Archive for category テーマ

Date: 5月 15th, 2021
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(その13)

(その12)は、2015年3月だから、六年経つ。
続きは書くつもりでいたので、自分でもそんなに経っていたか……、と思う。

六年経つと、続きをどんなふうに書くつもりだったのか、
ほとんど憶えていない。まぁ、書いているうちに思い出してくるかもしれない。

それでも続きを書いているのは、TIDALを使うようになったから、というのが大きな理由である。
TIDALのライブラリー曲数は6000万曲をこえる、らしい。

TIDALだけでなく、ほかのストリーミングサービスも、同じくらいのライブラリーの曲数である。
それぞれのサービスでタブっている曲もあれば、そうでない曲もあるだろうから、
すべてのストリーミングサービスの曲数を合計すると、いったいどれだけになるのか。

そのなかから自分の聴きたい曲を選ぶためのインターフェースとしてのチューナー・デザイン、
それだけでなく未知の音楽をさがしていくためのインターフェースとしてのチューナー・デザイン、
この二つのことが、この項を書き始める前から考えていたことだ。

TIDALを半年使っていて、やはりチューナー・デザインを考えていく必要がある、と感じている。

六日前に「TIDALという書店」を書いた。
こういう感覚をTIDALに対してもっているわけだから、
その感覚にふさわしいインターフェースは、チューナー・デザインの発展形だという直観がある。

Date: 5月 14th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(ライバルのこと・その2)

オーディオにおいてのライバルとは、いったいどういうことを指すのだろうか。

同年代で、オーディオマニアであれば、ライバル同士といえるのか。
それとも同じスピーカーを鳴らしていることが、ライバルへと鳴っていくのだろうか。

これはありそうな気がする。
例えばJBLの4343を使っていたとしよう。

片方はマークレビンソンのLNP2とML2で鳴らしていた、としよう。
もう片方はプリメインアンプで鳴らしていた場合、
この二人はライバル同士となるのか。

もちろんこの二人はオーディオ仲間であり、友人関係でもある。
二人とも4343に惚れ込んでいる。
オーディオ歴もほぼ同じ。

けれどアンプのグレードが、この二人は大きく違う。
プリメインアンプで鳴らしている男は、
マークレビンソンで鳴らしている男をライバルだと思っているとしても、
マークレビンソンの男は、プリメインアンプの男をライバルだと思っているのかは、
どうだろうか。

マークレビンソンの男も、以前はプリメインアンプだった。
そのころは二人の4343の鳴らし手はライバルといえただろう。

どちらも相手のことをライバルと認識していたことだろう。
けれど片方が、一気にアンプをグレードアップした。

プリメインアンプの男は、そこでなにくそと思ったはずだ。
あいつがマークレビンソンなら、オレはGASにする、と思ったかもしれない。

プリメインアンプの男が、GASのアンプを買ったならば、
マークレビンソンの男は、ふたたび相手をライバルと思うようになるのか。

Date: 5月 13th, 2021
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その9)

その4)を憶えておられる方ならば、
〝言葉〟としてのオーディオとは、
音楽を語る〝言葉〟としてのオーディオであることを思い出されるはずだ。

〝言葉〟としてのオーディオは、
音楽の聴き方について語る〝言葉〟としてのオーディオである、とおもうようになってきた。

Date: 5月 13th, 2021
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その8)

この項のタイトルは「最後の晩餐に選ぶモノの意味」であって、
「最後の晩餐に選ぶ曲の意味」ではない。

最後の晩餐に聴きたいスピーカー(というよりも、その音)がある。
その音で聴きたい音楽がある。
そのことを書いているだけである。

本末転倒なことを書いているのはわかっている。
聴きたい曲が先にあって、
最後の晩餐として、その音楽を聴くのであれば、
どういう音(システム)で聴きたいかが、本筋のところである。

それでも私の場合、最後の晩餐から連想したのは、
まずシーメンスのオイロダインというスピーカーだった、というわけだ。

だから「最後の晩餐に選ぶモノの意味」というタイトルした。
その1)を書いたのは六年前。52歳のときだ。

いまもまだシーメンスのオイロダインを、最後の晩餐として聴きたい、というおもいがある。
それはまだ私が50代だから、なのかもしれない、とつい最近おもうようになってきた。

十年後、70が近くなってくると、オイロダインではなく、
ほかのスピーカーで聴きたい、と変ってきているかもしれない。
その時になってみないと、なんともいえない。

書いている本人も、変っていくのか、変らないのか、よくわかっていないのだ。
最近では、ヴァイタヴォックスもいいなぁ、とおもっているぐらいだ。

それでも、今風のハイエンドのスピーカーで聴きたい、とは思わないはずだ。

Date: 5月 13th, 2021
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その13)

(その11)、(その12)は少し脱線してしまったので、
話を元にもどして(その10)の続きである。

私が高校生のころ、
私にとってステレオサウンドのステート・オブ・ジ・アート賞は、
賞本来の輝きを放っていた、とこれまで書いてきている。

いまのステレオサウンドのステレオサウンド・グランプリには、
その輝きはない。
ステレオサウンドの賞だけでなく、ほかのオーディオ雑誌の賞に関してもそうだ。

私が小学生のころ、
大晦日に行われていたレコード大賞は、まだ賞としての輝きを放っていたように思う。
小学生が感じていたことだから、実際のところはどうだったのか、
大人はどう感じていたのかはまではなんともいえないが、
それでも高校生になったぐらいのころから、出来レースだというウワサもあった。

いまでは、すっかり賞としての輝きはなくなっているのではないか。
賞がそうなっていくのは、オーディオの世界だけではないようだ。

そして賞が輝きを失っていくとともに、
付加価値が使われてくるようになった、といえないだろうか。

たとえばステレオサウンドのステート・オブ・ジ・アート賞の一回目は49号。
二回目は53号。

49号ではステート・オブ・ジ・アート賞だけが特集だった。
53号では52号からの続きで、
アンプの総テストとステート・オブ・ジ・アート賞の二本が特集だった。

ステート・オブ・ジ・アート賞のページ数は、49号からぐんと減った。
当然である。

49号は一回目だから、現行製品すべてが対象となるのに対して、
53号では49号以降の一年間で新発売になった機種のみが対象なのだから、
ステート・オブ・ジ・アート賞に選ばれるモデルは、ぐんと減る。

毎年毎年、ステート・オブ・ジ・アート(State of the art)の意味にふさわしい製品が、
そんなにポンポンと登場してくるわけがない。

ステート・オブ・ジ・アート(State of the art)をどう捉えるかにもよるが、
厳密に、真剣にステート・オブ・ジ・アート(State of the art)ということで選考していったら、
今年は該当機種なし、ということだって十分ありうる。

Date: 5月 13th, 2021
Cate: オーディオ観念論

澄明(その2)

五味先生の「フランク《オルガン六曲集》に、
《淋しさに打ち克ったから到達し得た清澄の心境》とある。

透明ではなく、澄明な音というのは、そんな心境がつくりあげた音のはずだ。

Date: 5月 12th, 2021
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

総テストという試聴のこと(その5)

その4)で、書き手の高齢化は、総テストという、
ステレオサウンドの特徴の一つであった試聴のやり方をなくしていく、と書いた。

私が読者だったころのステレオサウンドの総テストは、
ほんとうに総テストだった。いつわりはなかった、といえる規模での試聴だった。

41号から読み始めた私にとって、
44号と45号、二号にわたってのスピーカーの総テストは、すごいボリュウムだと感じていた。
そればかりでなく、46ではモニタースピーカーの総テストを行なっているから、
三号続けてのスピーカーの総テストである。

しかも測定も行っていたし、
特集に割かれるページ数も、いまとは違っていた。

それに当時は、セパレートアンプの別冊も数年ごとに出していた。
こちらもそうとうなボリュウムのムックである。

いまのステレオサウンドに、こんなことを求めても無理なのだが、
仮に、奮起して、これらの特集に匹敵する内容をやった、としよう。

オーディオ業界は、高齢化している。
あらためていうまでもないことなのだが、
このことは、こういう特集記事において、作り手側だけでなく、受け手側、
つまり読み手側についてもあてはまることのはずだ。

44号、45号、46号のようなスピーカーの総テスト、
セパレートアンプのムックのような総テスト、
いまの高齢化した読者は、
そのボリュウムある記事をじっくり読む体力(気力)をもっているのだろうか。

胸焼けしそうだよ──、そんなことをいう人がいるかもしれない。

Date: 5月 12th, 2021
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・番外の追補)

吉祥寺のハードオフにあるセレッションのUL6は、
トゥイーターが別メーカーのモノに交換されている、という情報を、
ある方からいただいた。

つまりオリジナルそのままではない、ということだ。
トゥイーターが断線していた状態での買い取りだったのか。

セレッションの同型のトゥイーターの入手は、いまではそうとうに難しいだろうから、
単売されているトゥイーターから、使えそうなモノを選んでくる。
そうやって整備されたモノなのだろう。

オリジナル至上主義の人は、そんなこと絶対に許されることではない、というだろう。
人それぞれの主義主張があるから、それはそれでいい。

でも、実際にその音を聴いて、いいと感じたのであれば、
トゥイーターが、他社製のモノに交換されていようと、それはそれでいいじゃないか、
そんなふうに思えないのだろうか。

オリジナル至上主義の人のなかには、転売で儲けるのが目的の人もいる、ときく。
そんな人にとっては、資産価値が落ちた、というふうにみるのだろう。

昨晩、書いているようにじっくり聴いているわけではない。
いわゆるちょい聴き程度でしかない。

それでも、トゥイーターが交換されたであろうUL6は、
心地よい音で鳴っていた、と感じた。

このことは、トゥイーターを適切に選べば、
こういう結果を得られる可能性がある、そういうことである。

これはこれで、おもしろいな、と受け止めている。

Date: 5月 11th, 2021
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・番外)

夕刻、バスに乗っていた。
吉祥寺行きのバスで、緊急事態宣言が出ているのだから、
どこにも寄らずまっすぐ帰るつもりだったので、途中下車はまったく考えていなかった。

けれど、吉祥寺にあるハードオフの真ん前の停留所でバスが止まった。
しばらく行ってなかったハードオフ、たまには寄ってみるか、と結局途中下車。

オーディオコーナーの三階にあがると、心地よい音が流れているのが耳にはいってきた。
なにかおもしろいモノがないかとくるっと見回ったあとに、
どのスピーカーが鳴っているのか確認したら、セレッションのUL6だった。

10代のころに、やはりオーディオ店で鳴っているのをきいたきりだから、
ほぼ四十年ぶりに聴くUL6だった。

聴いた、といっても前回も今回もじっくり、というわけではない。
それでもあらためてUL6は、いいスピーカーだな、と思いながら聴いていた。

昔聴いた音は、美化されがちである。
だから、ずいぶん時間が経ったあとに聴くと、がっかりすることもままある。
けれど今回はむしろ逆で、UL6の心地よい音が、ほんとうに魅力的でもあった。

家庭で音楽を聴くために必要充分な音とは──、ということを考えさせる音でもある。

しかもついていた値段も、割と安く感じられるものだった。
もう少し聴いていたい、と思いながらも、聴き続けていると、
絶対に欲しくなるから、ぱっときりあげて、店をあとにした。

こまかな採点表をつくって、スピーカーの音をチェックして点数をつけていく──、
そんな聴き方をするのであれば、UL6よりも優秀なスピーカーはいくつもあろう。

でもくり返すが、家庭で音楽を聴くということは、
家庭で音楽を美しく響かせることだと思うから、UL6の音を聴くと、
UL6からここまでの約40年間に得られた音と失われた音、
音といようりも音楽の表情といったほうがいいかもしれないが、
そんなことをどうしても考えてしまう。

セレッションにしてもUL6の数年後に、SL6を発表する。
SL6は、SL600へと発展して、SL700を生み出していった。

SL6の音に驚き、SL600を買って鳴らしていた時期がある。
オーディオ評論家のなかには、SLシリーズ以前のセレッションを、
ひどく低い評価しかしない人がいた。
Dittonシリーズ、ULシリーズを前時代のスピーカーとでもいいたげであった。

でも、ほんとうにそうなのか。

Date: 5月 10th, 2021
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その13)

一年ほど前だったか、ソーシャルメディアに、こんなことがあったのを憶えている。

新しいスピーカーを導入して一年。
その一年間に、いろいろなことをやってきた。
使いこなしと呼ばれることをやってきたおかげで、ずいぶんといい音になってきた──、
そんなことが、そこには書いてあった。

これだけだったら、ここで取り上げたりはしない。
続けて、《自分の音が進化した》とあった。

進歩したではなく、進化した、とあった。
すごいことを書けるものだなぁ、と思った。

この人だけなのか、
それともいまでは、自分の音を進化した、と何の気なしに書けるものなのだろうか。

進歩と進化は、音の世界ではそうとうに違うことだ。
進化は、文字通り「化ける」。

またか、といわれそうだが、「音は人なり」である。
そして別項で書いているように「人は音なり」でもある。

私はそう考えているから、自身の音がほんとうに進化したのであれば、
それを鳴らしている人も進化していなければ、おかしい。

音だけが進化するなんてことはありえない。

Date: 5月 9th, 2021
Cate: High Resolution

TIDALという書店(その1)

TIDALを半年使っていて感じているのは、TIDALは大型書店のようだ、ということ。
いうまでもなくTIDALは音楽のストリーミングである。

だったら大型のレコード店なのでは? となりそうだが、
私の感覚としては大型の書店に近い。

大型の書店も大型のレコード店も、
そこには大量の本、レコード(録音物)がある(売られている)。

書店は、そこで売られているモノ(本)を手にとって、
内容をおおまかにではあるが確認できる。
いわゆる立ち読みによって、だ。

レコード店は、というと、CDがメインになってからは、
CDチェンジャーが置かれるようになった。
それでスタッフのオススメの何枚かは試聴できるようになったけれど、
あくまでも、試聴できるのは全体の1%にも満たない。
せいぜい十数枚程度である。

そのことに不満はなかった。
なかったけれど、いまTIDALを使うようになって、
気になるレコード(録音物)を、とにかく聴けるようになった。

一分程度聴く場合もあれば、一曲聴くこともあるし、
アルバムを終りまで、ということもある。

店ということで、書店とレコード店というふうにしたけれど、
大型の書店というよりも、大規模な図書館のほうが、イメージとしてはさらに近くなる。

Date: 5月 9th, 2021
Cate: 中点

中点(消失点・その3)

われわれオーディオマニアは、なぜいじるのか。

アンプを替え、プレーヤーを替え、ときにはスピーカーすら替える。
こういった大きなところだけでなく、
ケーブルやアクセサリー類といったこまかなところもかえる。

さらにスピーカーの置き位置もミリ単位で調整していく。
やれることはそこかしこにあって、きりがないほどだ。

こんなことを飽きずに長年やっているのは、いい音を求めているからである。
けれど、それだけだろうか。

何かを探るためにやっているのではないだろうか。

昨晩の(その2)で書いているラジカセ程度の理想のオーディオ機器では、
そんなことはできない。

置いて鳴らすだけで、必ず、いつも同じで、いい音が完璧に鳴ってくるのだから、
そこに聴き手が使い手になる余地はまったく存在しない。

つまり何も探れない。
結果としての「いい音」だけである。

その結果は、必ずしも答ではない。
答としての「いい音」ではないわけだ。

結果も答も、自らの手によってなされたものであるならば、それでいいのだが、
ここでの結果としての「いい音」は、誰かの手によってなされたものであって、
自身の手によってなされた要素は、微塵もないだから、答としての「いい音」ではない。

そして、もうひとつ。
問いとしての「いい音」。

Date: 5月 9th, 2021
Cate: 訃報

ロジャー・ラッセル氏のこと

古くからの友人であり、オーディオマニアであるKさんから、
Roger Russell氏が亡くなった、という連絡があった。

ロジャー・ラッセルの名前をきいて、
誰だっけ? という人がいまでも多いかもしれない。

マッキントッシュのXRTシリーズの産みの親といえる人物である。
彼自身のウェブサイトを参照してほしい。

“Stereo Speaker System for Creating Stereo Images”という内容で、
特許を取得している。
XRT20のことである。

菅野先生は、「音[オーディオ]の世紀(ステレオサウンド別冊・2000年秋発行)」で、
《1958年の45/45ステレオレコードの発売を契機として、当時の、たんにモノーラルスピーカーシステムを2台並べてステレオを聴く状況にたいする、疑問と不満を発想の原点として開発がスタートして以来、じつに、20年かけたステレオフォニックスピーカーシステムの完成であった》
と書かれている。

別項でビバリッジのスピーカーのことを書き始めた。
シリンドリカルウェーヴについて、書こうかな、と考えていたところに、
ロジャー・ラッセル氏の訃報。

正確なピストニックモーションの実現が、
ステレオフォニックスピーカーシステムの実現へとつながっていくとは限らない。

オーディオの技術とは、決して無機的なものではなく、有機的なものだ、ということを、
ロジャー・ラッセル氏の功績をふり返ってみると、改めて実感する。

Date: 5月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

クルレンツィスのベートーヴェン(その3)

アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団によるベートーヴェンが出たのは、
いまからほぼ二十年ほど前のこと。

私がアーノンクールの、このベートーヴェンを聴いたのは、
発売後けっこう時間が経ってからだった。
それも吉田秀和氏の文章を読んだのがきっかけになっている。
     *
 しかし、アーノンクールできくと、もう一度、当初の目印“madness”が戻ってくる。それに、第二楽章のあの重く深い憂鬱、悲嘆を合せてみると──いや、この演奏を論じて、第三楽章スケルツォで随所にはさまれた例の「吐息」のモティーフに与えられたpppの鮮やかな効果、あるいは主要部とトリオの対比の見事さといったものも、全くふれずに終るわけにはいかない──、これは、フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏であり、その新しさは、ベ日トーヴェンの音楽のもつ原初的なすさまじさ、常軌を逸したもの、ドストエフスキーやムソルグスキーやニーチェを含む十九世紀の人たちだったら「神聖な狂気」と呼んだであろうような重大な性格を、もう一度、音にしてみせた点にあるといっていいだろう。くり返すが、これはモーツァルトの音楽とは全く違うものだ。
     *
吉田秀和氏の、この文章は、河出文庫「ベートーヴェン」で読める。

これを読んだからこそ、アーノンクールのベートーヴェンを聴きたくなった。
読んでいなければ、いまも聴いていないかもしれない。

吉田秀和氏の文章は、
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団による七番を聴いてのものだ。

ベートーヴェンの七番は、カルロス・クライバーの素晴らしい演奏がある。
他にも、いい演奏はある。

それでも《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》といえるのは、
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団だと、聴くと納得する。

フルトヴェングラーからアーノンクールまでに録音された七番のすべてを聴いているわけではない。
七番は好きだから、かなりの数聴いているつもりでも、
吉田秀和氏が聴かれた数からすれば、私の聴いてきたのはわずかといっていい。

その吉田秀和氏が《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》と書かれている。

ベートーヴェンの交響曲は、特に三番以降は、それまでの交響曲とはまったく違う。
モーツァルトの音楽とも全く違うものなのは、
アーノンクールの演奏を聴かずとも、ベートーヴェンの音楽を聴いてきた人ならばわかっている。

フルトヴェングラーの演奏が、そのことを明らかにした、ともいえる。
だから《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》と書かれているのだろう。

クルレンツィスの七番は、その意味では私は「新しい」とは感じなかった。

Date: 5月 8th, 2021
Cate: 中点

中点(消失点・その2)

たとえば、こんなことを想像してみる。
ラジカセぐらいの大きさのモノで、
これ一台で、素晴らしい音を鳴らしてくれる。

サイズはラジカセ程度なのに、音の左右への広がりは大きく、
奥行きも見事に再現する。

すべての音をあますところなく、本来あるべき姿で鳴らす。

しかも、このキカイの優れているところは、どんな使い方をしようと、
常に最高の音を鳴らすことちだ。

高価なラックの上に置くことはないし、
ラジカセのように完全な一体型だから、ケーブルも必要としない。
高価なアクセサリーを何ひとつ必要としない。

電源に関しても、高性能なバッテリー搭載で、
AC電源の質に頭を悩ますこともまったくない。

そんな理想のオーディオ機器があったとしよう。

その一方で、現在のカタチのオーディオ機器がある。
プレーヤーがあって、アンプがあって、スピーカーが必要となる。
しかもケーブルも必要で、ほとんどの機種がAC電源を必要とする。

置き方ひとつで、音が変化する。
ケーブルを変えれば、音は変る。
アクセサリーをもってくれば、そのことでも音は変る。

変らないところがないくらいに、どんなこまかなことでも音は変っていく。
音楽を聴くキカイとしては、不完全といえよう。

ラジカセ程度の大きさで、理想のオーディオ機器と、
いまわれわれが使っている、いわば不完全なオーディオ機器で音楽を聴いて、
前者の、理想のオーディオ機器では視えてこない(聴こえてこない)ことがあるはずだ。

前者が聴かせるのは、モノゴトの結果だけであるからだ。