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Date: 9月 27th, 2021
Cate: 菅野沖彦

9月27日

1932年9月27日は、菅野先生の誕生日である。

菅野先生の80代の音、90代の音というのを想像してしまう。
どんな音を出されたのだろうか。

2008年だったか。
菅野先生が「痴呆症になった時の音に興味がある」といわれた。
老人性痴呆症になったときに、自分はどういう音を出すのか。
それにいちばん興味がある、ということだった。

それは空(カラ)になった音なのだろうか、といまは思う。
オーディオの勉強をして、いろんな音を聴いて、
いろんな工夫をして音を出していく。

そういう行為を、何十年も重ねていけば、
経験が、知識が、ノウハウが、その人のなかに積み上っていく。

だから「音は人なり」なのか、というと、
実のところ、そういったものすべてを捨て去って、
つまり空っぽになって出てくる音こそが、ほんとうの「音は人なり」なのではないか。

ここ数年、そう考えるようになってきたし、
菅野先生がいわれたことを思い出している。

Date: 7月 1st, 2021
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その13)

ステレオサウンド 50号掲載の「2016年オーディオの旅」に登場するスピーカー。
これは、スピーカーの理想像の一つといえるわけだが、
長島先生は「2016年オーディオの旅」のなかで、
このスピーカーの周波数特性は、20Hzから20kHzまでとされている。
可聴帯域のみに限定している、とある。

空気を磁化して駆動するスピーカーなのだから、
振動板といわれるモノは存在しない。

空気を直接駆動するわけだから、
空気の質量分だけが、駆動部分の質量となる。

つまり、ないに等しいわけで、
高域の周波数特性は100kHzであっても、余裕でカバーできるはずだ。
それでも、あえて20Hzから20kHzまで、とされていることを、
当時読んでいて、どうしてなんだろうと考えていた。

Date: 6月 25th, 2021
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その12)

ステレオサウンド 50号掲載の長島先生の「2016年オーディオの旅」。
ここには振動板のないスピーカーが登場する。
     *
 書棚の反対側は壁面となっていて、壁の左右には奇妙な形をした装置がひとつづつ置いてあった。その装置は、高さが2m暗いのスタンド型をしており、直径80cmくらいの太いコイルのようなものが取り付けられていた。スタンドの床に接する部分は安定の良さそうな平たい足になっており、カバーが一部外れて、電子装置のパネルのようなものが顔を覗かせていた。不思議なことに、この装置の他には再生装置らしきものは何も見えなかった。
     *
これが長島先生が1979年に予想された2016年のスピーカーであり、
ポールの中心部の複雑なアンテナ状のところから、
ごく短い波長の電波を出し、周囲の空気を磁化することで、
コイルに音声信号を流すことで磁化された空気が振動する、というものである。

空気の磁化。
これが可能になれば、このスピーカーは実現する。
とはいっても、空気の磁化をどうやって実現するのか。

しかも家庭におさまるサイズで、である。

2020年3月の記事で、昨日、一部加筆されて公開になった記事が目に留った。
「ノーベル賞級!? 壊れた機械によって偶然『核電気』共鳴法が発見される!」
というタイトルの記事だ。

この記事の内容を100%理解しているわけではないが、
この発見こそ、長島先生が思い描かれたスピーカーの実現への第一歩なのではないだろうか。

Date: 4月 21st, 2021
Cate: High Resolution, James Bongiorno

MQAのこと、James Bongiornoのこと(その2)

TIDALで、“Mark Levinson”を検索したならば、
この人も忘れてはならない。

ジェームズ・ボンジョルノ(James Bongiorno)である。
ボンジョルノのアコーディオンとピアノの腕前は、
《アマチュアの域を超えている》と菅野先生が、
ステレオサウンド 53号に書かれているほどだから、そうとうなものなのだろう。

そのボンジョルノのCDが出ていることは知っていた。
Ampzilla 2000で復活をしてしばらくしたころに出したようである。

いつか買おう、と思いながらも、アメリカに注文してというのを億劫がって、
今日まできていた。

Mark Levinonがあるくらいだから、James Bongiornoもあるはず、と検索したら、
二枚とも表示された。

“Alone Again”と“This is The Moment”である。
残念なことにMQAではない。

Mark LevinonもMQAではないのだけれど、
こちらはMQAでないことをそれほど残念とは思わなかった。

James BongiornoがMQAでなかったのは、ちょっと残念に感じている。

Date: 3月 30th, 2021
Cate: 40万の法則, D130, JBL, 岩崎千明

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・その27)

スピーカーシステム、
この場合のスピーカーシステムとはマルチウェイのことである。

そのスピーカーシステムを、どういう構成とするのか。
さまざまな考え方があるのは、市場に登場したスピーカーシステムからもうかがえるし、
スピーカーを自作してみようと考えてみれば、
考え方の数の多さを楽しむこともできる。

40万の法則をベースにして考えるならば、
3ウェイの場合、100Hzから4kHzまで一本のユニットでカバーして、
100Hz以下、4kHz以上を、それぞれウーファー、トゥイーターで、という構成が考えられる。

つまりJBLのD130をスコーカーとして、ウーファーとトゥイーターを追加する3ウェイであり、
D130が15インチ口径で、しかも高能率ということを考えると、
そうとうに大型なシステムになる。

けれど、それは非現実的なシステムなのだろうか。
40万の法則に則った3ウェイのスピーカーシステムを、
池田 圭氏は構築されていた。

中心となる100Hzから4kHzを受け持つのは、
ウェスターン・エレクトリックの555Wドライバーに15Aホーンである。

555W+15Aのコンビは、D130以上の規模である。

15Aホーンの開口部は、56 3/6インチ×57インチである。
一辺が1.4mほどある巨大なホーンである。

折り曲げホーンとはいえ、奥行きは53 1/8インチで、
そうとうに広い空間でなければ、ステレオ用に二本設置することは、まず無理である。

これだけの大きさのモノに、池田 圭氏は100Hzから4kHzを受け持たせていた。
これと比較すれば、D130に、同じ帯域を受け持たせるのはかわいいものだし、
はるかに現実的でもある。

Date: 3月 15th, 2021
Cate: 五味康祐
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「三島由紀夫の死」から50年(その2)

2020年は、三島由紀夫 没後50年だった。
そのことに関する記事はいくつか読んだ。

記事はもっとあっただろう。
それに書籍も出ていたのだろう。

今日、書店で「三島由紀夫 VS 音楽」を見つけた。
帯には、「誰も書かなかった三島論」とある。
著者は、宇神幸男氏。現代書館から昨秋に出ている。

買ってきたばかり、読み終ったわけではない。
第三章の「ワグネリアン伝説」を読んだだけである。

読み終えてから書けば──、と自分でも思っている。
それでもとにかく、今日書いておきたい、と思ったのは、
いわゆるあとがきを読んだからだ。

その最後のほうに、こうある。
     *
妄想と嗤われるかもしれないが、「三島由紀夫を殺したのは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」である。ワーグナーが三島を殺した」と戯言を言ってみたい気もする。
 ニーチェは「音楽のない人生は誤謬となるであろう」と語った。三島の人生にも音楽はあった。三島は同時代の作家のなかでは音楽をよく聴いていた。その人生が誤謬であったかどうかはともかく、「音楽をもっと聴いていてくれたら、あんなに死にいそぎはしなかった」という五味康祐の慨嘆は虚しい。創作の限界を超え、自己の人生を作品化した三島の死に対して、五味康祐が言うような意味において、音楽はまったく無力だった。
     *
こういう捉え方もあるのか、と思った。
それでも宇神幸男氏がいわれるように《音楽はまったく無力だった》のか。

五味先生は《音楽をもって聴いていてくれたら》と書かれている。
「音楽を聴いていてくれたら」ではない。
「もっと」が、そこにある。

この「もっと」の捉え方なのだ、とおもう。

Date: 3月 10th, 2021
Cate: 五味康祐

続・無題(その14)

2020年12月18日、
映画「ワンダーウーマン1984」を公開初日に観た。

パッケージメディアの発売は4月だが、デジタル配信はすでに始まっている。
レンタルで、さきほど観ていた。

「ワンダーウーマン1984」の二回目を観て、やはりおもっていたのは、
願いと祈りのことである。

願いをかける、
願いをこめる、
願いがかなう、
願いの場合、こんな使われ方だ。

願いをかける。
願いをかけた人は代償を払うことで、願いがかなう。
「ワンダーウーマン1984」では、だから「猿の手」というキーワードが出てくる。

祈りの場合、祈りをささげる、である。

願いと祈りを曖昧にしてきたことに気づく。
そして五味先生のことを、やはりおもってしまう。

Date: 2月 28th, 2021
Cate: 五味康祐

続・無題(その13)

「五味オーディオ教室」を読む、
そこにある言葉を読んで行くうちに、
言葉が音に変ろうとしている、
その音が音楽に変ろうとしている。

そんな気配を感じていたのかもしれない、と、
いまごろ気づく。

Date: 1月 24th, 2021
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その11)

その10)から半年。
タンノイのコーネッタは喫茶茶会記で六回鳴らしている。
なのに、コーネッタでブルックナーをかけてはいない。

コーネッタは、ブルックナーをどう鳴らすのか。
興味がないわけではない。
それでも、ブルックナーの交響曲よりもコーネッタでとにかく聴きたい曲があった。
それらを優先して聴いた(鳴らした)ので、ブルックナーはまだである。

その9)で、五味先生は、山中先生の鳴らすアルテックを聴いて、
《さすがはアルテック》と感心されている。
ブルックナーの音楽にまじっている水を、見事に酒にしてしまう響き、だからだ。

さすがはアルテックなのだが、
アルテックということはもちろん無視できないが、
山中先生が鳴らされているアルテックだから、ということも大きい。

山中先生の音は何度か聴いている。
けれどブルックナーは聴いたことがない。
アルテックも聴いたことがない。

JBLはどうなのか。
4343はどうなのか。

4343は、ブルックナーの音楽にまじっている水を、どう鳴らすのか。
アルテックのように見事に酒にしてしまうのか、
それともタンノイのように水は水っ気のまま出してくるのか。

ふりかえってみると、4343でブルックナーを聴いたことがない。
4343の後継機、4344では数回聴いているが、印象は薄い。

4344で聴いたブルックナーは、やっぱり長いと感じていた。
ということは、ブルックナーの音楽にまじっている水を、
4344は酒にはしなかったのだろう。

ここで聴いてみたい、と思うのは、ヴァイタヴォックスである。
ヴァイタヴォックスは、ブルックナーの音楽にまじっている水をどう鳴らすのか。
すんなりと見事に酒にしてしまうのではないだろうか。

Date: 1月 13th, 2021
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その6)

1月10日に、ヤフオク!にスチューダーのA68が出ているのを見つけた。

A68については何度か書いている。
それでも もう一度書きたい。

A68は、私がステレオサウンドで働き始めたころ、
1982年1月に、試聴室隣の倉庫に置かれていた。

瀬川先生の遺品だった。
他にマークレビンソンのLNP2とKEFのLS5/1Aがあった。

すべて自分のモノにしたい、と思ったけれど、
そんなお金はどうやっても工面できなかった。
この時ほど、お金が欲しい、と思ったことはない。

しばらくして、それらのオーディオ機器は去ってしまった。

LNP2は、その後も聴く機会はあった。
LS5/1Aは、LS5/1を自分のモノとして鳴らしたこともある。

A68だけが、その後、何の接点もない。
それもあってか、いまではA68がいちばん欲しい、と思うようになった。

そのA68が、久々にヤフオク!に出ている。
私が見逃していただけで、出品されていたのかもしれないが、
私の目に留まったのは、ほんとうにひさしぶりである。

程度は良さそうである。
天板に小さなキズがあるものの、四十年以上前のアンプであるわけだから、
その程度のことは気にならない。

欲しい! とあらためて思った。

しかも、今回は瀬川先生の誕生日にA68が、ヤフオク!に表示された。
何かの縁なのかもしれないが、
その縁をたぐり寄せることはできない。

一年前だったら、即購入していた(できていた)。
けれど、今年は厳しいだけに、数少ない機会をまた見逃すことになる。

コーネッタをA68で鳴らして、
バッハの無伴奏チェロ組曲を聴ける日が訪れるのだろうか。

Date: 1月 7th, 2021
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その11)

長島先生がサウンドボーイの創刊号(だったはずだ)に、
将来、ダイヤモンドが半導体の材料となる、と書かれていた。

それから四十年以上が経って、ようやくそうなりそうである。

ナゾロジーというウェブサイトがある。
昨日(1月6日)の記事に、
「ダイヤモンドを引っ張って延ばす」と高性能の半導体に変化した!未来の半導体はダイヤ製かもしれない。
があった。

これもまた「ほらな、言った通りになっただろう」といわれたはずだ。

Date: 1月 7th, 2021
Cate: 瀬川冬樹

虚構を継ぐ者(その4)

後継者とは、なんだろうか。

松尾芭蕉のことばをかりれば、
《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》であり、
ゲーテのことばをかりれば、
《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》と考えている。

先人・先達たちが積み重ねてきた実績の上に、
さらに積み重ねることができる人が後継者であり、
模倣するだけの人は後継者とはなりえない。

「青は藍より出でて藍より青し」であってこそ、後継者ともいえよう。

私がステレオサウンド 214号掲載の五月女 実氏の文章を読んで感じたことは、
こういうことであり、五月女 実氏を五味先生の後継者とはまったく感じられなかったし、
五月女 実氏は、五味康祐たらんとされているように感じたところでもある。

Date: 12月 12th, 2020
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その31)

ステレオサウンドの冬号(ベストバイの号)が書店に並んでいるのをみかけると、
59号のことを思い出してしまう。

昔は夏号がベストバイの号だった。
59号は、ベストバイに瀬川先生が登場された最後の号である。
     *
 ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
     *
59号で、パラゴンについて書かれたものだ。
もう何度も引用している。

この文章を思い出すのだ。
特に「まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。」を何度も何度も思い出しては、
反芻してしまっている。

59号の時点で、23年も前の製品だったパラゴンは、
いまでは60年以上前の製品である。

瀬川先生の「欲しいなぁ」は、つぶやきである。
そのつぶやきが、いまも私の心をしっかりととらえている。

Date: 11月 25th, 2020
Cate: 瀬川冬樹

ベルナール・ブュフェ回顧展 私が生きた時代

Bunkamuraミュージアムで、「ベルナール・ブュフェ回顧展 私が生きた時代」が開催されている。
2021年1月24日まで、である。

私がベルナール・ブュフェの作品を強く意識したのは、
瀬川先生のリスニングルームの壁にかかっていた写真をみた時からだった。

世田谷・砧に建てられたリスニングルームの漆喰の壁にかかっていた。
瀬川先生にとって、あのリスニングルームが、どういう存在だったのかを考えれば、
そこに、誰でもいいから、なにか絵(版画)をかけておこう、ということにはならないはず。

ベルナール・ブュフェのリトグラフを気に入ってことだったのだろう、
といまもおもっているが、はっきりしたことはわからない。

誰かからの贈り物だったのかもしれないし、
瀬川先生が購入されたものなのかも、よくは知らない。

でも気に入らない作品を、音楽を聴く空間に、
視界に入るところにかけられはしないはずだ。

ベルナール・ブュフェの作品と瀬川先生の音との共通するところ。
そういうものがあるのかはなんともいえないのだが、
それでも線による描写というところに、共通するところを感じてもいる。

ステレオサウンド別冊「HIGH-TECHNIC SERIES-3」の巻頭鼎談で、
井上先生、黒田先生とともに、JBLの4343のトゥイーターを交換しての試聴について語られている。

JBLの2405、ピラミッドのT1。
この二つのトゥイーターの評価で、瀬川先生の音の好みがはっきりと語られている。
そこのところを読むと、ベルナール・ブュフェとのつながりを、なんとなく感じられる。

Date: 11月 21st, 2020
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その18)

別項「原音に……(コメントを読んで・その5)」で、
スピーカーのあがり的存在について、ちょっとだけ触れている。

瀬川先生にとってのスピーカーのあがりがあったとすれば、
それはAXIOM 80だったのかもしれない。

それが「我にかえる」ということにつながっていくのではないだろうか。
そういう気がしてきた。

スピーカーのあがり。
といっても、YGアコースティクスでスピーカーはあがり、
マジコでスピーカーはあがり、といっている人たちと、
瀬川先生のあがりは、決して同じなわけではない。