Archive for category 欲する

Date: 11月 20th, 2014
Cate: 欲する

何を欲しているのか(兵士の物語)

ストラヴィンスキーの作品に「兵士の物語」があり、
ジャン・コクトーの語り、マルケヴィチ指揮によるフィリップス盤は録音の良さでも知られていた。
私が買ったのは再発盤。21ぐらいのときに買っている。

そのころは短かったけれど、頻繁に聴いていた時期でもあった。
コクトーの声が生々しかったのも、理由のひとつだった。

コクトーが最後の方で語る。

いま持っているものに、昔持っていたものを足し合わそうとしてはいけない。
今の自分と昔の自分、両方もつ権利はないのだ。
すべて持つことはできない。
禁じられている。
選ぶことを学べ。
一つ幸せなことがあればぜんぶ幸せ。
二つの幸せは無かったのと同じ。

このセリフだけがコクトーの声とともに印象に残っている。

幸せはひとつだから幸せなのかもしれない。
ふたつ以上の幸せを求めようとするから、幸せになれないのかもしれない。
そうなんだろうなぁ……、と思いながらも、実感はなかった。

いまも正直なところ、よくわからない、というか、実感していないような気がする。

でもほんとうに大切なレコードは一枚あればいいのかもしれない、とは最近思うようになってきている。
愛聴盤といってしまうレコード(LP、CD)は、決して一枚だけではない。
かなり厳選したとしてもそこそこの数にはなる。

その中に、一枚の大切な愛聴盤はすでにある。
私だけの話ではなく、ながくレコード(オーディオ)によって音楽を聴いてきた人ならば、
かならず、そういう一枚はある。

その存在にいつ気づくか、である。

Date: 7月 20th, 2012
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その22)

グレン・グールドのピアノしか聴かない人がいる、という話は、
黒田先生の著書「音楽への礼状」のグールドの章のところに出てくる。

この、グールドについて書かれた章で、黒田先生は”A Glenn Gould Fantasy”について、ふれられている。
     *
戯れということになると、ぼくは、どうしても、『ザ・グレン・グールド・シルバー・ジュビリー・アルバム』の二枚目におさめられていた、あの「グレン・グールド・ファンタジー」のことを考えてしまいます。あの奇妙奇天烈(失礼!)なひとり芝居を録音しているときのあなたは、きっと、バッハの大作「ゴルドベルク変奏曲」をレコーディングしたときと同じように、真剣であったし、同時に、楽しんでおいでだったのではなかったでしょうか。もしかすると、あなたは、さまざまな人物を声で演じわけようと、声色をつかうことによって、子供っぽく、むきになっていたのかもしれません。
「グレン・グールド・ファンタジー」は、悪戯っ子グレンならではの作品です。ほんものの悪戯っ子は、「グレン・グールド・ファンタジー」のために変装して写真をとったときのあなたのように、真剣に戯れることができ、おまけに、自分で自分を茶化すことさえやってのけます。あなたには、遊ぶときの真剣さでピアノをひき、ピアノをひくときの戯れ心でひとり芝居を録音する余裕があった、と思います。そこがグレン・グールドならではのところといえるでしょうし、グールドさん、ぼくがあなたを好きなのも、あなたにそうそうところがあるからです。
     *
グレン・グールドのピアノしか聴かない人は、”A Glenn Gould Fantasy”は聴かない。
そうだとしたら、グールドしか聴かないグールドの聴き手には、真剣に戯れる余裕がないのかもしれない。

グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
そう口にした人は、なぜわざわざ、こんなことをいってしまうのか。

グレン・グールドのピアノしか聴かない、ということで、
なにかをアピールしたいのだろうが、そのアピールしたいことは、
別の、グレン・グールドのピアノしか聴かない人にとって、
アピールしたいことはそのまま伝わり同意を得られるだろうが、
“A Glenn Gould Fantasy”を聴いて楽しみ、グルダのピアノも聴き、もちろんそれだけではない、
他のピアニストの演奏も聴いてきている人にとっては、
「グレン・グールドのピアノしか聴かない」によって、このことばを発した本人がアピールしたいことには、
同意はできないし、窮屈なものを感じてしまうのではないだろうか。

グレン・グールドのピアノしか聴かないことの窮屈さから、
「感情の自由」は追い出してしまうし、押し殺してしまうことにもなるのではないか。
そうやって、本人だけが気づかぬうちに、音楽の聴き手としての「感情の自由」をなくしてしまう。

Date: 10月 24th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その21)

グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
こんなことを口にする音楽の聴き手がいるのは、日本だけなのだろうか。

グレン・グールドは、コンサートをドロップアウトしている。
だから、いうまでもないことだけど、
グールドの音楽の聴き手は、グールドのレコード(録音)の聴き手である。

グールドは19801年に、録音25周年を記念して “The Glenn Gould Silver Jubilee” を出している。
この2枚組のアルバムは、日本では1枚ものとして発売されている。
なにも2枚分の録音を1枚にまとめた、というわけではなく、
2枚目をまるごとないことにしての発売であった。

“The Glenn Gould Silver Jubilee” の2枚目におさめられていたのは “A Glenn Gould Fantasy” だった。
1980年当時、日本では発売されなかった、
つまりCBSソニーの人たちが、オリジナル通りの2枚組で出すよりも、
なかったことのようにして1枚の音楽のLPとして出した方が売れるはず、
という判断したであろう “A Glenn Gould Fantasy” はグールドによる、
いわゆるひとり芝居(セルフ・インタヴューでもある)をおさめたものである。

セルフ・インタヴューといっても、”A Glenn Gould Fantasy” は奇妙奇天烈な作品といってもいいだろう。
ピアノをひくグールドからはなかなか想像できないグールドがそこにはいて、
でもピアノをひくグールドも、”A Glenn Gould Fantasy” でひとり芝居をやっているグールドも、
同じひとりのグレン・グールドであり、たったひとりのグレン・グールドである。

グレン・グールドのピアノしか聴かない人は、”A Glenn Gould Fantasy” も聴かないことだろう。

Date: 10月 24th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その20)

グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
そんな音楽の聴き手が実際に、この日本にいるということを、
これも黒田先生が書かれていたことだと記憶しているが、いまから10年以上前に読んだ記憶がある。
また、ある人は、日本でグールド協会をつくったとしたら協会が教会になってしまう、といっていた。
これも10数年以上前のことだった。

グレン・グールドのピアノしか聴かない。
これを口にした人は、きっと誇らしげにいったのだろうと想像がつく。
グールドのピアノは、そしてグールドの存在そのものが知的好奇心を多いに刺戟することはたしかだ。
だからといってグールドのピアノしか聴かない、とそんなことを一度でもことばにしてしまうのは、どうかと思う。
もうそれだけでグールドの音楽から遠ざかってしまうことになってしまうかもしれない。

私もひところグールドを熱心に聴いていた時期があった。
そのころはグールドのレコードを聴いていた時間が、
ほかの、どの演奏家のレコードを聴いている時間よりも長かった。
それでもグールドだけを聴いていたわけではないし、
傍からみればグールドしか聴いていないように見えたとしても、
グールドのピアノしか聴かない、とはいわなかった。

グレン・グールドのピアノしか聴かない、
熱心なグールドの聴き手にそういわせてしまうようなところが、
グールドの演奏にも、グールド自身にもある。

いってしまうご本人は、かっこいいことを口にした、と誇らしげなんだろうが、
グレン・グールドのピアノしか聴かない、というフレーズには、
口にした本人の音楽の聴き方の窮屈さのようなものを嗅ぎ取れるところがある。

それにグールドは、グールドしか聴かない聴き手を望んではいなかったはず。

Date: 10月 22nd, 2011
Cate: 快感か幸福か, 欲する

何を欲しているのか(快感か幸福か)

10代から20代にかけて、いっぱしの音楽の聴き手ぶっていたところで、
まだまだ若造に過ぎなかった音楽の聴き手であったことは、
この項の(その18)にも書いた。

けれど、この音楽の聴き手として未熟な時期に出会ったレコード(音楽)は、
だからこそ重要な意味を、大切な存在になってくるように思う。

黒田先生が「ぼくのディスク日記」にチャールス・ミンガスの「直立猿人」のことを書かれている。
ステレオサウンド 85号に掲載されている。
「音楽への礼状」においても、チャールス・ミンガスのことを書かれている。

チャールス・ミンガスの「直立猿人」を、黒田先生は「もっとも大切なレコードのひとつである」と書かれ、
「ことあるごとに、ぼくはこのレコードをききつづけてきた」とも。
黒田先生は「対象のさだかでない怒りの処置にてこずったとき」に、
いつでもチャールス・ミンガスの音楽をきいて、
「ぼくの怒りは、象の尻にたかる虻(あぶ)ほどもない、ごくちっぽけな、けちなものにしかすぎない」
と思えてきた、とも書かれている。

黒田先生にとって「直立猿人」は、
「物心ついてから後のぼくの人生を、このレコードに伴奏してもらったようにさえ感じている」存在である。

物心ついてから後の人生を伴奏してくれるレコードとは、
若く、音楽の聴き手としては未熟なときに出会うものである。

歳を重ね、音楽の聴き手として未熟なところを少しずつへらしていった後で出会える名盤と、
そこのところで違う。
どちらの名盤も、大切な愛聴盤ということでは同じであっても、
物心ついてから後の人生を伴奏してくれたレコードと、あとから出会ったレコードは、決して同じではない。

私にも、一枚、物心ついてから後の私の人生を、伴奏してもらったように感じているレコードがある。
未熟な音楽の聴き手のころに出会ったレコードだ。
いまも大切なレコードであり、この一枚と出会えたことこそが幸福であった、ともいえる。

Date: 10月 21st, 2011
Cate: 欲する, 黒田恭一

何を欲しているのか(その19)

ステレオサウンド 85号の、「ぼくのディスク日記」のなかで、
黒田先生はグルダの3組のディスクについて書かれている、そのなかにこうある。
     *
グルダのディスクをきく喜びは、きいていて、非常にしばしば、ああ、グルダ! と思える瞬間があることである。演奏がうまいとか、そういうたぐいのことではない。自作をひいた場合のみならず、大作曲家のすでにさまざまなピアニストの演奏できいている作品をひいた場合でも、ぼくはグルダの素顔というか、独白というか、つまりグルダそのものにふれたように感じ、どきりとすることがある。そのような思いをさせてくれる音楽家は、すくなくともぼくにとっては、グルダだけである。
     *
黒田先生がこの文章を書かれた1987年の私は、黒田先生のようにはグルダを聴くことができなかった。
グルダによって演奏された音楽を聴いて、「ああ、グルダ!」と思えたことはあった。
でも、それは、たとえばグールドによって演奏された音楽を聴いて、「あ、グールド!」と思えたのと、
そう変らなかった。

黒田先生の「ああ、グルダ!」と私の「ああ、グルダ!」とのあいだには、開きがあった。
いまも、黒田先生の「ああ、グルダ!」と同じに聴けている、という確証はどこにもない。
それでも30代後半あたりから、「ああ、グルダ!」と思える瞬間がはっきりと増えてきた。
いま40代後半になって、「ああ、グルダ!」と思えたとき、口元がほころぶときもある。
黒田先生が「そのような思いをさせてくれる音楽家は、すくなくともぼくにとっては、グルダだけである。」、
そう書かれた心境がわかるようになってきた、ということか。

あれだけ多くの音楽を聴いてこられた黒田先生が、「グルダだけである」と書かれたことに、
「ほんとうにそうですね!」と返したい気持が、
いまの私にはあるし、これから先もっと強くなっていくようにも思う。

黒田先生はマガジンハウスから出された「音楽への礼状」では、こうも書かれている。
     *
音楽は、徹底的に抽象的ですから、非常にしばしば、未消化の四角いことばに凌辱されがちです。この日本でも例外ではありません。音楽をきくというおこないに求められる謙虚さを忘れたあげく、ことばを玩ぶだけにとどまった音楽談義がさかんです。
     *
これは、フリードリヒ・グルダへの礼状として書かれたものだ。

Date: 10月 20th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その18)

「感情の自由」について考えようとしたときに、まっさきに頭に浮んできた演奏家がいる。
演奏家とよぶよりも音楽家とよんだほうが、彼の熱心な聴き手であればしっくりくるであるはずのピアニストがいる。

フリードリヒ・グルダ。
1930年生まれのピアニスト、グルダの名前を知ったのと、
1932年生まれのピアニスト、グールドの名前を知ったのは、ほぼ同じころだった。
グルダにしてもグールドにしても、彼らのレコードを実際に聴くよりも前に、
何かの雑誌で読み、正統派ピアニストとは呼べないところにいる、
それでいて素晴らしいピアニストだということを、まず文字の上で知った。

グルダ(Gulda)とグールド(Gould)、どちらもGで始まり、カタカナ表記も似てる、ともいえる。
グールドは風変わりな、グルダは妙なことをするピアニスト、という印象も受けていた。

そのせいもあってか、グルダのレコードよりもグールドのレコードを先に聴いたし、
10代から20代にかけてはグールドの熱心な聴き手ではあったけれど、
グルダのレコードに関しては実のところほんの数えるほどしかもっていなかった。

白状すれば、いっぱしの音楽の聴き手ぶっていたところで、
まだまだ若造にしか過ぎなかった音楽の聴き手だった私は、
グールドのかっこよさに惹かれていたところもあった。

グールドの風変わりな行動はかっこよく映ったのに、
グルダに関しては、妙なことをときどきするピアニスト、という印象が拭えなかった。

それでもグルダのレコードは、ときどき買っては聴いてきたのは、黒田先生の文章があったからだ。
黒田先生のグルダについての文章がなかったら、グルダのレコードへの関心はないに等しかったかもしれない。

Date: 10月 16th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その17)

ホロヴィッツのいう、「感情に自由を与えなさい」とは、いったいどういうことなのか。

いうまでもないことだが、自由と好き勝手は、まったく違う。
ホロヴィッツ本人が、正確にどういっているのかははっきりしないが、
ホロヴィッツのいう「自由」とは、もちろん「好き勝手」ではないと言い切っていいだろう。

われわれはオーディオという器械・システムを介して音楽を聴いているわけだが、
ホールに足をはこび演奏を聴く行為とのあいだに、感情の自由において違いはあるのだろうか。
まったく同じとは、私には思えない。

この違いについて考えていくことが、
オーディオを介して音楽を聴く行為の楽しさを問う行為でもある、といま思っている。

「音は人なり」の言葉があらわしているように、
たとえ同じシステム、同じような環境で聴いていたとしても、
100人の聴き手(つまりオーディオの使い手)がいれば、ひとつとして同じ音はありえない。
100通りの音が存在している。
この100人が同じ演奏家の同じレコードを名盤として愛聴していたとしても、
それでもやはり100通りの音楽が、そこでは鳴っている。

そして、実際には同じシステム、同じ環境ということはまずありえない。
つまり100通りの環境、100通りのオーディオの在り方、ということになる。
オーディオの楽しみ方も接し方も、人によってさまざまのはず。

もちろん大きく分ければいくつかのパターン分けみたいなことはできるのかもしれないが、
それはあくまでも共通するところで括っているだけのことであり、
まったく同じ楽しみ方・接し方をしている人はいないのが、オーディオのはずだ。

Date: 10月 14th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(iPhoneのこと)

最初に使った携帯電話は、auの前身のIDOのときに発売されたモトローラのStar Tacだった。
当時、世界最小・世界最軽量を謳っていた。
小さくて軽い、ということもよりも、まずそのデザインに惹かれた。
Mac Powerの連載で、川崎先生も取り上げられていたことが、欲しい、という気持にさせた。

とはいえけっこうな値段の携帯電話で、正直、買おう、とまではいけなかったのだが、
ある日、ある雑誌を読んでいたら、小さな扱いではあったが、Star Tacのプレゼント、とあった。
ただ必要事項だけを書いてハガキを送っても、まず当らないだろうからと思い、
Star Tacがなぜ欲しいのか、とハガキいっぱいに書いて送った。

それでも当るとは思っていなかったから、当籤したとの連絡があったときは、うれしいよりも驚きだった。

今日、iPhoneを自分のモノとした。
10月7日に、最寄りのauショップに行って予約しておかげか、発売初日に何の苦労もなく購入できた。
1週間前に予約に行った時、ふりかえってみると、いままで予約をして何かを買ったという記憶がない。
レコードにしても、予約したことはいままでなかった。

生まれて初めての予約をしてまで、欲しい、と思い手に入れたのが、iPhoneだった。
受け取りに行く時間も予約が必要で、19時30分だった。
10分前に着いたけれど、前の人たちがつかえていて、iPhoneを手にできたのは20時をまわっていた。
それから帰宅して、うれしくてあれこれさわっていたら、ブログを書くのを忘れて、こんな時間になってしまった。

去年、すでにiPadを購入していたから、iOSにふれるのがなにもはじめて、というわけではないのに、
インストールしたアプリケーションも基本的にiPadと同じものなのに、
iPadとiPhoneのサイズの違い、それに形状の違いを含めて、iPhoneにふれるのが楽しい、と感じながら、
なぜiPhoneを欲していたのか、欲する、とはどういうことなのか、をぼんやり思っていた。

Date: 10月 1st, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その16)

ウラディミール・ホロヴィッツは、
「頭はコントロールしなければならないが、人には心が必要である。感情に自由を与えなさい」
と語っている、ときく。

ストイックな姿勢で、音に臨むことが求められるときは、ある。
けれどつねにストイックでいては、
ときに感情の自由を自ら手放してしまう、ときには押し殺してしまうのではないだろうか。

音楽を聴くという行為は、感情に自由を与える行為でもあるかもしれない。

そう考えたとき、レコードでオーディオを介して音楽を聴くことは、
演奏会に行き音楽を聴くことよりも、
聴く時間、聴く音楽(曲目だけでなく演奏者もふくめて)を自分で決められるため、
適切に選択されたときの、感情が受け取る自由の純度は、より高いものである、といえるところもある。

感情の自由なくして、オーディオを楽しむことは実のところ無理なのかもしれない。
そして、別項で書いている、オーディオマニアとしての「純度」にも関係してくる。

Date: 7月 11th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その15)

井上先生は、そこが違う。

試聴の合間や試聴後の雑談の中で、井上先生で自宅で何を使って音楽を聴かれているのか、が、
断片的ではあってもうかがえるときがある。

私がステレオサウンドにいた1980年代は、パワーアンプで常時使われていたのは、
ハーマンカードンのCitation XXだった。
Citation XX以外に、多くの国内外のパワーアンプを所有されていた井上先生だが、
よく言われていたように真空管アンプやA級アンプの音は、冬、寒くなって聴くのに向いている、と言われていたし、
Citation XXにしても季節によって、終段のバイアス電流を切替えられていることもわかった。

季節によって、自分の中で求めている音にも、多少なりとも変化があって、
1年中同じ音で聴きたいわけでもない。
暑い夏に、暑苦しい印象がすこしでも感じさせる音はあまり聴きたくないし、
冬の凍てつくような寒さのときには、やはり暖かい音を聴きたくなるもの。
秋の、すかっと晴れた日には、どんよりした音ではなくて、爽快な、どこまでも晴れわたっている印象の音──、
そういったことをよく話されていた。

だからCitation XXも、冬にはバイアス電流はHIGHにされていたらしい。
NORMALポジションにくらべて、HIGHポジションでは2倍のバイアス電流に、LOWポジションでは1/2になる。
このLOW、NORMAL、HIGH、3つのポジションの音を聴くときに、
意識はどうしても、どのポジションが音がいいのか、そこに集中してしまう。結論を求めてしようとする。

おそらく井上先生も、どのポジションが音がいいのかを優先的に聴かれているのだろうが、
どうもそれだけではないことが、雑談を通して伝わってくる。

よく井上先生が言われていたことのひとつに、
どんなものにもメリットとデメリットがある。メリットだけしかないものなんて存在しない。

これはつまりCitation XXのバイアス電流にあてはめれば、
総合的にはどのポジションがいいという言い方はできるものの、
それぞれのポジションに良さと悪さがあって、そのことをしっかりと把握・理解した上で、
そこで生じる音の違いを、積極的に出てくる音に活かすことで、オーディオを楽しもうよ──、
私は言外の意味をくみとっていた。

Date: 7月 10th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その14)

でも、実のところ、井上先生の使いこなしを、
鳴らし始めから最後までいっしょに聴く機会のあった人は多くないはず。
井上先生の使いこなしのことを、一時期、井上メソッド、と名づけている人たちがいたけれど、
彼らですら、実際に井上先生の使いこなしを直接見た人はごくごく一部でしかない。
そのことが、井上先生の使いこなしの姿勢に、なにかストイックなものを重ね合わせている、
そんな傾向を、なんとなく感じることもある。

でも井上先生は、そればかりではない。
システマティックに音を磨きあげられていく、と同時に、楽しまれている。
そうオーディオを楽しまれている、のだ。

井上先生の試聴記の中に、楽しい、とか、楽しめる、といった言葉が登場する。
この、「楽しまれること」は、井上先生の使いこなしとも関係してくることでもある。

たとえば4チャンネル分のアンプを搭載したパワーアンプでは、
そのうちの2チャンネルを、どのチャンネルを使うのか、さらにブリッジ接続しての音、など、
とにかく試せることはすべて試される。
そして、それによる音の差を楽しまれている。
また、いまでは少なくなったが、A級、B級の動作切替えが可能なパワーアンプ、
バイアス電流を変えられるパワーアンプでも、楽しそうにいじって、その音の差を確認される。

オーディオには、どこかしらストイックなところがあったり、潔癖なところがあったりして、
こういったパワーアンプを前にすると、A級とB級ではどちらが音がいい、とか、
バイアス電流は、やっぱり多く流したほうがいいのか、とか、
とにかく、どれが音がいいのかということを、まず知ろうとする。

それでやっぱりA級動作時のほうが音がいい、とか、バイアス電流は多くしたほうが音がいい、と判断したら、
ほとんどの人が、その状態で聴かれるのではないだろうか。

Date: 7月 9th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その13)

井上先生は、使いこなしの達人のように受けとめられている読者の方も多いことだろう。

私がまだステレオサウンドの読者だったときは、使いこなしに関しては、瀬川先生というイメージがあった。
岡先生が、たしか「ソフトウェア(使いこなし)の達人」と呼ばれていたからだ。

読者だったころの井上先生のイメージは、正直掴みにくかった。
黒田先生の書かれたものを読むと、井上先生は「鬼の耳」の持主だということはわかる。
とにかく耳がいい、ということだ。

毎年12月に出るステレオサウンドの別冊「コンポーネントステレオの世界」でも、
他の評論家の方たちとは少し違う何かがあるのは、なんとなくは感じていたものの、
あくまでもなんとなくであり、それ以上になることは、読者のままでいたらなかった、と思う。

ステレオサウンド編集部で働くようになり、
井上先生の使いこなしの目のあたり(耳のあたり、と書くべきか)にして、
そこで井上先生がやられたことを自分なりに見様見真似で最初は試して、
少しずつ身につけていったうえで、井上先生の書かれたものを読んでいくと、多くのことが得られるようになった。

井上先生はシステマティックな使いこなしの達人である。
音を聴き、ほほ即座に的確に判断をくだし、次の段階に進み、
そこでもさっと音を聴き分け、さらに次の段階へ……ということを、階段を駆け足であがっていくように、
ほぼ無駄なく、迷うことなく、音を磨きあげられる。
その様子を、初めてみる人ならば、なぜ、そんなことで音がこれだけ変るのか理解できないまま、
気がつくと、鳴らしはじめた音との違いの大きさと、そこにかかった時間の少なさに驚き、
井上マジックだ、と思われるかもしれない。

Date: 5月 25th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その12)

いまはもう、以前のような楽しみ方で、カートリッジの音の違いを楽しむ時代ではなくなっているのかもしれない。
それは仕方のないこととはいえ、それにもともとカートリッジを交換することをやっていなかった私だけれども、
そういう状況は、寂しい、というよりも、息苦しさ、窮屈さ、そういったもののようを強く感じたりもする。

ひたすらいい音を追い求める──、のは結構なことだけれども、
あまりにストイックすぎるのも、どうかとも思う。

もっとオーディオは、楽しんでいいはずだ。
というと、いい音を追求することこそ、楽しみだ、といわれそうだが、
楽しみ方も、ひとつではないことを思い出してほしい、といいたい。

オーディオは「求道」的姿勢に価値がおかれすぎている、と反省を込めて、思うことがある。
そういうとき思い出すのが、井上先生のことだ。

Date: 5月 25th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その11)

ステレオサウンドはすでに購入していないから、なんとなくの発言になってしまうが、
いまステレオサウンドで取り上げられるカートリッジは、おそらくほとんどがMC型だと思う。

以前のように、MC型とMM型があって、そのほかにMI型、VM型、コンデンサー型などがあった時代とは、
すっかり違ってしまっている。

普及クラスのMM型カートリッジも、実際には発売されているのだろうが、
ステレオサウンドで取り上げられるクラスのものからは外れてしまっている。

以前のように、メインのカートリッジを決めておいて、音のヴァリエーションを楽しみたいとき、
ふだんあまり聴かないジャンルの音楽をきくときなどに、
メインで使っているカートリッジとは大きく音色的にも異るカートリッジにつけ替える、ということは、
その音楽にふさわしいカートリッジを選ぶ、という意味では、音を良くすることになるけれど、
どちらかといえば、そういうときは、音のヴァリエーションを楽しむ、という面が強かった。
少なくとも、私はそうだった。

EMTのTSD15が必然的にメインのカートリッジになっていたわけだが、
TSD15がニガテとする音の表現を得意とするカートリッジの音は、聴きたくなることがある。
それはどんなにTSD15の調整を追い込んでいっても、決して得られる世界ではない。
TSD15は万能のカートリッジでもなかった。

だからTSD15の音の世界からまったく離れてしまいたいときには、
そういう音の世界のカートリッジに替えてしまうしかない。
そのカートリッジに、ほんのひととき浮気している、ということになるのだろうか。
そういうときは、そのカートリッジの音を、とにかく楽しむ。

いま市場に、どれだけのカートリッジが出廻っているのかすら、きちんと把握するのはたいへんである。
以前だったら、ステレオサウンドが出していたYEAR BOOKがあったから、把握できていた。
そんな具合だから、実際には、昔ほどではないにしても、
音のヴァリエーションはまだまだ広い、といえるかもしれない。
と書きながらも、やはり、いまはカートリッジよりも、ヘッドフォン、イヤフォンのほうが、
音のヴァリエーションを、積極的に楽しめる気がしてしまう。