Archive for category 人

Date: 7月 9th, 2020
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その11)

都内の大きな書店に行くと、
いまでもオーディオコーナーの書棚に「良い音とは 良いスピーカーとは?」が並んでいる。
たしか2013年に出ているから、それでも売れているわけなのだろう。
けっこうなことだと思う。

思うとともに、「続・良い音とは 良いスピーカーとは?」は出ないのか、と思う。

「良い音とは 良いスピーカーとは?」には、
「コンポーネントステレオの世界 ’75」の鼎談が載っている。
岡俊雄、黒田恭一、瀬川冬樹の三氏で、
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」というテーマで語られたものだ。

この鼎談について、岡先生がステレオサウンド 61号に書かれている。
     *
 白状すると、瀬川さんとぼくとは音楽の好みも音の好みも全くちがっている。お互いにそれを承知しながら相手を理解しあっていたといえる。だから、あえて、挑発的な発言をすると、瀬川さんはにやりと笑って、「お言葉をかえすようですが……」と反論をはじめる。それで、ひと頃、〝お言葉をかえす〟が大はやりしたことがあった。
 瀬川さんとそういう議論をはじめると、平行線をたどって、いつまでたってもケリがつかない。しかし、喧嘩と論争はちがうということを読みとっていただけない読者の方には、二人はまったく仲が悪い、と思われてしまうようだ。
 とくに一九七五年の「コンポーネントステレオの世界」で黒田恭一さんを交えた座談会では、徹底的に意見が合わなかった。近来あんなおもしろい座談会はなかったといってくれた人が何人かいたけれど、そういうのは、瀬川冬樹と岡俊雄をよく知っているひとたちだった。
     *
この鼎談がいまも読めるわけだから、これもけっこうなことだと思っている。
けれど、この鼎談を読んだ上で、読んでほしいと思う記事は、ステレオサウンドにはいくつもある。

たとえばステレオサウンド 44号と45号のスピーカーシステムの総テスト。
この試聴は、単独試聴であり、一人一人が試聴記を書かれている。
それぞれの試聴記を比較しながら読んでいく、という行為。

私は44号、45号の試聴記を読んで数年後に、
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」を読んでいる。
順序が逆になってしまったけれど、ここでもう一度試聴記を読み返す面白さがあった。

それからHIGH-TECHNIC SERIES-3のトゥイーターの総試聴。
ここでは井上、黒田、瀬川の三氏による合同試聴で、
書き原稿による試聴記ではなく鼎談による試聴記になっている。

これが、まためっぽうおもしろい。
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」を読んでいれば、
ここでも、そのおもしろさは増してくる。

それだけではない、
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」のおもしろさも増す。
「続・良い音とは 良いスピーカーとは?」は出ないのか。

Date: 7月 1st, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その9)

アルテックというスピーカーの音の魅力とは──、
そのことで思い出すのは、ステレオサウンド 16号でのオーディオ巡礼である。
五味先生が、瀬川先生、山中先生と菅野先生のリスニングルームを訪問されている。

このころの山中先生はアルテックのA5に、
プレーヤーはEMTの930st、アンプはマッキントッシュのMC275を組み合わされていた。
     *
そこで私はマーラーの交響曲を聴かせてほしいといった。挫折感や痛哭を劇場向けにアレンジすればどうなるのか、そんな意味でも聴いてみたかったのである。ショルティの〝二番〟だった所為もあろうが、私の知っているマーラーのあの厭世感、仏教的諦念はついにきこえてはこなかった。はじめから〝復活〟している音楽になっていた。そのかわり、同じスケールの巨きさでもオイゲン・ヨッフムのブルックナーは私の聴いたブルックナーの交響曲での圧巻だった。ブルックナーは芳醇な美酒であるが時々、水がまじっている。その水っ気をこれほど見事に酒にしてしまった響きを私は他に知らない。拙宅のオートグラフではこうはいかない。水は水っ気のまま出てくる。さすがはアルテックである。
     *
《さすがはアルテック》とある。
ブルックナーの音楽にまじっている水を、見事に酒にしてしまう響き、だからだ。

五味先生のオートグラフでは《水は水っ気のまま出てくる》。

これは五味先生の聴き方である。
ブルックナーの音楽を熱心な聴き手は、
ブルックナーの音楽に水なんてまじっていない、というかもしれない。

そういうブルックナーの聴き手からみれば、
アルテックこそブルックナーの音楽をきちんと鳴らしてくれるスピーカーであって、
タンノイは酒なのに、時々水にしてしまう──、
そういう捉え方になるかもしれない。

Date: 6月 29th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その8)

JBLが積極的に、
それも振幅特性のみのワイドレンジではなく、
多方面からみてもワイドレンジ指向をすすめていたのに対して、
同時代のアルテックは、2ウェイという枠組みのなかでのワイドレンジ化にとどまっていた。

それがアルテックらしい、といえばそうともいえたわけだが、
そのことによってプロフェッショナル、コンシューマーの両方の市場でシェアを失っていった──、
ともいえるわけだ。

JBLは、常に、その時点での技術の粋をきわめようとする姿勢だった。
スピーカーシステムに求められる物理特性を、できるかぎりすべてをベストに整えることを目指していた。
だが、このやり方は、常に前身を続けていくことでもある。

もっともそれが科学技術の産物といえるオーディオ機器なのだから、当然ともいえる。

終点がない。
つまりいつかは古くなる、ということだ。
技術は進歩していく。
必ずしも、すべての面で進歩していくとはいえないところもある。
合理性という面では進歩していても、
性能的にはなんらかわりなくても、音を聴いてみると……、というのは実際にある。

それがオーディオだ、といえるわけだが、それでも技術は進歩していくのだから、
古くなっていくことからは逃れられない。

アルテックは、どうだろうか。
4343の成功に刺戟され,6041という4ウェイ・システムを出してからは、
マルチウェイ化に積極的(濫造)になっていったが、それ以前は、あくまでも2ウェイが基本だった。

2ウェイという枠組みのなかで、個性をつくりあげていた、ともいえる。
だからとおもうのは、(その7)で書いた三人のオーディオマニアは、
若いころアルテックを聴いていたら、はたしてアルテックの魅力に気づいていただろうか、だ。

Date: 5月 31st, 2020
Cate: 瀬川冬樹

たおやか(あらためてそうおもう・その2)

「たおやか」なだけではない。
そこに狂気が潜んでいなければならない。

だからといって、狂気が剥き出しになっていてもだめである。

私がイメージする瀬川先生の音を、いまもそうである。

Date: 5月 2nd, 2020
Cate: 瀬川冬樹

虚構を継ぐ者(その2)

赤井商事が輸入していたころのインフィニティの広告に、
 アーノルド・ヌーデルは語る
 「生の音楽に到底かなわないのは
 分っている。
 要は、科学でどれだけ接近できるかだ。
 だから、無限=インフィニティ。」
とあった。

おそらくだが、ヌーデルには、
瀬川先生のような「ナマ以上にさえ妖しく美しい音」という捉え方はなかったはずだ。

アーノルド・ヌーデルは物理学者である。
メーカーの人間であり、オーディオ機器を開発する側にいるわけだから、
これでいいわけだ。

われわれはオーディオマニアである。
どちら側にいるのか。

Date: 4月 28th, 2020
Cate: 瀬川冬樹

虚構を継ぐ者(その1)

別項で後継者について書いていて、
ふと思いついたのが「虚構を継ぐ者」だ。

思いついただけであるのだが、
虚構を継ぐ者→「虚構」を継ぐ者、とも考えた。

さらに者は、ものであるから、もの、モノ、物、というふうにもなるから、
虚構を継ぐ「もの」か。

継ぐもそうだ。
つぐは、嗣ぐもあるし、接ぐ、注ぐ、告ぐ、などがある。

そんなことをぼんやり考えながらの「虚構を継ぐ者」を考えていると、
瀬川先生がいわれていた、「ナマ以上にさえ妖しく美しい音」というふうに虚構を捉えれば、
瀬川先生も「後継者」であるのか──。

Date: 4月 20th, 2020
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代(その4)

岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代に、終りはやってこない。
これから先、どれだけ趣味としてのオーディオが、
それからオーディオ評論というものが続いていくのかはわからないが、
その最後まで、岩崎千明と瀬川冬樹のいない時代は続くわけだ。

長島先生が、サプリームNo.144(瀬川先生の追悼号)に書かれたこと。
     *
オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
     *
私もそう思っている。
そうだとすれば、オーディオ評論はステレオサウンドの創刊とともに始まった、ともいえる。
それ以前からあった、といえば確かにあった。
けれど、長島先生がいわれるところの「オーディオ評論」は、
その場が生じてはじめて可能になるわけで、そういう意味でも、
私は1966年、ステレオサウンドの創刊からと捉えている。

1966年から2020年。
もう五十年以上が経っている。

岩崎先生は1977年、
瀬川先生は1981年だから、
岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代よりも、
岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代のほうが、はるかにながい。

この「ながい」は、
いまオーディオ評論家としてなにかを書いている人たちもキャリアもいえることだ。

それだけでなく、オーディオを趣味としてきている人たちも、
オーディオのキャリアは、岩崎先生、瀬川先生よりもながい人が少なくない。

岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代に、われわれはオーディオをやっている。
そのことを意識しなければならない──、
そういいたいわけではない。

意識していなくて当然であろうし、それが多数であろうし、
意識していない人に意識しよう、という気もない。

けれど私は、どうしても「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」ということを、
強く意識してしまうときがある。

Date: 4月 11th, 2020
Cate: 五味康祐

続・無題(その12)

「西方の音」と「天の聲」。
これまでは、そのままの意味で受け止めていた。

けれど、ここにきて、
五味先生は、「西方の音」へと向っての旅をされていたように感じてきた。
そして「天の聲」へと向っての旅である。

Date: 4月 1st, 2020
Cate: 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(40年目の4月1日)

ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記には、こうある。
     *
 オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。
     *
テクニクスのアナログプレーヤーSL10とカシーバーSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンを病室に持ち込まれていた。

これに近いシステムで、今日(40年目の4月1日)に、
ケンプの弾くベートーヴェンの作品一一一を聴いた。

iPHone、メリディアンの218、スタックスのヘッドフォンというシステムである。
五味先生はLPだったが、私はMQAで聴いた。

原田勲氏の編集後記には、こうも記してあった。
     *
先生は、AKGのヘッドフォンで聴かれ、〝ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな〟とほほ笑まれた。
     *
《ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな》には、
いい時代になったなぁ、という感慨もあったのではないだろうか。

いい時代になったなぁ、と私はしみじみ感じていた。
私が、今日聴いたシステムも、病室に持ち込める規模だ。
それでいて、どこにも薄っぺらさのない音で、ケンプのベートーヴェンを聴かせてくれる。

ケンプというピアニストの奏でる音と、MQAの本質的なよさは、
互いにソッポを向きあうわけではない。
むしろ、同じ方向の音と響きのようにも感じるから、
よけいにケンプのベートーヴェンが美しくきこえてくる。

いい時代になったものだ。

Date: 3月 31st, 2020
Cate: 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(番外)

予定していた4月1日のaudio wednesdayの最後にかける曲は、
ケンプのベートーヴェンのピアノソナタにしようと考えていた。

バックハウスにするか、ケンプにするか、迷っていた。
ケンプに決めたのは、MQAでリリースされているからだ。

バックハウスの演奏は、SACDが発売になっているし、
e-onkyoではDSFでリリースされている。

ケンプはflacとMQA(どちらも96kHz、24ビット)である。

MQAがある、
これだけの理由で、ケンプのベートーヴェンの後期のピアノソナタのどれかをかける予定でいた。

結局、明日のaudio wednesdayは止めにしたので、かけることはなくなった。

2026年の4月1日は、水曜日だ。
あと六年、audio wednesdayを続けていたら、この日にケンプのベートーヴェンをかけたい。

Date: 3月 19th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その7)

私と同世代、近い世代のオーディオマニアで、
若いころJBLに憧れていた──、そしてJBLのスピーカーを鳴らしている。

けれど、アルテックのスピーカーを、四十代、五十代になって聴いて、
JBLに憧れてはいたけれど、自分が求めていた音は、
JBLよりもアルテックだったのではないか──、
そういう人を、いまのところ三人知っている。

三人が多いのか少ないのかは、なんともいえないが、
この三人のオーディオマニアの気持はわかる、というか、
わかるところがある。

JBLがほんとうに輝いていた時代がある。
その時代を十代のころ、もしくはハタチ前後のころに体験していた人にとって、
アルテックはライバルなのはわかっていても、
輝きは乏しかっただけでなく、輝きを失い始めているような感じさえしていた。

だからこそ、いつかはJBL、と思っていたはずだ。
私もそうだった。

それに、そのころ、少なくとも私が住んでいた熊本では、
JBLを聴く機会は当り前のようにあったけれど、
アルテックのスピーカーとなると、熊本で聴いたことは一度だけだった。

三人のうちの一人は、私よりも少し上だが、
若いころアルテックを聴く機会はなかった、といっていた。
そして、JBLを鳴らしている。

JBLの輝きが強すぎた時代には、
アルテックはくすんでしまったように見えてしまっていた。

聴く機会がなかった、少なかった、ということは、
オーディオ業界全体も、そんなふうに見ていたのかもしれない。

けれど四十代、五十代になって、何かの機会でアルテックの音を聴く。
そこで、もしかすると……、と思ってしまった人を、三人知っているわけだ。

Date: 3月 19th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その6)

私と同世代のオーディオマニアにとって、
JBLというスピーカーは、輝いて見えていた。

もちろんアンチJBLの人が少なからずいるのは、
アンチ・カラヤンの人が少なからずいるのと同じかもしれない。

1970年代後半、中学生、高校生だった私の目には、
JBLのスタジオモニターだけでなく、
パラゴンも、過去のモデルとはなっていたがハーツフィールドも、
なにか特別な存在のように映っていた。

JBLのライバル的スピーカーメーカーといえるのが、
アルテックとタンノイだった。

同じアメリカのスピーカーメーカー、それも西海岸のメーカーであり、
その成り立ちをたどっていくと、どちらも同じウェスターン・エレクトリックにたどりつく。

JBLとアルテックは、確かに、あの当時ライバル同士だった。
JBLが4343、4350などのスタジオモニターを出していたころ、
アルテックはどうだったかというと、プロ用としてはA5、A7が現役モデルであったし、
604-8Gを搭載した620、612などだった。

輝いて見える、という点では、
JBLがアルテックよりもはるかに上だった。

私と同じようにそう見ていた人は少なくない、はずだ。

アルテックは、4343の成功に刺激されてだろう、
604-8Hを中心とした4ウェイのスタジオモニター6041を出してきた。

アルテックらしい、といえるし、おもしろい製品ではあったが、
4343ほどの完成度というか、洗練されていたスピーカーではなかった。

4343には4341というモデルがその前にあったし、
上級機として4350があったのだから、6041とはベースが違う。

6041はII型になったが、
4341が4343になったような変更ではなかった。

Date: 2月 12th, 2020
Cate: 井上卓也

marantz Model 7K, Model 9K(その3)

吉祥寺のハードオフマランツにある未開封のマランツのキット、
Model 7K、Model 8BK、Model 9Kは、まだ売れていないようである。

問合せはある、らしい。
問い合せてくる人のどのくらいなのかはわからないが、
未開封ゆえに、中の状態が気になり、購入に踏み切れないようである。

開封して中の状態を確認して購入したい、という気持はわからないわけではない。
でも、こういうモノは、未開封の状態で買うモノ、買われていくモノと思う。

未開封の箱を、自分の手で開ける。
ダメになっている部品はあるはずだ。
それが多いのか少ないのかはわからないけれども。

そんなもろもろのことをひっくるめての「未開封品」ではないのか。
開ける時のどきどき、わくわくした気持。

これを一人で味わえる。
これもオーディオのロマンのはずだ。

そこにロマンのかけらも感じない人は、手を出さない方がいい。

Date: 2月 8th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その5)

五味先生、瀬川先生、
ふたりとも結局同じことをいわれている。

五味先生はHBLの4343とタンノイのコーネッタ、
瀬川先生は4343とロジャースのLS3/5Aにおいて、である。

五味先生はJBLに《糞くらえ》と、
瀬川先生は《蹴飛ばしたくなるほどの気持》と。

あのころのJBLのスタジオモニターの最新モデルの4343の実力を認めながらも、
クラシックにおける響きの美しさが、鳴ってこないことを嘆かれている。

コーネッタにしてもLS3/5Aにしても、
4343からすれば、価格的にかなり安価なスピーカーだし、大きさも小さい。

4343を本格的なスピーカーシステムとして捉えれば、
コーネッタもLS3/5Aも、そこには及ばない。
だからこそ、《あの力に満ちた音が鳴らせないのか》と、瀬川先生は書かれているわけだ。

《クラシック音楽の聴き方》は、五味先生、瀬川先生はもう同じといっていいはずだ。
けれど、そこから先が違っている、というのだろうか。

正直、こうやって書いていても、よくわからないところもある。
五味先生と瀬川先生が、
「カラヤンと4343と日本人」というテーマで対談をしてくれていたら──、
そうおもうこともある。

けれど、そういう対談は、どこにもない。
ない以上、考えていくしかない。

カラヤンと4343。
指揮者とスピーカーシステム。
けれど、どちらもスターであったことは否定しようがない。

アンチ・カラヤンであっても、
アンチJBLであっても、
カラヤンはクラシック界のスターであったし、
4343も、少なくとも日本においてはスター的存在であった。

Date: 1月 31st, 2020
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(味も人なり、か・その2)

私は、同世代の友人と二人で、その吉祥寺の中華屋に行った。
夜からしかやっていない店だった。

二人ともお酒は飲まないから、チャーハンだけを注文した。
(その1)で書いているように、味は最高だった。

店のオヤジは、痩せていて無愛想だった。
でも、そんなことは気になるほどのことではなく、
二人で、チャーハンの美味しさに驚いていた。

店を出てからも、美味しかったな、と話すぐらいだった。

菅野先生が「ひどいめにあったよ、なんだ、あの店(店主)は」といわれたのをきいて、
まず思ったのは、店が汚いからなのか、だった。

(その1)で書いているが、確かに汚い。
カウンターで食べていたけれど、小さなゴキブリが一匹這っていた。

でも、汚い店だということは事前に伝えてあった。
菅野先生は奥さまとお嬢さまと三人で行かれた。

菅野先生もお酒は飲まれない。
家族三人で行って、チャーハンが目的とはいえ、
チャーハンだけというのは失礼だ、と思い、ほかの料理も注文されたそうだ。

にもかかわらずオヤジの機嫌を損ねてしまった、ときいた。
おそらく、われわれがお酒をのまなかったからだろう、と菅野先生はいわれた。

汚い店である。
場末の中華屋という感じの店である。

けれど店主は、きちんとした中華料理店という意識なのだろう、
そこに家族三人で行って、お酒を頼まずに料理だけ、というのが、
機嫌をそこねた理由なのだろう、とのことだった。

それでも料理に手を抜かれたわけではなく、
チャーハンは絶品だった、といわれた。
また食べたいけれど、もう二度と行きたくない、とも。