Archive for category 選択

Date: 4月 23rd, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その1)

数ある現行スピーカーシステムの中で、
もっとも欠点の少ないモノとして挙げるならば、B&Wの800シリーズとなろう。

800シリーズの新製品が出るとなると、オーディオ雑誌はページを割く。
モノクロ1ページではなく,カラーで数ページは割かれる。

オーディオ雑誌のウェブサイトでも、800シリーズの取り上げ方は力が入っている。

ユーザーの注目度も高い、と毎回感じる。
800シリーズの新製品の音に触れるたびに、興奮気味に語る人がいる。

それだけに800シリーズの新製品が、
オーディオ雑誌の賞に漏れることはない。必ず選ばれる、といえる。

けれど800シリーズを自宅で鳴らしているオーディオ評論家はいない──、
このことを指摘するオーディオマニアは、以前からいる。

「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」
事実を語っているだけであっても、言外にほのめかすのは、
人によっては違っているところもあるようだ。

ステレオサウンドの試聴室では、昔はJBLがリファレンススピーカーとして使われていた。
私が働き始めたころは4343から4344に切り替るタイミングで、
私がいた七年間の大半は4344が使われていた。

4344は上杉先生が使われていたし、
4343は瀬川先生、黒田先生がそうだった。

4341から始まったJBLの4ウェイ・スタジオモニターの年数と、
B&Wの800シリーズの年数は、もうB&Wの方が長い。

けれど誰も使っていない。

「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」には、
リファレンスとして頻繁に聴く機会があるから、も含まれているわけだが、
それでも、ほんとうに惚れ込んだスピーカーならば、買ってしまうわけだ。

Date: 4月 9th, 2017
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その7)

現在の話ではなく、昔のことだ。
私が熱心にステレオサウンドを読んでいたころのことだ。

ステレオサウンドのライバル誌は、どれだったのか。
同じ季刊誌であった別冊FM fan、オーディオアクセサリーだったのかといえば、
そうではなく、月刊誌のスイングジャーナルであった。

ステレオサウンドはオーディオ雑誌、
スイングジャーナルはジャズの雑誌であり、
同じジャンルの雑誌とはいえない面もあるけれど、
オーディオのことだけに絞っても、スイングジャーナルがライバルてあった、といえる。

おそらくスイングジャーナル編集部も、
ステレオサウンドをライバルとみていたであろう。

ステレオサウンドとスイングジャーナルは、違う。
上に挙げたこと以外にも違いはある。

私がいちばん違うと感じていたのは、読者との関係である。
そのころのスイングジャーナルには、「読者の頁」というのがあった。

交歓室、バンド・スタンド、SJアンテナ、私も評論家、なんじゃもんじゃ博士、質問室、
売買交換室から構成されたページであった。
10数ページあった。

ステレオサウンドには、この手のページは、ほとんどなかった。
オーディオ機器の売買欄はあったけれど、
それ以外の、読者の感想、意見、提案などを語れるページはなかった。

私は「読者の頁」のように読者が積極的に関われる記事があるのを、
毎号、必ずしも必要とは考えていない。
むしろ、当時、読者だったころは必要ない、とも思っていたし、
ステレオサウンドの編集に携わっていたころも、そう考えていた。

けれど、いまになって「読者の頁」について考えている。

Date: 11月 5th, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(結婚にあてはめれば……・その3)

思い出すから書くのか、
書くから思い出すのか。
たぶん両方なのだろうが、結婚とオーディオということで思い出したことがある。

スイングジャーナル1972年1月号掲載の座談会「オーディオの道はすべてに通ず!」だ。
     *
菅野 この間、だれかさんの原稿の穴埋めに急拠「オーディオロジー」の原稿を書かされたんだよ(笑)。そこでぼくは錯覚という言葉を使った。
瀬川 イリュージョンだね。
菅野 錯覚というのは無限の飛翔というか、可能性というか、高まりをもつものだ。これがもっとも大切なものであると書いたわけです。
 つまり、恋愛というものは、精神と感情と肉体の無限の飛翔である。一方結婚は現実の生活である。その恋愛の目的を結婚に置くということは、極めて次元の高いものの目的を次元の低い現実に置くことなので、元来矛盾しているものなのだ、というように展開したわけ。その恋愛というものもやはりイリュージョンなのだよね。イリュージョンなるがゆえに、無限に心の高まりを感じるわけだ。
瀬川 そう、イリュージョンだから美しいんですよ。確かに結婚というものが現実的なものであることは事実なのだけれど、結婚の中での一つの虚構、あるいは錯覚みたいなものを持続させることもできるんだ。だから結婚の中でも結婚以外のものに、逃避であろうと、なんかの一つの理想であろうと、結婚を回避してそっちへ行こうということだけがすべてでないと思うんだ。
菅野 もちろんそうです。
瀬川 もっとそのさきの大事なことは、この世の中で現実に起ることよりも、そういう錯覚の中、あるいはフィクションの中で感じる一つの幻想、イリュージョンの方が人間にとって実感をもっている。いや実感というより人間にとって大切じゃないかと思うんだ。
菅野 そう大切なものですよ。
瀬川 現実というのは、いろんな制約の中での現実なんだよ。つまりさまざまな社会的制約の中でなり立っている。しかし、その中での錯覚というのは、現実の壁を乗り越えた強さをもっている。それが人間にとって人間を味わう、あるいは生きがいというか、ものを味わうための一番大切な何かだな。
菅野 それはあなたがいい奥さんをもっているからいえるんだよ。ぼくはそうじゃなくて、結婚はあくまで現実のものなんだよ。イリュージョンを追いかけて行くから失望するんだ。つまり結婚というものは、恋愛にもない、親子の愛でもない、友情でもない、夫婦愛というものの生まれる可能性のある一つの生活様式なんであると思っている。だからわずかの月日で築けるものではない。
 なぜ、ぼくはここまでいうかというと、つまりオーディオというような趣味のものはイリュージョンですね。そこでぼくもいったことなんだけれども現実の問題でイリュージョンというものによって解決しようとすると、オッチョコチョイにも、趣味を仕事にしようとする者が出てくるんだ。趣味と仕事を合わせるとこのイリュージョンを結婚生活の中へもち込むこともむずかしさがある。趣味というものもこれが仕事になったときには現実になる。
 それじゃわが輩のように仕事にした人間はどうなるのかと。しかしわが輩としては仕事にしたからっといって、趣味というものの次元を低めることはできない。やはり高い趣味の次元をもち続けていかなければならない。そのために、結婚しても女性嫌いにはなれずにね(笑)。つまり仕事と同時にそれを趣味としてイリュージョンの世界に遊ぶだけの余裕をもつべく、涙ぐましい努力をして行くんだ(笑)。
瀬川 前半は不足ない、途中でちょっと異論があって、結論でまた一致したんだよ。途中だけちょっと菅野さんの方法論が違っていただけで、本人がやっていることは仕事ではそれなんだ。
菅野 もちろん認めるけれど、それはたいへんなんだよ。
瀬川 そう二つの至難がある。一つは魔法をかけるに値する石ころを見つけるというむずかしさ、もう一つは手に入れた石ころに常に魔法をかけておくというむずかしさ、この二つのむずかしさを乗りこえたときの至福の喜びというものは何にもたとえられないものなのですよ。
菅野 もちろん、それは理想論としてわかるんですが、なにせ結婚の相手というのは人間ですからな(笑)。
瀬川 さっきからいっているように結婚にたとえるから話が現実的になっちゃうんで、オーディオ・パーツでもいいよ。スピーカーに限ろう。
菅野 いや、スピーカーに限ったら、話はあなたと同じだよ(笑)。
瀬川 スピーカーも女も生活なんだ。
岩崎 たいへん幸せなんでうらやましいです。スピーカーと同じような女房をもらえればこれはいいよね(笑)。
菅野 だからスピーカーにたとえるとあなたと全く同じ考え方だ。スピーカーというものは魔法がかけられるよ。
瀬川 おれはそれを私生活でもやりたいというおめでたい希望があるんだ。
菅野 それはあなたがむずかしい問題に直面していないんだよ。女性をスピーカーにたとえられるというのは幸せというか……。
瀬川 おめでたいのかな(笑)。パーツを愛情をもって使いこなせというのは、本質論で、前提があるわけ。
菅野 それは直感だよね。
瀬川 そう、それだからこそ、さっきから子供の石ころにこだわるわけよ。無心の世界に遊んでいるときの子供の純粋な行動、大人の趣味の世界、ここにあって直感を働かさなくては、人間というのはダメなのですよ。
菅野 われわれも、年の改まった今、いま一度童心を思い起して直感を冴えさせおきたいものですね。
     *
この岩崎千明、菅野沖彦、瀬川冬樹による鼎談は、
菅野先生のこんな発言で始まる。
     *
菅野 われわれのように、いわゆる道楽者が音の話をしていると、よく他の話に取違えられるんだね。この前も、こちらは音の話をしていたのに、バーの女の子がゲラゲラ笑っているんだよ。何を笑っているのかと思ったら、始めから終りまで猥談だと思っていたというんだね。まあ、その道の話というのは必ずすべての道に通じる話になるわけで、逆にそうでなければ、核心をついた話ではないよね。
     *
たしかにそうかもしれない。

Date: 11月 5th, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(結婚にあてはめれば……・その2)

瀬川先生が浮気について話されたことを、ふと思い出した。

あの話は一般論としてだったのか、それとも瀬川先生の知人にそういう人がいた、という話だったのか。
そのへんははっきりとしないが、こんなことを話された。

浮気をする人は、奥さんとはまったく違うタイプの女性を選んでいるつもりでも、
傍からみれば、奥さんと同じタイプだし、何度も浮気をする人も、また同じタイプの人と浮気している、
スピーカー選びも同じようなもので、
本人にしてみれば以前鳴らしていたスピーカーとはまるで違う音のスピーカーを選んでいるつもりでも、
傍からみれば、どこかに共通するところのある、もっといえば似ている音を選んでいる、と。

高校生のときに聞いた話しだ。
浮気とはそういうものなのか、と思いながら聞いてもいた。

実際の浮気がそういうものかどうかは知らない。
知人で何度か結婚している男をみていると、そう外れていないとは思う。
結婚・離婚のくり返しと浮気は、そもそも同じじゃないけれど、
相手を選択するということでは同じといえる。

主体性をもって、本人は選んでいるつもりである。
結婚相手、浮気相手、そしてスピーカーにしても。
でも、それは結局つもりでしかないのかもしれない。

こんなことを書いているのは、
昨夜「タンノイがふさわしい年齢」を書きながら、
タンノイが、にするか、タンノイに、するかで考え迷っていたからだ。

Date: 8月 27th, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(結婚にあてはめれば……・その1)

以前、菅野先生にいわれたことを思いだす。
「結婚してもいい、とおもっている相手とは結婚するな。
 結婚したい、とおもっている相手としなさい」
そういうことをいわれた。

結婚してもいいと結婚したいは、根本のところではっきりと違う。
確かにその通りだ、と思って聞いていた。
オーディオ機器を選ぶことも、
スピーカー選びは、いっそう同じことがあてはまる、とも思っていた。

それからほぼ30年。
したいとしてもいいの違いのことを思い出しながらも、
実のところ、最良の伴侶は、したいとおもう人(スピーカー)ではなく、
してもいいとおもう人(スピーカー)の中にいてくれているかもしれない──、
そう考えるようにもなってきた。

したいという気持には思いこみも多分に含まれてもいよう。
結婚したいとおもっている人(スピーカー)と成就できれば、幸せであろう。

結婚生活は続く。
一ヵ月や二ヵ月といった短い時間ではなく、
もっともっもと永い時間を共にすごすうちに、
考えもしない、思いもしないことになることだってあろう。そうならないこともある。
どうなるのかなんてわからない、とも思うようになってきて、
意外にも、してもいいとおもっている相手との方がうまくいくことだって、
充分あり得るだろうとも。

正直、はっりきとしたことはわからない。
どちらがいいとか思っているわけでもない。

どちらであれ自分の元に来てくれる相手と生活を続けていく──、
ということぐらいしかいえない。

Date: 7月 31st, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その6)

ステレオサウンド 64号から始まった「素晴らしき仲間たち」に登場したグループは、
スピーカーを中心としていた。
同じスピーカー、もしくは同じブランドのスピーカーを鳴らしている人たちが集まっていた。

けれどオーディオをながく続けていれば、スピーカーをかえることがある。
同じブランドの最新機種、もしくはフラッグシップモデルにすることもあれば、
違うブランドの、それまで鳴らしていたスピーカーとはまったく趣の異るモノにすることもある。

そうなったら、その人は属していたグループから離れていくのだろうか。
オーディオ仲間であっても、鳴らしているスピーカーという共通項がなくればそうなるのか。

「素晴らしき仲間たち」のグループは楽しそうだと感じながらも、
一方ではそんなことを思ってもいた。

「素晴らしき仲間たち」を担当していたのは、Nさんだった。
Nさんから聞いたところによると、いくつかのグループは解消してしまったそうだ。
どのグループだったのか聞いているけれど、ここではそのことに触れる必要はないし、
他のグループもその後どうなったのかはわからない。

あるグループがバラバラになってしまった理由は、
誰かがスピーカーを買い換えたから、というものではなかった。
ステレオサウンドに出たことだった、と聞いた。

それまでグループ内のバランスがうまくとれていたのが、
ステレオサウンドで記事になったことで崩れてしまったそうだ。

そうやって崩れてしまったバランスは、違うバランスをとることはできないのだろうか。
「素晴らしき仲間たち」の、この話を聞いたのはハタチぐらいのときだった。

そのころはそれ以上深く考えることはしなかったが、
購入後ということを考えるようになって、そういえば……、と思い出した次第だ。

Date: 12月 29th, 2015
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その5)

いまではなくなってしまった企画だが、
以前のステレオサウンドにはスーパーマニアという記事があった。
52号から始まった。

スーパーマニアに登場する人は、ひとりずつである。
基本的に複数の人が一度に登場されることはない。
けれど、52号の一回目は違う。

福島県郡山市のワイドレンジクラブの方々が登場されている。
ワイドレンジクラブとは、
3Dシステム(センターウーファー)によるワイドレンジ再生を目指すマニアの集まりである。

52号は1979年秋に出ている。
このころは各地にオーディオのグループがあった。
ある共通項をもったオーディオマニアの人たちの集まりがあった。

ステレオサウンドでも、その人たちの集まりを取材している。
スーパーマニアが個人を、
64号からスタートした「素晴らしき仲間たち」では、オーディオマニアのグループを取材している。

一回目は博多のJBLクラブ、二回目がマッキントッシュXRT20ユーザーの方たち、
三回目がタンノイクラブ、四回目がエレクトロボイスのウーファー30Wのユーザーの方たち、である。

購入後という視点でステレオサウンドの企画・記事を見直していくと、
この「素晴らしき仲間たち」は、他の訪問記事よりも、購入後ということに一歩踏み込んでいる。

いまは、こんなことを書いているけれど、当時はそういう視点で捉えることができなかった。

Date: 12月 25th, 2015
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その4)

さまざまな情報を満載した雑誌の山をみていると、情報の洪水などという言葉が、途端に現実感をもってくる。洪水に押し流されたあげく、興味あるニュースをみのがしてしまう。えっ、あのコンサートは、もう終わってしまったのかとか、へぇ、そんなレコードが出ていたのか、気がつかなかったなとか、情報の消化不良をおこして、いらいらすることもしばしばである。どう贔屓めにみても、これは健康なこととはいいかねる。焦れば、おのずと、夜道の酔っぱらいよろしく足がもつれもする。
情報の洪水が日常茶飯事になったときに威力を発揮するのは、あのレコード、ちょっと気になっているんだけれど……といったような、友人の耳うちである。活字、ないしは電波によった、したがってオーソリティーのものではありえない、友人の、いわばナマの情報は、その背後に商業主義がてぐすをひいているはずもないから、説得力がある。
     *
上に引用したのは、黒田先生がステレオサウンド 78号の「ぼくのディスク日記」で書かれたものだ。
78号は1986年3月に出ている。
ほぼ30年前に、これを書かれている。

ここで書かれている《友人の、いわばナマの情報》こそ、購入後である。

Date: 12月 25th, 2015
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その3)

インターネットとオーディオ雑誌の違いについて考えていて、購入後があることに気づいて、
購入後という視点で捉えた記事・企画が、これまでのオーディオ雑誌にあっただろうか、と振り返ってみた。

はっきりとそういえる記事・企画はないように思う。
あえてさがせば、訪問記事を、購入後として捉えることはできるかな、と思ったわけで、
訪問記事を購入後という視点だけで、これからつくっていけばいいといっているのではない。

訪問記事にはいくつもの側面がある。
人と音が、大きなテーマといえる。
ステレオサウンドがやってきた訪問記事は、まさにそうであった。

これはこれで今後もより磨いていってほしいのだが、
訪問記事にも、購入後という視点で新たな記事とすることもできると感じている。

それから購入後だから、読者のレヴューを載せるのか、と思われた方もいよう。
そんな安直な購入後をやったところで、オーディオ雑誌がインターネットを超えられるとは思わない。

具体的なことはまだ書かない。
購入後という視点で、どういう記事・企画をつくっていくのは、
各オーディオ雑誌の編集部が考えていくことだからだ。

ひとつつけ加えておきたいのは、視点についてである。
これは川崎先生が以前から書かれていたこと、講演で話されていることなのだが、
視点にはeye pointとview pointがある。

これについては川崎先生の書かれたものを読んでいただきたい。
それぞれの編集部のeye pointがあり、view pointがある。

購入後という視点で捉えた、そして捉え直した記事・企画を読みたいと思っている。

Date: 12月 24th, 2015
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その2)

オーディオマニアの訪問記事は、
オーディオ雑誌には昔から載っている。

ステレオサウンドにもある。
以前は特集で、訪問記事がつくられていた。
例えば15号。1970年6月に出ている。

15号の特集は「人とオーディオ──再生装置をめぐって」だった。
26号(1973年3月発売)もそうだった。
「音の美食家をめぐる」という特集だった。

それから1980年代にはいり、菅野先生によるベストオーディオファイルが始まった。
このベストオーディオファイル訪問が、のちのレコード演奏家訪問となっていく。

五味先生のオーディオ巡礼も訪問記事といえば、そういえる。

ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌にも訪問記事はたびたび登場する。
いわば訪問記事は定番といえるものだった。

その訪問記事を、昔は訪問記事として捉えていた。
購入後という視点で捉えたことはなかった。

おそらく訪問記事をつくっている編集者も、
訪問記事を購入後という新しいカテゴリーとして捉えた上でつくっている人はいないようにも思う。

ここ数年毎年いわれていることに、出版不況がある。
今年は本の取次ぎの最大手である日本出版販売が、本業で初の赤字になったというニュースがあった。
雑誌が売れない、ともきく。
書店の数も減っているようだ。

私が住んでいる国立も今年、駅前にあった書店が閉店した。
隣駅の立川には、多摩地区では大手の書店が新しい店舗をオープンしている。
だから書店の数の増減ははっきりとは私にはわからないけれど、少なくとも個人書店は減っている。

その理由として、いくつかのことがいわれている。
それらのことを検証するつもりはない。

ただインターネットの普及が大きく関係していることは確かである。
そのインターネットには、雑誌にはない(無理な)点がいくつもある。

そのひとつが、購入後である。

けれど、この購入後は、雑誌でもやっていけることである。
そして、インターネットには、基本的に編集者が購入後には存在しない。

雑誌には編集者が、そこにいる。
ならばインターネットの購入後とは違う、雑誌ならではの購入後の展開が可能なはずである。

Date: 12月 24th, 2015
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その1)

オーディオ機器を買う際に、雑誌とインターネットの違いについて考えていた。
スピーカーが欲しい、としよう。

予算は決まっている。
その範囲内でいいモノを手にしたい。
そのために情報収集をする。
オーディオ雑誌を買ったり、インターネットでの個々のサイトを見たりする。

候補をいくつかに絞れば、実際にオーディオ店に行き試聴する。
そして決定する。

必ずしも、こうではないだろうが、
情報収集、比較検討、最終決定という過程はある。

ここで雑誌の場合、その役目を終える、といえるところがある。
ところがインターネットには、購入後がある。

たとえばamazon。
amazonが扱っている商品には、レヴューがついている。
購入した人のレヴューが読めるようになっているし、レヴューを投稿することもできる。

これが購入後であり、
インターネットの普及により、購入後という新しいカテゴリーが生れてきた。

オーディオ雑誌には、購入後はあまりなかったといえる。
あるのは、読者訪問である。
これは一種の購入後という見方はできよう。

Date: 3月 6th, 2015
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その4)

オーディオ機器との再会は、自分自身の選択以外にもある。
オーディオをながくやっていれば、オーディオマニアのリスニングルームに訪れる機会は、
少ない人でも何回はあるし、多い人はそれこそ数えきれないほどでもある。

とにかく誰かのリスニングルームで、以前使っていた・鳴らしていたオーディオ機器と、
ふたたび出会うことはまったくないわけではない。

こういうことが多いのか少ないのかは、なんともいえない。
JBLの4343、マークレビンソンのLNP2といったモデルであれば、そういう機会は割とありそうだし、
例えばSUMOのThe Goldあたりになると、めったになさそうともいえる。

何かの理由で手離したオーディオ機器と再会する。
予期できた再会もあれば、予期せぬ再会もある。

「いまさらLNP2ねぇ……」「いまさら4343ねぇ……」、
そんなことは懐古趣味だとばかりに短絡的判断を下す人は、
そんな時にも口に出さないまでも心の中で「いまさらねぇ……」とつぶやくのだろうか。

人によっては口に出してしまう人もいる。
誰かのリスニングルームに行き、そこで「いまさらねぇ……」という行為は、愚かしいとしかいいようがない。

Date: 12月 19th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その7)

スピーカーシステムの欠陥として考えられることといえば、どんなことであろうか。

周波数レンジが狭い──、というのは欠陥ではなく欠点である。
耐入力があまりない──、これも欠陥とはいわない、欠点である。
能率が低い──、どの程度低いかによるけれど、
それこそ1kWのパワーアンプをもってきても蚊の鳴くような音しか出せない極端に能率の低いものならば、
さすがに欠陥といえなくもないけれど、かなり低いものであっても欠陥ではなく欠点ということになる。

……こんなふうに見ていって、
アナログプレーヤーの規定の回転数を出せない、といったレベルでの欠陥は、
スピーカーシステムの場合、考えられるのは帯域の一部がごそっと抜け落ちている、とか、
スピーカーの歪が音として変換されるレベルよりも大きい、
こんなことが考えられるが、そんなスピーカーシステムは市場にはない。

その意味では欠陥スピーカーシステムなど、市場には存在しない、ともいえる。
そんな、誰の耳にもはっきりとわかる欠陥をもつオーディオ機器は、
スピーカーだけでなく、アナログプレーヤーでもアンプでも、
これだけ広い世の中だから、日本に輸入されていないモノのなかに、ひとつやふたつぐらいはあるかもしれない。

仮にあったとしても、それらはすぐに市場から消えてゆくことだろう。
すくなくとも、ある一定期間、市場に残っていて日本に輸入されるオーディオ機器には、
欠点をもつモノはあっても、欠陥といえるモノはない──、たしかにそういえる。

だから、私は、「欠陥」スピーカー、と書いてきているのだ。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その6)

「欠陥」スピーカーとは、具体的にはどういうスピーカーのことになるのか。

たとえばアナログプレーヤーの場合、
33 1/3回転と45回転、この2つの回転数をどうやって実現できないプレーヤーがもしあったとしたら、
そのプレーヤーは欠陥プレーヤーということになる。
これは誰もが欠陥と判断する。

規定の回転数で再生されることが、まず大前提にあるからだ。

でもモーターが安定するに時間がかかり、
安定すればきちんと決められた回転数を維持できるプレーヤーならば、どうだろうか。
安定するのに1時間も2時間もかかるのであれば、それは欠陥といいたくもなるけれど、
10分ぐらいであれば、欠陥とまでは呼びにくい。
欠点ではあっても、欠陥ではない。そういうことになる。

またモーターのトルクが弱いプレーヤーもある。
以前の製品ではトーレンスのTD125がそうだった。
気の短い人だと、すこしいらっとするくらいターンテープルプラッターの立上りは遅い。
それにレコードクリーナーを強く押し当てると回転が止りそうになるくらい、
モーターのトルクは弱い。

けれど、このモーターのトルクのなさがTD125の音の良さに関係しているのであれば、
モーターのトルクの弱さは欠点であっても、欠陥とは呼べない。
使い手がTD125を気に入っていて、このくらいの欠点ならば使い方の工夫でどうにかすることにおいては、
欠点ではあっても、使い手はそれほど気にしないことになる。

欠点と欠陥は似ているようで、はっきりと違うものである。
ならばスピーカーの欠陥とは、どういうことなのか。
プレーヤーにおける規定の回転数を出せない、のと同じ意味での欠陥はあるのだろうか。

Date: 12月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その5)

「欠陥」スピーカーの存在をまるごと否定しようとは思っていない。
なぜなら、「欠陥」スピーカーが数は少ないながらも、
しかもずっと昔の欠陥スピーカーとは違い、一聴、まともな音を鳴らしながらも、
音楽を変質・変容させてしまうスピーカーがあるということは、
スピーカーの欠点とはなにか、そして音楽を鳴らす、ということについて考えていくうえで、
比較対象としての存在価値は認めている。

音は音楽の構成要素だとされている。
否定しようのない、この事実は、再生音という現象においてもはたしてそうなのだろうか。

いまは答を出せないでいる、この問いのために、
いちどは「欠陥」スピーカーを自分のモノとして鳴らしてみることが、
ほんとうは必要なのかもしれない。
それも、私が認める、音楽を聴くスピーカーとして信頼できる他のスピーカーと併用せずに、
「欠陥」スピーカーだけで、たとえば1年間を過ごしてみたら、どういう答にたどり着くだろうか。

そんなことを考えないわけではないが、
そういうことを試してみるには、「欠陥」スピーカーはあまりにも高価すぎる。
それに愛聴盤を、私は失ってしまうかもしれない……。

いま別項で書いている「手がかり」を私は持っている。
だから、愛聴盤を失ってしまうことはない、ともいえる反面、
その「手がかり」が変質・変容してしまったら、やはり愛聴盤を失うのかもしれない。

これは、おそろしいことなのかもしれない。

すくなくとも私は、「欠陥」スピーカーに対して、「手がかり」のおかげで敏感に反応できている。
けれどまだ自分の裡に「手がかり」を持っていない聴き手が、
これらの「欠陥」スピーカーを、世の中の評判を信じて聴いてしまったら──、と思ってしまう。

別項で書いた「聴くことの怖さ」が、別の意味でここにもある。