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Date: 9月 5th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その5)

B&OのCX100を聴いてDavid 50のことを思い出した──、と書いた。
David 50のことを思い出すとともに、
あの時David 50という選択肢もあったのに……、とも思っていた。

私にとって最初ステレオサウンドとなったのは41号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」に、David 50は登場している。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」では組合せの一冊で、
メインとなる組合せ記事のあとに、
ひとつの組合せ2ページで、30の組合せを紹介したページがある。
そこにDavid 50は登場している。

David 50の組合せは、もちろん瀬川先生。
アンプはサンスイのAU607、アナログプレーヤーはテクニクスのSL01。
カートリッジはオルトフォンのVMS20Eだ。

David 50が黒で、AU607、SL01も黒。
David 50はミニスピーカー、
SL01はミニとまでいえないが、ぎりぎりまで寸法をおさえたモデル。
組合せ合計は、244,400円。

チューナーは含まれてないが、AU607とペアになるTU707(54,800円)を加えても、
30万円を超えない組合せだった。

いまでもいい組合せだと思う。
CX100を聴いて、David 50を思い出した約30年前も、そう思っていた。
David 50の組合せそのままでも良かったのではないか、
むしろこちらのほうが良かったのではないか……、
思ってもどうにもならないことを思い出していた。

当時David 50を聴く機会があったら……、
そうも思っていた。
David 50のサイズ、それに瀬川先生も記事の中でセカンドスピーカーと語られている。
ここがひっかかっていたのだろう、いまにして思えば。

でも続けて、
《このスピーカーは小さいながらも10センチウーファーとドーム型トゥイーターの2ウェイで、音のつながりとバランスがとてもいいんです。低音のスケール感さえ望まなければ、中音以上の音のクォリティやバランスのよさ、指向性のよさについては第一級のスピーカーと比べても決してひけをとりませんね。》
と語られている。

David 50を最初に買う。
次のグレードアップとしてウーファーを追加する。
そういう楽しみ、発展の仕方もあったのに気づかなかった。

あの時は若かった(幼かった)のだ。
CX100の音は、そんなことさえ思わせた。

Date: 8月 29th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その4)

瀬川先生がいわれていたことを、
David 50、CX100について書いているとどうしても思い出してしまう。

音楽を聴くとき、常に左右のスピーカーから等距離のところ、
つまりセンターで聴いているわけではない、と。
身構えずに音楽を楽しみたいとき、音と対峙するような聴き方をしたくないときは、
オフセンターで聴くこともけっこうある、と。

オーディオで音楽を聴くときは、いつかなるときでも、スピーカー(音)と対峙して聴く──、
そういう人もいるかもしれないが、
音楽に身をまかせるような聴き方もあっていいし、
そういう聴き方をすることはある。

だからといって、何かをしながら音楽を聴くようなことをしているのではない。

ステレオサウンドベ雜「コンポーネントステレオの世界 ’79」でも、書かれている。
     *
 言いかえればそれは、ことさらに身構えずに音楽が楽しめそうだ、という感じである。ミニアンプ(を含む超小型システム)は、誰の目にも、おそらくそう映る。実際に鳴ってくる音は、そうした予感よりもはるかに立派ではあるけれど、しかしすでに大型の音質本位のアンプを聴いているマニアには、視覚的なイメージを別として音だけ聴いてもやはり、これは構えて聴く音ではないことがわかる。そして、どんな凝り性のオーディオ(またはレコード)の愛好家でも、身構えないで何となく身をまかせる音楽や、そういう鳴り方あるいはそういうたたずまいをみせる装置を、心の片隅では求めている。ミニアンプは、オーディオやレコードに入れあげた人間の、そういう部分に訴えかけてくる魅力を持っている。
     *
身構えずに好きな音楽を聴きたい、そう思って聴きはじめる。
聴きはじめのときは、耳の位置は臍より後にある。
けれど聴いているうちに、臍より前にあることだってある。

そういう時、かけているディスクを、
メインのスピーカーを置いている部屋(もしくはシステム)に持っていくのか。

少なくともヴィソニックのDavid 50、B&OのCX100ならば、
耳が臍よりも前にきたとしても、そのまま聴き続けられるだけの良さを持っている。
ここが、単なるサブスピーカー、ミニスピーカーの領域に留まらない

いつのまにか音楽に聴き入ってしまっている自分に気づくこともある。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その3)

B&Oのスピーカーシステムは、それまでにわずかとはいえ聴いたことがある。
Beovox MS150などを、ステレオサウンド試聴室で聴いている。
惚れ込むまではいかなかった。

B&Oはデンマークのメーカー。
でもそのスピーカーの音に、北欧的なものを感じることはできなかった。
同じトランスデューサーでもカートリッジのMMCシリーズの方が、
なるほどB&Oは北欧のメーカーなんだ、ということを認識させてくれていた。

MMCシリーズの音を、無意識にBeovoxシリーズにも期待していたのだろう。
勝手な期待とは違う音が出てきただけのこと、ともいえよう。

そんなことがあったからCX100から、MMCシリーズに通ずる音が鳴ってきたのには、嬉しくなった。
10cm口径のコーン型ウーファーを上下に配し、中間にドーム型トゥイーターをはさむという、
いわゆる仮想同軸配置をとる、このスピーカーのエンクロージュアもまたアルミ製である。

ヴィソニックのDavid 50もアルミ製のエンクロージュアで、10cm口径のウーファー。
しかもエンクロージュアの横幅は、ユニット幅ぎりぎりにおさめられている。

LS3/5Aも10cm口径ウーファーだが、エンクロージュアの横幅は19cm、
CX100は11cmと、David 50も10.7cmとここにも共通するところがある。

それにCX100もDavid 50も、さまざまな使い方に対応できるようブラケットも用意されていた。
壁にかけることもできた。机の上に置くのもいい。

専用スタンド上に置いて、
スピーカー壁から十分に離したセッティングを要求するスピーカーとは、ここが違う。

しかも高価なアンプも要求することもない。
もちろんアンプのグレードを高めていけば、それに対応していくが、
それこそBOSEが101MM用に発売した1701で、魅力的な音が損なわれてしまうことはない。

細やかでいながら、芯のしっかりした音は、David 50と共通するところであろう。

瀬川先生が「続コンポーネントステレオのすすめ」で書かれたことをもう一度引用しておく。
     *
たとえば書斎の片すみ、机の端や本棚のひと隅に、またダイニングルームや寝室に、あまり場所をとらずに置けるような、できるだけ小さなスピーカーが欲しい。しかし小型だからといって妥協せずにほどほどに良い音で聴きたい……。そんな欲求は、音楽の好きな人なら誰でも持っている。
     *
CX100は、まさにぴったりといえたし、そのクォリティは、ほどほどに、というレベルを超えていた。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その2)

ヴィソニックの小型スピーカーというよりも、
ミニスピーカーといった方がぴったりくるサイズのモデルは、
David 30、David 50、David 60、David 80、David 100があった。
ウーファー口径は30と50が10cm、60は13cm、80は17cm、100は20cm。
トゥイーター口径は30と50が1.9cm、60が2.5cm、80と100が3.7cm(スコーカー)と1.9cmで、ドーム型。

エンクロージュアはアルミ製だったはずだ(残念なことに現物を見たことがない)。
ネットもアルミ製だった。

Davidシリーズは30が302に、50が502、60が602、80が803に型番が変更になった。
まずオーバーロードインジケーターが付いた。
おそらくいい音がするものだから、
ついパワーをいれすぎてユニットを飛ばす人が少なかったのだろう。

David 50が502になり、トゥイーターがカタログ上では2.0cmになっている。
クロスオーバー周波数は1.8kHzから1.4kHzに下がっている。

David 50は1976年、David 502は1978年、
1979年にはDavid 5000になり、エンクロージュアの形状も変更になっている。
トゥイーターは2.5cmになり、クロスオーバー周波数は2.5kHzになっている。

このころにはDavidシリーズの他に、Expulsシリーズ(フロアー型)も展開するようになった。

David 50の系譜は聴いてみたかった。
けれど私がステレオサウンドで働くようになったころはまだ現行製品だったが、
セレッションのSL6が登場し、小型スピーカーが大きく変ろうとしていた時期と重なったためか、
どのモデルも聴く機会はなかった。

ステレオサウンド編集部にいると、次から次と新製品に触れる機会がある。
そうこうしているうちにDavid 50のことはすっかり忘れていた。

思い出させてくれたのは、B&OのCX100の登場だった。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その1)

1970年代後半、ミニスピーカーのちょっとしたブームがあった。
アメリカのADC、西ドイツのブラウン、ヴィソニックなどが積極的に製品を出していた。

瀬川先生はヴィソニックのDavid 50を高く評価されていた。
ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」で、こんなふうに書かれている。
     *
 たとえば書斎の片すみ、机の端や本棚のひと隅に、またダイニングルームや寝室に、あまり場所をとらずに置けるような、できるだけ小さなスピーカーが欲しい。しかし小型だからといって妥協せずにほどほどに良い音で聴きたい……。そんな欲求は、音楽の好きな人なら誰でも持っている。
 スピーカーをおそろしく小さく作った、という実績ではテクニクスのSB30(約18×10×13cm)が最も早い。けれど、音質や耐入力まで含めて、かなり音質にうるさい人をも納得させたのは、西独ヴィソニック社の〝ダヴィッド50〟の出現だった。その後、型番が502と改められ細部が改良され、また最近では5000になって外観も変ったが、約W17×H11×D10センチという小さな外寸からは想像していたよりも、はるかに堂々としてバランスの良い音が鳴り出すのを実際に耳にしたら、誰だってびっくりする。24畳あまりの広いリスニングルームに大型のスピーカーを置いて楽しんでいる私の友人は、その上にダヴィッド50(502)を置いて、知らん顔でこのチビのほうを鳴らして聴かせる。たいていの人が、しばらくのあいだそのことに気がつかないくらいの音がする。
     *
「私の友人」と書かれている。
実際に友人で、そういう人がいたのだろう。
でも、瀬川先生自身もまったく同じことをやられていた、とつい先日ある方から聞いた。

世田谷に建てられたリスニングルームに移られる前のこと。
瀬川先生のリスニングルームをうかがったら、何も言わずに音を聴かせてくれた。
4343とは思えぬ、いい感じで弦の音が鳴ってきた。
帰り際に、種明かしをしてくれたそうだ。

実は鳴っていたのは4343の上に置いているヴィソニックだった、と。
この話をしてくれた人も、ヴィソニックを買ってしまった、とのこと。

ヴィソニック(Visonik)は、2000年代までは小型スピーカー(Davidシリーズ)を出していたが、
いまはヴィソニックというブランドでは作っていないようだ。

www.visonik.deとURLをブラウザーに直接入力してみると、
AUDIUMというスピーカーメーカーのサイトに行くようなっている。
Davidシリーズは、既にない。

Date: 8月 21st, 2016
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その1)

ステレオサウンド 56号、
瀬川先生はロジャースのPM510のところで、書かれている。
     *
 JBLが、どこまでも再生音の限界をきわめてゆく音とすれば、その一方に、ひとつの限定された枠の中で、美しい響きを追求してゆく、こういう音があっていい。組合せをあれこれと変えてゆくうちに、結局、EMT927、レヴィンソンLNP2L、スチューダーA68、それにPM510という形になって(ほんとうはここでルボックスA740をぜひとも比較したいところだが)、一応のまとまりをみせた。とくにチェロの音色の何という快さ。胴の豊かな響きと倍音のたっぷりした艶やかさに、久々に、バッハの「無伴奏」を、ぼんやり聴きふけってしまった。
     *
ここでのバッハの無伴奏チェロ組曲については、
誰の演奏なのか、それすら書かれていない。

ステレオサウンド 58号。
EMT・927Dstとトーレンスのリファレンスの比較試聴で、書かれている。
     *
 しかし、PM510にしたときに、明らかに印象に残るのは、やはり弦楽器の音の美しさだ。ことにこのスピーカーは、チェロの音がいい。わけても、チェロ特有の豊かで温かい低音に支えられてあくまでも艶っぽく唱う倍音の色あい。「リファレンス」では、その倍音の透明感、ひろがり、漂い、消えてゆく余韻のデリカシーに、思わず聴き惚れるような雰囲気の良さがある。しかし反面、チェロという楽器がまさしく眼の前で演奏されているかのような実在感、あの大きな木の胴体が朗々と響くところから得られる中低音域のふくよかさ。あたたかさ。その部分にこそ、927Dstの素晴らしさが如才なく発揮される。
 そのことから、ヴァイオリンは「リファレンス」、チェロは927……などと思わず口走りたくなるような気さえする。
     *
ここにもチェロが出てくる。
この記事では試聴機材について表記があるが、
試聴レコードについては一切ない。

ここでのチェロも、バッハの無伴奏なのだろうか。
そうだとも思える。

だとしたら、瀬川先生はPM510でぼんやり聴きふけってしまった、というバッハは、
いったい誰の演奏だったのかが、気になってくる。

59号は1979年に出ている。
なのである程度限られてくる。

カザルス、フルニエ、シュタルケル、ナヴァラといったところ。
瀬川先生が、これらすべてをもっておられたとして、
どの演奏を聴かれたのだろうか。

カザルスではないように思える。
シュタルケルも、PM510の音の性格からすると、少し違う気もする。
なるとフルニエかナヴァラか。

フルニエかな、と思う……、
けれどナヴァラかもしれない、という気持もかなり強い。

誰の無伴奏チェロ組曲に、ぼんやり聴きふけられたのだろうか。

Date: 8月 18th, 2016
Cate: 五味康祐

続・無題(雑器の美)

五味先生の「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」と柳宗悦氏の「雑器の美」。
どちらも読んでほしい、と思う。

「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」を読んでいる人は、一度「雜器の美」を読んで、
もういちど「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」を読んでほしい。

そう思った理由は書かない。
「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」と「雜器の美」を読めば、わかってもらえると思うからだ。

Date: 8月 15th, 2016
Cate: 五味康祐

近頃思うこと(続・五味康祐氏のこと)

自分の一生の終わりを初めと結びつけることのできる人は最も幸福である。
(ゲーテ格言集より)

これだけだから、ゲーテのいうところの一生の初めが、どこなのか定かではないが、
五味先生の
《人間の行為は──その死にざまは、当人一代をどう生きたかではなく、父母、さらには祖父母あたりにさかのぼってはじめて、理由の明らめられるものではあるまいか。それが歴史というものではないか、そんなふうに近頃思えてならない》
と、ゲーテも同じに捉えていたようにも思えてくる。

そうおもえてくるだけなのだが……

Date: 8月 8th, 2016
Cate: 五味康祐

近頃思うこと(五味康祐氏のこと)

五味先生の書かれたものを、いくつか読み進めていくうちに感じていたのは、その洞察力の凄さだった。

もちろん文章のうまさ、潔癖さは見事だし、多くのひとがそう感じておられることだろうし、
そのことで隠れがちなのだろうが、歳を重ねて、何度も読み返すごとに、
その凄さは犇々と感じられるようになってきた。

「天の聲」に収められている「三島由紀夫の死」を、ぜひお読みいただきたい。
わかっていただけると思っている。

マネなどできようもない、この洞察力の鋭さが、オーディオに関しても、
こういう書き方、こういう切り口があったのか、という驚きと同時に、
オーディオについて多少なりとも、なにがしか書いている者に、
絶望に近い気持ちすら抱かせるくらいの内容の深さに結びついている。

七年前、別項「五味康祐氏のこと」の(その5)で書いたことを再掲した。
五味先生の洞察力の凄さはに関しては、いまもそう感じている
その五味先生がこんなことを書かれている。
     *
人間の行為は──その死にざまは、当人一代をどう生きたかではなく、父母、さらには祖父母あたりにさかのぼってはじめて、理由の明らめられるものではあるまいか。それが歴史というものではないか、そんなふうに近頃思えてならない。
(「妓夫の娘」──或るホステスの自殺 より)
     *
近頃、この一節を何度も頭のなかでくり返している。

Date: 8月 2nd, 2016
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その15)

グッドマンAXIOM 80からJBLへ。
岩崎先生も瀬川先生も、この途をたどられている。

岩崎先生はAXIOM 80からD130へ、
瀬川先生は175DLHへ。

そう思っていた。
瀬川先生がD130を鳴らされていたことを想像できなかったことが、
そう思わせた、ともいえる。

けれど瀬川先生もD130を鳴らされていた時期があった。
その話を、元サンスイのNさんから聞いたのは何年前になるだろうか。

とても意外な気がした。あまりにも意外だったので「ほんとうですか?」といってしまった。
冷静になって瀬川先生が書かれたものをふりかえってみれば、
D130を鳴らされていても不思議ではないことにも気づく。

たとえばステレオサウンド 9号ではこう書かれている。
     *
 LE15Aに変えたとき、それまで間に合わせに使っていた国産15インチにくらべて、大口径とは思えないそのあまりにも軽やかな中音域にすっかり感心したものだったが、そこがマニアの業の悲しさ、すでに製造中止になった150−4型ウーファーの方が、375ともっとよく音色が合うのではないかと、つい思いはじめる。しかも150−4を最もよく生かすエンクロージュアは、これも製造中止になった〝ハーツフィールド〟のはずだ……。
     *
瀬川先生のハーツフィールドへの憧れは、
ハーツフィールドの当て字のペンネーム、芳津翻人(よしづはると)を使われていたことでもわかる。
ステレオサウンド 9号には、こんなことも続けて書かれている。
     *
何年かかるか知らないが、なんとか手段を労して、いつかわがものにしてみたいと企んでいるが、はたせるかどうか。現用の箱をいま無理してオリムパスあたりに代えてしまうと、〝ハーツフィールド〟入手の努力も鈍るだろうから、その意味では、今の箱でもうしはらく我慢している方がいい。ものは考えようというわけだ。
     *
結局、ハーツフィールドは瀬川先生にとって求める音でないことを悟られる。
とはいえ、ここまでハーツフィールドに憧れていた人で、
150-4についても上記のように書かれているのだから、D130に関心を持たないわけがない。
そのことに気づく。

Date: 7月 26th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ステレオサウンド 61号・その5)

あと一ヵ月とちょっとでステレオサウンド 200号が出る。
瀬川先生が登場しているのは60号までである。
1/3にも満たない。

いまのステレオサウンドの中心読者層にとって、
瀬川先生はどうでもいい存在であっても不思議ではない。
ということはステレオサウンド編集部もそうであっても不思議ではないし、
いまの誌面をみるかぎり、そうであろうと思う。

しつこいぐらいに書くが、
瀬川冬樹について誰よりも解っていなければならないのは、
ステレオサウンドの編集に関わっている人たちだ。
編集部であり、筆者である。
だから解るべきであり、解るために瀬川冬樹賞が必要だと考えるわけだ。
本来ならば解らせる立場にいるべき人たちなのに……だ。

ステレオサウンド編集部、筆者のために瀬川冬樹賞は必要になっている。
もちろん名ばかりの瀬川冬樹賞ではあっては、そうはならないことは自明だ。

編集部も筆者も新陳代謝していくと書いた。
だから、何年後か、何十年後かに編集部、筆者が瀬川冬樹賞の必要性に気づく日がくるかもしれない。
その日を俟っていたら……、とどうしても思う。

それに創刊50周年の今年こそ、瀬川冬樹賞をはじめるあたって絶好の年ではないか。

Date: 7月 25th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ステレオサウンド 61号・その4)

昨夏、瀬川冬樹賞があるべきではないか、と書いた。
ステレオサウンドに、これだけは期待したい。

創刊50周年を迎えるということは、つぎの50年のために……を考えることでもある。
だからこそ瀬川冬樹賞を本気で考えてほしい。

ステレオサウンドがオーディオ評論を真剣に考えているのであれば、
瀬川冬樹賞がどうあるべきかもわかるはずである。

昨夏までは、そう考えていた。
いまは少し違ってきた。

この項の(その1)にも書いた。
菅野先生の書かれたものをもう一度じっくり読み返してほしい。

《彼の死のあまりの孤独さと、どうしょうもない世間馬鹿のこの才能豊かな一人の人間の生き様は、多くの人達には解るまい。もし解っていたら、世の中、もっとよくなっているはずだ。》

瀬川冬樹という《どうしょうもない世間馬鹿のこの才能豊かな一人の人間の生き様》を解るためにも、
瀬川冬樹賞は必要だと考えるようになった。

瀬川冬樹賞によって、瀬川先生を解っていくことが、オーディオ界をよくしていくことのはずだからだ。

いまのステレオサウンドにそれを期待するのは無理だろう、と思う人の方が多いはず。
私もその一人だが、そう思っているからこそ、瀬川冬樹賞をやるべきだと考えている。

Date: 7月 25th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ステレオサウンド 61号・その3)

ステレオサウンドの論文募集には、ほぼ間違いなく新しい筆者を探す意図があったと見ていい。
菅野先生によるベストオーディオファイル訪問にも、そういう意図はあった。
事実、ベストオーディオファイル訪問に登場した人の何人かは、
筆者としてステレオサウンドの誌面に登場している。

おそらくどのオーディオ雑誌の訪問記事も、新しい筆者探しの意図があるとみていい。
書き手としての寿命より、雑誌の寿命が長いことがある。
ステレオサウンドもそうである。

9月に発売になる号で200号。創刊50周年。
創刊号をもっている人は、めくってみてほしい。
いまステレオサウンドに書いている人で、創刊号に書いていた人はいない。

筆者も編集者も、そして読者も新陳代謝していくのだから。

ならばなぜステレオサウンドは、59号以降、読者の論文募集をやらなくなったのか。
応募がほとんどない、というのが現実的な理由であろうが、
それだけが理由だろうか……、といまは思っている。

これは私が勝手にそう思っているだけで、確たる根拠はなにもない。
それでもそう思えることがある。

論文募集に積極的であったのは瀬川先生だったのでは……、ということだ。
ステレオサウンド 61号から瀬川先生は不在になった。
同時に論文募集も終ってしまった。

Date: 7月 23rd, 2016
Cate: 五味康祐

続・無題(その7)

迷走していくかもしれないとわかっていても、
パブロ・カザルスのことが頭に浮んでくるし、追い払えないでいる。

ここでのカザルスの演奏とは、チェリストとしての演奏ではなく、
指揮者としてのカザルスの演奏のことである。

ベートーヴェン、シューベルト、ハイドン、バッハ、モーツァルトなどの録音が、
CBSに残されている。
いずれもライヴ録音である。

ベートーヴェンの交響曲第七番で、指揮者カザルスを知った。
驚いた。
フルトヴェングラーの演奏はすでに聴いていた。
カルロス・クライバー、カラヤン(ベルリンフィルハーモニーとフィルハーモニー)、
その他にも聴いていた。
そのころ、ベートーヴェンの交響曲の中で、頻繁に聴いていたのが七番だっただけに、
よく聴いていた方だと思う。

そこにカザルス/マールボロ音楽祭管弦楽団の七番だった。
こういう演奏が聴けるとは思っていなかったという驚きだけでなく、
その演奏の凄さに心底驚いていた。

A面、B面を聴いたあと、もう一度レコードを裏返してA面に針を降ろしていた。
こういう聴き方は、あまりすすめられたものではないことはわかっていても、
そうせざるをえなかった──、そんな衝動があってのものだった。

立て続けの二回目であっても、いささかも感動は損なわれたり、薄くなったりはしなかった。
むしろ驚きは増していた。

そこで聴いたのはCBSソニーから出ていた国内盤のLPだった。
解説は宇野功芳氏だった。

こんなことが書かれていたと記憶している。
カザルスは作曲家によってスタイルを変えることはない。
そのためバッハではカザルスの演奏スタイルは行き過ぎのように感じられることもあるし、
ベートーヴェンではもの足りなさにつながる。
バッハとベートーヴェンの中間にいるモーツァルトには、
カザルスの変らぬスタイルがぴったりくる、と。

その時点ではベートーヴェンの第七番しか聴いていないのだから、
書かれてあったことに賛同はすることはできなかったものの、
カザルス指揮のモーツァルトは聴かねば……、と思っていた。

そのカザルスのモーツァルトの交響曲が、頭から離れないのだ。

Date: 7月 21st, 2016
Cate: 五味康祐

続・無題(その6)

こうやって書いている今も迷っていることがある。
フリードリヒ・グルダのモーツァルトのピアノソナタを、
グレン・グールドのモーツァルトと同じように《幼児の無心さ》といっていいのだろうかと。

五味先生は書かれている。
《凡百のピアニストのモーツァルトが如何にきたなくきこえることか》と。
グルダのモーツァルトは、そんなふうには決してひびかない。
凡百のピアニストとははっきりと違う。

the GULDA MOZART tapes のI集とII集に聴き惚れていながらも、
迷っているのが正直なところだ。

グールドもグルダも幼児の無心さをひびかせてくれている、としたら、
どうして、ふたりのモーツァルトはこうも違うのか。

ここでまた五味先生の書かれたものに戻っていく──
     *
 よく私は、レコードをききながら小説の構想を練るといわれるが、これは嘘だ。文学は音楽に影響されるものではない。逆もそうだろう。ただ、作家として世に出る機縁となった芥川賞受賞作『喪神』の結構を、ドビュッシーの〝西風の見たもの〟からヒントを得てまとめたのは事実なので、そのことにふれておきたい。
『喪神』のモチーフになったのは、西田幾太郎氏の哲学用語を借りれば、純粋経験ということになるだろうか。ピアニストが楽譜を見た瞬間にキイを叩く、この間の速度というのは非常に早いはずである。習練すればするほどこの速度は増してゆき、ついには楽譜を見るのとキイを叩くのが同時になってしまう。経験が積み重なってゆくと、こういう状態になる。それを純粋経験という。
 ルビンスティンもグールドも純粋経験でピアノを叩いている。それでいて、あんなに演奏がちがうのはなぜか。そこに前々から疑問を抱いていた。純粋経験というのは、意志が働く以前のところで処理されているはずなのに、と。そのときふと思ったのは、これは戦場で考えつづけていたことだが、人を斬ったらどういう感じがするだろうか、ということだった。
(「オーディオと人生」より)
     *
ここでの「純粋経験」が、幼児の無心さということなのか。
グールドにとっても、グルダにとってもモーツァルトのピアノソナタは暗譜していても不思議ではない。
テクニックとしても負担のある曲ではないはず。
そういうモーツァルトのピアノソナタだから、グールドとグルダの違いは、
演奏の違いとして(音楽の違いとして)、これほどはっきりと表出してくるのか。

幼児の無心さとは、意志が働く以前のところで処理されているはずのものなのか。

これで納得しようと思えば納得できるけれど、
感情の自由ということが、ひっかかっているのに気づく。