二人は、その日、東京にいなかったので聴く機会を逃している。

ヘッドフォン祭では、デジ研のブースで、ちょうどMQAについての解説とデモをやっていた。
私にとっては特に新しい情報はなかったけれど、
二人は「いい勉強会だった」と喜ぶだけでなく、ULTRA DACへの興味が俄然増したようだった。

そういうことがあったので、飲み会でもULTRA DACのことが、自然と話題に登った。

12月5日のaudio wednesdayで、再びULTRA DACを鳴らす。
二人とも、「楽しみ、楽しみ!」といってくれる。

そうだ、とおもう。
私も、すごく楽しみにしている。

私はもう一度ULTRA DACの音が聴ける、
前回以上に堪能しよう、という意味での楽しみであるけれど、
Aさんは、こんなことをいっていた。
「宮﨑さんの好きな音を知ることのできる機会でもある」と。

そんな楽しみもあるようだ。

Aさんは、けっこうな回数、audio wednesdayに来てくれている。
他の場所でも、いっしょに音を聴く機会はある。
このブログも読んでくれているし、いっしょによく飲んでいる。

それでも、Aさんは、私の好きな音を掴みきれていなかったのか、とおもうだけでなく、
意識して隠しているつもりはないし、ここに書いているつもりなんだけど……とも思う。

そんなことがあったから、よけいにaudio wednesdayで鳴らす音は、
私の音といえるのか、私の好きな音の片鱗を鳴らしているのか──、と少し考えている。

Date: 10月 30th, 2018
Cate: ショウ雑感

2018年ショウ雑感(その14)

ヘッドフォン祭の来場者の平均年齢は、
OTOTEN、インターナショナルオーディオショウよりも若い。

今回、学生服の二人連れが目に留った。
見た感じ中学生か高校一年くらいだった。
二人とも学生カバンを下げていたから、学校が終ってから来場したのだろう。

会場は中野サンプラザで、いちばん上は15階、
そこから下に降りていきながら会場を見ていたわけだが、
面白いことに、この若い二人組とは、三回ほど遭遇した。

友人同士なのだろう、何か話しているのは見ればわかるけれど、
静かな話し声だった。
(その13)で書いた数人のグループとは、正反対だった。

楽しそうに聴いているのかな、と、そんなことを思いながら、
彼らを見ていた。

彼らが、これから先、どんなオーディオマニアになっていくのかは、まったくわからない。
ヘッドフォンだけで音楽を聴いていくのか、
それともスピーカーで聴くことにもすでに興味をもっているのか、
なにひとつわからないわけだが、
(その13)で書いた人たちのようにはなってほしくない、と勝手におもっている。

Date: 10月 29th, 2018
Cate: ショウ雑感, 複雑な幼稚性

2018年ショウ雑感(「複雑な幼稚性」)

「複雑な幼稚性性」というタイトルとカテゴリーで(その1)を書いたのは、十年前。
120本以上書いている。

「2018年ショウ雑感」の(その13)へのコメントが、facebookにあった。

そこには、こう書かれていた。
《ある意味、オタク性群れヒエラルキーの幼児性ですね》と。
まさしく、(その13)で書いている人たちは、そうだといえよう。

最近、よく目にする表現で、マウントの取り合い、というのもある。

どちらも、「複雑な幼稚性」だと私は思っている。
だから、この「複雑な幼稚性」のカテゴリーをつくって書きつづけている。

Date: 10月 29th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その26)

トランスの取り付け方、取り付け位置は注目したいポイントである。

カタログやウェブサイトなどでの製品の説明で、
良質で大容量の電源トランスを使用していることを謳っているものはけっこうある。

オーディオ雑誌の記事でも、製品の内部写真の説明でも、
電源トランスは……、という記述があったりする。

アンプにしても、CDプレーヤーにしても交流電源を直流にして、
その直流を信号に応じて変調させて出力をさせているわけだから、
電源のクォリティは、音のクォリティに直結しているわけで、
電源トランスは、その要ともいえる。

だからこそ良質で(高価な)トランスを採用するわけだが、
その取り付け方をみると、このメーカーは、ほんとうに細部までこだわっているのだろうか──、
そう思いたくなるメーカーが、けっこう多い。

ケースなしの電源トランス、
特にトロイダルコアの電源トランスをどう固定するか。

どんなに電源トランスのクォリティにこだわりました、と謳っていても、
こんな取り付け方しかしないのか、取り付け方を自分たちで工夫しないのか、考えないのか、
そういいたくなることがある。

安価な製品であれば、それでもかまわない、と思うけれど、
数十万円、百万円をこえる製品なのに、
電源トランスも大きく立派そうにみえるモノであっても、
取り付け方は標準的な方法そのままだ。

ここまで書けば、製品内部をきちんと見ている人ならば、
どういうことをいいたいのかわかってくれよう。

細部まで疎かにせず、とか、細部までこだわりぬいた、とか、
そういう謳い文句が並んでいても、電源トランスの取り付け方が、
そのこだわりがどの程度のものなのかを、はっきりと示している。

Date: 10月 28th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その5)

その1)を書いたのが、五年半ほど前。
(その4)は三年半ほど前。

思い出して続きを書き始めたのは、菅野先生が亡くなられたからでもある。
facebookにオーディオ関係のグループはいくつもある。
そのなかのいくつかは、おそらく菅野先生が亡くなられたことについて、
書いている人がいると思う(見てないので知らない)。

ブログで書いている人もいるはずだ(こちらも見ていない)。
SNSもブログも、あえて検索しなかった。

しなかったけれど、
「オーディオの一つの時代が終った」的なことを書かれている人がいるとは思っている。
どのくらい、そう思っている人がいるのかも私にはわからない。

でも、ほんとうに「オーディオの一つの時代が終った」のだろうか。
ここでのオーディオは、何を指すのか。

オーディオ評論ということでも、一つの時代が終ったようには感じていない。
1977年に岩崎先生、1980年に五味先生、そして1981年に瀬川先生が亡くなられて、
私は、オーディオ評論の一つの時代が終った、と感じていたからだ。

もうとっくの昔に終りを迎えていた。

一つの時代が終りを迎えたら、新しい時代が始まるのだろうか。
少なくともオーディオ評論の世界では、そういうことは起らなかった。

でも変化は起こるはず、といわれるかもしれない。
けれど、その変化にしても、瀬川先生が亡くなられたことで始まっていた。
それは決していい変化とはいえなかった。

「オーディオの一つの時代が終った」と感じ、
新しいオーディオの時代が始まる──、
そう感じ、そう信じれる人は信じればいい。

私はそうでないだけ、の話だ。