Archive for category 老い

Date: 1月 8th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その3)

五味先生は、以前、こう書かれていた。
     *
 ポリーニは売れっ子のショパン弾きで、ショパンはまずまずだったし、来日リサイタルで彼の弾いたベートーヴェンをどこかの新聞批評で褒めていたのを読んだ記憶があり、それで買ったものらしいが、聴いて怒髪天を衝くイキドオリを覚えたねえ。近ごろこんなに腹の立った演奏はない。作品一一一は、いうまでもなくベートーヴェン最後のピアノ・ソナタで、もうピアノで語るべきことは語りつくした。ベートーヴェンはそういわんばかりに以後、バガテルのような小品や変奏曲しか書いていない。作品一〇六からこの一一一にいたるソナタ四曲を、バッハの平均律クラヴィーア曲が旧約聖書なら、これはまさに新約聖書だと絶賛した人がいるほどの名品。それをポリーニはまことに気障っぽく、いやらしいソナタにしている。たいがい下手くそな日本人ピアニストの作品一一一も私は聴いてきたが、このポリーニほど精神の堕落した演奏には出合ったことがない。ショパンをいかに無難に弾きこなそうと、断言する、ベートーヴェンをこんなに汚してしまうようではマウリッツォ・ポリーニは、駄目だ。こんなベートーヴェンを褒める批評家がよくいたものだ。
(「いい音いい音楽」より)
     *
「他人の褒め言葉うのみにするな」というタイトルがつけられている。

ハタチそこそこのころ、ポリーニのベートーヴェンを聴いた。
名演とは思わなかったけれど、
五味先生がここまで書かれた理由はよくわからなかった。

「ベートーヴェンをこんなに汚してしまう」とある。
こことのところが大事にもかかわらず、ここがいちばんわからなかったところでもあった。

ポリーニの演奏は、コンサートでも聴いているし、
その後出てきた録音もすべてではないが、けっこう聴いてきた。

アバドとのバルトークのピアノ協奏曲は素晴らしい、と聴いた瞬間思ったし、
いま聴いても、ポリーニの代表作といえると思う。

でもポリーニのベートーヴェンを聴くことはなかった。
そうやって三十年が経ち、バッハの平均律クラヴィーアを聴いた。

ようやくわかった、と思えた。

音が濁っていると感じて、五味先生の文章を読み返した。
そうか、汚してしまう、と五味先生は書かれていたのか。
音が濁っていては、その作品を汚している、ともいえる。

私もそう感じた──、という人はごくわずかかもしれない。
ポリーニの音が濁っているのではなく、
お前が出している音が濁っているんだろう、とか、
お前の耳が濁っている、だろう、といわれるだろうけど、
そう聴こえるということは、私にとっては大事なことである。

Date: 1月 8th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その2)

ポリーニのバッハの平均律クラヴィーアが出たのは、七年前のこと。
ポリーニのバッハは聴いたことがなかった。
聴いたことのある人は、七年前、どのくらいいたのだろうか。

ポリーニが、やっとバッハを弾く。
それだけで聴いてみたいと思った。
でもなぜか買いそびれてそのままだった。

12月も終り近くになって、聴く機会があった。
これがポリーニのバッハか、と思ったのはわずかのあいだだった。

聴き進むうちに気づく。
音が濁っている、と感じたのだった。

こう書いてしまうと、誤解されるのはわかっている。
ポリーニのピアノの音が濁っているわけがないじゃないか、といわれるはずだ。

技巧的に音が濁っている、と感じたのではなかった。
違う意味での、音が濁っているだったのだ。

だから聴いているうちにいらいらし始めている自分に気づく。
怒りに近いものまで感じていた。

そして思い出した。
五味先生がポリーニが弾くベートーヴェンに激怒された、と書かれていたことを。
こういうことだったのか、とひとり得心がいった。

五味先生が激怒された理由と、私が怒りを感じてきた理由が同じという保証はどこにもない。
まったく違っているかもしれない。
そう頭ではわかっていても、そう得心したとしか書きようがない。

Date: 1月 1st, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その1)

1月生れだから、一ヵ月もしないうちにひとつ歳を重ねる。

1月には成人式という行事がある。
ハタチになれば酒も煙草も解禁になるわけだが、
ハタチになった日とその前日とでは、何が違うのかといえば、
何も違わないといえる。

24時間でどれだけ人の体が変化するかというと、ほんのわずかだろうし、
それを本人も周りの人も感じとることはできないほどのわずかな差(変化)である。

ということは誕生日ととその前日がそうであるなら、
前日と前々日にも同じことがいえるわけだ。
二日前と三日前とでは……、三日前と四日前とでは……、
こんなふうに考えていくと、何も変っていないと、いえる。
そんな屁理屈めいたことを考える。
けれど一年前とでは、はっきりと違う。

ほんのわずかな差(変化)が積み重なって、歳をとる。

どういうことで自分の齢を実感するかといえば、
いろんなことがある。

私にとって意外なことといえば、
カルロス・クライバーの実演を聴いたことがある、と話すと、
若い人から驚かれることである。

人によっては、幻のコンサートを聴いたんですか、とまでいわれる。
こちらとしては、それほど大層なことをいっているつもりはない。

チケットを取るのも、そんなに苦労したわけでもなかった。
1986年のバイエルン国立歌劇場管弦楽団の公演を二回、
1988年のスカラ座の引越公演で、「ボエーム」を聴いている。

私としては三回しか聴けなかった、という感じなのだが、
羨望の眼差とはこういうものなのか、と思えるくらいに、
羨ましがられたこともあった。

そうか、と思った。
カルロス・クライバーを聴いたことがある、ということは、私にとっては、
フルトヴェングラーをきいたことがある、という人が目の前にあらわれるのと同じことなのだ。

世代が違うから、若い人にとってはカルロス・クライバーが、
私にとってはフルトヴェングラーが、というだけのことなのだろう。

Date: 4月 11th, 2016
Cate: 老い

歳を重ねるということ(音楽を聴きついで……)

ようやく五十を過ぎた……、とおもうことがいくつもある。
そのひとつである。

五味先生の「オーディオ人生(10) ラフマニノフ 交響曲第二番」がそのひとつだ。
     *
 若い時分──私の場合でいえば中学四年生のころ──私はベートーヴェンに夢中になった。それはベートーヴェンが偉大な音楽家であると物の本や人の話で聞いていて、さて自分でその音楽を聴き、なるほどベートーヴェンというのはすごいと得心した上で、血道をあげたわけである。もし誰もがベートーヴェンなど褒めなかったら、果して、それでもベートーヴェンに私は熱中したであろうか? つまり絶讚する他者の声とかかわりなしに「気違いじみて大袈裟な音楽だ」とゲーテの眉をしかめたあの『運命』を、本当に素晴しいと私は思ったろうか、という疑問を感じる。むろん紛れもなくハ短調交響曲は傑作だから幾多の人々を感動させたので、ベートーヴェンの作品だからではない。言うまでもなく、感動はベートーヴェンの名前ではなく作品そのものにある。少々早熟な中学生の私が当時興奮して当然だったとは思う。しかし、齢五十を過ぎて今、よく十代の小悴にこの作品がわかったものだと私は自分であきれるのだ。五十をすぎて、ようやく第五交響曲に燃焼させたベートーヴェンの運命のようなものが私には見えてきたから。
 同じ《傑作》でも、チャイコフスキーの『悲愴』は今はつまらない。当時どうしてこんな曲に感激したか不思議なくらいだ。要するに若かったのだろうが、何にせよベートーヴェンの名を抜きにして当時の私のベートーヴェンへの傾倒は考えられない。つまり十代の私には、音楽作品を鑑賞する上で、あるいは夢中になるのに、或る程度の世評は必要不可欠だったのを今にして悟るのである。
 もう一つは、若気のあやまちというべき惹かれ方である。だれにもおぼえがあるだろうとおもう。メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』に、ドボルザークの『セロ協奏曲』に同じ時期私は聴き惚れ陶酔した。どちらも第一楽章にかぎられてはいたが、メンデルスゾーンとドボルザークはその頃の私にはベートーヴェンと同じ高さに位置する偉大な音楽家であった。敢えていえば夢中になったベートーヴェンでもそのヴァイオリン協奏曲よりラローの『スペイン交響曲』のほうが実は傑作だとひそかに思っていたのだ。シュナーベルによるベートーヴェンのピアノソナタ全集が当時出ていたが、愛聴したのは『月光』や『告別』『熱情』であって、作品一〇六や一〇九、一一〇などまるで面白くなかったことを告白する。ついでにいえば、シュナーベルの『月光』よりパデレフスキーのほうが演奏としては好きだったことを。ひどい話だが、事実である。熱中したベートーヴェンでこの態だった。『ハンマークラヴィーア』や作品一一一の真価──前人未踏ともいうべきその心境を聴き取るにはそれから二十年の歳月が(人生経験がではない)私には必要だったのである。
     *
この文章を、「オーディオ巡礼」が出た時に読んだ。
まだハタチにもなっていなかった。
五十は、遠い遠い未来のこととしかおもえなかったときに読んでいる。

《つまり十代の私には、音楽作品を鑑賞する上で、あるいは夢中になるのに、或る程度の世評は必要不可欠だったのを今にして悟るのである。》
私もそうだった。
十代の私には、まず五味先生の音楽についての文章が必要不可欠だった。
その五味先生が
《五十をすぎて、ようやく第五交響曲に燃焼させたベートーヴェンの運命のようなものが私には見えてきたから》
と書かれているし、
《『ハンマークラヴィーア』や作品一一一の真価──前人未踏ともいうべきその心境を聴き取るにはそれから二十年の歳月が(人生経験がではない)私には必要だったのである》
とも書かれているわけだ。

五十になるまで俟つしかない、と思っていた。

Date: 3月 24th, 2016
Cate: 老い

老いとオーディオ(老化と劣化)

今秋、「五味オーディオ教室」とであって40年になる。
そんなに経ったのか、と正直おもっている。
それは、「五味オーディオ教室」とであったときのことをいまでもはっきりと思い出せるからでもある。

とはいえ、40年も経つと齢をとる。
まわりの人も同じだけ齢をとっていく。

まわりをふとみる。
この人は、どうしたんだろう……、とおもうことがある。

そして、老化と劣化は同じではないことを感じている。
才能の老化と才能の劣化の違いを。

Date: 1月 31st, 2016
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その2)

むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
持っていただろうか……、とふりかえる。

Date: 1月 31st, 2016
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その1)

若さとは、
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
なのかもしれない。

Date: 1月 18th, 2016
Cate: 老い

老いとオーディオ(続々・古人の求めたる所)

ゲーテが語っている。
《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》と。
(ゲーテ格言集より)

「青は藍より出でて藍より青し」のもつ意味も、同じところにあるように思う。
そしてオーディオの現状を、おもう。

Date: 1月 15th, 2016
Cate: 楽しみ方, 老い

オーディオの楽しみ方(天真爛漫でありたいのか……・その1)

約一年前に「オーディオの楽しみ方(天真爛漫でありたい……)」を書いた。

一年間、毎日何かを書いてきて、天真爛漫でありたいのか……、と思うようになっている。
そして思い出している黒田先生の文章がある。

ステレオサウンド 59号掲載の「プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティッジ」だ。
最後に、こう書かれている。
     *
 マイルス・デイヴィスの音楽は、自意識とうたおうとする意思の狭間にあった。あった──と、思わず過去形で書いてしまって、自分でもどきりとしているところであるが、これからのマイルス・デイヴィスにそんなに多くを期待できないのではないかと、そのことを認めたくないのであるが、やはりどうやら、思っているようである。少し前から、マイルス・デイヴィスのうちの、自意識とうたおうとする意思のバランスがくずれて、彼は自意識の沼に足をとられておぼれ死にかかっている。
 そのことに気づいたのは、今回、あらためて、プレスティッジの十二枚をききかえしたからである。一九五一年から一九五六年までの五年間にうみだされた十二枚のレコードは、さしずめ、マイルス・デイヴィスの「ヴェルテル」であった。マイルス・デイヴィスの「ドルジェ伯の舞踏会」といわずに、マイルス・デイヴィスの「ヴェルテル」といったのは、まだかすかにマイルス・デイヴィスの「ファウスト」を期待する気持があるためであろう。
 しかし、いま、マイルス・デイヴィスに「ファウスト」が可能かどうかは、さして問題ではない。問題は、プレスティッジの十二枚をマイルス・デイヴィスの「ヴェルテル」と認識できた、そのことである。あそこではプライドが前進力たりえた。五十才をすぎた男にも、プライドを燃料として前進力をうみだしうるのであろうか。中年の男にとって、自尊心、あるいは自意識は、怯えうむだけではないのか。失敗したくない。つまらないことをして、しくじって、みんなに笑われたくない。そのためには、一歩手前でとりつくろえばいいとわかっていても、プライドがそれを許さない。いまのマイルス・デイヴィスは、自尊心と自意識の自家中毒に悩んでいるのかもしれない。
 現在のマイルス・デイヴィスをウタヲワスレタカナリヤというのは、いかにもきれいごとの、気どったいい方である。もう少しストレートな表現が許されるなら、このようにいいなおすべきである、つまり、現在のマイルス・デイヴィスは直立しない男根である一方に、男根を直立させつづけ、しかもおのれの男根が直立していることを意識さえしていないかのようなガレスピーが、のっしのっしと気ままに歩きまわるので、マイルス・デイヴィスという不直立男根が、すべてのことが萎えがちなこの黄昏の時代のシンボルのごとくに思われ、不直立男根は不直立男根なりに意味をもってしまう不幸をも、マイルス・デイヴィスは背負っているようである。
 ひさしぶりにプレスティッジのマイルス・デイヴィスをきいていて、ああ、マイルス! これがマイルス・デイヴィス! と思ったが、考えてみると、このところずっと、ディジィ・ガレスピーのレコードをきくことの方が多かった。ガレスピーは、考えこんだりしない。深刻にならない。永遠のラッパ小僧である。あのラッパ小僧の磊落さ、生命力、高笑いは、マイルス・デイヴィスには皆無である。であるから、マイルス・デイヴィスはいまつらいのであろうが、ききては、それゆえにまた、マイルス・デイヴィスの新作をききたいのである。二十年前の演奏をきいて、その音楽家のいまに、あらためて関心をそそられるというのは、これはなかなかのことで、プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティッジ(威光──、原義は魔力・魅力)が尋常でないからであると判断すべきであろう。
     *
ディジィ・ガレスピーのごとく、オーディオを楽しむことこそが、
天真爛漫でいることなのだろうか。

黒田先生はかなりストレートな表現をされている。
《男根を直立させつづけ、しかもおのれの男根が直立していることを意識さえしていないかのようなガレスピー》
そう書かれている。

一方のマイルスを、《直立しない男根》であり、
《すべてのことが萎えがちなこの黄昏の時代のシンボルのごとくに思われ》る、と。

59号は1981年に出ている。
いまから35年前である。

いまは21世紀である。
20世紀末ではない。
その意味での黄昏の時代ではないけれど、別の意味での黄昏の時代なのかもしれない。

Date: 1月 5th, 2016
Cate: 老い

老いとオーディオ(重みが増すからこそ)

以前ほどではないけれど、いまも五味先生の文章を思い出しては読みなおすことがある。
13歳のときから読んでいるわけだから、もう40年近く読んでいる。

もういいかげんあきないのか、と、
五味先生の文章をまともに読んでいない人からはいわれそうだが、
それでも読む、読むのをやめることはない、と断言できる。

読み返すことで、言葉の重みが増していることを実感する。
だから、やめることはないと断言できるのだ。

さりげなく書かれていることが、若いころ読んだ印象よりも、ずっと重みを増している。
だからこそ実感している、ともいえる。

もうひとつ断言できる、
五味先生の文章に関する限り、半端な読み方はしてこなかった、と。

Date: 1月 1st, 2016
Cate: 老い

老いとオーディオ(続・古人の求めたる所)

「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」。

古人の求めたる所を求めるからこそ、
「青は藍より出でて藍より青し」となる。

Date: 12月 26th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(古人の求めたる所)

四年前、「古人の求めたる所」というタイトルで書いた。
四年前はまだ五十になってなかった。

もう五十を過ぎた。
一月には、またひとつ歳をとる。

松尾芭蕉の「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」──、
どれだけ古人の求めたる所を求めてきたのかだろうか……。

誰かが答えてくれるわけではない。

Date: 12月 16th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(五味康祐氏の文章を思い出している)

しつこいぐらいに書いているように、私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まった。
こう書いてあった。
     *
 むろん誰にだって、未来はある。私にもあった。私はその未来に希望を見出して働いて来た。五十の齢を過ぎて今、私の家で鳴っている音にある不満を見出すとき、五十年の生涯をかけ私はこれだけの音しか自分のものにできなかったかと、天を仰いで哭くことになる。この淋しさは、多分、人にはわからぬだろうし、筆舌に尽し難いものだ。
     *
13の時に「五味オーディオ教室」と出逢い、読んだ。
「五十の齢」は、当時の私にはずっとずっと先のこと、
ぼんやりとも想像することはできずにいた。

いま「五十の齢」を過ぎている。

Date: 8月 30th, 2015
Cate: デザイン, 老い

ふたつの「T」(その1)

2020年東京オリンピックのエンブレムに関する騒動は、どうなっていくのだろうか、
そして関係者はどうするのか。

佐野研二郎氏のデザインには原案があり、
その原案はあるデザインと似ていたため修整が加えられ、発表されたものとなった。
その原案は公表するつもりはない、と大会組織委員会が語っていたけれど、
結局、原案は公表された。

そして、その日のうちに、この原案が何に似ていたのかが、インターネットでは話題になっていた。
すでにご存知の方も多いだろう。

「佐野研二郎 ヤン・チヒョルト」で検索すれば、いくつものサイトがヒットする。

佐野研二郎氏の原案は2013年に開催された、ヤン・チヒョルト展のロゴと、
その構成要素(長方形と三角形、円形)は同じだし、
その配置も基本的に同じである。

パクリだ、盗用だ、と騒然としている。

どちらもアルファベットの「T」である。
けれど受ける印象は大きく違う。
パクリというよりも、もはや劣化コピーとしかいいようがない。

ふたつの「T」の違いは、言葉にすればわずかである。
にも関わらず、大きな違いが印象として残る。

「細部に神は宿る」
昔からいわれていることを、これほど実感できることはそうそうない。

佐野研二郎氏を糾弾しようとは思っていない。
ふたつの「T」を見較べながら、自分自身も劣化コピーになっているかもしれない、と思わされた。

川崎先生の8月11日のブログ、『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』を思い出していたからだ。

Date: 7月 2nd, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その6)

ウエスギ・アンプのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1で、
女性ヴォーカルを聴いたとする。
どちらのKT88プッシュプルアンプが、情感をこめて鳴るだろうか。

この項の(その1)で引用した上杉先生の発言のように鳴ってくれるだろうか。

私は、この対照的なふたつのKT88プッシュプルアンプを最初に聴いたときは、
TVA1の方が、より情感のこもった歌が、そこで鳴ってくれる、聴けると感じていた。

だから疑問のようなものを感じていた。

上杉先生は、ステレオサウンド 60号で、
《恐らく歌手があなたにほれているという歌を歌うとすると、それは全身ほれているような感じにならないといかんと思うんです。全身ほれるということになれば、もっと極端なことを言うと、女性自身に愛液がみなぎって歌うときがこれは絶対やと思います。そういう感じで鳴るんですよ》
といわれているのは、
おそらく自宅でマッキントッシュのXRT20をご自身のアンプ、
つまりウエスギ・アンプで鳴らされた場合の音について語られているのだから、
上杉先生にとっては、ウエスギ・アンプは、つまりはそういう音で鳴ってくれるわけだ。

だが、私にはTVA1の方がそういう音で鳴ってくれるように感じていた。
いま思うと、そのときの私は若かった。
恋愛の、男女関係のくさぐさな経験があったわけではなかった。

そんな「若い」聴き手の耳にはTVA1の方が、よりそう聴こえた面もあることに、
いまは気づいている。

そのことに気づかさせてくれたのは、
グラシェラ・スサーナの歌う「抱きしめて」だった。