Archive for category 「ネットワーク」

Date: 10月 6th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その8)

そういえば、と思い出したことがひとつある。
インターネットを始めて二年くらいの時だったか、
まだaudio sharingをつくる前のことだったから、1998年か99年のころだったはずだ。

それまで少なかったオーディオの個人サイトも増え始めてきた。
そのころは、そういった個人サイトを見てまわるのが楽しみだった。

facebookもtwitter、ブログもまだだったころの話だ。
そのころの個人サイトの多くには掲示板が設けられていることも、また多かった。

ある個人サイトを見つけた。
マスコミ関係の人が公開していたサイト(いまはなくなっている)で、
個人サイトにしては、きちんとつくられた感じがしていた。

ここにも掲示板はあった。
そこでスチューダーのA80のことが話題になっていた。

その個人サイトの主宰者は、A80のエレクトロニクス関係は、
マーク・レヴィンソンによる設計だ、と書いていた。

スチューダーのA80と、
A80のトランスポートを利用して、エレクトロニクスをつくりかえたマークレビンソンのML5とが、
完全にごっちゃになっての記述だった。

気になったので、ML5のことを説明しておいた。
すると、そんなことはない、あなたが間違っている、という返事が、主宰者からあった。
なんでも、その人がもっとも信用しているオーディオに詳しい人が教えてくれたから、
というのが、その人の主張だった。

別の方が、主宰者がいっているのはML5のことですよ、と書き込まれた。
それでも主宰者は、A80のエレクトロニクスはマーク・レヴィンソンの設計だ、と譲らない。

しかもマーク・レヴィンソンはエンジニアではない、と説明してもだ。
これ以上書いても時間のムダ、と判断して、書き込むことはやめた。
一週間ほどして、どうなったのかなぁ、その人が信用している人に確認したのかも、
と思ってのぞいてみたら、
私と、ML5ですよ、いっていた人の書き込みが削除されていた。

Date: 9月 10th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その10)

オーディオについて、けっこう知識を持っている人は少なくない。
でも、そんな人と話していると、「この人は知識過剰だな」と感じることがある。

知識量が豊富だから、そんなふうに感じるとはかぎらない。
同じくらいの知識量をもっていると思われる別のオーディオマニアと話していると、
そんなふうに感じないことがあるからだ。

もちろん、二人のオーディオマニアの、本当の知識量が正確に把握できているわけではない。
話していることから、なんとなく感じているだけのことなのだが、
それでも、「この人も知識過剰だな」と感じることがあるのは、なぜなのだろうか。

知識量が同じでも、知識の質が違うから、そう感じるのではないように思う。
オーディオの経験量と知識量のバランスがとれていないから、そう感じるのだろうとは思っている。
知識過剰と感じさせる人は、結局、器が小さいのだろう。

と同時に、知識過剰だな、と感じさせる人は、どちらかといえば攻撃的なのではないだろうか。
面と向かって話している時はそうではなくても、
インターネットを介しての、顔をみえない、名前もわからない状況下だと、
やたら攻撃的な人がいるけれど、そういう人は知識過剰なのかもしれない。

といっても、インターネット上で攻撃的な人が、どんな人なのかは、
パソコン、スマートフォンの画面越しではなにひとつわかっていない。
なので、私の勝手な想像でしかないのだが、それでも、そういう人のものの言い方をながめていると、
知識過剰なのかも……、と感じてしまう。

そう感じてしまうのは、実際に、そういう人を知っているからである。
誰なのか特定できるような書き方はしたくないが、
その人は知識量は豊富である。

いろんなオーディオ機器を手に入れている。
SNSでも、多くのオーディオマニアとのつながっているし、
つながることにとても積極的である。

いまどきの、熱心なオーディオマニアと、多くの人の目には映るであろう。
SNSでも書き込みも、多くは常識的な範囲のことが多いのだが、
ふとしたきっかけで、非常に攻撃的な書き込みをするのを、何度か見たことがある。

豹変するとまではいかないものの、
この人には、こんな側面があったのか、と少々驚くほどではある。

Date: 9月 2nd, 2020
Cate: 「ネットワーク」

dividing, combining and filtering(その3)

一人のオーディオマニアの人生も、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)だ、とおもう。

一人で暮らしていると、それは自由と思われがちだし、自由といえることも多い。
あれこれやる時間がたっぷりとある。

でも、それをやるためには、一人でできることもあればそうでないこともある。
一人でできること、とおもえていることであっても、
実のところ、ほんとうに一人でできているのかもなんともいえない。

今年の4月と5月はひとりで過ごすことが大半だっただけに、
このことを強く実感する。

Date: 8月 8th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その9)

私にとってのオーディオの原点といえる「五味オーディオ教室」。
この本に、
《今日のような情報過多の時代には、情報を集めるより容赦なくそいつを捨てる方向にこそ教養というものが要る》
と書いてある。

「五味オーディオ教室」は1976年に出ている。
1976年より2020年のいまは、もっともっと情報過多の時代である。

情報を集めることは、1976年よりもずっと簡単、手軽になっている。
しかも1976年のころの情報といえば、おもに文字による情報だった。

いまも文字による情報がそうだといえるが、
インターネットは文字だけでなく写真も動画も音も、
電気信号に変換できるものであれば、
スマートフォンの画面とスピーカー、パソコンの画面とスピーカーで伝えることができる。

ということは、それらの厖大な情報を捨てる方向で要る教養は、
1976年のころよりも、ずっと求められることでもある。

では、その教養を身につけるためには、どうするのか。
インターネットに頼る──のか。

Date: 6月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その7)

誰が読んでいるのかわからない、いいかえると、
どれだけの知識や経験をもっているのかまったく不明な人たちに向けて書くのであれば、
きちんとしたオーディオの知識を身につけておくべきである。

こう書いてしまうと、たいしたことではないように受け止められるかもしれないが、
では、きちんとしたオーディオの知識とは、いったいどの程度のレベルのことなのか。
どれだけの知識をもっていればいいのか。
そのことについて書いていくのは、なかなか難しい。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」の人も、
オーディオの勉強を、まったくしていなかったわけではないだろう。
少なくとも慣性質量という言葉は知っているのだから。

でも、その知識があまりにも断片すぎるのではないのか。
そんな気がする。

断片すぎる、ということは、知識の量が圧倒的に少ない、ということなのか。
そうともいえるし、これは以前書いていることなのだが、
知識の量だけでは理解には到底近づけない。

知識の有機的な統合があってこその理解である。
これはどういうことかというと、
これも以前書いていることのくり返しなのだが、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)だ。

Date: 6月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その6)

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」は、
あきらかに間違いだから即座に否定したわけだが、
もし私が悪意で「そうだよ」といったとしたら、
その人は、「やっぱり! そうですよね!」と大きな声で喜んだはずだ。

オーディオにおいて仮説を立てるのはよくあることだ。
仮説を立てて、検証していくことで学べることはある。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」も、
その人にとっての仮説であったのだろう。
ずいぶん稚拙な仮説ではあっても、その人にとっては大事な仮説だったのかもしれない。

でも、仮説を立てるにも、ある程度の知識は必要となる。
CDの回転がどういう性質のものなのか、大ざっぱにわかっているだけで、
そして慣性とはどういうことなのかを、これも大ざっぱにわかっているだけで、
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」という仮説は、
仮説ですらないことに気づくものだ。

私が「そうだよ」といって、周りにいた人が誰も否定しなければ、
その人は、SNSやブログなどに、その仮説は正しかった、と書いたのかもしれない。

インターネット普及前は、こんなことは起らなかった。
間違った仮説を発表できる場は、なかったといえよう。
せいぜいが、その人の親しい人とか、その人にオーディオのことを訊いてくる人に、
話すくらいでしかなかった。

けれど、インターネット普及後は違う。

ここで考えることがある。
オーディオをやっていくうえで、技術的な知識は必要なのか。

私は基本的には必要ない、と考えている。
オーディオのプロフェッショナルになるのであれば技術的知識は必要だが、
そうでなければ、所有しているオーディオ機器を自分で接続して使えるだけの知識があればいい。

ずっとそう思ってきた。けれど状況はインターネットの普及によって変ってきた。
その人が間違っている仮説を、さも正しいことのようにインターネットで公開した、としよう。

ほとんどの人が、まったく相手にしない。
けれどほんのわずかでも、それを信じてしまう人がいる。

そんな人はいないだろう、と思われるかもしれないが、
この項の前半で例に挙げた人は、
CDは角速度一定、アナログディスクは線速度一定という間違いを書いているサイトを、
大半のサイトが正しいことを書いているにも関らず、信じてしまった。

ごく少数ではあっても、あきらかな間違いを信じてしまう人がいる。
しかもインターネットは不特定多数の人に向けての公開である。
母数は、周りにいる人だけの時代よりもずっと大きい。

Date: 6月 15th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その5)

ある人がCDプレーヤーを、数ヵ月前に買い替えた。
その人は、重量級のCDプレーヤーを購入した、と喜んでいる。

その人が、それまで使っていたCDプレーヤーよりも重量があるから、
その人にとっては確かに重量級といえる(感じる)のだろうが、
重量という数値だけで判断するならば、傍からみれば、それほど重量級ではない。

かといって軽量級ではないのも確かだから、本人が喜んでいることに水を差すことはいわずにいた。
でも、その人がこんなことをいった。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」

CDプレーヤーでもターンテーブル(スタビライザー)をもつモノがある。
エソテリックの製品がそうだし、
47研究所の4704/04 “PiTracer”もそうだ。
古い製品では、パイオニアがPD-Tシリーズもそうだった。

これらの製品であれば、ターンテーブルプラッターの分だけ慣性質量は増す。
けれど、それ以外の大半のCDプレーヤーは、センターをクランプしているだけでディスクを回転させる。

CDプレーヤー本体の重量がどれだけあろうと、
ディスクの回転に関する慣性質量にはまったく関係ない。

それにCDプレーヤーにおいて、
つまり線速度一定の回転系において、慣性質量が増すことのデメリットはある。
もちろんターンテーブルプラッターをもつことで、
ディスクの回転のブレを抑えられるというメリットもある。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」の発言には、
その場にいた複数の人から、つっこみがあった。

その人は「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」であって、
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですよね」ではなかった。

いちおう疑問形になっていたのだから、まだいいほうなのかもしれない。
でも、その人のなかでは、確信に近かったのではないか、とも感じた。

誰にも勘違いというのはある。
それでも、その人は、(その4)で書いている人と同じにみえる。
同じ人ではない。
(その4)の人と、ここで書いている人は、30以上齢が離れている。
世代はずいぶん離れている。

それでも、どの世代にもいる、ということなのか。
それともたまたまなのか。

Date: 5月 23rd, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その5)

オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人、
そこからはるか遠いところにいる人たちが、自身のことをオーディオマニアという。

このことは、ある世代に共通していえることなのか、
それともすべての世代に、こういう人がいるのか。

どうもすべての世代に、少しずついるように感じている。
その人たちの割合が多いのか少ないのかまではわからないが、
そういう人たちが老いていくほどに、ますます遠いところへ向っていく。

若いころは、己れとの闘いの体験も少なかったりするから、
未熟であってもいい──というか、未熟でないほうが逆におかしい。

最初から老成ぶっている若いオーディオマニアがいる。
いつの時代にもいる。

老成ぶることをかっこいい、と思っているのだろうか。
この種の人たちも、己れとの闘いの体験も少なかったりするような気がする──よりも、
もうそこから逃げてしまっている、目を逸らしているのかもしれない。

この種の人たちは、一生、老成ぶったオーディオマニアでいるつもりなのだろうか。
若いころから老成ぶっていた人は、老成することはないだろう。

この人たちも、また「おさなオーディオ」である。

Date: 5月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その14)

インターネット以前の、互いの音を聴くという行為は、
自分の音をみつめなおすことであった。

そこには、自分の音を認めてほしい、という気持もあったはずだが、
一部の人の、いまほどには大きくなかったのではないか。
それをインターネットが肥大させてしまった。

肥大だけではなく、目覚めさせてしまったところもあるように思える。

オーディオは外に持ち出せるわけではない。
高価なクルマ、時計、バッグなどは外に持ち出せる。
不特定多数の人の目にふれる。
見せびらかすつもりがなくても、そうすることができる。

オーディオは、それは無理だった。
誰かにリスニングルームに来てもらってこそのところがあった。

いまもそのことはまったく変らないけれど、
オーディオ雑誌に掲載されることなく、多くの人の目にふれるようになった。

アクセス数の多い個人サイトをやっている人に来てもらえば、
ほぼ必ずオフ会の様子が公開される。

世間に広く知らしめてほしい、という欲求がある人にとっては、
インターネットはまさしく、その願いをかなえてくれる。

ひどい音であったとしても、ひどい音でした、と書く人は、ほとんどいない。
それは礼儀といえるのか。

五味先生はステレオサウンドの「オーディオ巡礼」で、
ひどい音の場合、一刀両断といえるほどの斬りかたをされる。

それは五味先生ほどの人だからできる、ということではなく、
五味先生自身、斬りかえされることを覚悟してのことだから、と思う。

悪くいった相手から斬りかえされることよりも、
そうでないところからの斬り返しはある──、
そう思っていた方がいい。

Date: 5月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その13)

まったくよさのない音は、ないのかもしれない。
だからAさんによるBさんの音についての表現は、まったくの創作というわけではない。

それにしても、僅かな美点をそうとうにふくらませての表現であり、
そうでないところにはまったくふれていない。

これはいったい何になるのか。
Bさんにとって励みになるのか、といえばそうだろう。
自分のやってきた音は間違っていないどころか、正しかったとすら思うはずだ。
誇らしげに思っても不思議ではない。

AさんとBさんは親しい関係だ。
BさんはAさんを、人生の先輩、オーディオの先輩として尊敬しているところもある。
それはけっこうなことではあるが、
BさんはAさんの本音を知らないままだ。

知らないまま、その道をつきすすむ。
その結果の音を私は聴いて、絶句した。
それは別項で書いている「間違っている音」であった。

オーディオは自分自身の世界に閉じこもろうとすれば、どこまで閉じこもれるものかもしれない。
だから、昔から人に聴いてもらえ、とか、人の音を聴け、的なことがいわれている。

否定はしない。
しないけれど、そのことはインターネットの登場・普及によって変質してしまった。

以前ならば、聴きにいったり聴きに来てもらったりしたことは、
その二人のあいだのことに留まっていただろう。

それが不特定多数の人に向けて発信できるようになった。
そうなることで変ってしまった。

Date: 5月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その12)

ある人(Aさんとしておこう)が、ある人(Bさん)のところに行った。
ずいぶん前のことだ。

もちろん二人ともオーディオマニアで、そのころはどちらも自分のサイトを持っていた。
Aさんが、Bさんの音について、自身のサイトで、オフ会の様子を公開した。
ずいぶん褒めているな、と感じた。

Aさん、Bさんとも知人だった。
どちらの音も聴いている。
だからBさんの音を、Aさんは、こんなふうに評価するのか、と不思議に思った。

それからしばらくしてAさんと話すことがあった。
Aさんいわく「 Bさんの音、あれじゃダメだね」と。

サイトで公開したこととずいぶん違うじゃないか、とはいわなかった。
Bさんの音は、確かに、そういう面を多分にもっているからなのだが、
それにしても、この人(Aさん)は、彼のサイトを読んでいる人に対して、
どういう気持で、オフ会のこと、Bさんの音について書いたのだろうか。

親しき仲にも礼儀あり、ということなのかもしれない。
いくらひどいと感じても、そのまま相手に伝えたり、
サイトで、その音について書いたりするのは憚りがある──、と考えてのことだろうか。

ならば黙っておけばいいじゃないか、と私は思う。
社交辞令的な美辞麗句を、自身のサイトで公開する。

Aさんの、その文章をとうぜんだがBさんも読む。
Bさんは嬉しく思ったはずだ。

Bさんを直接知らない、Bさんの音を聴いたことのない、
Aさんのサイトを読んだ人は、Bさんの音は、なるほど素晴らしいのか、と思う。

それは読み手の勘違いではなく、書き手がそう書いているからだ。

これは私が知っている一例なのたが、
ほんとうに一例にすぎないのだろうか。

Date: 5月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その11)

5月19日発売のステレオの特集は「巣ごもりオーディオ」とのこと。
こういう状況下ゆえの特集と考えていいだろう。

とはいえオーディオという趣味は、本来巣ごもりではないか、とも思うから、
あえて巣ごもりとつけなくてもいいのだが、
インターネットの登場・普及、SNSの登場・普及によって、
そのあたりも変化してきたとも感じているから、巣ごもりとつけるのもわかる。

それから、いまではインターネットのおかげで、家から一歩も出ずとも、
いろんなモノを買えるし、商品が届く。

たしかに巣ごもりな面は強化されつつある。

インターネットが普及し、個人のオーディオサイトがいくつも登場したころから、
オフ会が、オーディオという趣味の世界でも活発になっていった。

それ以前も、親しいオーディオマニア同士で、互いの音を聴きにいくことはあった。
それがインターネットによって、一気に拡大してしまった。

あのころ(二十年くらい前になるか)は、
オーディオのオフ会花盛り、といえた。

オフ会をやった、オフ会に行った、素晴らしい音だった──、
そんなことがあふれていた。

読んでいると、こんなにも素晴らしい音が世の中にあふれているのか、と疑いたくなる。
社交辞令なのか、それとも本音だったのかは読んだだけではなんともいえないが、
もしかすると書いている本人も、そのへんのところが曖昧になっていたのかもしれない。

オフ会自慢、どれだけ多くのオフ会に参加したのかを自慢気に語る人もいた。

いまはこういう状況下だけに、オフ会も自粛気味らしい。
寂しがる人もいるようだが、むしろいいことだ、と思う。

Date: 2月 23rd, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その8)

別項「オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その4)」で、
情報というよりメディアがBGM化していると捉えるならば、
background mediaだから、もうひとつのBGMとなる──、と書いた。

同じく(その3)では、情報の垂れ流しについて書いた。

私がSNSへのマルチポスト、
そしてマルチポストを平気でする人に対して嫌悪感をいだくのは、
ここである。

それは情報の垂れ流しであり、BGM(background media)であるからだ。

垂れ流しとは、辞書には、未処理の廃棄物などをたれ流すこと、とある。
未処理の情報もどきも、未処理の老廃物と同じように感じるからだ。

Date: 2月 20th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その7)

表現のインフレーションとSNSへのマルチポスト。
ここに共通してくるのは、殊更という感覚なのではないだろうか。

殊更は、2月のaudio wednesdayに来られたデザイナーの坂野さんが、
facebbokにくれたコメントにあったことばだ。

『殊更』とあった。
ふだん、ほとんど意識せずに使っている「ことさら」ではあるが、
『殊更』を見て、今年一年の私にとってのキーワードになっていく予感がした。

オーディオのアクセサリー類を、
屋上屋を重ねるような使い方をしている人はけっこう多い。
私もハタチぐらいのころは、似たようなことをしてきた。

屋上屋を重ねることをやっていたときは、
音がよくなった、と思っていた。

なのにしばらくして、屋上屋を重ねる的なことをすべて取っ払ってしまった音を聴くと、
何をしていたのだろうか、何を聴いていたんだろうか、というおもいにとらわれることもしばしばあった。

これは、殊更感を増すためにやっていたのではないだろうか。

別項で「時代の軽量化」を書いている。
殊更感が増すほどに、時代の軽量化も進んでいくような気もしている。

その3)で、SNSを眺めていると、
この人は、いったいどういう音を鳴らしているのか、と思ってしまうことを書いた。

オーディオマニアならば、スピーカーとかアンプを交換したときの音の違い、
それもたいていはグレードアップなのだから、音が良くなっているはずなのだから、
そこでの音の良さについて誰かに伝えたくなる気持はある。

そういう文章を読んで、素直に喜びが伝わってくる、と感じるよりも、
最近では、この人は、いったい、どんなにすごい音を出しているのか──、
そんな疑問が先にたつことが増えてきた。

つい先日もtwitterを眺めていて、そうだった。

Date: 2月 9th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その10)

別項「オーディオにおけるジャーナリズム(続×五・編集者の存在とは)」で書いたこと、
「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!! そういう相手と一緒につくっていかないと面白い本はつくれない」、
当時、ステレオサウンドの編集顧問だったKさんのことばだ。

三十数年前にきいた。
そのころは、そういうものだろうか……、ぐらいに受け止めていた。
けれどステレオサウンドを離れて、たしかに本をつくっていくということ、
それも趣味の本をつくっていくということは、そうだ、と実感している。

そんな考え、古すぎる、といわれれば、
「そうかもしれない」といちおうは返事をするだろう。
でも、本音は、このことばをきいたとき以上に、そう思っている。

仲良しクラブ的にやっていきたい人たちにとっては、
頭のおかしい人たちがおかしいこと、悪い冗談を言っている──、
そんなふうにしか受けとらないであろう。

同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!!──、そういう人とどうやって仕事をしていくというのか。
その段階で戸惑ってしまうのか。

いまのステレオサウンド編集部が、そうなのか、違うのか。
まったく知らないけれど、誌面から伝わってくる空気からは、
Kさんのことばとは違っていることだろう。

編集部だけでなく、ステレオサウンドに書いている人たちも、そうなのではないのか。
みな仲良しクラブ的にやっているようにみえる。

でも、仲良しクラブ的に、ということは、表面的には、ということであるように感じもしている。