老いとオーディオ(齢を実感するとき・その12)
ことオーディオに限って、には、
オーディオを通して聴く音楽もふくめてのことだ。
狭く・浅いままの世界で、好きな演奏家、歌手を一流と思い込んでしまう。
時には超一流とも思い込んでしまう。
それが趣味の世界だろう、という人がいるのはわかっている。
けれど、それが本当に趣味の世界なのだろうか。
少なくとも、オーディオという趣味の世界ではない。
好きな演奏家、歌手を超一流と思い込み続けるためには、
狭く・浅い世界に囚われたままでいるしかない。
ことオーディオに限って、には、
オーディオを通して聴く音楽もふくめてのことだ。
狭く・浅いままの世界で、好きな演奏家、歌手を一流と思い込んでしまう。
時には超一流とも思い込んでしまう。
それが趣味の世界だろう、という人がいるのはわかっている。
けれど、それが本当に趣味の世界なのだろうか。
少なくとも、オーディオという趣味の世界ではない。
好きな演奏家、歌手を超一流と思い込み続けるためには、
狭く・浅い世界に囚われたままでいるしかない。
ことオーディオに限っても、若いは狭い(浅い)と、いまはいえる。
狭く・浅いからこそ、確信が持てることがある。
でも、それは狭く・浅いからこその確信であって、
その確信に囚われてしまっては、狭く・浅いままである。
狭く・浅いままの世界は、居心地がいいのかもしれない。
趣味の世界だから──、という人もいよう。
オーディオの世界に限っていえば、狭く・浅いままでいいとは私はまったく思っていない。
趣味の世界であってもだ。
そういう人は、狭く・浅いまま老いていくのか。
今日(1月29日)、ひとつ歳をとった。
56になった。
55も一の位を四捨五入すれば60になる。
それでも55と56の違いは、60という年齢をどれだけ意識するかということでは、
なってみてけっこうな違いのように感じている。
もう60がそこまで来ているようにも感じるし、
まだまだあるような気もしないわけではないが……。
14年前のことを思い出していることも関係しているのかもしれない。
川崎先生が菅野先生にたずねられたことが、よみがえってくる。
「50代をどう生きるべきですか」
そう川崎先生はきかれていた。
川崎先生(1949年生れ)と私(1963年)は14違う。
ちょうど、そのときの川崎先生と同じ年齢になっている。
厳密には川崎先生は2月生れなので、一ヵ月のズレはある。
「50代をどう生きるべきか」
14年前は、まだまだ先のことと思っていたことに、直面している。
(その1)で書いたイベントでは、プレーヤーの傾きもそうだったが、
ハウリングに関しても、ひどかった。
音楽が鳴っているときにハウリングが起っているのが、はっきりとわかるほどのひどさだった。
プレーヤーを操作している人も、ハウリングが起きているのは少しすればわかるようで、
音量を少し下げる。
こんな再生環境で、オリジナル盤が音がいい、と、
そのイベントの常連の方たちは、本気で思っているのか。
ハウリングが簡単に起ってしまうような状態で、日常的に音を聴いているのであれば、
それもまたすごいことだし、常連の方たちをみまわすと、
ハウリングが起っていることに、どうも気づいていない感じの人も数人いた。
そういう環境でも、オリジナル盤は音がいい、ということなのか。
なんにしても、イベントの準備の段階でハウリングのチェックはしなかったのか。
ターンテーブルプラッターを停止させた状態で、ディスクに針を降ろす。
そしてアンプのボリュウムをあげていく。
この、アナログプレーヤーの設置において最も基本的なチェックをしなかったのか。
10代のころ、国産の普及クラスのアナログプレーヤーを使っていたときでも、
ハウリングには十分気をつけていた。
ボリュウムが何時の位置でハウリングが起きはじめるのか。
2時の位置でも、なんとか大丈夫だった。
フルボリュウムにすれば、ハウリングを起していた。
もういまではハウリングもハウリングマージンということも忘れかけられているのだろうか。
ステレオサウンドで働くようになって、アナログプレーヤーは替っていった。
マイクロの5000番の糸ドライヴも使っていた。
このときもハウリングマージンは十分に確保していた。
次にトーレンスの101 Limited(930st)の時には、
フルボリュウムでもハウリングは起していなかった。
ハウリングを気にしながら、ボリュウム操作はしたくない。
このことも重要なことだが、
ハウリングが起きやすい状態で聴いていて、音を判断できるのか、と、
ハウリングに無頓着の人に問いたい。
28年前の8月は、今年ほどではないにしても暑かった。
8月下旬に左膝を骨折した。
夜だった。
近くの大学病院(いまニュースになっている大学)は空きがないということで、
翌朝、もう一度来てくれ、といわれた。
独り暮しの部屋に帰り、横になっても寝つけなかった。
5時ごろの日の出が待ち遠しかった。
ふたたび大学病院に行く。
系列の病院に入院しなさい、といわれた。
ほとんどそれだけのために行ったようなものだった。
また帰宅して入院の準備。
紹介された病院へと行く。もう薄暗くなっていた。
退院したのは10月なかば。
すっかり涼しくなっていた。
入院した時はTシャツと短パンだったけれど、それで退院するわけにもいかず、
友人に秋用の服を頼んだ。
水不足の夏だった。
退院のときは、水の心配をすることもなくなっていた。
一ヵ月以上の入院だと季節が変っていく。
春に入院して初夏に退院するのと、
晩夏に入院して秋に退院するのとでは、入院している者の心境は同じとはいえないだろう。
骨折でもそんなふうに感じていた。
一ヵ月、二ヵ月……、入院が長くなれば、夏の暑さは遠いものになってしまう。
冬が近づいていることを感じられていたのではなかろうか。
11月7日に、おもうことに、
8月7日に、おもうことが加わったのは、歳をとったからだ。
岡先生の文章を読んでいると、
8月7日の時点で救急車を呼んでいてもおかしくなかったように思う。
翌朝にしても、そうである。
瀬川先生は独り暮しだった。
8月7日の夜、どんなに長かったろうか、とおもう。
まんじりともせず夜が明けるのを俟たれたのではないのか。
四年前の「続・モーツァルトの言葉(その3)」で、
ネクラ重厚、ネアカ重厚、ネクラ執拗、ネアカ執拗といったことを書いた。
ネアカ重厚、ネアカ執拗で、オーディオ(音)に取り組んでいるつもりだが、
ネクラ重厚ではなく、ネクラ軽薄もあるように、
別項の「時代の軽量化」を書き始めて、思うようになった。
このネクラ軽薄が、(その2)でふれた「深刻ぶっているね」にも関係しているような気がする。
ウエスギ・アンプのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1。
ふたつのKT88のプッシュプルアンプの対比というより、
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」では、二人の女性の対比である。
歌い出しの「抱きしめて」。
その後に続く歌詞。
一人は「抱きしめて」といいながら、
こちらとの距離をぐっと縮めてくる。
「抱きしめて」の歌詞のあとは、すぐそこにいるような錯覚すら起す。
もう一人の「抱きしめて」は、そこに込められている心情は同じであっても、
ずっと控えめだ。奥ゆかしいともいえよう。
実際にこんなシチュエーションがあったなら、
そのあとにとる行動は、男ならみな一緒であろう。
それでも控えめな「抱きしめて」のあとには、
こちらから近づいていく必要はある。
(その6)で上杉先生の、ステレオサウンド 60号での発言を引用している。
ここでは、もう引用しないが、つまりはそういうことだ。
控えめな「抱きしめて」でも、そういうことである。
肝心なところは同じであり、そういう違いをTVA1とU·BROS3には感じる。
若いころならTVA1を迷うことなく選ぶ、と(その7)で書いている。
そのころから30年が経っている。
どちらの「抱きしめて」も、いい。
聴き手のこちらの心情も、いつも同じなわけではない。
TVA1の「抱きしめて」でなければならない時もある。
U·BROS3の「抱きしめて」こそ、と思うときもある。
歌っているのはグラシェラ・スサーナである。
一人の歌手なのに、アンプというシステムの内面が変ることで、
「抱きしめて」も、それに続く歌詞も、
込められている心情は変らずとも表現はまるで違ってくる。
アンプの違いが、心情の違いになってしまっては困る。
なんともつまらない「抱きしめて」になってしまうアンプもある。
そんなアンプなら、「抱きしめて」を誰かと一緒であっても聴けよう。
けれど、心情をきちんと歌にのせてくれるアンプであるなら、
TVA1にしてもU·BROS3にしても、これはやはり独りで聴くしかない。
誰かと一緒でも聴ける、という人は、
「抱きしめて」に込められている心情がわかっていない。
それだけだ。
私はそれほど多くのオーディオマニアを知っている(会っている)わけではない。
私より、ずっと多くのオーディオマニアを知っている人は、多い、と思う。
そんな経験のなかでの話だが、
オーディオマニアのなかには、深刻ぶっている人がいる。
「深刻ぶっているね」と、本人に向って言うわけではないが、
そういうオーディオマニアといっしょにいると、
真剣と深刻の違いについて考えたくなる。
私が勝手に「深刻ぶっているね」と感じているだけで、
本人にしてみれば、真剣にやっているんだろうな、とは頭では理解できる。
それでも、やっぱり「深刻ぶっているね」と感じてしまうことがある。
その人が不真面目にオーディオに取り組んでいるから、
「深刻ぶっているね」と感じるわけではない。
真剣と深刻を取り違えている──、
そう感じるのだ。
その人は、真剣と深刻を取り違えるのは、何かが欠けているからなのか。
若いころは、余裕がない人が深刻ぶるのかな、と思ったことがある。
そうかもしれない。
そうだとすると何故余裕がないのか(持てないのか)。
戯れること、戯れ心が欠けているから、のような気がする。
病院では多くの人が働いている。
大学病院と呼ばれる規模のところでは、
いったいどれだけの人が働いているのだろうか。
医師、看護師、検査技師、事務関係に就く人たちは、
病院が雇っている人たちである。
この人たちの他に、
調理・配膳、掃除、ゴミ回収、リネン関係、ヘルパー、補修関係、警備などの人たちがいる。
これらの仕事に就く人たちを、病院側は外部の業者に委託していることが多い。
病院での掃除、ゴミ回収、補修関係を引き受けている会社の人から聞いた話では、
高齢化が進んでいる、ということだった。
若い人も積極的に採用している。
18歳の人もいるけれど、ある大学病院で働いている、
その会社の人たちの平均年齢は50代後半である。
若い人がいても、その数は少なく、
70をすぎても働いている人が少なくないから、である。
若い人が集まらない、らしい。
だから高齢の人たちに頼るしかない。
この会社だけではなく、リネン関係でも同じような状況らしい。
若い人がまったくいない。
ある年齢以上の人たちしか集まらない。
リネンを請け負っている会社の人たちの平均年齢も高い、とのこと。
この人たちがいなければ、病院は機能しなくなる。
汚れ物やゴミはすぐに溜ってしまうし、
病室も汚れたままになってしまう。
通院、入院している人たちは、そういう人たちの存在にあまり気が向かない、と思う。
病気、けがを治したくて通院、入院しているだから、
医師、看護師といった人たちには注意がいっても、
そうでない人たちのことは特に意識することはなくても不思議ではない。
だから気づきにくいのかもしれない。
このまま、いまの状況が進んでいくと、どうなるんだろうか。
改善される、とは思えない。
同じようなことは、実は他の業種・業界でも起っていて、進んでいるのかもしれない。
オーディオ業界も例外ではない──、そんな気がする。
いつどこで、といったことを書くと、
その場にいた人ならば、もしかして……、と気づくかもしれないし、
それに特定の誰か何かを批判したいわけでもないから、
そういったことはすべて省くが、
とあるところで、とある日に、アナログディスクをかけるイベントがあった。
たまたま近くにいたこともあって入ってみた。
すぐ目につくところにアナログプレーヤーが置かれていた。
けれど不安定そうなテーブルの上に置かれていて、
プレーヤーから3mほど離れていても、明らかにプレーヤーが傾いているのがわかる。
なのに、かまわずアナログディスクが次々とかけられていく。
いわゆるオリジナル盤だったりするアナログディスクがかけられている。
そのイベントを主宰している人たちは、私よりも年輩の方たち。
なのに……、と思う。
こんなにいいかげんなセッティングのままで鳴らすのか、と。
セッティングのいいかげんさは、ハウリングにもあらわれていた。
アナログプレーヤーは持ち込まれたようだった。
それゆえに完璧といえるレベルでのセッティングに無理にしても、
プレーヤーの傾きぐらいはきちんとしておくべきである。
しかも不思議なのは、プレーヤーの前後方向の傾きについては、
ある方法で確かめていた。
その方法を書くと、どこでのイベントだったのかバレそうなので書かないで、
その方法で左右方向の傾きをチェックすればいいのに……、と思う。
もっともそんな方法でチェックしなくても、目で見て傾いているのだから、
それ以前の問題なのだが。
アナログディスク復権などといわれているようだし、
そのイベントも、その一貫のひとつなのだとしたら、
なんとも哀しいアナログディスク復権である。
と同時に、これもひとつの老い(劣化)なのかもしれない。
川崎先生の
《人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!》は、
仏教でいうところの五濁(ごじょく)につながっていくのだろう。
劫濁
煩悩濁
衆生濁
見濁
命濁
そうなのかもしれない。
川崎先生が、2010年5月にTwitterに書かれていた
*
人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!
*
誰だって毎年、歳をとっていく。
30になり、40になり、その十年後には50をこえる。
50からは60、70……とつづく。
《高齢による劣化》がおとずれる(まっている)。
にしても、老いるほどに、人はこれほどまでに違ってくるのか、とおもうことが、
私自身も50も半ばになったこともあって、増えてきた。
川崎先生は
《この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!》
と書かれている。
そのとおりなのかもしれない。
哀しみを存分に受け止められなかった人と、受け止められる人とがいて、
劣化から解放されない人と解放される人とがいる。
解放された人こそが、瑞々しさを得るのだろう。
つい先日も、川崎先生のこの言葉を思い出すことに出合った。
具体的なことは書かない。
何かが特定されるかもしれないことは書かない。
こんなにも人は「劣化」するのかと考え込むことがあった。
本人は、そんなことまったく思っていないのかもしれないが、
傍からみるこちらが辛くなるほどに「劣化」を感じてしまった。
本人がなにも感じてなければ、シアワセなんだろう。
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
audio wednesdayでの音で出しているのだろうか。
出せているのだろうか、それとも出せなくなったのか。
死は賜(し)であるならば、
自殺をしてはならぬわけが、ようやくわかる。