Archive for category オーディオ評論

Date: 4月 28th, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その7)

K+HのO500Cは、きわめて優秀なだけに留まらぬ魅力ある音を聴かせてくれるかもしれない。
そうだとしたら、私は聴き終ってどう思うだろうか。

測定データの優秀さを、そこで思い出すのかどうか、である。

(その5)へのコメントがfacebookにあった。
そこには、測定データをみていろいろ考えて、
その上でそのことを思わなくなるような音が聴ける、というの素晴らしいことだと思う、とあった。

このコメントがなくても、K+HのO500Cについて書くつもりだった。
O500Cの測定データを見て、当時、私はいろいろ考えていた。
O500Cは聴いていないからこそ、
このコメントはそうなんだよなぁ、とひとりで頷いてもいた。

コメントには、続けて、
素晴らしい音を聴いたあとで測定データをみて、
こんなだったのか、と思うのもまた楽しい、とあった。

これもそのとおりである。

ステレオサウンドは、以前スピーカーもアンプもアナログプレーヤー、カートリッジも測定をやっていた。
長島先生が、他ではやっていない測定方法を考え出しての測定もあった。

それらの測定データをみて、いろいろ考えるのも楽しい。
新技術を採用したモデルの場合だと、いろいろ考える楽しさはさらに増す。

そうなのである。
私の場合、測定データは、いろいろ考えるためにある。
音を判断するためにあるわけではない。

Date: 4月 28th, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その6)

別項「BBCモニター考(余談・K+Hのこと)」で、
K+HのモニタースピーカーO500Cのことを書いている。

O500Cは残念ながら数年前に製造中止になっているし、
どうも日本には輸入されていないようである。
聴く機会は、おそらくないであろうが、いまでも聴いてみたいスピーカーであるし、
O500Cの後継機をK+Hが出してくれることを期待もしている。

O500Cは、素っ気ない外観のスピーカーシステムである。
写真を見ただけでは、聴いてみたいと思うようなスピーカーではない。

でもO500Cの測定データを、
O500Cが開発された時点で、ここまでの性能をスピーカーで実現していたのか、
と驚くしかない。

どこに驚いたかは、「BBCモニター考(余談・K+Hのこと)」で書いているので、
そちらをお読みいただきたいが、
測定データを見て、ぜひ聴いてみたい、と思ったオーディオ機器はほとんどない。

ここ20年では、O500Cぐらいしか思い浮ばない。
そのくらいO500Cの性能はきわめて優秀である。

オーディオマニアとしては、モノとしての魅力は乏しく感じられるO500Cだが、
測定データを見れば、少なからぬ人が一度聴いてみたい、と思うのではないのか。

このO500Cを聴く機会が訪れた、としよう。
その時、どう思うだろうか。

どんな音がするのか、想像できないところがある。
きわめて優秀な音ではあるはずだ。
外観と同じような素っ気ない音なのかもしれないし、
K+Hのスピーカーといえば、ステレオサウンド 46号の特集で、
瀬川先生がOL10の音について、
《ブラームスのベルリン・フィル、ドヴォルザークNo.8のチェロ・フィル、ラヴェルのコンセルヴァトワル、バッハのザルツブルク……これらのオーケストラの固有のハーモニィと音色と特徴を、それぞれにほどよく鳴らし分ける。この意味では今回聴いた17機種中の白眉といえるかしれない》
と書かれているし、
47号では、《ほとんど完璧に近いバランス》とまで書かれている。

そういうスピーカーだから、つまらない音のスピーカーであるはずがない、とも思っている。

Date: 4月 27th, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その5)

メリディアンのULTRA DACを2018年9月にはじめて聴いて、
特に通常のCD再生時のDSPによるフィルターの切り替え、
それによる音の変化は、さまざまな録音を聴く音楽好きにとっては有用な機能と感じるとともに、
short、medium、longの三つのフィルターは測定してみると、
いったいどういう特性なのか──、
そのことに関心がわいた。

昨年12月に検索してみると、
海外のオーディオ雑誌のサイトにULTRA DACの測定データが公開されていた。
見つけた時は、おっ、と思ったし、日本とは違うな、とも思っていた。

フィルターの切り替えで特性がどう変化するのかが、おおよそわかった。
けれど、だからといって、その測定データを見て、
聴きなれたディスクを鳴らす際、どのフィルターを選択したらいいのか、
それが聴く前にわかるわけではない。

正直、まったく役に立たない。
結局、short、medium、long、三つの音を聴いて選ぶしかない。

測定データを見たあとでもULTRA DACは聴いている。
フィルターの切り替えもやっている。
その時に、私の頭のなかには、測定データのことはまったくなかった。
フィルターによる音の違いを聴いているときも、測定データのことなんかすっかり忘れていた。

たとえばshortフィルターの音を聴いているときに、
ああいう特性のshortフィルターだから、こういう音になるんだなぁ……、
なんてことは微塵もなかった。

ほとんどの人がそうなのではないだろうか。
測定データが音の何を語ってくれるというのか。

日本のオーディオ雑誌には測定がない──、と不満をいう。
けれど、この時代、インターネットで海外のオーディオ雑誌のサイトもすぐに見ることができる。
そこには測定データがあったりする。

それを見ればいいじゃないか、と思う。

なにも測定する必要がないとはまったく思っていない。
MQA再生時におけるノイズがいったいどうなのか、
どこか測定してくれないか、と思っている。

DSD、MQA、それからWAV、FLACなど、
それぞれの再生時にノイズはいったいどのくらいの量で、どういう分布をしているのか。
いま一番知りたいことである。

それでも、どこかが測定してくれた、としよう。
その結果を見たとしても、そうなのかと納得したとしても、
次の機会に音を聴いた時にはすっかり忘れている。

Date: 4月 23rd, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その4のコメントを読んで)

(その4)にfacebookでコメントがあった。
(その4)で、私は「すくっと立ち上って」と書いた。

正しくは「すっくと立ち上って」という指摘だった。
確かにそうである。

ずいぶん前になるが、どこかで「すっくと」と「すくっと」について書かれいてることを読んでいる。
勘違いしていた、とその時思ったことを、指摘を受けて思い出した。

思い出した、ということは、いままで忘れていたわけで、
だから「すくっと立ち上って」と書いてしまっていたわけだ。

指摘してくださった方も書かれていたが、
擬態語なので、意図的に使っているのであれば誤用とまではいえない、ともあった。

ここまで読んで、もしかすると、と思い出したことがある。
「すっくと」を「すくっと」としてしまうのは、
おそらく小学生だったころに読んでいたマンガの影響かもしれない。

マンガには吹き出しのなかのセリフの他に、
効果音を文字で表現している。
マンガで立ち上る動作に「すくっと」もしくは「スクッと」といった表現が使われていた──、
のかもしれない。

それでいつのまにか「すくっと」と思い込んでしまっていた。
それに「すっくと」が正しいと知った時、
なんとなくしっくりこない、とも感じていたのも、
マンガの影響下にずっとあったためかもしれない。

といっても、どんなマンガなのかもはっきりと思い出せないのだから、
マンガの影響と思い込んでいるのだけかもしれない。

どちらにしても、私の感覚としては「すっくと」よりも「すくっと」がしっくりくる。
誤用といわれればそうである。

だから「すくっと」ではなく「すっくと」にすればいいわけだが、
おそらく今後も、今日書いたことも忘れてしまって、
また「すくっと」と書いてしまう、と思っている。

最後に言い訳がましくつけ加えれば、
大辞林には、こうある。
     *
勢いよく立ち上がるさま。まっすぐ,すっと立つさま。すくっと。「—立ち上がる」
     *
「すくっと」はどうやら誤用とまではいえないのか。
今回の指摘によって、思い出したことがあった。
ありがたく感じている。

Date: 4月 21st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その4)

海外ドラマが好きで、よく見ている。
医療関係のドラマも好きである。

アメリカのドラマを見ていて気づくのは、
患者が退院する際、必ず病院関係者玄関までが車椅子にのせられていく。

玄関から先ではすくっと立ち上って退院していく。
問題なく歩ける人がなぜ? と疑問に最初は感じていた。

これは病院の建物を出るまでに何かあったら、訴えられるからだと気づいた。
玄関までの通路で、何かが原因で足を滑らせて骨折したとかになったら、
アメリカのことだから、裁判に訴えられて多額の賠償金を支払うことにもなるからなのか。

そのへんの事情に詳しい人に確認したわけではないが、おそらくそうだと思う。
ひとつのドラマだけでそうなのではなく、いくつかのドラマでもそうなのだから。

訴訟大国といわれるアメリカなのだから、さもありなんだ。

もちろん裁判対策だけとはいわないが、
アメリカのオーディオ雑誌における測定は、
ずっと以前からすれば、訴訟されないためという意味あいが強くなってきているのではないのか。

日本でも、オーディオでの裁判、それ第三者からみてばかげた訴訟があった。
以前書いているように、あるオーディオ機器の重量が、カタログ発表値よりも少しだけ重かった。
そのことで輸入元を訴えた人がいる。

この件は、幸にして裁判官がオーディオに理解のあった人のようで、
オーディオ機器は重たい方がよいとされているのでしょう、といって終った、ときいている。

とにかく、アメリカのオーディオ雑誌の測定を、
客観性の担保ということだけで捉えるのは、
時代の変化を無視しすぎのような気さえする。

それにしてもいつの時代も、日本のオーディオ雑誌と海外のオーディオ雑誌を比較して、
なにかあるごとに「測定、測定」という人はいる。

しかし、もう少し考えてほしいのは、
海外のオーディオ雑誌に掲載されているのは、
オーディオ評論なのか、ということだ。
批評と評論を区別せずに、
海外のオーディオ雑誌とくらべて日本のオーディオ雑誌は……、と嘆くのは、
いつになったら変っていくのか。

Date: 4月 21st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その3)

facebookへのコメントは三人の方からあった。
二人目のかたは、「わかりやすさ」を求める読者へのサービスもあるのではないか──、
そう書いてあった。

わかりやすさについて、以前書いているし、
読者が求める「わかりやすさ」とは、答でもある。
けれど、私がオーディオ雑誌に、というか、
オーディオ評論に求めているのは、
そして、こうやって毎日書いているのは、
最終的な問いを求めて、である。

このことは別項「毎日書くということ(答えではなく……)」で書いている。

三人目のかたは、海外オーディオ雑誌は客観性を担保するために測定データを載せている──、
そんなことが某匿名掲示板にあったと書かれていた。
測定データがすべてとは思わないけれど、面白い話だと思った、とも。

このことはかなり以前からいわれているし、
なぜ日本のオーディオ雑誌は測定をやらない(やめたのか)にもつながっていく。

測定データは客観性を担保するのか。
客観性を担保するために、海外のオーディオ雑誌は測定をやるのか。

そうともいえるし、そうではないと考えることもできる。
特にアメリカの場合は、
客観性の担保というよりも、ある種の保険的意味あいが強いようにも考えることができる。
訴えられないために、である。

Date: 4月 21st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その2)

facebookでのコメントを読んでいて、続きを書く気になったので、
タイトルも少し変更している。

(その1)で、オーディオ評論家はサービス業なのか、と書いた。
facebookでのコメントには、誰にとってのサービス業なのか? とあった。

消費者に対してのサービス業なのか、それともオーディオメーカーや輸入元といったクライアント、
それともオーディオ雑誌の編集部に対してなのか、ともあった。

ステレオサウンド 210号の特集でも、五人のオーディオ評論家の写真が載っている。
Net Audioのvol.34の、私がサービス業なのか、と感じた人の写真とは、対照的である。

Net Audioはカラー、ステレオサウンドはモノクロという違い以上に、
ステレオサウンドの写真は、まったく楽しそうに見えないのだ。

試聴中の写真が楽しそうでなければならない──、とは思っていない。
たとえばアンプやスピーカーの総テストの場合だと、
楽しそうな顔しての試聴中の写真だと、真剣に聴いていないのでは……、と思わせてしまうだろうし、
総テストはけっこうしんどいものである。

けれど210号の特集は、総テストではない。
特集の前書きのところに
《お好みのスピーカーシステムを、制約を設けずに、思う存分鳴らしてもらうことにしたのである》
とある。

ならば、もっと楽しそう、嬉しそうな表情を見せてもいいではないか。
誰とはいわないが、どんよりした空気を漂わせている写真もある。

オーディオの楽しさが伝わってくる写真とはいえない。

Date: 4月 20th, 2019
Cate: オーディオ評論
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オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その1)

音元出版のNet Audioのvol.34を買った。
たまにはオーディオ雑誌を買って読みたくなる。

買ってからの帰り道、
音元出版のオーディオ雑誌を買うって、これが初めて? とふり返っていた。
買った記憶はない。

Net Audioのvol.34の内容についてはふれない。
書きたいのは、Net Audioのvol.34を眺めていて、
オーディオ評論家はサービス業なのか、と思ったからだ。

そう感じたのは、Net Audioのvol.34に登場されている人の写真を見て、である。

オーディオ評論家のやっていることに、
サービス業的な要素がまったくないとはいわないが、
それがあまりにもあからさまに視覚的に表れてしまうと、
いつからこんなふうになってしまったのか、とどうしても思う。

編集者が要求してのことなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
本人が意識してやっていることなのかそうでないのかもわからない。

けれど写真を見ていると、今日も改めて見直していたけれど、
やっぱりサービス業感が漂っている。

Date: 4月 1st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その6)

よくオーディオ評論家のいうこと、書くことなんて、あてにならない(あてにしていない)、
信じられるのは自分の耳(感性)であって、
オーディオ評論家のという、いわば他人の耳(感性)を信じるなんて、
なんて愚かなこと──、
そんなことを豪語する人がいる。

豪語する人は、オーディオ評論から何も学ぶものはない、ともいいたいのだろう。
豪語する人のいうところのオーディオ評論家には、
私がオーディオ評論家(商売屋)と認識している人たちだけではなく、
オーディオ評論家(職能家)の人たちまでも含まれている。

豪語する人は、これまで幾度となくオーディオ評論家に騙されてきた。
だから、もうオーディオ評論家のいうことなんて、信じないし、
信じるヤツラは……、ということのようだ。

豪語する人の生き方も、それで尊重しよう。
豪語する人に、私からいうことは何もないからだ。

ただ、豪語する人の言葉に惑わされないでほしい。
そうは思っている。

オーディオ評論家(職能家)の書く文章を読むことは、
そのオーディオ評論家(職能家)の聴き方を知り、学ぶ行為である。

自分の聴き方が絶対と信じ込める人ならば、オーディオ評論を読む必要はない。
自分の耳を信じていながらも、疑うところも持つ人は、
優れたオーディオ評論を読むべきである。

読むことによって得られる聴き方が、必ずある。
音を言語化するのはほぼ無理であるし、
ただ読んだだけで、聴き方を学べるとは限らない。

それでもくり返しくり返し読むことで、
そして、そのオーディオ評論家が本気で惚れたオーディオ機器を聴くことで、
聴き方のきっかけはつかめるはずだし、つかめるまで読んでほしい。

豪語したければすればいい。
豪語した時点で、その人の聴き方はそこで留ってしまう。

Date: 3月 27th, 2019
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(先生という呼称・その6)

区別をつけるに求められるのは、倫理だと思っている。
倫理を無視したところで差別が生じていくとも思っている。

倫理を曖昧にすれば、区別も曖昧になる。
曖昧な区別のまま、すべてのオーディオ評論家を先生と呼ぶのだろうか。

川崎先生が「もう一度、とっても会いたい菅野沖彦先生」を公開されている。

川崎先生も、菅野先生と呼ばれる。
《私は好き嫌いがはっきりとしています。
たくさんの評論家の中でも特に先生に傾倒していました。》
と書かれている。

ここでの川崎先生の、はっきりとした好き嫌いは、はっきりとした区別である。

《今では、この程度で?と、
残念なオーディオでありビジュアルの評論家が多いのです。》
とも書かれている。

この人たちのことは、先生とつけて呼んだりはしない。

区別を曖昧にしてきたことで、疎かにしてきたことで、
多くの人たちは区別することができなくなりつつあるのかもしれない。
区別に求められることが何なのかも、わからなくなりつつあるのかもしれない。

結果、差別を生んできているのではないのか。

Date: 3月 26th, 2019
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(先生という呼称・その5)

オーディオショウに行けば、それぞれのブースで、出展社のスタッフが、
オーディオ評論家を○○先生と呼んでいるのが、あちこちで聞ける。

誰が、どの人を先生と呼ぶのか呼ばないのか。
それはその人の勝手だ。

菅野先生が亡くなられたいま、私が先生と呼ぶ人は、オーディオ界にはもういない。
それでも、インターナショナルオーディオショウでは、
あちこちで「先生」がきこえてきた。

その「先生」がきこえてくる度に思うことがある。
ほんとうに、この人たちは、心から「先生」と呼んでいるのか、と。

そう呼んでおけば差し障りがない──、
そんなことで先生と呼んでいるわけではないだろうが、
釈然としないものが、残る。

オーディオマニアのなかには、
オーディオ評論家ごときを先生と呼ぶこと自体おかしい、と主張する人がいる。

そう思っている人はそれでいい。
その人たちを説得する気は私にはまったくないし、
私自身は、先生と呼ぶ人と呼ばない人を、はっきりと区別してきた。

先生と心から呼べる人たちが、かつてオーディオ界にはいた。
その時代を私は知っているし、そこにいて、その人たちと仕事をすることができた。

そういう時代があったことすら知らない世代が、今後、オーディオ業界で増えていく。
そういう世代の人たちは、上の世代、先輩社員が、先生と呼んでいるから、
それに倣っておこう、ぐらいの軽い気持で先生と呼ぶようになるのかもしれない。

仕事だから──、と割り切って先生と呼ぶ。
そうなれば、そこに区別はなくなる。

Date: 1月 29th, 2019
Cate: オーディオ評論
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「新しいオーディオ評論」(評論の立ち位置)

オーディオに関係する評論家には、
軸足をどちらにおいているかで、オーディオ評論家と呼ぶか、
オーディオ・ヴィジュアル(もしくはホームシアター)評論家と呼ぶかが決る。

ホームシアターを積極的に取り組まれていても、
山中先生、朝沼氏は、私にとってはオーディオ評論家である。

オーディオ評論家(職能家)、オーディオ評論家(商売屋)と、
このブログで書いていても、どちらにしてもオーディオ評論家と認識のことである。

その人は、その意味ではオーディオ評論家ではない。
どの人なのかは、あえて書かない。

それでも昨晩の川崎先生のfacebookを読んだ人ならば、
伏せ字とはいえ、誰なのかはすぐにわかろう。

川崎先生の投稿からは、川崎先生の強い怒りが感じられる。

その人(ホームシアター評論家と呼ぶべきか、違う呼称もあるけれど)は、
この業界ではもっとも力がある人といえる。

オーディオショウに行ってみればわかる。
国産メーカーの人たちの、その人に対する態度を見ていれば、わかる。

それだけの影響力がある、とメーカー側は見ているのだろう。
その影響力に関しては、長岡鉄男氏と同じくらいではないか、とすら思えてくる。

その人が書いたものは、ずっと以前は仕事柄読んでいた。
いまはまったく読んでいない。

それでもひとつ感じることがある。
その人には、熱心な読み手がいるのだろうか、ということだ。

私は長岡鉄男氏に対して否定的な立場である。
それでも長岡鉄男氏には、熱心な読み手がいたことはわかっている。

長岡ファン、長岡教の信者とはいわれるほどの熱心な読み手がいた。
そういう人たちがいるから、いまでも長岡鉄男氏の本が出版されている。

長岡鉄男氏だけではない、
私自身、瀬川先生、岩崎先生、五味先生、菅野先生の熱心な読み手である。

その人には、熱心な読み手はいないように、私は感じている。
熱心な読み手がついていないのに、影響力があると業界はみているのか。

評論の立ち位置を、その人は変えてしまったのか。

Date: 1月 27th, 2019
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(ルールブレイカーか・その4)

二時間ほど前に「「新しいオーディオ評論」(バランサーであること)」を書いた。
ルールブレイカーとバランサーであることは、私のなかでは矛盾しない。

むしろルールブレイカーでなければバランサーたりえない。

Date: 1月 27th, 2019
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(バランサーであること)

「ピュアオーディオという表現(バラストなのか)」で、
アキュフェーズの創業者、春日二郎氏の「オーディオ 匠のこころを求めて」から、
ピュアオーディオについて書かれているところを引用した。

もう一度引用しておく。
     *
 船舶は、転覆をしないように重心を低くするため、船底に重いバラスト(底荷)を積んでいる。これは直接的な利潤を生まない「お荷物」ではあるが、極めて重要なものである。
 歌人の上田三四一(みよじ)氏は、「短歌は高い磨かれた言葉で的確に物をとらえ、思いを述べる、日本語のバラスト(底荷)だと思い、そういう覚悟でいる。活気はあるが猥雑な現代の日本語を転覆から救う、見えない力となっているのではないか」、このように書かれている。

 純粋オーディオも、人類にとって大切なオーディオ文化を守る重要なバラストの役目をしているのではないだろうか。
     *
その時、オーディオはバラストといえる、と書いた。
いまもそう思っている。

そして、オーディオ評論家はバランサーである、とも思うようになった。

Date: 1月 8th, 2019
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その19)

取材・試聴が大変だった号がよく売れ、
そうでない号はあまり売れないのであれば、話は違ってこよう。

けれど現実は必ずしもそうではない。
その17)で書いているように、
二冊のチューナー特集号の取材・試聴は大変だったはず。
けれど売れない。

チューナー特集号のころは、すでにFM放送がブームになっていた時期のはず。
それでも売れなかったのは、不思議な気もする。
ステレオサウンドの読者は、あまりチューナーに関心がなかったのか。
そのくらいしか理由は思い浮かばない。

そのころの原田勲氏は、
株式会社ステレオサウンドの社長(経営者)であり、
季刊誌ステレオサウンドの編集長であった。

編集者としてやるだけのことはやった、と自負できる号が売れていれば、
社長としての原田勲と編集長としての原田勲は仲良くできただろうが、
現実はそうでもなかった。

雑誌は売れ残れば返本される。
前の号の売行きが芳しくないと、書店に置かれる数にも影響してくる。

それに返本された分に関しても、保管して置くためのスペースが要り、
それには費用も発生するし、売れなかった本とはいえ、それは資産として扱われる。

だから裁断処分されることになる。
これにも費用がかかる。

売行きは安定してほしい。
経営者は誰もがそう考えるはずだ。

そのためにどうするか。

ここまで書けば十分だろう。
つまりステレオサウンドを変えてしまったのは、
特集の内容によって買ったり買わなかったりしていた読者でもある。