Archive for category 人

Date: 9月 14th, 2009
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(その23)

「音に対決する」といったような息づまる聴き方──、サウンド誌No.7に、岩崎先生は、こう書かれている。

ここにも「対決」ということばが出てくる。
この項の(その1)に引用した
「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」という岩崎先生のことばがある。

対決するにあたって、岩崎先生にとってどうしても必要だったのは、
雑念を浮かべることさえ不可能な大音量であったと思う。

対決に邪魔なのは、いうまでもなく雑念である。
雑念まじりで対決しようものなら、あっけなく負ける。
そういう聴き方を岩崎先生は、ずっとされてこられたのだろう。

だから対決するような音楽ではない場合には、小さな音で聴かれたのだろう。

それでは、なぜ、岩崎先生は対決されたのか、が残る。

Date: 9月 14th, 2009
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(その22)

小さな音量で、小さい音をはっきりと聴きとるには、スピーカーに近づけば、いい。
たしか、そんなことを以前、どこかに書かれていた。

ということは、岩崎先生にとって大音量は、
小さい音(細かいところ)まではっきりと聴きたいためだけではないことがわかる。

なんのための大音量なのか、を、あらためて考えてみたい。
ステレオサウンド 38号で語られている。
「インストゥルメンタルのときは、確かに普通のひとよりも大きな音量で聴いています。かなり昔からそうです。たとえば、ジャズを聴くのだったら、15インチのスピーカーでなければ絶対にダメだと、ずいぶん昔から思っていた。」

そして38号の訪問記事のなかには、こうある。
     *
大音量で鳴らされるジャズに、しばらく耳を傾ける。いや、その音は、耳を傾けるなどという趣きではなく、ただひたすら聴いているほかにはいかなるてだてもないほどだ。しかし、雑念を浮かべることさえ不可能なその大音量ぶりは、官能的といいたいような快感をよびおこしてくれたのである。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その58)

絶対にあり得ないことと、はじめにことわっておくが、もし長島先生が、
バーンスタインよりもインバルのマーラーを高く評価される人だとしたら、
この項の(その50)(その51)に書いた国産パワーアンプを、高く評価されていただろう。

私にしても、インバルのを好む耳(感性)をもっていたとしたら、
その国産パワーアンプの欠点には気がつかずに、「いい音だ」と満足していただろう。

インバルの演奏(音といいかえてもいいと思う)と、その国産パワーアンプの音には共通するものがある。
先に、ピアニシモの音に力がない、と書いたが、これに通じることでは、
音の消え際をつるんとまるめてしまう、そんな印象をも受ける。
それに力がないから、だらっとしている。消えていくより、なくなっていく。

だから、ちょい聴きでは、「きれいな音」だと感じるが、決して「美しい音」とは、私は感じない。
長島先生も、「美しい」とは感じられないはずだ。

この手の音を、「ぬるい」「もどかしい」と感じるところが私には、どうもあるようだ。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その57)

同席していた編集者の一人は、バーンスタインのマーラーを聴いてひとこと、
「チンドンヤみたい」と呟いた。
そのときは、いきおいで、長島先生とふたりして、
「マーラーをわかっていないな」と、彼に対して言ってしまったが、
バーンスタインの感情移入の凄まじさを拒否する人もいるだろう。
そういう人にとっては、インバルのマーラーのほうが、ぴったりくるのかもしれない。

彼には彼なりのマーラーの聴き方があっただけの話だ。
だから、バーンスタインとインバル、どちらのマーラーが演奏として優れているのか、
普遍性をもち得るのか、を議論しようとは思わない。

聴き手の聴き方が違うだけのことであり、この聴き方の違いが、「音は人なり」へとつながっていくと思う。

同じ環境、同じ装置を与えられても、私と、バーンスタインのマーラーを「チンドンヤ」といった編集者とでは、
そこで響かせる音は、正反対になってとうぜんだろう。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その56)

長島先生が来られた。
試聴に入る前に、とにかくバーンスタインのマーラーを聴いてもらう。

さっき聴いたばかりの第5番をもういちど鳴らす。
冒頭のトランペットの鳴り出した瞬間から、長島先生が身を乗り出して聴かれている。
途中でボリュウムを下げる雰囲気ではない。1楽章を最後までかけた。

満足された顔で、どちらからともなく「インバルのをちょっと聴いてみよう」ということになり、
インバルのCDをかけた。すぐにボリュウムをしぼった。
長島先生と私は、インバルのマーラーを「ぬるい」と感じていた。もどかしい、とも感じていた。

インバルのマーラーは、バーンスタインのマーラーの前では聴く価値がない、といいたいわけでなはい。
長島先生と私が求めていたマーラーは、バーンスタインの演奏のほうだったというだけである。

Date: 9月 11th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その55)

旧録音の、ニューヨークフィルとのマーラーに、特別な感慨はなかったが、
それでも1970年代後半からのウィーンフィルとのベートーヴェン、
1980年代前半、デジタル録音で、やはりウィーンフィルとのブラームスを聴いて、
バーンスタインという指揮者に、つよい関心をもつにいたった。

1985年、イスラエルフィルと来日したときも、聴きにいくほど、
バーンスタインの熱心な聴き手になりつつあった。

つまり、新録音のマーラーに対して、あまり関心がないとはいいつつも、
もしかしたら、という期待ももっていた。
第1楽章の、トランペットのファンファーレが鳴る。
この時点で、インバルの演奏とは、空気がまったく違っていた。

漠然と、こういうマーラーが聴きたいと思っていた以上のマーラーが、響いてきた。
無性に嬉しかった。1楽章を聴き終えたところで、そろそろ長島先生が来られる時間となった。

Date: 9月 9th, 2009
Cate: ショウ雑感, 瀬川冬樹

2008年ショウ雑感(その2・続×十五 補足)

いままで読んできたオーディオ評論のなかで、デザインに関して強烈に記憶に残っているのは、
ステレオサウンド 43号の、瀬川先生のトリオのコントロールアンプ、L07Cに対する記事だ。

43号では、L07Cについて、上杉先生、菅野先生も書かれているが、
デザインについてはひとことも触れられていない。

ひとり瀬川先生だけが、L07Cのデザインについて、「試作品かと思った」と書かれ、
「評価以前の論外」であり、さらに「目の前に置くだけで不愉快」とつづけられ、
あきらかに、ここからは瀬川先生の怒りが感じられる。

たしかに、中学2年だった私の目から見ても、試作品のような仕上りのように感じられたが、
なぜ、瀬川先生の怒りが、そこまでなのかについては、理解できなかった。

Date: 9月 9th, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その59)

低音の量感ということでは、ヨーロッパのほうが、アメリカよりも、
瀬川先生の求められていた、いい意味でのふくらみ、そして包みこまれるような量感は豊かであったし、
このことが、アナログプレーヤーにおいて、
フローティング型が、ヨーロッパから多くが登場したことにつながる気がする。

アナログディスク再生においてハウリングが発生していたら、
低音の量感を求めることはできない。
量感うんぬんは、ハウリングマージンが十分確保されていてこそ、の話だ。

ただトーレンスやリンのようなフローティング型プレーヤーは、日本家屋で、和室で使用する場合には、
床があまりしっかりしていないことと関係して、針飛びという問題が発生する。
あくまでフローティング型プレーヤーは、しっかりした床が条件として求められる。

そのせいか、1970年代、まだまだ和室で聴く人が多かったと思われる時代に、
フローティング型プレーヤーはなかなか受け入れられなかったのだろう、と考えている。

Date: 9月 9th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その53)

長島先生は、はっきりしておられた。
微小レベルの変化に鈍感なモノは、いくら愛情をもって使いこなそうとも、
鈍感なものは鈍感なままで、決して敏感、鋭敏になることはない。
本質は変らないからだ。

オーディオ機器だけでなく、演奏に関しても、そのことは共通していた。

1980年代後半、ステレオサウンドでも、よく試聴に使っていたエリアフ・インバルによるマーラーの交響曲。
第4番と5番は、なんど聴いたことか。
特集の試聴でも使い、新製品の試聴でも使う。
すべての試聴に立ち会っていた私は、おそらく当時、
もっともインバルのマーラー(一部だけだが)を、聴いた者だっただろう。

正反対のマーラーを聴きたいという欲求がたまりはじめていた。

Date: 9月 9th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その52)

「音の色数」「色彩」ということばからもわかるように、長島先生は、音の変化に対して、
鋭敏であるものを好まれていたし、その点を、集中して鋭敏に聴きとろうとされていた。

「オーディオで原音再生はとうてい無理」──、そう長島先生は言われていた。
けれど、ほんのわずかな変化にも鋭敏な音がきちんと出てくれば、
「ぼくは錯覚できる、ナマを感じる」とも言われていた。

音の帯域的なバランスがすこしおかしかろうと、微小レベルの音の変化が出ていれば、
音楽にのめり込んで、聴かれていた。

だからこそ、一見きれいな音を聴かせようが、見事な帯域バランスをもっていようが、
その点に鈍感なものに関しては、手厳しい評価を下されていた。

Date: 9月 7th, 2009
Cate: 黒田恭一

黒田恭一氏のこと(その13)

「スーパー・ギター・トリオ」は、はじめて聴くレコードだった。

でも、このレコードの鳴りかたは、アクースタットが素晴らしいスピーカーであることを、
シャシュのレコードの時とは、別の角度から確認できた。
黒田先生は、こう発言されている。
     *
このレコードの聴こえ方というのも凄かった。演奏途中であれほど拍手や会場ノイズが絡んでいたとは思いませんでしたからね。拍手は演奏が終って最後に聴こえてくるだけかと思っていたのですが、レコードに針を降ろしたとたんに、会場のざわめく響きがパッと眼の前一杯に広がって、がやがやした感じの中から、ギターの音が弾丸のごとく左右のスピーカー間を飛び交う。このスペクタキュラスなライヴの感じというのは、うちの4343からは聴きとりにくいですね。
     *
大げさでなく、まさに、私もこう感じていた。
「スーパー・ギター・トリオ」のレコードに針を降ろしたとたんに、
ステレオサウンド試聴室の雰囲気がかわった。

いまでは、そういう音は当たり前のものとして、驚きを持って受けとめられることはないだろうけど、
1982年当時は、違っていた。

Date: 9月 7th, 2009
Cate: 黒田恭一

黒田恭一氏のこと(その12)

試聴レコードにない、聴きたいレコードを聴けるわずかな機会に、シャシュのレコードをかけたわけだ。
ノルマの「カスタディーヴァ」を一曲聴く時間は十分にあると思っていたし、
さらに二、三曲聴く余裕は、前日までの感じでは、あるはずだったが、
意外にはやく黒田先生、上杉先生たちが戻ってこられた。
あと20分ぐらいは、戻ってこられないと思っていただけに、いそいでボリュウムを絞り、針を上げようとしたら、
黒田先生が、「そのまま聴かせて」といいながら、椅子に坐られた。
聴き入られていたようすだった。

途中からだったので、もう一度最初からかけ直すことになった。
午後の試聴が、こうしてはじまった。

シャシュのあとに試聴レコードの三枚、そして黒田先生が、「これを鳴らしてほしい」ということで、
アル・ディ・メオラ、ジョン・マクラフリン、パコ・デ・ルシアの「スーパー・ギター・トリオ」を聴くことになった。

Date: 8月 31st, 2009
Cate: 境界線, 瀬川冬樹

境界線(その2)

人の声が中音域だとすれば、その上限は意外と低い値となる。

声楽の音域(基音=ファンダメンタル)は、バスがE〜c1(82.4〜261.6Hz)、
バリトンがG〜f1(97.9〜349.2Hz)、テノールはc〜g1(130.8〜391.9Hz)、
アルトはg〜d2(196.0〜587.3Hz)、メゾ・ソプラノはc’〜g2(261.6〜783.9Hz)、
ソプラノはg’〜c2(329.6〜1046.5Hz)と、約80Hzから1kHzちょっとまでの、ほぼ4オクターブ弱の範囲であり、
2ウェイ構成のスピーカーであれば、ウーファーの領域の音ということになる。

タンノイ、アルテックの同軸型ユニットのクロスオーバー周波数は、1kHzよりすこし上だから、
トゥイーター(ホーン型ユニット)が受け持つのは、人の声に関しては倍音(ハーモニクス)ということになり、
オーディオにおける高音域は、倍音領域ともいえるわけだ。

瀬川先生の区分けだと、人の声は、中低音域と中音域ということになり、
中高音域、高音域、超高音域と、「高」音域は、ほぼ倍音領域である。

瀬川先生の区分けは、音の感じ方を重視して、のものでもある。

Date: 8月 26th, 2009
Cate: ショウ雑感, 境界線, 川崎和男

2008年ショウ雑感(というより境界線について)

アンプの重量バランスの違いによって生じる音の差だけを、純粋に抽出して聴くことはできない。

アンプの音は、いうまでもなく重量バランスだけによって決定されるものではなく、
回路構成、パーツの選択と配置、筐体の構造と強度、熱の問題など、
さまざまな要素が関係しているのは、
福岡伸一氏のことばを借りれば、動的平衡によって、音は成り立つからだろう。

福岡氏は、週刊文春(7月23日号)で、
「心臓は全身をめぐる血管網、神経回路、結合組織などと連携し、連続した機能として存在している」
と書かれている。

これを読み、じつは「境界線」というテーマで書くことにしたわけだ(続きはまだ書いていないけれど)。

動的平衡と境界線について考えていくと、意外に面白そうなことが書けそうな気もしてくる。

オーディオにおける境界線は、はっきりとあるように思えるものが、曖昧だったりするからだ。

そして境界線といえば、川崎先生の人工心臓は、この問題をどう解決されるのか──。

クライン・ボトルから生まれた川崎先生の人工心臓は、どういう手法なのかは全く想像できないけれど、
トポロジー幾何学で、境界線の問題を解決されるはず、と直感している。

そこからオーディオが学べるところは、限りなく大きいとも直感している。

Date: 8月 20th, 2009
Cate: ワイドレンジ, 瀬川冬樹

ワイドレンジ考(その46)

瀬川先生は、ヴァイタヴォックスCN191について、
「二台のスピーカーの置かれる壁面は少なくとも4・5メートル、できれば5メートル以上あって、左右の広がりが十分とれること」と、
「続コンポーネントのステレオのすすめ」のなか、22項で書かれている。

残念ながら、紙面の都合だろうが、その理由については書かれていないが、おそらくコーナーホーン型であること、
壁をホーンの延長として使うこと、そして実際に音を聴かれた経験から、そう書かれただろう。

「残念乍ら」は、1980年、81年の瀬川先生の文章に、なんども登場する。
与えられた枚数が、瀬川先生が書きたいと思われているもに対して少なすぎて、
十分な説明がかけないままのとき、「残念乍ら」を使われている。

当時、この「残念乍ら」の部分を、いつか読めるものだと思って、
毎号ステレオサウンドの発売日を楽しみに待っていた。

けれど、「残念乍ら」の部分を書かれることなく、亡くなられた。

どれだけの「残念乍ら」があったのだろうか。
もし、あの時代にインターネットが、いまの時代のように存在していたら、
ページ数という物理的な制約のせいで書けなかったことを、
ブログやウェブサイトで公開されていたかもしれない、そう思うのだが……。