長島達夫氏のこと(その11)
長島先生がサウンドボーイの創刊号(だったはずだ)に、
将来、ダイヤモンドが半導体の材料となる、と書かれていた。
それから四十年以上が経って、ようやくそうなりそうである。
ナゾロジーというウェブサイトがある。
昨日(1月6日)の記事に、
『「ダイヤモンドを引っ張って延ばす」と高性能の半導体に変化した!未来の半導体はダイヤ製かもしれない。』
があった。
これもまた「ほらな、言った通りになっただろう」といわれたはずだ。
長島先生がサウンドボーイの創刊号(だったはずだ)に、
将来、ダイヤモンドが半導体の材料となる、と書かれていた。
それから四十年以上が経って、ようやくそうなりそうである。
ナゾロジーというウェブサイトがある。
昨日(1月6日)の記事に、
『「ダイヤモンドを引っ張って延ばす」と高性能の半導体に変化した!未来の半導体はダイヤ製かもしれない。』
があった。
これもまた「ほらな、言った通りになっただろう」といわれたはずだ。
後継者とは、なんだろうか。
松尾芭蕉のことばをかりれば、
《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》であり、
ゲーテのことばをかりれば、
《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》と考えている。
先人・先達たちが積み重ねてきた実績の上に、
さらに積み重ねることができる人が後継者であり、
模倣するだけの人は後継者とはなりえない。
「青は藍より出でて藍より青し」であってこそ、後継者ともいえよう。
私がステレオサウンド 214号掲載の五月女 実氏の文章を読んで感じたことは、
こういうことであり、五月女 実氏を五味先生の後継者とはまったく感じられなかったし、
五月女 実氏は、五味康祐たらんとされているように感じたところでもある。
ステレオサウンドの冬号(ベストバイの号)が書店に並んでいるのをみかけると、
59号のことを思い出してしまう。
昔は夏号がベストバイの号だった。
59号は、ベストバイに瀬川先生が登場された最後の号である。
*
ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
*
59号で、パラゴンについて書かれたものだ。
もう何度も引用している。
この文章を思い出すのだ。
特に「まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。」を何度も何度も思い出しては、
反芻してしまっている。
59号の時点で、23年も前の製品だったパラゴンは、
いまでは60年以上前の製品である。
瀬川先生の「欲しいなぁ」は、つぶやきである。
そのつぶやきが、いまも私の心をしっかりととらえている。
Bunkamuraミュージアムで、「ベルナール・ブュフェ回顧展 私が生きた時代」が開催されている。
2021年1月24日まで、である。
私がベルナール・ブュフェの作品を強く意識したのは、
瀬川先生のリスニングルームの壁にかかっていた写真をみた時からだった。
世田谷・砧に建てられたリスニングルームの漆喰の壁にかかっていた。
瀬川先生にとって、あのリスニングルームが、どういう存在だったのかを考えれば、
そこに、誰でもいいから、なにか絵(版画)をかけておこう、ということにはならないはず。
ベルナール・ブュフェのリトグラフを気に入ってことだったのだろう、
といまもおもっているが、はっきりしたことはわからない。
誰かからの贈り物だったのかもしれないし、
瀬川先生が購入されたものなのかも、よくは知らない。
でも気に入らない作品を、音楽を聴く空間に、
視界に入るところにかけられはしないはずだ。
ベルナール・ブュフェの作品と瀬川先生の音との共通するところ。
そういうものがあるのかはなんともいえないのだが、
それでも線による描写というところに、共通するところを感じてもいる。
ステレオサウンド別冊「HIGH-TECHNIC SERIES-3」の巻頭鼎談で、
井上先生、黒田先生とともに、JBLの4343のトゥイーターを交換しての試聴について語られている。
JBLの2405、ピラミッドのT1。
この二つのトゥイーターの評価で、瀬川先生の音の好みがはっきりと語られている。
そこのところを読むと、ベルナール・ブュフェとのつながりを、なんとなく感じられる。
別項「原音に……(コメントを読んで・その5)」で、
スピーカーのあがり的存在について、ちょっとだけ触れている。
瀬川先生にとってのスピーカーのあがりがあったとすれば、
それはAXIOM 80だったのかもしれない。
それが「我にかえる」ということにつながっていくのではないだろうか。
そういう気がしてきた。
スピーカーのあがり。
といっても、YGアコースティクスでスピーカーはあがり、
マジコでスピーカーはあがり、といっている人たちと、
瀬川先生のあがりは、決して同じなわけではない。
今年(2020年)は、ベートーヴェンの生誕250年、
チャーリー・パーカーの生誕100年であるだけでなく、
日本だけでも、デビュー50年を迎える人(ミュージシャン)、グループがある。
なにかのひょうしに、デビュー50年という文字をみて、
この人もそうなんだ、と今年のはじめは何度も思った。
けれどコロナ禍で、予定されていた公演や催し物などは、
多くが中止(延期)になっているはず。
50年といえば、三島由紀夫 没後50年でもある。
50年前は、私はまだ7歳だった。
その日、父と母がニュースを見て、ひじょうに驚いていた記憶があるが、
三島由紀夫の死というニュースに関しては、ぼんやりした記憶しか残っていない。
三島由紀夫の死を強く意識したのは、
五味先生の「三島由紀夫の死」を読んでからだった。
それ以前に、三島由紀夫の小説は、いくつかは読んでいたけれど、
三島事件のことは、まったく頭になかった。
「三島由紀夫の死」を読んで、三島由紀夫の死のことをおもっていた。
2017年1月の「三島由紀夫の死」で、
五味先生の文章の最後のところを引用した。
もう一度、書き写しておこうとおもったが、やめよう。
ほかに書き写したいところがある、
読んでほしいところがある。
*
五年前、自動車で二人の生命を私は轢いた。その直後に自裁することを私は考えた。「五味は死ぬのではないか?」事故のあと現場検証で、ニュースカメラのフラッシュを浴びながらこの辺でブレーキを踏んだと説明する私を、横で見ていた係り官が言ったそうだ。あのとき私が自殺してもそれほど不自然ではなかったろう。
その私が死なずに、三島由紀夫は死んだ。彼の割腹を人は意外だというが、五年前に死ななかった私自身も私には意外である。三島君の自殺と、死なない私はその意外性において、少なくとも私の内面では等質だ。むろんこんなことは人には分ってもらえないし、こんなことを誰もわからないほうがいい。でもそれがあるので、三島君の死は、私には二重に衝撃だったのである。
私の死ななかった理由は自分の口で言うことではないだろう。どう弁解したところで、私はこわくて死ねなかったのである。私は神にすがった。音楽ばかりを聴いた。すぐれた音楽がぼくたちにもたらしてくれる浄化作用に浴さなければ、今のように生き耐えてこられなかったろうと、このことは当時にも書いた。本当に、あの時私を支えてくれたものは文学書ではなく音楽だったから、ブラウン管の三島君を見ていて、どうして音楽を聴いてくれなかったんだろう、きっとそうすれば、今いるようなそんな姿で君は立たずに済んだろうと、私はテレビへ言いつづけていた。
三島事件そのものに関しては、さまざまな意見や解釈が述べられているが、これについて川端康成先生はどう考えていらっしゃるか、川端先生の発言をみるまでは、ぼくらはこの事件をあげつらうべきではないと私は思っている。文人のこうした節度は今のジャーナリズムには通用しないだろうが、私のこれは気持である。従って三島事件を論じるのではない。私と三島君との心の関わり合いを述べておきたい。
自動車事故のあと、私の執行猶予を乞う嘆願書が裁判所に出された。その嘆願書に三島君は署名してくれた。そのことがあるので判決のあと彼を訪ねてお礼を言った。今は言ってもいいと思う、この嘆願書は、志賀直哉、川端康成、小林秀雄、井伏鱒二、井上靖、三島由紀夫、柴田錬三郎、水上勉、亀井勝一郎、保田與重郎の諸氏の連署で出されたもので、判決のあと私はお礼を述べて回った。そして詫びを言った。文人として一番いけないことを私はしたからだ。でもこの時の私に或いは晩餐を用意し、或いは他出先からいそいで戻って、対応して下すった方々の私に告げられた言葉の一つ一つを、肝に銘じて忘れない。三島君を訪ねたのは夜になってからだった。三島家にはフランスのカメラマンが何人か来ていて、賑やかに撮影していた。そんな騒ぎから抜け出し三島邸と少し離れた私の車の所まで、彼は送り出してくれた。三島君が礼儀正しい作家であったことは知られている。でもあの時私の置かれている立場へは、どんな対応もできたろう。「死なないで下さいよ」車のそばで三島君はそう言った。三島君とは共通の友人である林富士馬氏の話が出たあとだった。交通事故のあと、訪ねてくれた林君に私は殴りかかったことがある。そういう狂乱に本当は私はいたのだが、そんな私と知って死ぬなと三島君は言ってくれたのだろうか。
*
「死なないで下さいよ」と言った三島由紀夫、
《三島君のしたことは痛いほど私にはわかった》と書かれている五味先生。
昭和は遠くなった──、
ほんとうにそうなのだろうか。
今日は、11月7日。
1981年の11月7日は、土曜日だった。
今日も、土曜日だ。
曜日は一日ずつズレていくし、うるう年であれば二日ズレるのだから、
ほぼ順番に、曜日は変っていく。
それでも、11月7日が土曜日だと、土曜日の11月7日か……、とおもってしまう。
そういえば、と思い出す。
2009年の11月7日のことだ。
2009年も、土曜日だった。
その日、六本木の国際文化会館で行なわれた「新渡戸塾 公開シンポジウム」に行っていた。
ここで、私のとなりに座っていた女性の方の名前が、瀬川さんだった。
「瀬川冬樹」はペンネームだから、瀬川先生とはまったく縁のない人とはわかっていても、
不思議な偶然があるものだ、と思ったことがあった。
そのことをおもい出していた。
後継者たらん、とこころがけている人がいる。
本人がそう思っているのか、そうでないのかは、
本心のところでは他者にはわからないことだろうし、
本人すら、曖昧なところを残しているのかもしれない。
それでも、第三者の目に、
あの人は、○○さんの後継者たらん、としているとうつることがある。
たとえばステレオサウンド 214号に、
「五味康祐先生 没後40年に寄せて」という記事が載った。
五月女 実氏の文章である。
五月女 実氏は、ずっと以前にも五味先生について書かれた文章が、
ステレオサウンドに載っている。
その時にも感じたことだし、214号の文章ではさらに強く感じたことが、
五月女 実氏は、五味先生の後継者たらん、としている、ということだ。
本人は、そんなことはない、といわれるかもしれないし、
そうだ、といわれるかもしれない。
面識はないので、どちらなのかはわからないが、そんなことはどうでもいいわけで、
五月女 実氏の文章を読んでいると、こちらはそう感じた、ということだ。
けれど、しばらくしておもったのは、後継者たらん、ではなく、
五味康祐たらん、ではないのか、だった。
五月女 実氏の本心がどうなのかは、私にはまったくわからない。
でも、五味先生の後継者たらんと五味康祐たらん、とでは、
同じようではあっても、違う。
スチューダーのパワーアンプ、A68は、昔から欲しいと思い続けている。
A68のコンシューマー用といえるルボックスのA740もいいけれど、私はA68を手にいれたい。
けれど、なかなか出てこない。
1982年1月、ステレオサウンドの試聴室となりの倉庫に保管してあったA68、
瀬川先生が使われていた、そのA68を見たのが最後で、
それ以降、どこのオーディオ店でもみかけることがないまま、ほぼ四十年。
ヤフオク!にも、以前出品されていたけれど、手持ちがまったくなく入札すらできなかった。
それから十数年、ほんとうにみかけない。
海外ではみかけることがある。
eBayでは、時々みかける。いまもある。
ほかのところでもみかける。
でも、写真をながめてみると、けっこうくたびれている感じがする。
四十年ほど前のアンプなのだから、新品同様を求めたいわけではないが、
どうなんだろう……、この個体は? とおもう。
いまさらA68でもないだろう、という気持は、私にもある。
それでもコーネッタを自分のモノとして、バッハの無伴奏を聴いてしまったら、
A68で鳴らしたら、どんなチェロの音色と響きが聴けるだろうか、と想ってしまう。
コーネッタが、A68へのおもいを強めてしまった。
五味先生は12月生れである。
2021年12月に、ステレオサウンド 221号が出る。
221号で、生誕100年記念の記事が載るだろうか。
12月発売のステレオサウンドの特集は、ステレオサウンド・グランプリとベストバイである。
私が編集者だったら、五味先生の特集を組むけれど、
そんなページは割けないのが、いまのステレオサウンドである。
年四冊の一冊が、ステレオサウンド・グランプリとベストバイでとられてしまう。
編集者としてのジレンマを感じないのだろうか。
ステレオサウンド・グランプリとベストバイは、別冊にすれば解決することだ。
それとも五味先生の一冊を、2021年の12月に出してくるのだろうか。
ベートーヴェンを聴いた、とか、ベートーヴェンを聴きたい、ベートーヴェンを聴く、
こういったことを言ったりする。
ここでの「ベートーヴェン」とは、ベートーヴェンの、どの音楽を指しているのだろうか。
交響曲なのか、ピアノ・ソナタなのか、弦楽四重奏、ヴァイオリン・ソナタ、
それともピアノ協奏曲なのか。
交響曲だとしよう。
ここでの交響曲とは、九曲のうち、どれなのか。
一番なのか、九番なのか、それとも五番なのか。
九番だとしよう。
ここでの九番とは、どの指揮者による九番なのか。
カラヤンなのか、ジュリーニなのか、ライナー、フルトヴェングラー……。
フルトヴェングラーだとしよう。
フルトヴェングラーによる九番は、どの九番を指しているのか。
よく知られているバイロイトの九番なのか、それとも第二次大戦中の九番なのか。
こういうことが書けるのは、オーディオを通してレコード(録音物)を聴くからである。
演奏会で、こんなことはいえない。
東京では、かなり頻繁にクラシックのコンサートが開催されている。
今年はコロナ禍で、来日公演のほとんどは中止になっているが、
ふところが許せば、一流のオーケストラの公演であっても、かなり頻繁に聴ける。
それらのコンサートすべてに行ける人であっても、
演奏曲目は、どうにもならない。
ベートーヴェンを聴きたい、と思っているときに、
運良くベートーヴェンが曲目になっていたとしても、
こまかなところまで、望むところで聴けるわけではない。
その不自由さが、コンサートに行って聴くことでもあるのはわかっている。
それでも録音が残っているのであれば、
オーディオで音楽を聴く、ということは、そうとうに自由でもある。
「ベートーヴェンの音楽は、ことにシンフォニーは、なまなかな状態にある人間に喜びや慰藉を与えるものではない」
と五味先生の「日本のベートーヴェン」のなかにある。
(その1)の冒頭でも引用している。
コンサートでは、なまなかな状態にあるときでも、
ベートーヴェンの交響曲を聴くことだってある。
二年が経った。
一年前に、一年が経った、と書き出した。
短いようで長く感じた一年だったし、
長かったようで短くも感じた一年が過ぎた──、と書いた。
この一年で、オーディオ業界、オーディオ雑誌は、
何か変ったのかといえば、何も変っていない、といえるし、
変っていないのかといえば、よい方向には変っていない、としかいえない──、とも書いた。
それからさらに一年である。
一年前にはコロナ禍はなかった。
オーディオショウが、ほぼすべて中止になった。
インターナショナルオーディオショウも、である。
インターナショナルオーディオショウの前身、輸入オーディオショウは、
菅野先生の提案から始まっている。
いまでは、そのことを知らないオーディオ関係者も多いことだろう。
来年の10月13日には、三年が経った、との書き出しで、なにかを書くだろう。
四年が経った、五年が経った……、と書いていくはずだ。
五味先生が亡くなられて、今年で40年が経った。
来年は生誕100年である。
孤独な聴き手と孤立した聴き手は、まるで違う。
音楽は独りで聴くものだ。
私は、ずっとそう思っている。
家族といっしょに楽しむ音楽もいいとは思うけれど、
私には他人事のように感じてしまう。
そんな私が、audio wednesdayでは、
来てくれる人は少ないとはいうものの、同じ空間で同じ音楽を聴いていることを、
四年ほど続けている。
瀬川先生は、孤独な聴き手だった、と思っている。
どんなに広い空間を得られたとしても、
それがリビングルームで家族と一緒に聴くのであれば、
狭くてもいいから独りで聴ける空関をもつべきであり、
その理由として「音楽に感動して涙をながしているところを家族にみられてたまるか」、
という気持があるからである。
その瀬川先生は、オーディオ店での試聴会では、
来場者といっしょに音楽を聴くことになる。
そういう時は真剣に音楽を聴かれていない──、
人によっては、そんな見方をするだろうが、そうだろうか。
熊本のオーディオ店に定期的に来られていた瀬川先生をみてきた。
そんな感じは一度もなかった。
昨晩のaudio wednesdayの最後には、
バックハウスとケンプのベートーヴェンをかけた。
時間があれば、もっとじっくりと、この二人のベートーヴェンを鳴らしたかったけれど、
気がついたら、時間はそれほど残っていない。
なので、バックハウスの32番を最初から最後まで鳴らした。
そのあとに、ケンプの32番の二楽章だけを鳴らした。
どちらが素晴らしい演奏か、という比較をしたかったわけではない。
二人ともMQAで聴けるようになった。
だから、聴きたかった、という理由だけである。
こうやって鳴らすことが、めったにしない。
クラシック好きの人ならば、同じ曲の聴き比べをする。
ベートーヴェンの32番を一枚しか持っていない、という人は珍しいだろう。
何枚かの32番が、クラシック好きの人のコレクションにはある。
それらをすべてひっぱり出してきて、一度に聴き比べる──、
ということを、私はほとんどしたことがない。
32番も、何枚も持っているけれど、
一度に並べて聴いての印象をもっているわけではなく、
違う日に聴いての、それぞれの演奏(録音)に対しての印象を持っているだけである。
どれがいちばんいいのかを決めたいわけでないのでから、それでいいし、
ずっとそうやってきた。
なので昨晩は、32番の二楽章はたてつづけに聴いた。
五味先生がさいごに聴かれたのは、ケンプだったことは、以前書いている。
昨晩、ケンプを聴いていて、人生の最期には、ケンプを聴きたい、とおもっていた。
だからといって、ケンプの32番をバックハウスの演奏より素晴らしい、と思ったわけではない。
バックハウスの32番は、この世を去ったあとに鳴らしてほしい、とおもっていた。
たぶん、私はこのままずっと独り暮しのままだろう。
くたばったときに、誰かが傍にいてくれるということは、ほぼないだろう。
だから、誰かがバックハウスの演奏を鳴らしてくれるわけではない。
でも、何があるかはわからないのが人生だから、
もしかすると誰かがいてくれるのかもしれない。
そうなったのであれば、ケンプは生きているうちに聴いておきたい。
バックハウスは、死んだあとに鳴らしてくれればいい。
そんなふうに感じる二人のベートーヴェンだった。