「古人の求めたる所」
私がaudio sharingをつくろうと決意したときにも、
「いまさら瀬川冬樹なんて」という人がいた。
私が、このブログを始めたときにも、「いまさら瀬川冬樹なんて」という人がいた。
いまもそういう人はいる。
このあいだも、私に直接「瀬川さんも岩崎さんも、たいしたことない」と言った人がいる。
私よりも年配の人だ。
その人がそんなことを口にする理由はおおよそ想像できるが、
それよりもこの人は「古人の跡」しか見ることのできない人なのだと思う。
松尾芭蕉の「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」は、
その人にはまったく関係のないことなんだろう。
結局「古人の跡」を求めることすらせず(できず)、ただ見ているだけにすぎない。
瀬川先生は今日(11月7日)で没後30年が経つ。
岩崎先生は1977年に亡くなられているから34年が経っている。
30年前に瀬川先生、岩崎先生がやってこられたオーディオと、
いま自分がやっているオーディオとを比較しての「いまさら……」だったり、
「たいしたことない」という言葉のように思えてならない。
「古人の求めたる所を求めよ」を肝に銘じていれば、
「いまさらも……」も「たいしたこと」も、口にできない。
だから、こんなことを平気で口にする人のことなんて、もうどうでもいい。
30年前、瀬川先生は、岩崎先生がオーディオに求められていたこととは、何だったのか。
それを、あなたも求めなさい、とは言わない。
だが、それを見つけ見つめることは、大切なことだといいたい。
REPLY))
音楽や音楽再生と向き合う姿勢に、古い新しいは無関係ですね。
事、音楽にかかわらず、現代や未来を考える上で、学ぶべき先達が存在したことや、先人に学ぶことが出来る私達は幸せ者だと思います。
ソクラテスやニーチェ、芥川龍之介や三島由紀夫を「古人だから」の一言で片付ける人は、先ず居ないでしょう。
技術の進歩とは無関係に、対象と向き合う姿勢や思想に時代の影響は些細なことだと、私も思います。