Archive for category オーディオ評論

Date: 12月 1st, 2010
Cate: オーディオ評論, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その17)

「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論」のなかで、
「少なくとも昭和三十年代の半ば頃までは、アンプは自作するのが常識だった」と書かれている。

なにもアンプだけでなく、スピーカーにおいてもそうだったし、
さらにはトーンアームやカートリッジまで自作されている方がおられたことは、
ラジオ技術の古い号を見ると、わかる。

昭和三十年代の半ば、つまり1960年ごろ、海外にはすでに優れたオーディオ機器が誕生していた。
ただ、日本でそれらを購入できる人はごく限られた人であり、
国産メーカーも存在していても、腕の立つアマチュアの手によるモノのような水準が高かったようだ。

そういう時代を、ステレオサウンドの創刊当時の筆者の方々はみな経験されている。
岡俊雄、岩崎千明、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、山中敬三。みなさんそうだ。
アンプは自作するもの、という時代(ステレオサウンドが創刊される前)にすでに活躍されていた。
みなさん、オーディオを研究されていた。

瀬川先生は自作について、「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論」で書かれている。
     *
なまじの自作よりもよほど優秀な性能のオーディオ・パーツを、当時からみたらよほど安い価格で自由に選択できるのだから、その意味からは自作する理由が稀薄になっている。しかし、オーディオの楽しみの中で、この、自作するという行為は、非常に豊かな実り多いものだと、わたくしはあえて申し上げたい。
     *
なにも カートリッジからアンプ、スピーカーに至るまですべてのモノを自作できるようになれとか、
メーカー製のモノと同等か、さらにはそれよりも優れたモノが作れるようになれとか、
そんなことをいいたいわけではなくて、なんでもいい、アンプでも、スピーカーでも、
なにかひとつ自作して、時間をかけてじっくりと改良していく過程を、
やはりいちどは体験してもらいたい、と思っているだけだ。

アンプだって、パワーアンプだけでもいいし、コントロールアンプ、それもラインアンプだけでもいい。
ラインアンプだけなら、とっかかりとしてはいいかもしれない。

別項で真空管のヒーターの点火について書いている。
真空管単段のラインアンプをつくったとする。
部品点数はそう多くない。少ないといってもいい。

アンプ本体はまったくいじらず、ヒーター回路だけをあれこれ試してみるのもいいだろう。
電源だけをいじってみるのもいいだろう。
回路はまったく手をつけずに、部品を交換するのもいい。
アースポイントだけを変えてみるだけでもいい。
筐体構造まで含めてやっていくと、やれることにかぎりはない。
とにかく真空管単段のラインアンプでも、楽しもうと思えば、とことん楽しめる。

回路が単純だから単段アンプを例にしたまでで、
もちろん他の回路でもいい。真空管でなくてもいい。

いろいろ試したからといって、どんなに時間をかけたからといって、
メーカー製をこえるモノができあがるという保証はない。
あるのは、研究するという姿勢が必要だということを学べるということだ。

Date: 7月 18th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その16)

オーディオのこまごまとしたことに精通していて、耳がよければ、
それでオーディオ評論家としての資格は十分だろうし、
思想なんてものは、むしろないほうがいいと考えている人も、意外と多くいるのかもしれない。

思想なんて、うざったいだけだ、と。
だがオーディオ評論家は、ことばで音を表現する以上、絶対に思想はもっていなければならない。

「ひとは自分自身の思想を求め、形作るとき、自分自身の言葉を求め、形作る」

三木清氏の「軽蔑された飜訳」にでてくることばだ。

いいかえれば思想をもたない者には、その人となりの言葉をもたない、ということにつながっていく。
「自分自身の言葉を求め、形作る」ことができずに、
音を表現することは、どれだけ文章を書き続けていたとしても、とうてい無理なことだと断言しておく。

Date: 7月 2nd, 2010
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その15)

瀬川先生は五味先生のことを、どう想われていたのか。
ステレオサウンド 39号に載った「天の聲」の書評を読んでおきたい。
     *
 五味康祐氏の「天の聲」が新潮杜から発行された。言うまでもなくこれは「西方の音」の続編にあたる。《西方の音》は、おそらく五味氏のライフワークとして、いまも『芸術新潮』に連載中だから、まだ続編が出ることであろうし、そうあることを期待している。実をいえば私は『芸術新潮』の方は、たまに店頭で立読みするだけで、それだからなおのこと、こうして一冊にまとまった形でじっくり読みたいのである。
 五味康祐氏とお会いしたのは数えるほどに少ない。ずっと以前、本誌11号(69年夏号)のチューナーの取材で、本誌の試聴室で同席させて預いたが、殆んど口を利かず、部屋の隅で憮然とひとりだけ坐っておられた姿が印象的で、次は同じく16号(70年秋号)で六畳住まいの拙宅にお越し頂いたとき、わずかに言素をかわした、その程度である。どこか気難しい、というより怖い人、という印象が強くて、こちらから気楽に話しかけられない雰囲気になってしまう。しかしそれでいて私自身は、個人的には非常な親近感を抱いている。それはおそらく「西方の音」の中のレコードや音楽の話の書かれてある時代(LP初期)に、偶然のことにS氏という音楽評論家を通じて、ここに書かれてあるレコードの中の大半を、私も同じように貧しい暮しをしながら一心に聴いていたという共通の音楽体験を持っているからだと思う。ちなみにこのS氏というのは、「西方の音」にしばしば登場するS氏とは別人だがしかし「西方の音」のS氏や五味氏はよくご存知の筈だ。この人から私は、ティボー、コルトオ、ランドフスカを教えられ、あるいはLP初期のガザドウシュやフランチェスカフティを、マルセル・メイエルやモーリス・エヴィットを、ローラ・ボベスコやジャック・ジャンティを教えられた。これ以外にも「西方の音」に出てくるレコードの大半を私は一応は耳にしているし、その何枚かは持っている。そういう共通の体験が、会えば怖い五味氏に親近感を抱かせる。
 しかし内容についてそういう親近感を抱かせながら「西方の音」は私にとってひどく気の重くなる本であった。ひと言でいえばそれはオーディオに関してこういう書き方があったのかという驚きであると同時に、しかし俺にはとてもこうは書けないという絶望に近い気持であった。オーディオについていくらかは自分の世界を築いてきたというつもりが実は錯覚であって、自分の世界など無きに等しい小さな存在であることを思い知らされたような、まるで打ちのめされた気持であった。ごく最近に至るまで、オーディオについて何か書こうとするたびに、「西方の音」が重くのしかかっていたことを白状しなくてはならない。
 とてもこうは書けないという気持は、ひとつは文章のすごさであり、もうひとつは書かれている内容の深さである。文章については、文学畑の人の文章修業のすさまじさを知れば知るほど、半ばあきらめの心境でこちらはしょせん素人だと、むろん劣等感半分で開き直ってしまえばよいが、オーディオの、ひいては音楽の内容の深さについてはもう頭が上がらない。
 ひとつの観念をできるかぎり正確で簡明なしかも格調の高い言葉に置きかえるという仕事を、近代以降の日本では小林秀雄がなしとげている。その名著「モオツァルト」について、文章のうまいというのは得ですね、と下らないやきもちを焼いた音楽評論家の話はもはや語り草だが、「西方の音」や「天の聲」も、オーディオでものを書く人間には、一種の嫉妬心さえ煽り立てる。それくらい、この行間には美しい音が、ちりばめられ、まさに天の聲のような音楽が絶え間なく鳴ってくる。まさしく五味康祐氏の音が鳴ってくる。
 先に上梓された「西方の音」には、しかしオーディオへの積年のうらみが込められていたように私には思える。それは決して巷間言われるコンクリートホーンを作った技術者へのうらみではなく、筆者をそれほどまで狂おしい気持にさせ、そこまでのめり込ませずにおかないレコードとオーディオへのうらみであった。したがってそこには、オーディオ機器を接ぎかえとりかえ調節しては聴きふける筆者の生々しい体臭があった。
「天の聲」になると、この人のオーディオ観はもはや一種の諦観の調子を帯びてくる。おそらく五味氏は、オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったに違いない。前半にほぼそのことは述べ尽されているが、さらに後半に読み進むにつれて、オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる。しかもこの音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう。ずっと昔、まだモノーラルのころ、ヴァンガード/バッハギルドのレコードで、レオンハルトのチェンバロによる「フーガの技法」を聴いたとき、音楽が進むにつれて次第に高くそびえる氷山のすき間を進むような恐ろしいほどの緊迫感を感じたことがあった。むろんこのレコードを今聴いたら違った印象を持つかもしれないが、何か聴き進むのが息苦しくなるような感覚があった。「天の聲」の後半にも、行間のところどころに一瞬息のつまるような表現があって、私は何度も立ちどまり、考え込まされた。
     *
ここにでてくるふたりのS氏──、ひとりは新潮社の齋藤十一氏、
もうひとりの、瀬川先生にとってのS氏、音楽評論家のS氏は西条卓夫氏のことだ。

Date: 6月 29th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その14)

先生ならばどのように書かれるだろうか、書くことにつまずいたとき、
ぼくはいつも、そう考えてみることにしている……
     *
瀬川先生が書かれた文章だ。
「先生」とは五味康祐氏のことだ。

Date: 6月 23rd, 2010
Cate: オーディオ評論, 五味康祐

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その13)

五味先生はオーディオにおいて何者であったか、といえば、オーディオ研究家ではない。
いい音をつねに求められてはいたから求道者ではあっても、
オーディオ機器を学問として研究対象として捉えられていたわけではない。

評論家でもない、研究家でもない。
私は、オーディオ思想家だと思っている。

五味先生の、そのオーディオの「思想」が、瀬川先生が生み出したオーディオ「評論」へと受け継がれている。

Date: 6月 22nd, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その12)

五味先生の「五味オーディオ教室」から私のオーディオは始まったわけだが、
いちども五味先生をオーディオ評論家と思ったことはない。

最初に「五味オーディオ教室」を読んだときも(もっともこのときはオーディオ評論家という存在を知らなかった)、
その数カ月後ステレオサウンドを手にしてからも、
ステレオサウンド 47号から再開された「続・オーディオ巡礼」を読んだときも、
ただのいちども、五味先生をオーディオ評論家として捉えたことはない。

これから先もずっと、そうだと断言できる。

なのに、世の中のオーディオマニアのなかには、五味先生をオーディオ評論家として捉えている人が、いる。
それもひどいのになると、ツンボのオーディオ評論家、とネットに書き込んでいる輩がいる。

なぜ、この人たちは、五味先生をオーディオ評論家として見ているのか。
五味先生がオーディオ評論家ではないこと、この自明のことがどうして理解できないのか。

Date: 6月 21st, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その11)

ステレオサウンド 62号の瀬川先生の追悼記事は、五味先生の文章の引用から始まっている。
     *
瀬川氏へも、その文章などで、私は大へん好意を寄せていた。ジムランを私は採らないだけに、瀬川君ならどんなふうに鳴らすのかと余計興味をもったのである。その部屋に招じられて、だが、オヤと思った。一言でいうと、ジムランを聴く人のたたずまいではかった。どちらかといえばむしろ私と共通な音楽の聴き方をしている人の住居である。部屋そのものは六畳で、狭い。私もむかし同じようにせまい部屋で、生活をきりつめ音楽を聴いたことがあった。(中略)むかしの貧困時代に、どんなに泌みて私は音楽を聴いたろう。思いすごしかもわからないが、そういう私の若い日を瀬川氏の部屋に見出したような気がした。(中略)
 ボベスコのヴァイオリンでヘンデルのソナタを私は聴いた。モーツァルトの三番と五番のヴァイオリン協奏曲を聴いた。そしておよそジムラン的でない鳴らせ方を瀬川氏がするのに驚いた。ジムラン的でないとは、奇妙な言い方だが、要するにモノーラル時代の音色を、更にさかのぼってSPで聴きなじんだ音(というより音楽)を、最新のスピーカーとアンプで彼は抽き出そうと努めている。抱きしめてあげたいほどその努力は見ていて切ない。
     *
ステレオサウンド 16号に掲載された、五味先生のオーディオ巡礼の文章である。

「音を描く詩人の死──故・瀬川冬樹氏を偲ぶ」の記事を書きまとめられた人(倉持公一氏)は、
この引用の文章のあとにつづけている。

「五味先生は、ご自分と、とても似た血の流れていることを聴きとられていたのである。」

このことこそが、瀬川先生が「オーディオ評論」を始められたことにつながっていっている、と私は思っている。
つまり、五味先生の存在がなかったならば、瀬川先生の「オーディオ評論」は、
ずいぶん違ったものになっていったであろう……、そんな気もするわけだ。

Date: 6月 14th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その10)

それでは、瀬川先生以前にオーディオについて書いてこられた方たちは、
オーディオ評論家ではないとしたら、なんなのかとなるわけだが、オーディオ研究家だと、私は受けとめている。

瀬川先生よりも上の世代の方々──、
淺野勇氏、伊藤喜多男氏、加藤秀夫氏、今西嶺三郎氏、岡原勝氏といった面々の名前が浮ぶ。
他にもいらしっゃるが、この方たちは、優秀なオーディオ研究家であったり、アンプの研究家(製作者)である。

瀬川先生も、オーディオ研究家のひとりであった時期がある。アンプ製作者・研究家であった時期もある。
最初から、オーディオ評論家だったわけではない。

Date: 5月 10th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その9)

オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。
彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、
オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、
文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。

長島先生が、サプリームNo.144に書かれた一節だ。
No.144は、瀬川冬樹追悼号。
「彼」とは瀬川先生のことだ。

瀬川冬樹からオーディオ評論は始まった。
私も、そうだと思っている。

Date: 4月 6th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その3・続×五 補足)

「Don’t think. Feel!」
これは、ブルース・リーの有名なセリフ。

「考えるな、感じろ!」は、オーディオにおける観察にも、そのままあてはまる。

井上先生がよく言われていたのは、
「頭で聴いている人を、音でひっかけるのは、別に難しいことでもなんでもない」

音は耳で聴くものだが、先入観をもって聴いている人をさして、「頭で聴いている人」という。
どんなにオーディオのキャリアのある人でも、うまく先入観をもたせることができたら、
その人の耳を騙そうと思えば、わりと簡単に騙せるわけだ。

わずかばかりの先入観によって、
いま鳴っている音、観察すべき対象を正しく感じとれなくなる危険性がある。

だから「Don’t think. Feel!」を私なりに訳すとしたら、
「まず感じろ、考えるのはそれからだ」としたい。

とにかく感じとることから、はじまる。

感じとる力(感応力)がない人は、技術書に活字として載っていることのみが、
事実となり、己で事実を感じとることができなくなるのだろう。

Date: 4月 5th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その3・続々続々補足)

ある現象に着目し、それを解明していくことこそ、科学的なことだと考える。

まず観察する能力が求められるのではないだろうか。

先人たちが解明したことを、なんとかのひとつ覚えのように、
ただヒステリックに、断片的にさけび、
己の勝手な主張、そして感情を押し通す・押しつけるために、
話をすげ替えていくことが、科学的なことだとはいえない。

オーディオにおける観察する能力とは、
まず音を聴き分ける能力であるし、その観察する環境を整えることでもある。

観察する環境とは、己の環境である。
つまり、観察する環境を整える能力は、セッティングであり、チューニングであろう。

しかもこのセッティングとチューニングにも、当然のことながら、
観察する能力(音を聴き分ける能力)が求められる。

Date: 4月 3rd, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その3・続々続補足)

このブログにおいてもTwitterでのつぶやきにおいても、
いまのオーディオ評論家とよばれている人たちについて、否定的立場をとっている。

彼らを擁護するつもりはないが、それでもひとつはっきりとさせたいのは、
彼らが、このようになったのは、すべての読み手とはいわないが、
一部の読み手側にも責任の一端がある、ということ。

Date: 4月 3rd, 2010
Cate: オーディオ評論
12 msgs

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その3・続々補足)

志賀氏の「オーディオの科学」を信じられるのは、いい。
別にそのことは否定しない。
そして、私の、このブログを否定されるのも、いい。
何を信じ、何を信じない(否定するか)は、その人次第だからだ。

けれど、オーディオはまだまだ経験則を、ときとして優先しなければならないときが、少なからずある。
「そんなことはない!!」、と強い口調で、どん吉さんは、おっしゃるかもしれない。

なぜ、ご自身の耳を優先されないのか。そこが、私の知りたいところである。

そして、聴いても、ケーブルの方向性によって、音の変化はない、という言われるだろう。
それもまた、どん吉さんにとっての事実である。
私にとっての事実ではない。

どちらが「真実」かといっているのではない、ということを理解してほしい。

Date: 4月 3rd, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その3・続補足)

ケーブルの方向性による音の変化が起きることに、
それがなぜなのか、理屈では説明できないところがあったからだ。

技術者の方も、ケーブルの方向性によって音が変化することは確認されていた。

こう書くと、たぶん、どん吉さんは、その技術者もオカルトであり、
そのメーカーもオカルトだと断定されるだろう。

そうされたければ、ご自由・ご勝手に、というしかない。
人の意見を耳を貸す心のゆとりがまったくない人ならば、自分の意見をいうのは控えるべきだ。

ケーブルの方向性が発生する理由について、彼らもあれこれ探っている、と話してもらえた。
いくつかの理由が候補としてあるけれども、実際の製造・出荷の過程を考えると、
それらが理由とは断言できない、ということだった。

ケーブルの方向性によって音が変わる理屈が、現時点では見つからないから、といって、
なぜ「オカルト」だと断言できるのか、私には、そのことが「オカルト」であるし、
「複雑な幼稚性」と言いたい。

オーディオは科学技術の産物である、が、その「科学」がすべて解明しているわけではない。
なぜ、この大事な前提が、すっぽり頭から抜け落ちているのだろうか。

Date: 4月 3rd, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その3・補足)

この項の(その3)に対して、コメントがあったので補足しておく。

まずはっきりとしておきたいのは「オーディオの科学」を否定しているわけではないということ。

コメントをしてくださったどん吉さんは、私が「オーディオの科学」を否定している、と受けとめられているが、
そんなことはない。

感情的にならず最初からきちんと読めば、わかってもらえるはずだ。

それに志賀氏の経験が足りない、などはひと言も書いていない。
どうして、そう受けとられたのか、正直、少々理解に苦しむ。

ここでもういちどくり返すことになるが、
私が言いたいのは、「読み手」について、なのである。

だからこそ、「有機的な体系化」を自分自身で行なわなければならない、と書いている。

はっきりと書くが、ケーブルの方向性について、頭から「オカルトだ」と否定する人がいる。
どん吉さんもそのひとりだが、なぜ「オカルト」なのかについては説明されていない。

ケーブルの方向性については、ステレオサウンドにいる時に、
大手のケーブルメーカーの技術者の方に、「どう思うのか」ときいたことがある。