老いとオーディオ(若さとは・その2)
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
持っていただろうか……、とふりかえる。
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
持っていただろうか……、とふりかえる。
若さとは、
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
なのかもしれない。
ゲーテが語っている。
《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》と。
(ゲーテ格言集より)
「青は藍より出でて藍より青し」のもつ意味も、同じところにあるように思う。
そしてオーディオの現状を、おもう。
約一年前に「オーディオの楽しみ方(天真爛漫でありたい……)」を書いた。
一年間、毎日何かを書いてきて、天真爛漫でありたいのか……、と思うようになっている。
そして思い出している黒田先生の文章がある。
ステレオサウンド 59号掲載の「プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティッジ」だ。
最後に、こう書かれている。
*
マイルス・デイヴィスの音楽は、自意識とうたおうとする意思の狭間にあった。あった──と、思わず過去形で書いてしまって、自分でもどきりとしているところであるが、これからのマイルス・デイヴィスにそんなに多くを期待できないのではないかと、そのことを認めたくないのであるが、やはりどうやら、思っているようである。少し前から、マイルス・デイヴィスのうちの、自意識とうたおうとする意思のバランスがくずれて、彼は自意識の沼に足をとられておぼれ死にかかっている。
そのことに気づいたのは、今回、あらためて、プレスティッジの十二枚をききかえしたからである。一九五一年から一九五六年までの五年間にうみだされた十二枚のレコードは、さしずめ、マイルス・デイヴィスの「ヴェルテル」であった。マイルス・デイヴィスの「ドルジェ伯の舞踏会」といわずに、マイルス・デイヴィスの「ヴェルテル」といったのは、まだかすかにマイルス・デイヴィスの「ファウスト」を期待する気持があるためであろう。
しかし、いま、マイルス・デイヴィスに「ファウスト」が可能かどうかは、さして問題ではない。問題は、プレスティッジの十二枚をマイルス・デイヴィスの「ヴェルテル」と認識できた、そのことである。あそこではプライドが前進力たりえた。五十才をすぎた男にも、プライドを燃料として前進力をうみだしうるのであろうか。中年の男にとって、自尊心、あるいは自意識は、怯えうむだけではないのか。失敗したくない。つまらないことをして、しくじって、みんなに笑われたくない。そのためには、一歩手前でとりつくろえばいいとわかっていても、プライドがそれを許さない。いまのマイルス・デイヴィスは、自尊心と自意識の自家中毒に悩んでいるのかもしれない。
現在のマイルス・デイヴィスをウタヲワスレタカナリヤというのは、いかにもきれいごとの、気どったいい方である。もう少しストレートな表現が許されるなら、このようにいいなおすべきである、つまり、現在のマイルス・デイヴィスは直立しない男根である一方に、男根を直立させつづけ、しかもおのれの男根が直立していることを意識さえしていないかのようなガレスピーが、のっしのっしと気ままに歩きまわるので、マイルス・デイヴィスという不直立男根が、すべてのことが萎えがちなこの黄昏の時代のシンボルのごとくに思われ、不直立男根は不直立男根なりに意味をもってしまう不幸をも、マイルス・デイヴィスは背負っているようである。
ひさしぶりにプレスティッジのマイルス・デイヴィスをきいていて、ああ、マイルス! これがマイルス・デイヴィス! と思ったが、考えてみると、このところずっと、ディジィ・ガレスピーのレコードをきくことの方が多かった。ガレスピーは、考えこんだりしない。深刻にならない。永遠のラッパ小僧である。あのラッパ小僧の磊落さ、生命力、高笑いは、マイルス・デイヴィスには皆無である。であるから、マイルス・デイヴィスはいまつらいのであろうが、ききては、それゆえにまた、マイルス・デイヴィスの新作をききたいのである。二十年前の演奏をきいて、その音楽家のいまに、あらためて関心をそそられるというのは、これはなかなかのことで、プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティッジ(威光──、原義は魔力・魅力)が尋常でないからであると判断すべきであろう。
*
ディジィ・ガレスピーのごとく、オーディオを楽しむことこそが、
天真爛漫でいることなのだろうか。
黒田先生はかなりストレートな表現をされている。
《男根を直立させつづけ、しかもおのれの男根が直立していることを意識さえしていないかのようなガレスピー》
そう書かれている。
一方のマイルスを、《直立しない男根》であり、
《すべてのことが萎えがちなこの黄昏の時代のシンボルのごとくに思われ》る、と。
59号は1981年に出ている。
いまから35年前である。
いまは21世紀である。
20世紀末ではない。
その意味での黄昏の時代ではないけれど、別の意味での黄昏の時代なのかもしれない。
以前ほどではないけれど、いまも五味先生の文章を思い出しては読みなおすことがある。
13歳のときから読んでいるわけだから、もう40年近く読んでいる。
もういいかげんあきないのか、と、
五味先生の文章をまともに読んでいない人からはいわれそうだが、
それでも読む、読むのをやめることはない、と断言できる。
読み返すことで、言葉の重みが増していることを実感する。
だから、やめることはないと断言できるのだ。
さりげなく書かれていることが、若いころ読んだ印象よりも、ずっと重みを増している。
だからこそ実感している、ともいえる。
もうひとつ断言できる、
五味先生の文章に関する限り、半端な読み方はしてこなかった、と。
「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」。
古人の求めたる所を求めるからこそ、
「青は藍より出でて藍より青し」となる。
四年前、「古人の求めたる所」というタイトルで書いた。
四年前はまだ五十になってなかった。
もう五十を過ぎた。
一月には、またひとつ歳をとる。
松尾芭蕉の「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」──、
どれだけ古人の求めたる所を求めてきたのかだろうか……。
誰かが答えてくれるわけではない。
しつこいぐらいに書いているように、私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まった。
こう書いてあった。
*
むろん誰にだって、未来はある。私にもあった。私はその未来に希望を見出して働いて来た。五十の齢を過ぎて今、私の家で鳴っている音にある不満を見出すとき、五十年の生涯をかけ私はこれだけの音しか自分のものにできなかったかと、天を仰いで哭くことになる。この淋しさは、多分、人にはわからぬだろうし、筆舌に尽し難いものだ。
*
13の時に「五味オーディオ教室」と出逢い、読んだ。
「五十の齢」は、当時の私にはずっとずっと先のこと、
ぼんやりとも想像することはできずにいた。
いま「五十の齢」を過ぎている。
2020年東京オリンピックのエンブレムに関する騒動は、どうなっていくのだろうか、
そして関係者はどうするのか。
佐野研二郎氏のデザインには原案があり、
その原案はあるデザインと似ていたため修整が加えられ、発表されたものとなった。
その原案は公表するつもりはない、と大会組織委員会が語っていたけれど、
結局、原案は公表された。
そして、その日のうちに、この原案が何に似ていたのかが、インターネットでは話題になっていた。
すでにご存知の方も多いだろう。
「佐野研二郎 ヤン・チヒョルト」で検索すれば、いくつものサイトがヒットする。
佐野研二郎氏の原案は2013年に開催された、ヤン・チヒョルト展のロゴと、
その構成要素(長方形と三角形、円形)は同じだし、
その配置も基本的に同じである。
パクリだ、盗用だ、と騒然としている。
どちらもアルファベットの「T」である。
けれど受ける印象は大きく違う。
パクリというよりも、もはや劣化コピーとしかいいようがない。
ふたつの「T」の違いは、言葉にすればわずかである。
にも関わらず、大きな違いが印象として残る。
「細部に神は宿る」
昔からいわれていることを、これほど実感できることはそうそうない。
佐野研二郎氏を糾弾しようとは思っていない。
ふたつの「T」を見較べながら、自分自身も劣化コピーになっているかもしれない、と思わされた。
川崎先生の8月11日のブログ、『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』を思い出していたからだ。
ウエスギ・アンプのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1で、
女性ヴォーカルを聴いたとする。
どちらのKT88プッシュプルアンプが、情感をこめて鳴るだろうか。
この項の(その1)で引用した上杉先生の発言のように鳴ってくれるだろうか。
私は、この対照的なふたつのKT88プッシュプルアンプを最初に聴いたときは、
TVA1の方が、より情感のこもった歌が、そこで鳴ってくれる、聴けると感じていた。
だから疑問のようなものを感じていた。
上杉先生は、ステレオサウンド 60号で、
《恐らく歌手があなたにほれているという歌を歌うとすると、それは全身ほれているような感じにならないといかんと思うんです。全身ほれるということになれば、もっと極端なことを言うと、女性自身に愛液がみなぎって歌うときがこれは絶対やと思います。そういう感じで鳴るんですよ》
といわれているのは、
おそらく自宅でマッキントッシュのXRT20をご自身のアンプ、
つまりウエスギ・アンプで鳴らされた場合の音について語られているのだから、
上杉先生にとっては、ウエスギ・アンプは、つまりはそういう音で鳴ってくれるわけだ。
だが、私にはTVA1の方がそういう音で鳴ってくれるように感じていた。
いま思うと、そのときの私は若かった。
恋愛の、男女関係のくさぐさな経験があったわけではなかった。
そんな「若い」聴き手の耳にはTVA1の方が、よりそう聴こえた面もあることに、
いまは気づいている。
そのことに気づかさせてくれたのは、
グラシェラ・スサーナの歌う「抱きしめて」だった。
ウエスギのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1は、
KT88のプッシュプルアンプということで比較しがちだが、
確かにこのふたつのKT88のプッシュプルアンプは比較してみることが興味深い。
シャーシーは、TVA1はクロームメッキ、U·BROS3はアイボリーといったらいいのか、塗装仕上げである。
そのシャーシーの上にトランス、真空管が配置されるわけだが、
その配置もU·BROS3は四本のKT88を前面に横一列に並べている。
KT88の後方に電源トランスと出力トランスが、これまた横一列に並んでいる。
電圧増幅管はトランスの後に控えている。
TVA1は出力トランスと電源トランスをシャーシーの両端に振り分けている。
真空管はシャーシー中央に集められている。
手前から電圧増幅管、出力管と縦二列で並ぶ。
入出力端子も配置も対照的だ。
U·BROS3ではシャーシー後部にある。シャーシー前部にあるのは電源スイッチ。
TVA1ではシャーシー前部に電源スイッチの他に入出力端子を配置している。
U·BROS3は左右対称に整然と主要パーツを配置している。
TVA1は電源トランスを左右独立させ二電源トランスであったならば、ほぼ左右対称のコンストラクションとなるが、
電源トランスはひとつで、そこには電源の平滑コンデンサーが二本立っている。
二列の真空管も、よく見ると出力トランス側にやや寄っている。
出力トランス(二つ)と電源トランス(一つ)、
計三つのトランスが使われているのはU·BROS3もTVA1も同じだが、
U·BROS3はラックス製のケースにおさめられたトランス、
TVA1は巻線のところにクロームメッキのカバーをつけただけで、コアは露出したまま。
こういった外観の違い以上に内部の配線は、もっと対照的といえる。
ステレオサウンドで初めて見たウエスギ・アンプの印象は、
コントロールアンプのU·BROS1については、「こんなに大きいんだ」であり、
パワーアンプのU·BROS3は「意外に小さい」だった。
U·BROS1は横幅が53.2cmもあった。しかも外部電源である。
国産アンプの多くは横幅45cmくらいだった。
アメリカ製の19インチ・ラックマウント型でも48.3cmまでなのだから、
U·BROS1は横幅に関しては、当時もっとも大きかったコントロールアンプといえた。
U·BROS3は、横幅42cm、奥行き30cmのシャーシの上にトランス、真空管が配置されていて、
シャーシの塗装の色とラックスのトランスの形状も関係して、
実際のサイズよりも小さく見えた。
この小さく見えたという印象は、
ステレオサウンド 41号、45号の黒田先生の試聴記から感じていた「ひかえめ」でもあった。
U·BROS3のサイズは、
少し遅れてイギリスから登場してきたマイケルソン&オースチンのTVA1もほぼ同じである。
TVA1の横幅は45.7cm、奥行きが27.9cmとなっている。
U·BROS3、TVA1どちらもKT88のプッシュプルのステレオアンプであるが、
出力はU·BROS3が50W、TVA1が70Wと、
U·BROS3は、ここでもひかえめといえる。
そして、ひかえめなところを感じさせるのはU·BROS1とU·BROS3のペアが鳴らす音もだった。
41号、45号の上杉先生のアンプの音は聴いていないが、
黒田先生の試聴記は、ほぼそのままU·BROS1とU·BROS3のペアにもあてはまるものだった。
その点では納得したものの、今度は疑問のようなものも生じてきた。
それはウエスギ・アンプの音と、
ステレオサウンド 60号での上杉先生のあの発言がすぐには、結びつかなかったからだ。
上杉先生がステレオサウンド 41号に発表されたのは、KT88のプッシュプルアンプである。
黒田先生の試聴記は次のとおりである。
*
力士は、足がみじかい方がいい。足が長いと、腰が高くなって、安定をかくからだ。そんなはなしを、かつて、きいたことがある。本当かどうかは知らぬが、さもありなんと思える。上杉さんのつくったパワーアンプの音をきかせてもらって、そのはなしを思いだした。なにもそれは、上杉さんがおすもうさん顔まけの立派な体躯の持主だからではない。そのアンプのきかせてくれた音が、腰の低い、あぶなげのなさを特徴としていたからである。
それはあきらかに、触覚をひくひくさせたよう音ではなかった。しかしだからといって、鈍感な音だったわけではない。それは充分に敏感だった。ただ、そこに多分、上杉佳郎という音に対して真摯な姿勢をたもちつづける男のおくゆかしさが示されていたというべきだろう。
高い方の音は、むしろあたたかさを特徴としながら、それでいて妙なねばりをそぎおとしていた。むしろそれは、肉づきのいい音だったというべきだろうが、それをききてに意識させなかったところによさがあった。上の方ののびは、かならずしも極端にのびているとはいいがたかったが、下の方のおさえがしっかりしているために、いとも自然に感じられた。そこに神経質さは、微塵も感じられなかった。
座る人間に対しての優しいおもいやりによってつくられたにちがいない、すこぶる座り心地のいい大きな椅子に腰かけた時の、あのよろこびが、そこにはあった。ききてをして、そこにいつまでも座っていたいと思わせるような音だった。
*
45号には、このパワーアンプとペアとなるコントロールアンプとして、
マッキントッシュC22型といえるアンプを発表されている。
ここでも黒田先生が試聴記を書かれている。
*
幾分ひかえめなところがあるとしても、いうべきことを正確に、しかもいささかもいいよどむことなくいう人をまのあたりにするというのは、きわめて心地よいことだ。このプリアンプをきいての印象を、もし言葉にするとすれば、そういう人に会った時の感じとでもいうべきかもしれない。
決してでしゃばらない。決してあざとくおのれの存在を主張しない。どうです、このヴァイオリンの音、きれいでしょう(試聴したレコードのひとつに、ジュリーニがシカゴ交響楽団を指揮してのマーラーの第九交響曲の終楽章があったのだが)、きいてごらんなさいよ、こんなにつややかで──などと、おしつけがましくなったりしない。
しかし、ここからが肝腎なところだが、このプリアンプの音は、決して消極的ではない。すべての音は、ついにねころんだり、すわりこんだりすることなく、すっきりと立って、ききての方向に、確実な歩みで、近づいてくる。そういう折目正しさは、このプリアンプの魅力といえよう。
ただ、このプリアンプの、そういうこのましさを十全にいかそうとしたら、積極性を身上とする、つまり音のくまどりを充分につけてくれるパワーアンプを、相手にえらんだ方がいいということは、いえるにちがいない。しかし、この場合にも、スギタルハオヨバザルガゴトシという、正論があてはまる。
さまざまなひびきに、実に素直に、無理をせず、しなやかに、対応する。それはもちろん、大変な魅力だ。無駄口をたたく軽薄さからは、遠くへだたったところにある。ただ、相手の選択をひとつまちがうと、そういう魅力は、優柔不断という欠点になってしまう危険もなくはない。すっきりと立ちあがった音を、手前に歩かせるのは、むしろ、パワーアンプの役割というべきだろう。だとすれば、音をすっきりと立ちあがらせるこのプリアンの特徴は、そのままにこのプリアンプの美点となる。
*
ふたつの試聴記を読めば、共通するものがはっきりとあることが読みとれる。
ウエスギ・アンプに対する私の印象は、このふたつの試聴記によるところから始まっている。
私が聴いた最初のウエスギ・アンプは、U·BROS1とU·BROS3のペアである。
ステレオサウンドに常備してあった、このペアを聴いた。
上杉先生のステレオサウンド 60号での発言については続きを書くつもりはなかった。
けれどfacebookでのコメントを読んでいて、書きたいことが出てきた。
コメントには、
上杉先生の発言には、酷くがっかりしたとあった。それはいまも変らない、とのことだ。
けれど、ウエスギ・アンプの音を聴くと、妙に納得できてしまう、との書いてあった。
あの発言にがっかりする人、毛嫌いする人、
さまざまな人がいるのはわかっていた。
受けとめ方は人それぞれである。
大事なのは、それでもウエスギ・アンプの音を聴いて、「妙に」とはついていても納得されたことである。
上杉先生の発言にがっかりした人、毛嫌いした人の中には、
ウエスギ・アンプの音に対して先入観をもってしまう人もいたはずだ。
そういう人は、ウエスギ・アンプの音を聴いて、どう感じ、どう思ったのだろうか。
コメントをくださった方のように納得されたのだろうか、
それともまったく違う意味での納得された可能性だって考えられる。
私はというと、上杉先生の発言にがっかりしたり毛嫌いしたことはなかった。
けれど実際にウエスギ・アンプの音を聴いて、また違う意味で、私は納得していた。
ステレオサウンド 60号が出た時、
ウエスギ・アンプの音は聴いたことがなかった
ステレオサウンドにも、アンプのテスト記事、ベストバイにもウエスギ・アンプは登場していなかった。
例外的に47号のベストバイで、井上先生がU·BROS1について、
《暖かく、それでいて独特のプレゼンスの豊かさをもつ管球ならではの音》と書かれていたくらいだ。
そのころ私が読むことができた上杉先生のアンプの音に関する記事は、
ステレオサウンド 41号と45号で発表されたアンプの製作記事での、
黒田先生による試聴記だけだった。
別項で音の品位について書いている。
マッキントッシュのXRT20に対する、瀬川先生と菅野先生の違いから、
音の品位について書くために、ステレオサウンド 60号をぴっぱり出している。
上杉先生のXRT20に対する発言を、ぜひここで引用しておきたい。
*
上杉 プログラムソース別では何が魅力的かということになりますと、女性ヴォーカルの色気なんていうのは物すごく出ますね。
ぼくは歌手ではないし、まして女性ではないから、そういうことはわかりませんけれども、恐らく歌手があなたにほれているという歌を歌うとすると、それは全身ほれているような感じにならないといかんと思うんです。全身ほれるということになれば、もっと極端なことを言うと、女性自身に愛液がみなぎって歌うときがこれは絶対やと思います。そういう感じで鳴るんですよ(笑い)。いくら芝居で「あなたが好きだ」と歌ってもだめだと思うんです。そうなるとぼくは余り細かいことはいいたくないんです、そういう感じで鳴るものですから。
*
この上杉先生の発言の あとに《一同爆笑。しばし座談会は中断する。》とある。
そうだろう。
いまのステレオサウンド、
これからのステレオサウンドで、こういう発言が出てくることはおそらくないであろう。