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Date: 12月 8th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その3)

黒田先生が、「音楽への礼状」でマリア・カラスのことを書かれている。
     *
 日曜日の、しかも午前中のホテルのロビーは、まだねぼけまなこの女の顔のように、どことなく焦点のさだまらない気配をただよわせていました。ぼくは緊張と興奮のなかばした奇妙な気分で、ロビーのすみのソファーに腰かけていました。そういえば、あの朝のぼくの気分は、あれから十年ほどたってからみた映画「ディーバ」で郵便配達のジュールがフェルナンデス粉する憧れのディーヴァに会う前に味わったようなものかもしれませんでした。
 そのときのぼくは、初来日されたあなたへのインタビューを依頼され、もしかしたらおはなしをうかがえるかもしれないといわれ、あなたの宿泊されていたホテルのロビーにいました。しかし、ロビーのすみのソファーに腰かけ、あなたにお尋ねすることを書きつけたノートに目をとおしていたぼくは、招聘元のひとから、今日のインタビューを中止してほしい、というあなたの意向を伝えられました。さらに、招聘元のひとは、あなたが、今日は日曜日なので礼拝にいきたいので、といっていたとも、いいそえました。
 ぼくとしては、休みの日に、朝から、こうやってわざわざきているのに、約束を反故にするとはなにごとか、といきりたってもおかしくない状況でした。にもかかわらず、ぼくは、そうだろうな、と思い、そのほうがいいんだ、とも思って、自分でも不思議でしたが、いささかの無理もなくあなたの申し出に納得できました。ぼくは、それまでも、いろいろな雑誌の依頼をうけて、さまざまな機会に、外国からやってきた音楽家たちにインタビューしてきましたが、そのたびに、いつもきまって、うまくことばではいえないうしろめたさを感じつづけてきました。
 なぜ、ぼくがインタビューをするときにうしろめたさを感じつづけてきたか、と申しますと、ぼくには、どこの馬の骨とも知れぬ人間から根掘り葉掘り無遠慮に尋ねられることを喜ぶ人などいるはずがないと思えたからでした。それに、もうひとつ、ぼくは、音楽家は、ほんとうに大切なことであれば、彼の音楽で語るはずである、とも考えていました。そのように考えるぼくには、音楽家に彼の音楽についていろいろことばで語ってもらうことが、つらく感じられていました。それでもなお、さまざまな音楽家へのインタビューをつづけてきてしまったのは、尊敬したり敬愛したりする音楽家から直接はなしをきける魅力に負けたからでした。
 あなたへのインタビューを依頼されたときにも、ためらいと、あなたから直接おはなしをうかがえると思う喜びとが、いりまじりました。しかも、それまでのあなたの周囲でおきたさまざまな出来事から推測して、あなたがインタビューというジャーナリズムとつきあっていくうえでの手続きを嫌っておいでなのも理解できましたから、ぼくは、招聘元のひとから、あなたが今日のインタビューを中止してほしいといっている、ときかされたときにも、そうだろうな、と思い、そのほうがいいんだ、とも思えました。
 あなたは、第二次大戦後のオペラ界に咲いた、色も香りも一入(ひとしお)の、もっとも大きな花でした。困ったことに、華やかに咲いた大輪の花ほど、ひとはさわりたがります。マリア・カラスという大輪の花も、そのような理由で、いじくりまわされました。その点に関して、当時のぼくは、まだ、かならずしも充分には理解していませんでしたが、あなたがお亡くなりになって後にあらわれた、あなたについて書かれたいくつかの本を読んでみて、あなたが無神経なジャーナリズムによっていかに被害をうけたかを知りました。
 ぼくがあなたの録音された古いほうの「ノルマ」や「ルチア」のレコードをきいたのは、ぼくがまだ大学生のときでした。あなたの、あの独特の声に、はじめは馴染めず、なんでこんな奇妙な声のソプラノを外国の評論家たちはほめたりするのであろう、と思ったりしました。そう思いつつ、あなたのレコードをくりかえしきいているうちに、声がドラマを語りうる奇跡のあることを知るようになりました。その意味で、あなたは、ぼくにオペラをきくほんとうのスリルを教えて下さった先生でした。
 それから後、あなたの録音なさった、きけるかぎりのレコードをきいて、ぼくはオペラのなんたるかをぼくなりに理解していきました。しかし、あなたは、あなたの持って生まれた華やかさゆえというべきでしょうか、歌唱者としてのあなたの本質でより、むしろ、やれどこそこの歌劇場の支配人と喧嘩しただの、やれ誰某と恋をしただのといった、いわゆるゴシップで語られることが多くなりました。多くのひとは、大輪の花をいさぎよく愛でる道より、その花が大輪であることを妬む道を選びがちです。あなたも、不幸にして、妬まれるに値する大輪の花でした。
 予想したインタビューが不可能と知って、ぼくはロビーのソファーから立ち上がりました。そのとき、すこし先のエレベーターのドアが開いて、あなたが降りていらっしゃいました。ぼくは、失礼をもかえりみず、およそディーヴァらしからぬ、黒い、ごく地味な装いのあなたを、驚きの目でみました。これが、あのノルマを、あのように威厳をもって、しかも悲劇を感じさせつつうたうマリア・カラスか? と思ったりもしました。素顔のあなたは、思いのほか小柄でいらっしゃいました。しかし、そのひとは、まちがいなくあなたでした。
 もしかすると、ぼくは、かなりの時間、あなたにみとれていたのかもしれません。あるいは、招聘元のひとがそばにいたので、この男がインタビュアだったのか、と思われたのかもしれません。いずれにしろ、あなたは、ぼくのほうに、軽く会釈をされ、かすかに微笑まれました。あなたの微笑には、どことなく寂しげな影がありました。あれだけ華麗な人生を歩んでこられた方なのに、どうして、この方は、こんなに寂しげな風情をただよわせるのであろう、と不思議でした。
 ぼくは、どうしたらいいかわからず、女神につかえる僧侶の心境で頭をさげました。頭をあげたとき、すでにあなたの姿は、そこにありませんでした。
 あなたは、ノルマであるとか、トスカであるとか、表面的には強くみえる女をうたうことを得意にされました。しかしながら、あなたのうたわれたノルマやトスカがききてをうつのは、あなたが彼女たちの強さをきわだたせているからではなく、きっと、彼女たちの内面にひそむやさしさと、恋する女の脆さをあきらかにしているからです。
 ぼくは、あなたのうたわれるさまざまなオペラのヒロインをきいてきて、ただオペラをきく楽しみを深めただけではなく、女のひとの素晴らしさとこわさをも教えられたのかもしれませんでした。今でも、ぼくは、あなたのうたわれたオペラをきいていると、あのときのあなたの寂しげな微笑を思い出し、あの朝、あなたは神になにを祈られたのであろう、と思ったりします。
     *
マリア・カラスの声は、美しいのか。
一般的な意味での美声ではない。

私もマリア・カラスの歌を初めて聴いた時は、黒田先生と同じように感じた。
《あの独特の声に、はじめは馴染めず、なんでこんな奇妙な声のソプラノ》と思ったりした。

そして、これもまた黒田先生と同じように、
マリア・カラスのレコードをくり返し聴いているうちに、
美しい、と感じるようになってきた。

それでも……、というところは残っていた。
ULTRA DACでマリア・カラスを聴いて、
「それでも……」が完全に払拭された。

《色も香りも一入(ひとしお)の、もっとも大きな花》である。

Date: 12月 8th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その2)

こんな話を、帰りの電車のなかで、Hさんにした。
Hさんは11月のaudio wednesdayに初めて来てくれた。
豊田市から深夜バスで来て帰っていく若者。

どうも豊田市というと、東京の中央線の豊田駅周辺と勘違いしていた人がいたけれど、
豊田駅周辺は日野市であり、東京には豊田市はない(いうまでもなく愛知県の豊田市)。

深夜バスで帰るHさんと新宿まで一緒だった。
四谷三丁目の駅から新宿駅までは十分もかからない。
電車を待つあいだをいれても十分程度である。

なので(その1)でのことを、さらにおおまかなことに話した。
翌日、彼からのメールには、音楽に対する「想像と解釈」、とあった。

マリア・カラスの「カルメン」におけるULTRA DACのフィルターの選択は、
まさに、音楽に対する「想像と解釈」によって、三つのうちのどれを選ぶかが違ってくる。

想像だけでもない、解釈だけでもない。
想像と解釈によって決る。

Date: 12月 7th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その1)

9月のaudio wednesdayでは、トランスポートにはメリディアンのCDプレーヤー508を使った。
今回はスチューダーのD731である。

D731のピックアップメカニズムは、フィリップスの最後のスイングアーム方式である。
デジタル出力はAES/EBUである。

508はコンシューマー用、D731はプロフェッショナル用という違いもある。
トランスポートして見ても、両者の違いは大きいし、多い。

それらの違いが、ULTRA DACと組み合わせたときにどう音に反映してくるのか。
それを確認したかった。

12月5日のaudio wednesdayでは、まずD731単体の音を聴いた。
それからULTRA DACと接続する。

ここで気づいた。
通常なら、ULTRA DACのディスプレイには、44kと表示されるはずなのに、
なぜか48kと出ている。

508との組合せでは、44kと表示されていたのに、
D731で48kとなる。

音は問題なく出る。
この状態で通常のCDをかけながら、
ULTRA DACの三種類のフィルターを聴き比べをした。

何枚かのCDを聴いて、いよいよMQA-CDをかける。
ここでD731のデジタル出力のサンプリング周波数は、
ULTRA DACのディスプレイの表示通りに48kHzなことがわかる。

D731は放送局用でもあるため、標準では48kHz出力になっているようだ。
この状態ではMQA-CDの再生はできない。

なので、ここで急遽、喫茶茶会記にある、以前使っていたCDプレーヤーをひっぱり出してきた。
最初にラックスのD38uを接続した。

現在の、マッキントッシュのMCD350の前まで使っていた機種だが、
この一年ほとんど使っていないことと、
もともとトレイの調子が悪くなっていたことが重なってか、
ディスクのTOCを読み込む前にトレイが出てきて、ディスクを排出してしまう。

強引にトレイを押し込めば、うまく行くこともあるが、
うまくいかないことの方が多い。

次にパイオニアのPD-D9にした。

Date: 12月 6th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その1)

別項「私は、マリア・カラス」で、ULTRA DACでマリア・カラスを聴きたい、と書いた。

昨晩のaudio wednesdayで、マリア・カラスの「カルメン」を聴いた。
通常のCDだから、ULTRA DACのフィルターを切り替えながら聴いた。

まずshortで聴いた。
それからlongにして、mediumにした。

どの音をとるのかは、人によって違うだろうし、
聴き方によっては、その日の気分によっても、どれを選択するかは変ってこよう。

マリア・カラスの声、そして歌い方に焦点を、そこだけにあわせて聴くのであれば、
圧倒的にshortがいい。

プロの歌手を目指している人であれば、shortの音をとるはずだ。
そう思えるほど、よくわかる。

よくわかるだけに、どうしても耳の焦点は、マリア・カラスのみにあわせてしまう。
マリア・カラスの独唱のみならば、これでもいい、と思う。

でも「カルメン」はいうまでもなくオペラである。
オペラという舞台を聴きたい、と思うのであれば、shortの音はマリア・カラスに近すぎる、と感じる。

もう少し引いて距離をとりたい、と思わなくもない。
longにすれば、その傾向になる。
けれど、shortを聴いたあとだけに、よけいにその距離がやや取りすぎたようにも感じる。

longの音だけ聴いていれば、これで満足しただろうに、なまじshortの音を聴いているだけに、
距離とディテールの再現が反比例するかのようにも受けとれる。

mediumの音が、昨晩の音では、「カルメン」というオペラが楽しめる音だった。
マリア・カラス一人だけのオペラではない。

ドン・ホセ役のニコライ・ゲッダ、エスカミーリョのロベール・マサール、
ミカエラのアンドレア・ギオーなどがいて、コーラスも加わる。

そういう舞台を楽しみたいのであれば、mediumの距離感が、私にはちょうどいい。

もちろん、これはあくまでも、
マリア・カラスの「カルメン」を、しかも喫茶茶会記のシステムで鳴らして、の話である。

他の録音、他のシステムでは、その選択も変ってこよう。

Date: 10月 31st, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(ヘッドフォン祭にて……・その2)

瀬川先生が、ずっと以前に書かれていたことを憶いだす。
     *
 前項で、音を聴き分ける……と書いたが、現実の問題として、スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなく、その音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
 もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
 たしかに、ひとつの研究機関としての組織的な研究の目的によっては、人間の耳を一種の測定器のように──というより測定装置の一部のように──使うことも必要かもしれない。いま紹介した某研究所長の発言は、そういう条件での話、であるのだろう。あるいはまた、もしかするとあれはひどく強烈な逆説あるいは皮肉だったのかもしれないと今にして思うが、ともかく研究者は別として私たちアマチュアは、せめて自分の装置の音の判断ぐらいは、血の通った人間として、音楽に心を躍らせながら、胸をときめかしながら、調整してゆきたいものだ。
 そのためには、いま音質判定の対象としている音楽の内容を、よく理解していることが必要になる。少なくともテストに使っている音楽のその部分が、どういう音で、どう鳴り、どう響き、どう聴こえるか、についてひとつの確信を持っていることが必要だ。
     *
ステレオサウンド別冊High-Technic Seriesの一冊目、
マルチアンプ号からの引用だ。

こういう聴き方なのか。
瀬川先生が、《あまりのショックでしばしぼう然》された聴き方が、
音質評価としての聴き方なのか。

ULTRA DACよりも安価なD/Aコンバーターを高く評価した人の聴き方はわからない。
仮にそうだった、としよう。

《音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断すること》とは無縁の耳、聴き方でしかない。
そんな耳、聴き方の人には、ULTRA DACは高いだけ、大きいだけのD/Aコンバーターなのだろう。

もっと小型でもっと安価で、音のいいD/Aコンバーターがあるのに、
価格と大きさにく惑わされているヤツラがいる──、
そんな耳、聴き方の人は、私のような耳、聴き方をする人をそう思っているかもしれない。

そして、ここでも「肉体」ということに連想がいく。

Date: 10月 31st, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(ヘッドフォン祭にて……・その1)

ヘッドフォン祭でのデジ研のブースで、ちょっと気になることを聞いた。
「ULTRA DACは音質評価という聴き方をすると、決して高い評価を得られないかもしれないが、
音楽を聴くためのオーディオ機器としては素晴らしい」と。

概ね、そんな内容だった。
いわれた方は、ULTRA DACの良さを認めておられるようだった。
そのうえで、こういういいかたをされたのは、なぜだろう、と思って、
昨晩、Googleで「メリディアン ultra dac」で検索してみた。

個人のブログに、それはあった。
ブログを書かれている人は、他の方のtwitterを引用されていて、
ツイートされているイベントでの音を聴かれているわけではない。

簡単に見つけられるから、あえてリンクはしないが、
そこには、ULTRA DAC(250万円)の10分の1くらいのD/Aコンバーターの音のほうが、
圧倒的によかった、というツイートが紹介されている。

正直、これだけではこまかなことまでははっきりとしない。
ただ、ULTRA DACよりもずっと安価なD/Aコンバーターの音を高く評価する人がいる、
ということがわかるだけである。

音質評価という聴き方がどういうものなのかも、実のところ、はっきりとしないが、
なんとなくならば、わからないわけでもない。

それでも音質評価という聴き方は、音楽を聴く、ということと、
どれだけ違っているのだろうか。

オーディオマニアは、音楽ではなく音だけを聴いている──、
とは昔からいまも言われつづけている、いわば批判の表現だ。

これにも、あれこれいいたいことはあるけれど、
それを書いていったら、長々と書いていかねばならなくなるが、
短絡的に捉えた場合の、そういう聴き方なのか。

Date: 9月 30th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その27)

スチュアートの祖母は、コンサートピアニストだった、と86号の記事にはある。
両親も音楽好きで、クラシックに幼いころから親しんでいて、
86号のインタヴュー記事(1988年)では、
《好んで聴く音楽は、合唱音楽ということであった。特にCDになってからは、合唱音楽の再生に真価が発揮されるようになったという。自宅がケンブリッジにあるので、合唱音楽の宝庫ともいうべきケンブリッジ大学の、特にチャペルで行われるコンサートにはひんぱんに足を運んでいるとか。》
とある。

このことは当時のメリディアンのモデルの音以上に、
ULTRA DACの音を聴くと納得できる。

グラシェラ・スサーナだけでなく、声(歌)の再生は特に見事である。
人の声(歌)が好きな人ならば、ULTRA DACの音は聴かない方がいいかもしれない。
その場でULTRA DACを持って帰りたくなるほどに、よく鳴ってくれる。

人の声(歌)は、昔からいわれているように、音の違いがよくわかる。
声以外の場合、何かの楽器の再生音では時として騙されることがあっても、
人の声では、ほとんどの人が騙されることはない、とまでいわれるくらいに、
それはもっとも耳に馴染んだ音であるだけに、
よほど頭でっかちな聴き方をしないがぎり、人の声(歌)は、音がよくわかる。

瀬川先生が「聴感だけを頼りに……」(虚構世界の狩人・所収)が書かれている。
     *
「きみ、美空ひばりを聴きたまえ。難しい音楽ばかり聴いていたって音はわからないよ。美空ひばりを聴いた方が、ずっと音のよしあしがよくわかるよ」
 当時の私には、美空ひばりは鳥肌の立つほど嫌いな存在で、音楽の方はバロック以前と現代と、若さのポーズもあってひねったところばかり聴いていた時期だから歌謡曲そのものさえバカにしていて、池田圭氏の言われる真意が汲みとれなかった。池田氏は若いころ、外国の文学や音楽に深く親しんだ方である。その氏が言われる日本の歌謡曲説が、私にもどうやら、いまごろわかりかけてきたようだ。別に歌謡曲でなくたってかまわない。要は、人それぞれ、最も深く理解できる、身体で理解できる音楽を、スピーカーから鳴る音の良否の判断や音の調整の素材にしなくては、結局、本ものの良い音が出せないことを言いたいので、むろんそれがクラシックであってもロックやフォークであっても、ソウルやジャズであってもハワイアンやウエスタンであっても、一向にさしつかえないわけだ。わからない音楽を一所けんめい鳴らして耳を傾けたところで、音のよしあしなどわかりっこない。
     *
そのとおりである。
けれど今回ULTRA DACを聴いて、怖いと感じたのは、
歌手の格を顕にするところである。

Date: 9月 30th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その26)

ステレオサウンド 86号に、ボブ・スチュアートのインタヴュー記事が載っている。
当時連載されていた「プロフェッサー中矢のAudio Who’s Who」である。

そこに、こうある。
《ブースロイド氏に音楽の好みをたずねたら、案の定、楽しみで聴く音楽は九九パーセントがクラシックとの答えが返ってきた》

そうだろう、と改めて感じていた。
当時、メリディアンはブランド名で、社名はブースロイド・スチュアートであり、
工業デザイナーのアレン・ブースロイドとエンジニアのボブ・スチュアートの二人が設立。

余談になるが、二人の出逢いは、イギリスのオーディオメーカー、レクソンであり、
ブースロイド、スチュアート、この二人による最初のモデルは、
コントロールアンプのAC1、パワーアンプのAP1である。

AC1のデザインには、驚いた。
こういうデザイン、いいなぁ、と思っていた。
音はどうだったのだろうか。
聴く機会はなかった。
オーディオ雑誌でも、音のことはほとんど話題にならなかった。

それでもレクソンのデザインのことは、いまでもはっきりと思い出せるほどに強烈だった。
そのレクソンのアンプを、ブースロイドとスチュアートの二人の最初の作であることを知るのは、
M20+207の音を聴いたころだった。

そうなるとレクソンのアンプもデザインだけでなく、音のことも気になってくる。
どんな音がしていたのだろうか。

それに当時は中学生だった。
なんとなくデザイン優先のアンプのようにも受けとっていた。
デザインというものを、ほとんど理解していなかったから、そう感じたのであって、
いま改めてレクソンのアンプを見つめ直すと、パワーアンプは非常に理に適っているかたちであるし、
コントロールアンプも、また違う見方ができる(このことはいずれ書きたい)。

86号の記事はボブ・スチュアートのインタヴューだから、
スチュアートの音楽の好みについても書かれてある。

Date: 9月 30th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その25)

昔なら、イギリスのオーディオ機器、それもスピーカーシステムに関しては、
タンノイにしてもBBCモニターの流れを汲むメーカーにしても、
クラシックを好んで聴く人による設計・開発という印象を受けることが多かった。

それが変りはじめてきたのは、ハーベスのMonitor HLかもしれない。
それまでのBBCモニター系列のスピーカーシステムが、ベクストレンウーファーだったのに対し、
Monitor HLはポリプロピレンウーファーだった。

黒で、表面にダンプ剤が塗布されたベクストレンと、
乳白色で半透明のポリプロピレンとでは、見た目の印象はずいぶん違う。
見た目の明るさは正反対である。

Monitor HLは、たとえばBCII(ベクストレンウーファー)と比較すると、
あきらかに明るい音を響かせる。
瀬川先生は、ステレオサウンド 54号の特集で、
《もしかすると、設計者のハーウッドは、クラシックよりポップス愛好家なのかもしれない》
と試聴記の最後に書かれているくらいである。

そんな40年前の時代とは違い、
いまではイギリスのスピーカーメーカーも、はっきりと世代の新しいメーカーが登場している。
それらの中には、クラシック寄りと思えないモノも少なくない。
とはいっても、Monitor HLがそうであったように、
クラシックが鳴らないわけではなく、充分魅力的に聴かせながらも、
「もしかすると……」と思わせるところも、昔のイギリスのスピーカーの音に馴染んだ者にはある。

メリディアンもハーベスと同時期に登場したイギリスのメーカーであっても、
こちらははっきりとクラシックをメインに好んで聴く人による音であった。

1970年代後半、ハーベスもメリディアンも新しく登場したメーカーであっても、
そういうわずかな違いがあったように感じている。

このことはM20+207の組合せを聴けば、多くの人が納得するはずだ。

Date: 9月 17th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その24)

そういう違いのある、MCD350の音とULTRA DACの音で「Moanin’」を聴いている。
MCD350によるSACDの音を基準とすれば、
ULTRA DACによるMQAディスクの音は、やや暗いと受けとられるし、
後者の音を基準とすれば、MCD350での音は明るすぎる、ともなる。

どちらの鳴り方が「Moanin’」なのか。
「Moanin’」はmoanから来ている、とある。

moanには、 (苦痛·悲しみの)うめき(声) 、
〈不幸などを〉嘆く、悲しむ、〈死者を〉いたみ悲しむの意味がある。

そんなmoanの意味を知れば、ULTRA DACでの「Moanin’」なのかとも思う。
クラシックを主に聴いてきた私は、
「Moanin’」の鳴り方はこうでなくては、というのがまだ形成されていない。

「Moanin’」の意味を考えずに、能天気に聴いているのであれば、
MCD350の音も気に入っている。
それでも、一度「Moanin’」の意味を知ろうと思ったのであれば、
聴き方も自ずと変ってくるというものだ。

ULTRA DACでの「Moanin’」も、やはり静かだ。
静かであっても、いわゆる鉛などを使った鈍重な静けさの音が、
角を矯めて牛を殺す的に陥りがちであるのとは違う。

躍動している。
バド・パウエルの「Cleopatra’s Dream」も聴いた。
このディスクは、こうあってほしい、というイメージが私にもある。

もう少しセッティングを詰めていったら──、と感じもしていたが、
それでもベクトルは一致している。
ならば「Moanin’」も、ULTRA DACでの音こそ、となるのか。

「Moanin’」のDSDファイルをULTRA DACで鳴らした音も、
だから無性に聴きたい。

Date: 9月 17th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その23)

audio wednesdayで、D/Aコンバーターをつけ加えたことは三度ほどある。
一度はオーディオアルケミーの安価なモノ、
それからマイテックデジタルのManhattanにしたことが二回あった。

ラックスのD38uを使っていたころである。
オーディオアルケミーだと、D38uのままで聴いた方が好結果だった。
Manhattanでは、D38uに感じていた不満なところがほぼなくなる。
それでもホーン鳴きが明らかに減った、という印象はなかった。

マッキントッシュのMCD350の筐体は、お世辞にもがっしりしているわけではない。
指で叩けば、そこそこ雑共振といえる音がする。

D38uは外装のウッドケースを外すと、内部が見える構造である。
MCD350よりは雑共振も少ない。

ホーン鳴きが気になるのは、このへんのことも関係している。
どんなオーディオ機器でも、実際に自分の手で持ってみた時の感触は、
わりあいそのままと音として出てくるところがある。

雑共振のかたまりのようなつくりのオーディオ機器から、澄んだ音が聴けたためしは一度もない。

MCD350のシャーシーの共振点と811Bのホーン鳴きは、近いところにあるのかもしれない。
MCD350にしてから、特にSACDを聴いていると、ホーン鳴きを以前よりも意識することが多くなった。

SACDの情報量の多さが、
MCD350のシャーシーの共振と相俟って811Bのホーン鳴きと浮び上らせているようだ。

ULTRA DACでは、そこが違った。
Manhattanでは、そうは鳴らなかった。
けれどULTRA DACでは、ホーン鳴きが抑えられているように感じる。
情報量は多いにも関らずだ。

ULTRA DACのシャーシーは雑共振がするような造りではない。
そのことだけでホーン鳴きが耳につかないわけでもないようだ。

ULTRA DACの帯域バランスというか、
エネルギーバランスも関係してのことのようにも感じている。

とはいえ、9月5日の試聴だけでは、そこまで断言できないものの、
しっかりとしたエネルギーバランスがあってこそのホーン鳴きの少なさではないのか。

Date: 9月 17th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その22)

それから忘れてはならないのが、
アルテックのホーン鳴きが、いままでほど気にならなかったことだ。

806Aドライバーは811Bホーンに取り付けられている。
811Bはホーン自体にデッドニングを一切施していない。

ホーン鳴きに対して、喫茶茶会記の811Bに何もしていないわけではないが、
積極的にやっているわけでもない。デッドニングはしていない。

ホーン鳴きは、確かに気になる。
けれどかける音楽よっては、いい方向に作用してくれることだってある。
それは、やはり金管楽器の鳴り方には、うまく作用することがある。

今年になってよくかけているのが、アート・ブレイキーの「Moanin’」。
「Moanin’」では811Bのホーン鳴きがむしろ心地よい、というより快感でもある。
これぞブラス! といいたくなるほど、うまくはまる。

圧縮された空気が開口部から一気に放射される金管楽器ならではの鳴り方は、
単にエネルギー感がうまく再現できたり、立ち上りがはやいからといって、
それだけで満足のいく鳴り方をしてくれるとはかぎらない。

昔ながらのホーン型で聴くと、それは、いわばホーン型特有の毒とわかっていても、
その魅力は認めざるをえない。

MQAディスクにも、「Moanin’」はある。
ユニバーサルミュージックのカタログをみると、
「Moanin’」のSACDとMQAディスクのマスターは同じようである。

ULTRA DACでの「Moanin’」のMQAディスクは、
MCD350で再生したSACDとはずいぶん違う。

明るさでいえば、MCD350でのSACDである。
けれど、いつも聴いていて感じているのは、ホーン鳴きによる効果と、その悪さである。
金管楽器の金属の厚みが、少し薄いように感じなくもない。

ULTRA DACで再生したMQAディスクの「Moanin’」は、明るくはない。
けれど、楽器の金属の薄さは感じなかった。
それにホーン鳴きの悪さを、さほど感じない。

これは少々意外だった。
アンプも同じ、スピーカーも同じ。
実はホーンの置き方をわずかに変えていたけれど、
それは以前、何度か試していて、どういう音の変化なのかはわかっていた。

それを考慮しても、意外に感じるほど、ホーン鳴きに耳につきにくい。

Date: 9月 17th, 2018
Cate: Marantz, Model 7

マランツ Model 7はオープンソースなのか(その6)

四年前に、ある記事を読んだ。
それがきっかけで、マランツのModel 7はオープンソースなのか、ということを考えるようになった。

その『多くのファンを魅了しながら突然姿を消した謎の天才オーディオエンジニア「NwAvGuy」』で知ったのだが、アメリカにはNwAvGuyと名乗る匿名のエンジニアがいる。
2012年を最後に、なぜかぷっつり活動を止めてしまっているようだが、
彼が設計したヘッドフォンアンプとD/Aコンバーターは、かなり安価に製作できるにも関らず、
かなりの高音質で話題になった、とある。

NwAvGuyは、回路図をオープンソースとして公開している。
詳しいことは、上記リンク先の記事を読んでほしい。

オープンソースの規約に基づいて製品化もなされている。
いま現在も購入できる。

回路図だけでなくプリント基板のパターンも公開されている。
製品化されたモノを買わなくとも、腕に自信のある人ならば、完全なコピーを作ることも可能だ。

同じことは、無線と実験、ラジオ技術などの技術誌の自作記事でもいえる。
回路図は公開されている。
プリント基板のパターンも同じく公開されている。
シャーシーの加工図もある。
部品の指定もある。

同じといえば同じである。
けれど、それらの記事のアンプが、オープンソースを謳うことはなかった。
当り前といえば当り前のことなのだが、
オーディオ雑誌でのアンプの自作記事を数多く、それまで見てきた者にとっては、
NwAvGuyのオープンソース宣言は、そういう考え方もできるんだな、と多少の驚きがあった。

オープンソースという言葉が生れたのは1998年らしい。
もちろんコンピューターのソフトウェア関係から生れている。

それまでそういう言葉、そういう考え方は、オーディオの世界にはなかったといってもいいのだから、
雑誌記事の回路図、プリント基板のパターン、
それだけでなく、マランツやマッキントッシュQUADなど、
過去のアンプの回路図もまた公開されてきたけれど、
それらをオープンソースと呼ぶ人は誰もいなかった。

けれどいわれてみれば、オープンソースなのかもしれない、と思う。
マランツのModel 7にしても回路図、その他はさまざまなところで公開されている。
解説記事もいくつもある。

Model 7はプリント基板を使うわけではないから、自作の難度は低くはない。
それでもデッドコピーを作るのに不足している情報はない、といってもいい。

これがマッキントッシュの真空管パワーアンプだと、
回路図、コンストラクションはマネできても、出力トランスだけは無理である。

その点、Model 7はコントロールアンプだから、その厄介さはない。
だから、ここでのタイトルは、マランツのModel 7なのである。

Date: 9月 16th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その21)

度々書いているM20にも、ULTRA DACに通じる良さは感じていた。
特にCDプレーヤーの207との組合せでは、ここに源流があるのかも、とおもう。

M20+207も、沈黙したがっていた──、
私の記憶のなかでは、いまもそういう音で鳴っている。

それでもM20+207の、その音、ひっそりと鳴る音は、時としてこじんまりしがちだった。
それが、このミニマムな組合せの良さだったとはわかっていても、それだけでは満足できようがなかった。

M20+207の音から、約30年。
ULTRA DACの音は、見事だ。立派ともいえる。
こじまんりとはしていない。
もっとこうあってほしい、と思っていたところはすべてにおいて良くなっている。
むしろ堂々としている。
それでいてこれみよがしではない。

ULTRA DACの音は澄明と書いたが、それは低音域において顕著なのかもしれない。
低音が澄んでいる。
この、澄んだ低音を実現するための大きさならば、
大きすぎと感じたULTRA DACのサイズもすんなり受け入れられるようになる。

別項で書いている「JUSTICE LEAGUE」のサウンドトラック盤。
9月5日のaudio wednesdayで、最初にかけたディスクはこれだった。

ハイレス・ミュージックの鈴木秀一郎さんと私だけの時にかけている。
マッキントッシュのMCD350で鳴らしている。

その時の音と、ULTRA DACでの音は大きく違っていた。
アンプの電源を入れてさほど時間が経っていない音との比較ということもあるが、
それ以上の違いがあった。それこそ澄んだ低音とそうでない低音の違いであり、
低音における解像力の違いとしても、それははっきりとあらわれていた。

ULTRA DACを聴く以前は、そんなふうに感じていなかったが、
MCD350の低音はわずかとはいえ混濁している。
おそらくMCD350だけがそうなのではないのかもしれない。
多くのCDプレーヤー、D/Aコンバーターにも同じことはいえるのかもしれない。

混濁した低音は、マスとしての力を感じさせることだってある。
澄んだ低音は、充分な力がなければ、頼りなく感じもしよう。
ULTRA DACはそうではなかった。

「JUSTICE LEAGUE」の一曲目、“EVERYBODY KNOWS”には、聴いている皆が耳をすます。
そんな雰囲気を感じていた。
そういえば、この場合もすますも、澄ますである。

“COME TOGETHER”は、大きめの音量でかけた。
こういう音で聴きたかったんだ、という聴き応えのある音で鳴ってくれた。

MCD350だけで聴いていたら、いまどきのサウンドトラック盤というのは、
こんな音づくりなのか、と判断を誤るところだった。
「JUSTICE LEAGUE」はaudio wednesdayの当日に買っている。

Date: 9月 16th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その20)

瀬川先生は、「澄明」と書かれる。「透明」ではない。
透明な音は、いまや世の中に溢れている、といってもいい。

ULTRA DACより高価なD/Aコンバーターは、いくつもある。
ULTRA DACより透明な音のD/Aコンバーターも、直接比較試聴したわけではないが、
いくつもある、といっていい。

現状において、これ以上透明な音はない、
そういえるぐらい透明な音があっても、
だからといって《鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい》といえるわけではない。
《無音の清澄感》があるともいえない。

ULTRA DACの静けさは、澄明である。
だからこそ、他の、D/Aコンバーターとは違うと感じたのだろう。

《ふと音が歇んだときの静寂の深さが違う》、
《音の鳴らない静けさに気品がある》、
そういう静けさをULTRA DACは再現してくれる。

情景が浮ぶのは、そういうところと深く関係しているのかもしれない。
しかも、その静けさは、決して鈍重な静けさではない。

機械的な雑共振を抑えるために、鉛が使われることがある。
トーンアームではオイルが使われることもある。

鉛の振動を抑える効果は確かにある。
粘性の高いオイルによるダンプ効果も確かにある。

けれど、それらの手法は、往々にして鈍重な静けさへとなる。
活き活きとした表情、ヴィヴィッドな音も、雑共振とともに失われていく傾向がある。
ULTRA DACに、そういう傾向は微塵も感じられなかった。

そういう音(静けさ)ゆえに、アルテックから沈黙したがっていたのだろう。