Date: 3月 15th, 2021
Cate: 五味康祐
Tags:

「三島由紀夫の死」から50年(その2)

2020年は、三島由紀夫 没後50年だった。
そのことに関する記事はいくつか読んだ。

記事はもっとあっただろう。
それに書籍も出ていたのだろう。

今日、書店で「三島由紀夫 VS 音楽」を見つけた。
帯には、「誰も書かなかった三島論」とある。
著者は、宇神幸男氏。現代書館から昨秋に出ている。

買ってきたばかり、読み終ったわけではない。
第三章の「ワグネリアン伝説」を読んだだけである。

読み終えてから書けば──、と自分でも思っている。
それでもとにかく、今日書いておきたい、と思ったのは、
いわゆるあとがきを読んだからだ。

その最後のほうに、こうある。
     *
妄想と嗤われるかもしれないが、「三島由紀夫を殺したのは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」である。ワーグナーが三島を殺した」と戯言を言ってみたい気もする。
 ニーチェは「音楽のない人生は誤謬となるであろう」と語った。三島の人生にも音楽はあった。三島は同時代の作家のなかでは音楽をよく聴いていた。その人生が誤謬であったかどうかはともかく、「音楽をもっと聴いていてくれたら、あんなに死にいそぎはしなかった」という五味康祐の慨嘆は虚しい。創作の限界を超え、自己の人生を作品化した三島の死に対して、五味康祐が言うような意味において、音楽はまったく無力だった。
     *
こういう捉え方もあるのか、と思った。
それでも宇神幸男氏がいわれるように《音楽はまったく無力だった》のか。

五味先生は《音楽をもって聴いていてくれたら》と書かれている。
「音楽を聴いていてくれたら」ではない。
「もっと」が、そこにある。

この「もっと」の捉え方なのだ、とおもう。

1 Comment

  1. Hiroshi NoguchiHiroshi Noguchi  
    3月 23rd, 2021
    REPLY))

  2. 数年前に割烹着型の白衣がマスコミに取り上げられた論文不正に関わって、理研の秀れた研究指導者が自殺しました。その少し後、ある高名な研究者が中学生に対して免疫について講演され、不正とされた論文の欠陥を説明されました。免疫の初歩だけで図を見れば著者の主張の成立しないことが分からなくてはいけない。論文掲載自体理解し難いといわれたと思います。その折「自殺というのは病気でなければできない。唯一の例外は三島由紀夫の場合か」と言われたことをこのブログを拝見し思い出されました。小生はあの事件を予備校のテレビで見たような気がします。この年でも、心が乱れるとなかなか音楽も耳に入りません、情けないことですが。

    1F

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]