Archive for category ジャーナリズム

Date: 1月 22nd, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その6)

ステレオサウンド 2号の表2の文章は原田勲氏が書かれたものだとしよう。
ほかの人による可能性は低い。

この文章の最後に、
《本誌が「聴」の世界をひらく
眼による水先案内となれば幸いです》
とある。

本誌とはいうまでもなくステレオサウンドのことである。
つまりステレオサウンドが眼による水先案内となることを、
ステレオサウンドを創刊した原田勲氏は、このとき考えていた(目指していた)ことになる。

ステレオサウンド 2号の表2にこう書いてあるのだから、
これがステレオサウンド創刊時の編集方針といっていい。

水先案内とは、目的地に導くことである。

2013年の、ステレオサウンド編集長の新年の挨拶にあった
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針と、
《「聴」の世界をひらく眼による水先案内となれば幸い》という編集方針は、果して同じことなのだろうか。

何も大きくズレているわけではないが、同じとは私には思えない。

けれど現ステレオサウンド編集長は、創刊以来変らぬ編集方針として、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
と書いている。

微妙に変ってきているとしか思えない。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 書く

毎日書くということ(反省と皮肉をこめて)

毎日書いていると、書くことにつまることはない。
むしろ、書きたいこと、書いておかねばと思うことがいくつも出てくる。
だから書く気になるかどうかは別として、書くことに困ることはない。

いいわけにもならないが、そのため、「同軸型はトーラスなのか」のように、
続きを書くのにときとしてあいだが開きすぎてしまう。
他にも続きを書こうと気に掛けつつも、他のことを書いてしまっている。

私は、このブログを書くために試聴や取材をやっているわけではない。
それでも書きたいことは、山のようにあるわけだから、
オーディオ雑誌に携わっている人たち(編集者、筆者)は、
試聴や取材をやっているわけだから、私以上に書きたいことは山のようにあるわけだ。
しかも本づくりには複数の人が携わっているわけだから、
ひとりひとりの山は、私ひとりの山よりもずっと高くあるべきだし、
その高い山がいくつも連なっているのだから、そこから発せられる情報量は、
本来ならばとてつもなく多いものになるはずである。

ステレオサウンドは季刊誌である。
私がいたときも、季刊誌のままでいいのだろうか、と編集部と先輩と話していたことがある。
月刊は無理だろうから、隔月刊にするべきなのかも……と。

そのときは隔月刊もきつい、ということに落ち着いたように記憶している。

そこから外れて、いま思うのは、
編集部の人数がいまの倍ほどになれば、ステレオサウンドの月刊化はできるはずだということである。
もちろん、いまと同じページ数での月刊化である。

読者に伝えていくこと(書いていくこと)は、そのくらい余裕であるはずである。
書くことに困る(誌面をうめることに困る)ということは、彼らがプロフェッショナルであるならば、
ありえないはずである。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: ジャーナリズム

「言うべきこと」を書く

一年で1000本を書くことを目標としていても、今年は一年と二週間かかってしまった。
これが5001本目である。

ブログを書き始めた時に、10000本書くことを決めていた。
六年と三ヵ月ちょっとで、やっと中間点である。
すこし時間がかかりすぎと反省している。

1000本目を書いた後、「言いたいこと」を書く、とタイトルにつけた。
3000本目を書いた後は、「言いたいこと」を書く(さらにはっきりと)、というタイトルをつけた。

「言いたいこと」はもちろんはっきりと書いていく。
それだけではなく、「言うべきこと」を書いていく。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: ジャーナリズム, デザイン

TDK MA-Rというデザイン(ステレオ時代という本とその記事・その2)

TDL MA-Rで、Googleで検索すると、かなりのページがヒットする。
私が書いた「TDK MA-Rというデザイン」も2ページ目で表示される。

ステレオ時代のVol.3掲載のTDK MA-R開発ストーリーを担当した編集者は、
MA-Rのことについて、インターネットを使って調べたりしなかったのか、と思う。
一時間もあれば、Googleで検索してヒットしたページを見ていったとして、
検索結果の2ページ目に表示される私のブログを見て、そこにある川崎先生のブログへのリンクをクリックすれば、
MA-Rについての、いままで知られてなかったことにたどりつく。

ほとんど労力を必要としないことではないか。
キーボードをほんの少し叩き、マウスを動かしてクリックしていくだけのことである。
それすらもせずに、ただインタヴューしたことだけを記事にしたのが、
今回のTDK MA-R開発ストーリーではないのか。

川崎先生がMA-Rについて書かれたブログが、つい最近のことであったら、まだわかる。
ステレオ時代のVol.3はつい最近書店に並んだ本である。
担当編集者がMA-Rのことを調べる気があったなら、
川崎先生のブログを見つけられなかったということは考えにくい。

いい記事をつくろうという気がないのか、とも思ってしまう。
なぜ、いい記事にしようとしないのか。
その理由を考えてしまう。

結局のところ、商業誌であることを優先してしまっているからだ、ということになってしまう。

Date: 12月 19th, 2014
Cate: ジャーナリズム, デザイン

TDK MA-Rというデザイン(ステレオ時代という本とその記事・その1)

ステレオ時代という本がある。
今、最新号のVol.3が書店に並んでいる。

ステレオ時代の存在は知っていたけれど、手にとろうとは思っていなかった。
どういう内容の本なのかわかっているからだけど、
表紙に、TDK MA-R開発ストーリー、とある。
だから手にとった。

Vol.1とVol.2を読んでいたから、記事についてはおおよその想像はついていた。
想像した通りの内容だった。

そして、やっぱり、と思った。

TDK MA-R開発ストーリーの記事中には、東芝のこと、オーレックスのことがまったく語られてなかったからだ。
すべてTDKによる開発である、と記事は伝えていた。

けれど、そうではないことは「TDK MA-Rというデザイン」でふれた。
川崎先生のブログへのリンクもしている。

川崎先生の「K7の最高機種デザインはAurexデザインだった」は、9月13日に公開されている。

Date: 12月 8th, 2014
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(構造と構成)

構造と構成について考えている。

構造とは、大辞林にはこう書いてある。
 全体を形づくっている種々の材料による各部分の組み合わせ。作りや仕組み。
 さまざまな要素が相互に関連し合って作り上げている総体。また,各要素の相互関係。

構成については、
 いくつかの要素を組み立てて一つのまとまりあるものにすること。また,その組み立て。
 経験によらずに概念・形式・イメージなどを操作することで対象を組み立てること。

英語では構造は(a) structure; (a) construction; (a) make; 〈組織〉 organization; 《文》 constitution、
構成はmaking; (a) make-up; (a) construction; structure; composition;
(an) organization; a setup; 《文》 formation。

構造と構成について明確に説明しようとすると意外に難しいのに気づく。
にも関わらず、ほとんど無意識に構造と構成は使い分けている。

オーディオにあてはめてみれば、いわゆるオーディオ業界は構造であり、
オーディオ雑誌にあるのは構成ということになる。

構造と構成の関係を考えていけば、そうか、と納得がいくことがある。
何に納得しているのかは、いずれ書いていくことになるはず。

ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で(続々50年)

ステレオサウンドも2016年には50年を迎える。
ほぼ間違いなく、200号とその前後の号では創刊50年記念号としての記事が載ることだろう。
各社の広告にも、創刊50年を祝うことが書かれていると予想できる。

創刊50年はけっこうなことである。
だがステレオサウンド創刊50年は、読者であればほとんどの人が編集部からの指摘がなくとも気づくことである。
そういうことを大々的に誌面で告知して、
グレン・グールドのコンサート・ドロップアウトからの50年目に関しては、まったくの無視。

オーディオ雑誌だからグールドについて取り上げなければならない、ということはない。
だがステレオサウンドは2012年に、
グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲のガラスCDを企画して販売している。
一枚10万円を軽く超える価格のCDを、いまも売っている。

このCDはグールド没後30年、生誕80年ということで企画されたモノであろう。
ステレオサウンドがオーディオ雑誌でなければ、こんなことは書かない。
だがステレオサウンドはオーディオ雑誌である。

オーディオ雑誌であるならば、グレン・グールドの生誕・没後ということよりも、
コンサート・ドロップアウトにこそ注目すべきではないのか。
そう思うから、書いている。

ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で(続50年)

私が雑誌に期待していることのひとつに、
読み手である私に何かを気づかせたり思い出させてくれることがある。

情報の新しさ、多さよりも、日々の生活でつい忘れてしまいがちになることに、はっと気づかせてくれる。
定期刊行物として出版される雑誌に求めているところがある。

いまでは情報はあふれている。
だからこそ雑誌は、そんな情報の波に埋もれてしまいそうになることをすくい上げていくことが大事だと思う。

けれど雑誌編集者のほうが、情報を追うことに汲々としているふうに感じられることもある。
編集部というのはひとりではない。複数の人がいる。
新情報を追う人もいれば、私が雑誌に期待していることを提供してくれる人もいての編集部でなければならない。

「ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で」というタイトルをつけている。
この後に何が続くのかは、人によって違ってくる。

雑誌編集者こそ、
「ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で」本をつくっていかなければならないのではないか。

ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で(50年)

今年(2014年)は、グレン・グールドのコンサート・ドロップアウトから50年目になる。
グレン・グールドは、オーディオマニアにとっては特別な存在である。

どこかのオーディオ雑誌が、だからドロップアウト50年の記事をつくるかな、と少しばかり期待していた。
今年も後一ヵ月と数日で終るが、いまのところどのオーディオ雑誌もやっていない。
12月に出るオーディオ雑誌にも載っていないであろう。

Date: 11月 15th, 2014
Cate: ショウ雑感, ジャーナリズム

2014年ショウ雑感(オーディオ・ジャーナリズム・その4)

別項でふれているMAC POWERというMac関係の月刊誌。
MAC POWERはあるときから編集者が誌面に積極的に登場するようになっていった。
ステレオサウンドの、編集者は黒子であれ、とはまさに正反対の編集方針であり、
そのこともMAC POWERを面白く感じる理由になっていたように思う。

MAC POWERでは筆者の記事よりも、編集者の記事の方が興味深いことも少なくなかった。
そのことは編集部も感じていたのかもしれない。
おそらく筆者も感じていたことだろう。
そうやって本が面白くなっていく。
けっこうなことだと思うし、そういう編集方針をオーディオ雑誌に取り入れたら、とも想像していた。

MAC POWERと似たようなことはステレオが以前からやってはいた。
編集部による実験的な試聴記事が毎号数ページ掲載されていた。

だが、それはどうしても内輪ネタといった印象から抜け出ることはなかった。
少なくとも私はそんなふうに感じていた。
MAC POWERにはそういうところが皆無だったとはいわないけれど、内輪ネタには留まっていなかった。
だから面白く読めた。

ステレオサウンドでMAC POWERのように編集者が積極的に誌面に登場するようにはできないか、
それになぜ編集者は黒子でなければならないのか、について考えてもいた。

ある時、ある人から聞いた。
ステレオサウンドがオーディオ評論家を前面に推し出し、編集者を黒子とするのか、
その理由についてである。

ある人は、原田勲氏から直接聞いたこととして、私に話してくれた。
「そういう理由もあったのか……」と思った。

いまここで、その理由については書かない。
いつか書くことになるかもしれないが、いまは書かない。

ある人から聞いたことだけが黒子の理由の全てではないにしても、
こういう考えがあるのなら、編集者にオーディオ・ジャーナリズムは芽生えない、とだけはいっておく。

Date: 11月 15th, 2014
Cate: ショウ雑感, ジャーナリズム

2014年ショウ雑感(オーディオ・ジャーナリズム・その3)

私が在籍していたころのステレオサウンドの編集長は原田勲氏だった。
いまオーディオ評論家になられている黛さんが編集次長だった。
とはいえ、実質的に黛さんが編集長であった。

この時代、原田編集長からいわれていたことは「編集者は黒子だ」ということだった。
これはステレオサウンドという専門雑誌を創刊して20年近く、
つねにオーディオ雑誌としてトップにいつづけてきたことから得たことなのだろう。

あの時代は黒子でよかった、というよりも、黒子であったから、ステレオサウンドはうまくいった。
けれど編集者が黒子でいては、編集者にジャーナリズムは芽生えるのだろうか、といまは思う。

別項「オーディオにおけるジャーナリズム」でも引用している瀬川先生の、ステレオサウンド 50号での発言。
     *
新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。つまり初期の時代、あるいは、少し前までは、海外の新製品、そして国産の高級機の新製品などは、東京とか大阪のごく一部の場所でしか一般のユーザーは手にふれることができなかったわけで、したがって「ステレオサウンド」のテストリポートは、現実の新製品知識を仕入れるニュースソースでもありえたわけです。
 ところが現在では、そういった新製品を置いている販売店が、各地に急激にふえたので、ほとんどだれもが、かんたんに目にしたり、手にふれてみたりすることができます。「ステレオサウンド」に紹介されるよりも前に、ユーザーが実際の音を耳にしているということは、けっして珍しくはないわけですね。
 そういう状況になっているから、もちろんこれは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。
     *
ここでのオーディオ・ジャーナリズムにはオーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者も含まれて、のはずである。
だが実際にはどうだったのか。

試聴という取材の場に立ち会ってはいても取材をしているとはいえない編集者。
黒子でいいのであれば、これでもいい。
むしろ、好都合といえるのか。

だがオーディオ・ジャーナリズムを芽生えさせ育てていくうえで、黒子のままでよかったとはいえない。

Date: 11月 12th, 2014
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その3)

垂れ流しという言葉がある。穢い言葉である。
あえて意味を書く必要はないだろうが、いちおう書いておく。

大小便をたれ流すこと。
未処理の廃棄物などをたれ流すこと。
と辞書には書いてある。

この垂れ流しは、別項の「background…」でもふれることになるだろう。
BGM(Background Music)も、BGMとしてかける曲を選び、かける音量も設定した場合と、
ただ鳴っていればいい、鳴っていないといらいらする、とにかく常時音楽(音)が鳴っていなければ気がすまない、
そんな人が一日中鳴らしているのも、またBGMであり、
同じBGMという言葉でも、後者はあきらかに垂れ流し的なBGMがあるのではないか。

そんなBGMの垂れ流し(レコードはかけるものだから、かけ流しかもしれない)をしている人も、
最初のころはかける曲も音量も選んでいたであろう。
それがいつしか鳴っていればいい、ということになっていく。

そんなことを考えている。

ずっと以前、街中のBGMが煩いと話題(問題)になったことがある。
そのころからすれば、いまはよくなったといえるだろうか。
それでもBGMは、いろんなところで流れている。

なぜBGMは流されるのか。
なんらかの目的があってのことなのか。
そして、いま情報がBGM化しつつある、といえないだろうか。
情報の垂れ流しといえることが起りつつあるのではないか。

Date: 11月 9th, 2014
Cate: ショウ雑感, ジャーナリズム

2014年ショウ雑感(オーディオ・ジャーナリズム・その2)

試聴は、試聴と呼ばれる取材である。
つまり試聴室は、取材の現場といえる。

そこにいるのは試聴者と試聴のための準備をする者である。
一般的に、試聴者はオーディオ評論家と呼ばれている人たちである。
まれに読者参加ということで、オーディオ評論家以外の人が加わることもあるが、
この人たちはあくまでもアマチュア代表ということだから、
ここでのオーディオ・ジャーナリズムからは除外しておく。

オーディオ評論家は、試聴室で鳴っている音を聴き、メモを取る。
辞書には、記事・制作などの材料となることを,人の話や物事の中から集めること、とあるから、
試聴はまさに取材でもある。

このとき編集者は何をしているのか。
まず試聴のための準備をする。
必要となる器材を集め、アンプやCDプレーヤーといった電子機器であれば、
あらかじめ電源をいれておきウォームアップをさせておく。

試聴が始まれば、試聴対象となるオーディオ機器を試聴室にいれて設置・接続。
それまで聴いていたオーディオ機器を試聴室の外に運び出す。
これを何度もくり返し行う。

場合によっては試聴ディスクのかけかえ、レベルコントロール操作といったオペレーションを行う。
試聴という取材が滞りなく運ぶためである。

ここでの編集者の働きは、どうみても取材とはいえない。
試聴室という現場に編集者もいるわけだが、取材をしているとはいい難い。

Date: 11月 8th, 2014
Cate: ショウ雑感, ジャーナリズム

2014年ショウ雑感(オーディオ・ジャーナリズム・その1)

オーディオにおけるジャーナリズム」という項を立てて、書いてきている。
書きながら、オーディオ雑誌の編集者に対して、ジャーナリズムを求めるのはおかしいのかもしれない。
そうも思うようになっている。

ジャーナリズム(journalism)は
新聞・雑誌・テレビ・ラジオなど時事的な問題の報道・解説を行う組織や人の総体。
また,それを通じて行われる活動。
と辞書には書いてある。

ジャーナリスト(journalist)は、記者のことである。
編集者はeditorだ。

記者は自ら現場に赴き取材をし言語化する。
例えばオーディオショウに取材に行き、編集部が原稿を書き記事とすれば、
この場合の編集者は記者でもあったことになる。

だがオーディオショウに行ったけれど、写真を撮ってきただけ。
もしくは専属のカメラマンに写真撮影の指示をしてきただけ。
記事を書くのはオーディオ評論家であれば、この時の編集者は記者といえるのだろうか。

写真に関してはそうとはいえるし、
記事では写真のネームは編集者が書くであろうから、記者ではない、とは言い切れないが、
それでも記者とはとても呼べない。

ではオーディオ雑誌のメインといえる試聴ではどうか。

Date: 11月 1st, 2014
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その2)

ウィルソン・ブライアン・キイの「メディア・セックス」は、目につく本だったからすぐに購入して読んだ。
「メディア・レイプ」も読んでいるけれど、どちらも手元にない。
誰かに貸したままになっている。

こういう時代になっているから、もう一度読んでおこうかな、と思いながらも、
二冊とも書かれている内容をほとんど憶えていない。
内容よりも、「メディア・セックス」、「メディア・レイプ」というタイトルの方が印象が強く、
タイトルだけをいまでもふいに思い出すことがある。

だから、この項で書くことは本の内容とは関係のないことになるだろう。
あくまでも「メディア・セックス」、「メディア・レイプ」に対してのことになると思う。

私が上京した1981年ごろの電車では、文庫本か新聞を読んでいる人が目についた。
そこにいつのころからかマンガ週刊誌が加わった。
少年ジャンプの発行部数が600万部を超えたころの月曜日の電車は、
男性に限ってではあったが、学生も社会人も少年ジャンプを熱心に読んでいた。

これが発行部数600万部による現象なのか、と思っていた。
ステレオサウンドで働きはじめたころ、電車でステレオサウンドを読んでいる人をみかけると、うれしかった。
でもそのころでもあまり見かけることはなかった。
いまでは電車でステレオサウンドを読んでいる人をまったくみかけなくなった。

少年ジャンプとステレオサウンドの発行部数を比較する方が無理というもので、
いまでは300万部くらいらしいが、それでも少年ジャンプの発行部数はすごいと思う。

部数の減った少年ジャンプ(に限らずマンガ週刊誌)にとってかわったのが携帯ゲーム機であり、携帯電話だった。
それもいまではスマートフォンに取って代られている。

文庫本は文字だけ、といっていい。新聞には写真もあるが文字が圧倒的に占めている。
マンガは絵と文字で、巻頭の数ページはカラーだが、これらは基本的にモノクロである。

スマートフォンが表示できるのは文字だけではない。絵も写真も動画もフルカラーで表示でき、音楽も聴ける。
しかも音楽を聴きながら、画面では何かを読むこと(表示すること)もできる。

スマートフォンを触ってなくとも、東京の電車(山手線、中央線など)では、
ドアの上に液晶画面がついていて、ニュースやコマーシャルなどを常に流している。