音のかたち
昨日取り上げた「目であるく、かたちをきく、さわってみる。」。
この本のデザイナーの有山達也氏の本が「音のかたち」である。
「音のかたち」は書店でみかけて知ってはいた。
知っていただけで、それ以上のことに興味を抱くことはなかった。
「目であるく、かたちをきく、さわってみる。」へfacebookでコメントがあった。
そのコメントで、
「目であるく、かたちをきく、さわってみる。」と「音のかたち」に、
ある種の結びつきがあるのを知った。
数日前に、イギリス人男性と日本人女性夫妻のお宅に伺った。
音楽好きの夫妻である。
CD棚には、さまざまなジャンルの音楽のCDがある。
そこにあって、やや異色と感じた棚があった。
その棚には、江利チエミのCDが、おそらくほぼすべて揃っているようだった。
そこには、江利チエミ・ファン垂涎の一枚といわれているCDもあった。
二人とも、江利チエミにぞっこんだ、という。
江利チエミの歌は、テレビから流れてくるのを子供のころ聴いていた。
美空ひばり、雪村いづみとともに三人娘といわれていて、
映画もテレビで放送されたのをみている。
いわばなじみのある歌い手である。
いまではまったく聴かなくなったわけではない。
年に数回聴いている。
といっても、自分でCDをもっているわけではない。
audio wednesdayで聴くことがあるからだ。
それでも、江利チエミのCDを買おう、とまでは思わなかったのに、
ずらっと並んでいる江利チエミのCDをみて、
じっくり聴いてみよう、とやっと思うようになった。
できればMQAで聴きたい、と思うし、
MQAでならば、より積極的に聴きたい、と思うのが、いまの私だ。
e-onkyoで「江利チエミ」と検束すると、ある。
MQAでもあるし、5.6MHzのDSDも用意されている。
江利チエミのファンでない私にとっては、十分な枚数のタイトルが並んでいる。
五年前に書いている。
美という漢字について、である。
美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、といわれても、
最初は、なかなか実感はわかなかった。
まず、なぜ羊なのか、と多くの人が思うだろう、私も思った。
大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。
神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。
羊+大としての「美」。
それは英語のbeautyとイコールではない。
もう何度か、同じことを書いてきている。
なのに、いまごろになって気づいたことがある。
アーノンクールのマタイ受難曲のジャケットのことだ。
このディスクが出たのは2000年。
そのころは、「美」という漢字のもつ意味を知らなかった。
だから特に気づくこともなかった。
アーノンクールのマタイ受難曲のジャケットには羊の絵が使われている。
生贄としての羊と思われる絵は、
フランシスコ・デ・スルバラン「神の仔羊」である。
いまごろになって気づいて、
アーノンクールのマタイ受難曲を聴きたい、と思うようになった。
能力だけではない、
能力と迫力があってこその圧倒的であれ、である。
「目であるく、かたちをきく、さわってみる。」が、
近所の書店に平積みされていた。
八年ほど前に復刊された本なのに、なぜか、その書店のいちばんいいところに置かれていた。
マーシャ・ブラウンの名は知っていたが、
この本のことは知らなかった。
「かたちをきく」。
オーディオを介して音楽を聴くということは、
まさしく「かたちをきく」ことかもしれない。
今回の試聴会には、立命館大学も参加している。
立命館大学は京都にある。
立命館大学の学生が最初に話したのは、
関西の大学でオーディオサークルがあるのはウチだけです、だった。
関西にいくつの大学があるのかは知らないが、それにしても、である。
立命館大学だけなのか……。
オーディオブームだったころは、そうではなかったはず。
かなりの大学にオーディオサークルはあったであろう。
なのに、いまでは関西では立命館大学だけ、というのは、
いったいどれだけ減っていったのか。
中央大学以外にも、部員がどれだけいるのか話した大学はある。
そこも、やはり少ない部員数である。
オーディオサークルの数も減り、部員も減っていっている。
くわえてオーディオはお金がかかる。
それでも、こうやってオーディオをやっている人たちがいて、
音楽之友社のステレオでは、スピーカー甲子園という企画をやっている。
それからオヤイデ電気も、大学のオーディオサークルにパーツを提供している。
今年は七つの大学だった。
来年はどうなるのか。
減っているのか、同じなのか、それとも増えているのか。
増えていってほしい、と思うし、
くり返しになるが、もう少しの厳しさをもって取り組んでほしい。
同好会の域を出ていない──、
理科サークルフェスタでのオーディオサークルの試聴会は、そうだった。
部外者が聴きに来ないのであったとしても、
厳しさが、少しは必要と感じないのだろうか。
スピーカーを自作するのは楽しい。
しかも予算の制約を受けながらの自作だけに、
楽しいだけではなく、苦労もあるのはわかる。
でも、そうやって自作したスピーカーを、
どうしてこんな鳴らし方をするのだろうか、と思ってしまう。
CDプレーヤー、アンプにも贅沢はできないのはしかたない。
そういうことを求めているわけではない。
スピーカーにしても、アンプ、CDプレーヤーのセッティングが、
残念ながら、お粗末すぎる。
教室での音出しだから、ここでも制約がいくつもあるのはわかる。
そんななかでも、工夫はいくつもできるものだ。
予算が足りなければ、体を動かそうよ、といいたくなる。
みんなで知恵を出し合おう、ともいいたくなる。
音出しで、ちょっとしたトラブルがあると、協力しあっていたのだから、
音出し以前の段階で、もっともっと協力しあえばいいことなのに……、と思う。
それぞれの大学のオーディオサークルがこうして集まって試聴会をやるのは、
とてもいいことである。
ずっと続けてほしいことである。
でも、それだけでは……、と部外者で世代も大きく違う私は思ってしまう。
課題曲のうち私が聴いたことがあるのは、
マイケル・ジャクソンの“Say Say Say”だけ。
あとの二曲は、初めて聴く。
課題曲を鳴らしたあとに自由曲を鳴らす。
自由曲を先に鳴らした大学もあったけれど、あとはすべて課題曲からだった。
この順番はどちらでもいいが、課題曲を鳴らすにあたっては、
もう少し音量を揃えてくれた方がいい、と感じた。
音量も含めてのプレゼンテーションと受け止めれば、
音量設定も各大学によって違っても受け入れるしかないのだが、
ここに関しては、配慮があってもいいのではなかろうか。
課題曲もそうだったが、自由曲も初めて聴く曲ばかりだった。
同時に、課題曲も自由曲も、大きな違いはなかった。
課題曲も、彼らが好んで聴く曲を中心に選んでいるような印象を受けた。
自由曲の時間があるのだから、
課題曲は、クラシック、ジャズが含まれていてもいいように思う。
こんなことを書くと、お前が歳をとり過ぎている、といわれるのはわかっていても、
どの曲も似たり寄ったりなのだ。
どの大学の人たちもハタチ前後であろう。
そのころ、どんな音楽を聴いていたか、を思い出してもいた。
好きな音楽をもちろん聴いていたけれど、
それだけでなく、背伸びして聴いていた音楽もあったし、
その時間も長かった。
今回の試聴会には、そういう空気がなかったように感じた。
好きな音楽を聴きたい──、
それだけしかなかったようにも感じていた。
法政大学小金井キャンパスで開催された理科サークルフェスタ2019に行ってきた。
オーディオサークルのある大学として、
芝浦工業大学、中央大学、明治大学、神奈川工科大学、
立命館大学、東京電機大学、東京都市大学の参加だった。
東館二階の二教室を使っての合同の試聴会である。
午前中がE201、午後からは向いのE202教室という二部構成で、
上記の最初の三大学が午前中、四大学が午後からだった。
11時過ぎに到着したため、芝浦工業大学のスピーカーだけは聴けなかった。
各大学のスピーカーの説明の冊子も用意されていた。
会場となる教室に、
人がけっこう入っていたのは、少し意外だった。
女性も数人いた。
でも、各大学のオーディオサークルの部員の人たちばかりのようでもあった。
関係ない人で来ていたのは、あまりいなかったのではないだろうか。
なので、みな若い。
年齢的には、私は完全に浮いた存在だった。
私が教室にはいったとき、中央大学の時間が始まったばかりだった。
中央大学は二つのスピーカーを出していた。
フォステクスのユニットを使ったスパイラルホーン型(長岡鉄男氏設計がベース)、
それから小型2ウェイのシステムだった。
2ウェイのモデルは、女性による自作だった。
合同の試聴会だから、試聴器材も、
スピーカー以外は同じか、と思っていたら、
大学ごとにシステムすべてが違う。
比較試聴会というよりも、
各大学のオーディオサークルのプレゼンテーションと捉えれば、これもありだ。
課題曲として、
ハシタイロ/rionos
Laplace’s Demon/カルメラ
Say Say Say/マイケル・ジャクソン、
これら三曲が決っていた。
(その1)で、完璧な文章とは、
どんな読み手であっても、
そこに書かれたことを曲解せずに、正しく受け止めることができる文章なのか──、
そう書いた。
そういう文章が世の中に存在したことがあるのか。
私にはわからないが、
仮にそういう文章こそが完璧な文章だとすれば、
完璧な音もまた、そういう音ということになる。
ここでの、そういう音とは、誰一人として誤解しない、曲解しない音ということになるのか。
完璧な音を複数の人が聴いたとしたら、
皆が同じに受け止める音になるのか。
けれど、音が伝えるのは、
そしてここで述べている完璧な音とは、スピーカーから鳴ってくる音であり、
それはあくまでも音楽を鳴らすための音である。
とすれば、完璧な音とは、たとえばベートーヴェンの交響曲第九番を鳴らしたら、
その音を聴いている人みなが、ベートーヴェンの第九を正しく捉えられる音ということになる。
けれども、世の中に完璧な演奏があるのか、ということを今度は考えることになる。
ベートーヴェンの第九の完璧な演奏があって、
完璧に聴き手に伝えられる音こそが完璧な音ということになる。
ここが完璧な文章と完璧な音との違いということでもある。
ベートーヴェンの第九の素晴らしい演奏はいくつかある。
よく知られるところでは、フルトヴェングラーのバイロイトの第九がある。
フルトヴェングラーの第九以外にも、人それぞれ素晴らしいと感じる第九がある。
私にとっては、ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニー、
ライナー/シカゴ交響楽団の第九は素晴らしい演奏であるが、
だからといって完璧な演奏とは思っていない。
理科サークルフェスタ2019が、
12月8日、法政大学小金井キャンパスで開催される。
明治大学、中央大学、法政大学 の理工学部主催で、
10大学以上のサークルが参加する、とのこと。
オーディオサークルのある大学はいくつかある。
それぞれの大学の学園祭で、自作スピーカーの発表などをしているのは知っていたけれど、
一つ一つの学園祭の日時をチェックしたり、行くのも億劫で、まだ行っていない。
でも、今回の理科フェスタには、いくつかの大学のオーディオサークルが参加している。
一度に、いくつかのオーディオサークルの発表を聴ける。
なので、今回は行くつもり。
オーディオショウの各ブースでは、それぞれの出展社による、
音によるプレゼンテーションが行われている、といっていい。
プレゼンテーションをするのは、ブースのスタッフだったり、
メーカーの人だったり、オーディオ評論家だったりする。
製品の説明がある。
そこで技術の説明もあることが多い。
加えて、この製品の音は──、と続くこともけっこうある。
以前も書いているが、その時の言葉による音の表現と、
実際にそこで鳴っている音を私が聴いての印象とは、
同じことはあまりない、といっていいし、
ひどいときに、この音を、そんなふうに表現するの? とスタッフに問い質したくなることも少なくない。
そういう場合、この人は、いったいどういう音の聴き方をしてきたのか、
といつも思う。
どういう音楽を、どういう音で聴いてきた人なのだろうか。
そして、音の表現をするにあったて、
この人は、どんな共通認識をもっているのだろうか──、
その他にもあるが、そんなことを考えてしまう。
考えたところで答がはっきりするわけではないのはわかっている。
スタッフの耳か、私の耳か、どちらかがひどい、ということなのか。
それとも、他に理由があるのか。
その理由について最近考えているのは、
音に対するイメージの相違、
それも静的イメージと動的イメージの違いがあるのではないか、
そう考えている。
全国各地では、オーディオ店主催のオーディオショウが、
12月いっぱいまでいくつか開催されているようであるが、
東京にいると、インターナショナルオーディオショウの終りとともに、
今年のオーディオショウも終り、という印象を個人的には受ける。
ショウが終り、各オーディオ雑誌がそれぞれの賞を発表する。
ステレオサウンドのステレオサウンドグランプリが発表、
つまり冬号が発売になれば、こちらも一段落。
ショウと賞が、今年も変らずに行われ、変らずに終っていく。
来年もきっと変らずに行われ、終っていく。
どのブースも、毎年のことだから、手馴れている印象が毎年強くなってくる。
こちらも変らずに行われ、終っていく。
それがいい──、
それでいい──、
そういうことなのか、と思ったりもする。
それを長いつきあい、というのであれば、
求めるのは深いつきあいだ,ということに気づく。
12月4日のaudio wednesdayは、趣向をかえて、
写真家の野上眞宏さんのDJによる四時間だった。
聴いているわれわれもDJの野上さんも楽しかった一夜だった。
またやりましょう、ということになる。
2020年は、数回、誰かにDJをやってもらう予定でいる。
野上さんにはまたお願いするし、ほかの方にもお願いするつもりでいる。
野上さんの選曲を聴きながら、
「オーディオと偏愛」について、何か書いていこうかな、とも考えていた。
令和初日(5月1日)が、ちょうどaudio wednesdayの100回目だった。
例話最初の元日が、108回目になる。
1月1日が次回の開催日である。
しかも108回、一般的にいわれる煩悩の数とぴったりの回が元日と重なっている。
テーマはまだ決めていないし、
1月1日に来る人もかなり少ないだろうが、音を鳴らしていく。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。