オーディオの想像力の欠如が生むもの(その5)
オーディオの想像力の欠如が硬直化を生むのは、
それぞれの役割を正しく認識していないせいで、化学変化がおこらないからだろう。
オーディオの想像力の欠如が硬直化を生むのは、
それぞれの役割を正しく認識していないせいで、化学変化がおこらないからだろう。
オーディオの想像力の欠如も、
タキトゥスの言葉がいまも通用する理由のひとつになっている。
《真実は調査に時間をかける事によって正しさが確認され、
偽りは不確かな情報を性急に信じる事によって鵜呑みにされる。》
タキトゥスの言葉だ。
タキトゥスが生きていた時代からずっとそうだったのか、と思ってしまう。
《新たな情報を得たときには、確認という聖なる儀式が済むまで鵜呑みにしてはならない。》
ヴォルテールも同じことを言っている。
いつの時代も、どの国でも変っていない。
タキトゥスの時代よりもヴォルテールの時代の方が情報の伝達は速かった。
ヴォルテールの時代よりも現代はもっともっと速くなっている。
速くなればなるほど比例して量も増えていく。
現代はヴォルテールの時代よりも、タキトゥスの時代よりも、
鵜呑みにしてしまう時代ともいえる。
オーディオ雑誌、つまり出版物は、
どんなにがんばってもインターネットのレスポンスには到底かなわない。
だからこそ、時間をかけ正しさを確認していくことが、その役目といえるのだが……。
ステレオサウンド 49号からはじまったState of the Art賞は、
Components of the yearとなり、
いまはStereo Sound Grand Prix(ステレオサウンド・グランプリ)となっている。
この賞の名称の変化と、
昨日から書き始めた「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」でとりあげていく、
オーディオ評論家の敬称として「先生」とつけることは、
別のことではなく、根っこは同じことだと私は見ている。
ここにステレオサウンド編集部の狡さが、はっきりとある。
狡さ、と書いた。
実は他の表現もいくつか思いついていた。
それらをすべて書くのは気が引けたから、ひとつだけ「狡さ」を選んだ。
この狡さに、ステレオサウンド編集部は気がついているのだろうか。
意識して、賞の名称を変え、オーディオ評論家を先生とつけて呼んでいるのであれば、
ステレオサウンドはいつかは変っていけるかもしれないと、淡い期待ももてないわけではない。
けれど「狡さ」を無意識のうちにやっているのであれば、
ステレオサウンドは終ってしまった、といわざるをえなくなる。
この「狡さ」については、
「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」の中で書いていく。
オーディオの想像力の欠如が生むのは、硬直化であり、
硬直した企画・規格であり、ここから何が生じるのかははっきりとしている。
オーディオの想像力の欠如が端的にあらわれたのが、
「名作4343を現代に甦らせる」の記事であり、その試聴記である。
オーディオの想像力の欠如が生むものが、現在のオーディオ界である──、
そうは思いたくない。
けれど、完全に否定できずにいる。
オーディオに関わっている人すべてから、オーディオの想像力が欠如しているわけではない。
けれど、欠如しているとしか思えない人が、少なからずいる、と思える。
State of the ArtとStereo Sound Grand Prixまでの、
ステレオサウンドが行っている賞の名称の変更は、わかりやすくなってきている。
わかりやすいことが善だととらえる人にとっては、
State of the ArtよりもComponents of the year、
Components of the yearよりもStereo Sound Grand Prixのほうがより直接的でわかりやすいのだから、
賞の名称変更は善(よかった)と受けとめるだろう。
だがわかりやすいは、ほんとうに善なのだろうか。
つねに善といえるのだろうか。
「オーディオにおけるジャーナリズム(その11)」でも、このことは書いた。
*
わかりやすさが第一、だと──、そういう文章を、昨今の、オーディオ関係の編集者は求めているのだろうか。
最新の事柄に目や耳を常に向け、得られた情報を整理して、一読して何が書いてあるのか、
ぱっとわかる文章を書くことを、オーディオ関係の書き手には求められているのだろうか。
一読しただけで、くり返し読む必要性のない、そんな「わかりやすい」文章を、
オーディオに関心を寄せている読み手は求めているのだろうか。
わかりやすさは、必ずしも善ではない。
ひとつの文章をくり返し読ませ、考えさせる力は、必要である。
わかりやすさは、無難さへと転びがちである。
転がってしまった文章は、物足りなく、個性の発揮が感じられない。
わかりやすさは、安易な結論(めいたもの)とくっつきたがる。
問いかけのない文章に、答えは存在しない。求めようともしない。
*
いま賞ほどわかりやすいものはない──、
そんな時代になっている。
けれど、賞とは本来そういうものではなかったはずだ。
ずっと以前からの私にとっての課題であり、
このブログを始めてからは、よりはっきりとさせなければと考えている課題が、
私自身は、何によってどう影響されてきたのか、である。
オーディオに関することで、何かに対してある考えを持つ。
その考えは、これまでのどういうことに影響されて導き出されてきたのか。
そのことが、こうやって書いていると、以前にもましてはっきりさせたいと思うようになってくる。
それをはっきりさせる意味もあって、私はたびたび引用している。
世の中には、すべて自分自身の独自の考えだ、みたいな顏をしている人がいる。
彼は、誰の影響も受けなかったようにふるまう。
ほんとうにそうであれば、それはそれでいい。
けれど、ほんとうに誰の影響も受けていない、と言い切れるのか。
その精神に疑問を抱く。
私はいろんな人の影響を受けている。
それを明らかにしていくよう努めている。
誰の影響も受けずに、これは自分自身の考えだ、みたいな書き方をしようと思えば、たやすくできる。
でも、それだけは絶対にしたくない。
それは恥知らずではないか、と思うからだ。
誰とはいわない、どの文章がとはいわない。
オーディオ雑誌に書かれたものを読んでいると、
これはずっと以前に、あの人が書いていたこと、と気づく。
それをどうして、この人はさも自分自身の考えのように書いているのだろうか、とも思う。
もちろん、その人は以前に書かれていたことを知らずに書いている可能性はある。
けれど、その人はオーディオ雑誌に原稿料をもらって書いている、
いわばプロの書き手である。アマチュアではない。
アマチュアであれば、そのことにとやかくいわない。
だがプロの書き手であれば、少なくとも自分が書いているオーディオ雑誌のバックナンバーすべてに、
目を通して、誰がどのようなことを書いているのかについて把握しておくべきである。
人は知らず知らずのうちに誰かの影響を受けている。
そのことを自覚せずに書いていくことだけはしたくない。
そんな違いはどうでもいいじゃないか、と思われるようと、
私がここにこだわるのは、
私にとっての最初のステレオサウンドが41号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」ということが関係している。
41号の特集は世界の一流品だった。
スピーカーシステム、アンプ、アナログプレーヤー、テープデッキなど紹介されている。
オーディオに関心をもち始めたばかりの中学生の私にとって、
世の中には、こういうオーディオ機器があるのか、と読んでいた。
いわば41号は、現ステレオサウンド編集長がいうところの、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針の一冊ともいえる。
「コンポーネントのステレオの ’77」は巻頭に、
黒田先生の「風見鶏の示す道を」があることがはっきりと示すように、
これは《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針の一冊ではなく、
はっきりと《「聴」の世界をひらく眼による水先案内》の編集方針の一冊である。
私はたまたまではあるが、同じようにみえて実のところ違う編集方針のステレオサウンドを手にしたことになる。
38年前、私が熱心に読みふけったのは「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
編集方針が変っていくのが悪いとはいわない。
ステレオサウンドが創刊された1966年と2015年の現在とでは、大きく変化しているところがあるのだから、
オーディオ雑誌の編集方針も変えてゆくべきところは変えてしかるべきではある。
私がいいたいのは、変っているにもかかわらず、創刊以来変らぬ、とあるからだ。
そのことがたいしたことでなければ、あえて書かない。
だが編集方針は、少なくとも活字となって読者に示されたところにおいては、変ってきている。
その変化によって、オーディオ評論家の役目も変ってきている。
《「聴」の世界をひらく眼による水先案内》としてのオーディオ評論家と、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、
演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》ためのオーディオ評論家、
私には、このふたつは同じとはどうしても受けとられない、やはり違うと判断する。
現ステレオサウンド編集長の2013年の新年の挨拶をそのまま受けとめれば、
どちらもオーディオ評論家も同じということになる。
オーディオ評論家は読者の代表なのか、について考えるときに、
同じとするか違うとするかはささいなことではない、むしろ重要なことである。
ステレオサウンド 2号の表2の文章は原田勲氏が書かれたものだとしよう。
ほかの人による可能性は低い。
この文章の最後に、
《本誌が「聴」の世界をひらく
眼による水先案内となれば幸いです》
とある。
本誌とはいうまでもなくステレオサウンドのことである。
つまりステレオサウンドが眼による水先案内となることを、
ステレオサウンドを創刊した原田勲氏は、このとき考えていた(目指していた)ことになる。
ステレオサウンド 2号の表2にこう書いてあるのだから、
これがステレオサウンド創刊時の編集方針といっていい。
水先案内とは、目的地に導くことである。
2013年の、ステレオサウンド編集長の新年の挨拶にあった
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針と、
《「聴」の世界をひらく眼による水先案内となれば幸い》という編集方針は、果して同じことなのだろうか。
何も大きくズレているわけではないが、同じとは私には思えない。
けれど現ステレオサウンド編集長は、創刊以来変らぬ編集方針として、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
と書いている。
微妙に変ってきているとしか思えない。
毎日書いていると、書くことにつまることはない。
むしろ、書きたいこと、書いておかねばと思うことがいくつも出てくる。
だから書く気になるかどうかは別として、書くことに困ることはない。
いいわけにもならないが、そのため、「同軸型はトーラスなのか」のように、
続きを書くのにときとしてあいだが開きすぎてしまう。
他にも続きを書こうと気に掛けつつも、他のことを書いてしまっている。
私は、このブログを書くために試聴や取材をやっているわけではない。
それでも書きたいことは、山のようにあるわけだから、
オーディオ雑誌に携わっている人たち(編集者、筆者)は、
試聴や取材をやっているわけだから、私以上に書きたいことは山のようにあるわけだ。
しかも本づくりには複数の人が携わっているわけだから、
ひとりひとりの山は、私ひとりの山よりもずっと高くあるべきだし、
その高い山がいくつも連なっているのだから、そこから発せられる情報量は、
本来ならばとてつもなく多いものになるはずである。
ステレオサウンドは季刊誌である。
私がいたときも、季刊誌のままでいいのだろうか、と編集部と先輩と話していたことがある。
月刊は無理だろうから、隔月刊にするべきなのかも……と。
そのときは隔月刊もきつい、ということに落ち着いたように記憶している。
そこから外れて、いま思うのは、
編集部の人数がいまの倍ほどになれば、ステレオサウンドの月刊化はできるはずだということである。
もちろん、いまと同じページ数での月刊化である。
読者に伝えていくこと(書いていくこと)は、そのくらい余裕であるはずである。
書くことに困る(誌面をうめることに困る)ということは、彼らがプロフェッショナルであるならば、
ありえないはずである。
一年で1000本を書くことを目標としていても、今年は一年と二週間かかってしまった。
これが5001本目である。
ブログを書き始めた時に、10000本書くことを決めていた。
六年と三ヵ月ちょっとで、やっと中間点である。
すこし時間がかかりすぎと反省している。
1000本目を書いた後、「言いたいこと」を書く、とタイトルにつけた。
3000本目を書いた後は、「言いたいこと」を書く(さらにはっきりと)、というタイトルをつけた。
「言いたいこと」はもちろんはっきりと書いていく。
それだけではなく、「言うべきこと」を書いていく。
TDL MA-Rで、Googleで検索すると、かなりのページがヒットする。
私が書いた「TDK MA-Rというデザイン」も2ページ目で表示される。
ステレオ時代のVol.3掲載のTDK MA-R開発ストーリーを担当した編集者は、
MA-Rのことについて、インターネットを使って調べたりしなかったのか、と思う。
一時間もあれば、Googleで検索してヒットしたページを見ていったとして、
検索結果の2ページ目に表示される私のブログを見て、そこにある川崎先生のブログへのリンクをクリックすれば、
MA-Rについての、いままで知られてなかったことにたどりつく。
ほとんど労力を必要としないことではないか。
キーボードをほんの少し叩き、マウスを動かしてクリックしていくだけのことである。
それすらもせずに、ただインタヴューしたことだけを記事にしたのが、
今回のTDK MA-R開発ストーリーではないのか。
川崎先生がMA-Rについて書かれたブログが、つい最近のことであったら、まだわかる。
ステレオ時代のVol.3はつい最近書店に並んだ本である。
担当編集者がMA-Rのことを調べる気があったなら、
川崎先生のブログを見つけられなかったということは考えにくい。
いい記事をつくろうという気がないのか、とも思ってしまう。
なぜ、いい記事にしようとしないのか。
その理由を考えてしまう。
結局のところ、商業誌であることを優先してしまっているからだ、ということになってしまう。