Archive for category 素朴

Date: 4月 27th, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その17)

カラヤンが、もしデッカの「オテロ」を不満に思っているとしたら、
その理由は、やはりカルショウのしかけた録音にある、と思う。

ほんものの大砲の音を使ったことに代表されるように、
デッカの「オテロ」には、カルショウがしかけた録音のおもしろさがある。
これは、ショルティとの「ラインの黄金」からはじまったカルショウの録音テクニックの開発が、
さらに花開いた、という印象で、本来、「録音」というものは演奏者を裏から支える技術であるはずなのに、
カルショウの手にかかった「オテロ」では、
ショルティの「ニーベルングの指環」がときに「カルショウの指環」が言われるのと同じようなところがある。
当時のショルティよりも、「オテロ」のカラヤンは前面に出てきている、とはいうものの、
ときにカルショウの録音のしかけ──ソニック・ステージといいかえてもいいだろう──が、
カラヤンの演奏よりも印象が強くなるところがある。

ここのところが、カラヤンのもっとも不満に感じていたところではないのだろうか。

視覚情報のない録音において、それがステレオになったときにカルショウは、
モノーラル録音ではなし得なかった大きな可能性を見出している。

カルショウは自署「ニーベルングの指環──録音プロデューサーの手記」(黒田恭一氏訳)で、
このことをはっきりと書いている。
できれば全文引用したいところだが、この章だけでもかなりの長さなので、ごく一部だけ。
     *
そういう次第で、ステレオは、使われるべき手段のひとつなのである。結局は、あなたがステレオをどう考えるかである。そのもっともすばらしい例として、二十年前には考えることもできなかったような方法で、家庭生活にオペラを持ち込むことが、ステレオは出来るのである。いくつかの理由により、オペラハウスでのような効果はえられない。家庭でレコードを聴いている人は、集合体の一員ではないのである。その人が認めようが認めまいが、個室におけるその人の反応は、公の中での反応と同じものではないのだ。私は、あるひとつの環境が他の環境より良いと主張しているのではなく、ただたんにそのふたつが違っていて、だからまた、人びとの反応も違うといっているのである。良い条件のもとでの演奏の好ましいステレオ・レコードの音は、家庭においても、聴き手の心をとらえるであろうし、劇場で聴いている時よりもはるかにそのオペラの登場人物たちに、心理的に近づいているかもしれない。自分がそのドラマの中にいるという感じは、目に見えるものがないためにかえって、強められるのである。聴き手は、言葉と音楽とを聴くことができ、主人公たちが立っている場所を聴きわけることができ、彼らが動く時には、彼らの動きに従うことができるのである。だが、その登場人物たちが、どのような格好をしているかとか、どんな舞台装置の中を歩きまわっているかといったことについては、その聴き手なりに、頭の中で想像図を描かねばならない。そうなると、その聴き手は、他人の演出したものを鑑賞するかわりに、無意識に自分自身のものをつくり出すことになるのである。(アンドリュー・ポーターは、「ラインの黄金」を批評して、「グラモフォン」誌に、次のように書いている。「このレコードを聴くのと、舞台に目をむけずにオペラハウスに身をおいているのとは、違う。これは、ある神秘的な方法で、演じている人たちの中ではなく、作品の中に、より親密に私をとらえるのである」。)
     *
ここで見落してはならないのは、
「自分がドラマの中にいるという感じは、目に見えるものがないためにかえって、強められるのである」。
これこそが、ソニック・ステージの根幹、カルショウの録音の基盤になっている、といっていいはずだ。

Date: 4月 26th, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その16)

カラヤンは、1973年に「オテロ」を再録音している。
再録音に積極的だったカラヤンにしても、12年での再録音は早い。
しかも交響曲ではなく、演奏者の数も多く予算もそれだけ多くを必要とするオペラの再録音で、
12年というのは、最短記録かもしれない。

ほかのオペラでは、EMIに録音したモーツァルトの「フィガロの結婚」と「魔笛」はどちらも1950年。
「フィガロの結婚」はデッカで、「魔笛」はドイツ・グラモフォンで、
前者は28年、後者は30年後の再録音である。
いうまでもないことだが、EMI録音はモノーラルである。
なのに30年ものあいだ、再録音してこなかったのにくらべ、
「オテロ」は旧録音もステレオであるのに、再録音までは12年である。

1961年の「オテロ」は、デッカでの録音で、オーケストラはウィーン・フィル、
1973年の「オテロ」は、EMI録音で、オーケストラはベルリン・フィル。

デッカの「オテロ」に使われた録音器材は、すべて真空管だったはず。
EMIの「オテロ」に使われたのは、すべてか、ほとんどの器材はトランジスターに移り変っていたはず。

これは黒田先生が指摘されていることだが、カラヤンがこんなに早く「オテロ」を録り直したのは、
デッカの「オテロ」の出来に満足していなかったためではなかろうか。

カラヤンが満足していなかったと仮定して、何に満足できなかったのは、勝手に推測していくしかない。
まず考えられるのは、歌手がある。
デッカの「オテロ」では、オテロをマリオ・デル・モナコ、イヤーゴをアルド・プロッティが歌っている。
ドイツ・グラモフォン盤では、オテロはジョン・ヴィッカース、イヤーゴはピーター・グロソップになっている。

デッカの「オテロ」とほぼ同時期に出たセラフィン指揮でも、ヴィッカースはオテロを歌っている。

デル・モナコとヴィッカースは、声の明るさにおいて正反対なところがある。
デル・モナコの明るいテノール似対して、ヴィッカースの暗い声のテノール。
プロッティとグロソップも、やはり違う。プロッティは暗い声のバリトンで、グロソップは明るい声のバリトン。

ヴェルディは、オテロは暗い声のテノール、イヤーゴは暗い声のバリトン、という指示をしている、ときく。
つまりデッカの「オテロ」では、歌手の扱いに対して失敗といえるところがあったようにもいえる。

だからといって、このことだけが理由で、再録音までの期間が12年と短かったわけではないと思う。

Date: 4月 24th, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その15)

テラークは、1978年にチャイコフスキーの「1812年」を出している。
前年ダイレクトカッティングのレーベルとして誕生したテラークにとって、
「1812年」ははじめてのデジタル録音であり、実際に大砲の音を録音し、しかもハイレベルでカッティングした。
テラークがダイレクトカッティング専門にこだわっていたら、おそらく本物の大砲を使うことはなかっただろう。

一発勝負のダイレクトカッティングにおいて、大砲の音はカッティングレベルの調整が非常に困難なはずだし、
なによりオーケストラはホールで演奏しているわけだから、まさか大砲をホールに持ち込むわけにはいかない。
大砲は、どこか野外の広い場所でなければならない。

同時録音は無理なわけだから、デジタル録音に移行するにあたって、
じつにぴったりの曲をテラークを選択したといえる。

事実、この録音(レコード)で、少なくともオーディオマニアのあいだではテラークの名は一躍知れ渡る。
しかも大砲の音の部分は、オルトフォンによるとオーバーカッティングだったそうで、
問題なくトレースできるカートリッジはごく少数だった。
カートリッジのトラッキング・アビリティのチェックには、これ以上のレコードはない、ともいえる。

このころから、トラッカビリティという言葉も広まっていったが、
これはシュアーの造語で、トラッキング・アビリティを短縮したものだ。

大砲を使った録音は、じつはテラークの「1812年」が最初ではない。
私の知る限りでは、デッカが1961年に録音したカラヤン指揮のヴェルディの「オテロ」がある。

通常は、大太鼓かティンパニーを使うところを、この「オテロ」のプロデューサーだったカルショウは、
実際の大砲の音を使っている。

Date: 4月 23rd, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その14)

ワンポイント録音といえば、デッカから出ているエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」も、たしかそうだ。

1955年のステレオ録音である、この「フィガロの結婚」は、その3年後の録音、
カルショウによるショルティの「ラインの黄金」と比較すれば、
「フィガロの結婚」に感じられる素朴な良さは、「ラインの黄金」では、ほとんど感じられない、といっていい。

この3年間に、デッカは──というよりもカルショウというべきだろうが──、
ソニック・ステージという考え方をうち出している。

当時、驚きをもって評価された、このソニック・ステージは、
きわどいところも内包しており、音だけの世界であるレコード、それもオペラには、ときに効果的でもあるし、
ここまでやる必要があるのだろうか、と感じさせるところもある。
このところが、カルショウが携わった録音を、いまの時代、くり返し聴くと、
部分的にも全体的にも、古い録音と思わせるところと関係している。
もちろん録音として非常に興味深いものではあるし、
聴くことの面白さとはなにかについて考えさせられるものではある。

「フィガロの結婚」のほうはというと、こちらはQUADのESLのように、まわりがよくなっていくことによって、
真価が徐々に発揮されてきて、つねに新鮮なスピーカーシステムとして評価されてきたことと似ているところがあり、
再生側のクォリティの向上によって、新鮮さを失わない、ではなくて、いま聴く方が、むしろ新鮮といえるだろう。

「フィガロの結婚」と「ラインの黄金」、
2011年のいまからみれば、どちらもデッカの同じ時代の録音とみなされるにもかかわらず、
このふたつの録音の違いこそ、素朴な音とはいったいどういうものなのかについて考えていくうえで、
恰好の材料だと思う。

Date: 4月 21st, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その13)

日本人と欧米人とでは体臭の違いから、同じ銘柄の香水をつけても、
香ってくる匂いはかなり異ってくる、といわれる。
街を歩いてすれ違う人から香りから判断するしかないのだが、
たしかに同じ香水かなと思われる匂いでも、日本人では、その香水の匂いがわりとストレートに、
欧米の人の場合には、体臭が濃いせいなのか、匂いの密度そのものがずいぶん濃くなっているように感じる。

そんな感じを、シャルランのCDにも感じる。
ふたつのスピーカーの周囲に漂っている空気の密度が濃くなっている。
それは、シャルランの録音に収められているアンドレ・シャルランの「体臭」がそこに加味されているからなのか。

同じワンポイント録音でも、デンオンはもうあきらかに日本人の「体臭」(音)である。
どちらが録音テクニックとして優れているかということよりも、
とにかくまず「体臭」の濃さが醸し出す響きが、シャルランにはあり、デンオンには感じられない。

聴く人によっては、シャルランのこの濃さを拒否してしまう人もいるかもしれない。
なかには強烈と感じる人もいるだろう。

だけどここでいう体臭は、匂いであって、決して臭いではない。
それに、何かを誤魔化そうとして香水をたっぷりつけた結果という性質のものでもない。

アンドレ・シャルランという人物が何を望んでいるのか、それをストレートに伝えてくれる匂い、
というよりも香りであり、この香りこそが、じつのところ、シャルランの響きのように感じられた。
しかも、実は素朴な響きであり、スポイルすることなく表現してくれる音もまた装飾のない音なのだろう。

Date: 11月 28th, 2010
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その12)

ごまかしがない音、というのは、表現を変えれば、装飾のない(もしくは少ない)音かもしれない。
ごまかしたいところをなんとか飾り立てて誤魔化す、
またはごまかしている箇所から注意をそらすために別のところを過剰に装飾してそちらに向くようにする──、
そういうことをやっていないという意味で、そう言えるような気もする。

そんなことを考えていたら、たとえば録音における「素朴」とはなにか、と思った。

録音の技術・手法はほんとうに大きく変化している。
そんな変化のなかのひとつにマイクロフォンの数が一時期急激に増えたことがある。
マルチマイクロフォンの行き過ぎたもの、それと正反対にいたのがワンポイントマイクロフォンによる収録。

このワンポイント収録は、録音側における素朴な手法なのだろうか。

今夏、アンドレ・シャルラン録音が、ひさしぶりにCDとして登場した。
マニアの間では、シャルラン録音のマスターテープはすべて焼却されてしまったから、
CD復刻はサブマスターやLPを使ってのものだから、価値はほとんどなし、という声もあるけれど、
実際にCDを聴いてみると、噎せ返るくらい濃く分厚い響きが聴こえてきた。

シャルラン・レーベルのLPを聴いたことはない。
だからオリジナルLP(オープンリールでも発売されていた)の良さが、
どのていど今回のCDに生きているのかは判断できないものの、
少なくともシャルラン録音の特徴は、色濃く伝わってくる。

ワンポイント録音といっても、1980年代に話題になったデンオン・レーベルのそれとはずいぶん違うことに、
最初の音(というよりも響き)がスピーカーから聴こえてきたときに、正直一瞬とまどってしまった。

Date: 3月 25th, 2010
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その11)

ごまかしがないということ──、
これこそ、じつはモニタースピーカーシステムに求められていることでもある。

Date: 3月 20th, 2010
Cate: 素朴
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素朴な音、素朴な組合せ(その9・余談)

755Eは、すでに手もとにないが、かわりに409-8Hがある。
これで、あのときの音を再現してみよう、と考えている。

といっても、あのときのアメリカ製の、乾いた感じのパチンという音がするダンボール紙は、ない。
もし同じダンボール紙が入手できたとしても、それを人に奨めることはできない。
同じものが入手できるとはかぎらない以上、再現性がないためだ。

となると、かわりの材料で、軽くてそこそこ硬いもの、しかも入手しやすく、
安価であること──、そういう条件にぴったりのものを見つけなくてはならない。

実際に試していないが、バルサ材にセラックニス(セラミック、ではない)を含浸させるのは、どうだろうか。
意外に良さそうな予感がする。

これで平面バッフルをつくる。大きければ大きいほど、低音再生は有利になるが、
メインシステムとしての製作ではないから、
使わない(聴かない)とき、存在が邪魔に感じるようでは困る。
1m×1mでも、大きく感じてしまうだろう。となると、折り畳み式という手もある。

Date: 3月 20th, 2010
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その10)

大事な帯域とは、中域、つまり、人の声の帯域のこと。

こう考えていって、ダイヤトーンの2S305とアルテックの755Eを、
素朴な音のスピーカーとして思い浮べたのが、なぜか、自分で納得がいく。

どちらも、大事な帯域において、ごまかしがないスピーカーといえるからだ。
人の声の帯域において、ごまかしがないから、どちらも信頼度の高さを有している。

これは重要なことではないだろうか。

Date: 3月 18th, 2010
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その9)

友人も、その友人もオーディオに特に関心はない人たちだった。
友人の友人は、ギターを演っているということだった。

そんなふたりが、「気持いい音!!」といいながら、喜んでくれた。

私も、思わぬ音に、すこし驚いていた。
屈託のない音、とは、こんな音なのか、と思うくらい、ストレスなく音が伸びてくる。
プリメインアンプで鳴らしていたしスピーカーケーブルも、適当なものを接いでいた。
とにかく、すこしでも早く音を出すために、そのへんにあったものを利用しただけの、
急拵えのシステムにもかかわらず、聴いているのが楽しくなってくる。

アルテックの755Eという、基本設計はかなりふるいフルレンジユニットのもつ素性のよさ、
ダンボールによる平面バッフル、それから人間支持機構が音に反映されたのだろうか。

ダンボールによる平面バッフルはそれほど大きなものではないから、
低域は低いところまでのびていたわけではない。
素直にすーっと高域までのびているわけでもない。レンジの狭さを感じさせる高域だ。

ナローレンジの音だ。
けれど、音楽を鳴らす上で、大事な帯域である中域において、
このときのシステムは、ごまかしが、ほとんどないといえるだろう。

Date: 3月 17th, 2010
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その8)

アルテックの755Eをもっていたことがある。

ときどき箱から取り出しては鳴らしていたけど、
755Eのために専用のエンクロージュアを設計してつくろう、とは考えていなくて、
なんとなくもっていた、という感じだった。

あるとき、友人と、その友人が、755Eを聴いてみたい、という。
エンクロージュアはないから、たまたまもっていたアメリカ製のダンボール箱を切り開いて、
適当な大きさの平面バッフルがわりにした。

このころのアメリカ製のダンボール紙のなかには、指で弾くと、けっこう硬い感じの音がするものがあって、
このときのダンボール紙も、そういうものだった。

これまた適当に真中当りに、755Eの口径とだいたい同じくらいの孔をあけて、
755Eのケツを手でもち、もう片方の手でダンボール製の平面バッフルの上辺をもって、という、
かなりいいかげんなセッティングで鳴らした。

たまたま3人いたからできるやりかたで、スピーカーの正面で聴けるのはひとりだけ。
一曲ごとに代り番こに聴く。

このときの音は、意外にもウケた。

Date: 3月 16th, 2010
Cate: 素朴
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素朴な音、素朴な組合せ(その7)

2S305の陰にかくれてしまっているのか、2S208を見る(聴く)機会は、ほとんどないようだ。
私も、2S208はカタログで知っているだけで、ある。

値段で判断するものではないが、参考までに書いておくと、
2S305搭載のPW125は40,000円、TW25は28,000円。
2S208搭載のPW201は12,000円、TW501は7,000円(1974年当時の価格)。

2S305は200,000円、2S208は120,000円(どちらも1本の価格)と、
ユニットの価格差ほどシステムとしての価格差は開いていないが、
これだけ違うと、2S305と2S208のクォリティはかなり異るものだろう。

こんなことを思っても仕方のないことだが、2S208と同じように、
コンデンサーだけの-6dB/oct. 減衰特性のネットワーク仕様の2S305があったら、
どんな音がしたのだろうか、ぜひ聴いてみたい、という気持が沸いてくる。

もしも、いま状態のいい2S305と2S208があったならば、どちらが素朴な音を聴かせてくれるのだろうか。
そして、-6dB/oct.仕様の2S305なるものがあったとしたら、
通常仕様の2S305よりも、もうすこし素朴な音を聴かせてくれるのだろうか……。

2S305も2S208も、使用ユニットはショートボイスコイルである。
振動板は紙のコーン型。新素材を使っているわけではなく、これといった特徴はそう多くはない。
技術的特徴の面白みは少ない。

だからといって、いま風の、意を凝らしたスピーカーシステムとくらべて、
ツマラナイとするのは、どうだろうか。

たしかに意を凝らしたスピーカーシステムではない、が、意を尽くしたスピーカーシステムではある。

Date: 3月 14th, 2010
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その6)

まずは訂正から。

2S305のハイパスフィルターが、コンデンサーひとつによる-6dB/oct.である、
と思っていて、そう書いてしまったが、
どうも気になって手持ちのダイヤトーンのカタログを調べてみたら、私の記憶違いであった。

2S305のウーファーは30cm口径のPW125、トゥイーターがTW25、
ネットワークはTW25専用として単売されていたHP170で、遮断カーブは12dB/oct.である。

こんな勘違いをしてしまったのは、
2S305の姉妹機2S208の仕様と記憶がごっちゃになってしまっていたからである。
2S208は、ウーファーは20cm口径のPW201、トゥイーターはTW501で、
ネットワークはコンデンサーがひとつ挿入されているだけ。

カタログによると、コンデンサーの値は2〜4μF、とある。

PW125は機械的フィルターによって、1.5kHz以上はなだらかに減衰するよう設計されている。
PW201は、口径が小さいこと、トゥイーターが変更されていることもあってか、
2kHz以上から減衰する設計になっている。

2S208のクロスオーバー周波数は、カタログ上では2kHzとなっている。
なのにトゥイーターのハイパスフィルター用のコンデンサーの値に幅があるのは、なぜだろう。

Date: 3月 13th, 2010
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その5)

要素を減らしたもの=シンプル・イズ・ベストではない、とわかったうえで、
それでも、あえて構成要素の少ないスピーカーシステムを、
これまでの数多くの市場に出廻った製品の中から選ぶとすると、ダイヤトーンの2S305が、まず浮んでくる。

このスピーカーは、コーン型ウーファーとコーン型トゥイーターによる2ウェイ構成で、
よく知られているようにネットワークは、
トゥイーターへの低域信号をカットするコンデンサーひとつのみである。
トゥイーターの能率をウーファーと合わせるためのレベルコントロールも、
ない、という徹底したものだ。

トゥイーターの能率は磁束密度をコントロールすることで、ウーファーと能率を合わせている。
マルチウェイのスピーカーシステムで、ここまで構成要素を減らすことは、もう無理である。

JBLの4311も部品点数の極端に少ないネットワークだが、
レベルコントロールまでは省略していない(できていない)。

2S305のウーファーの高域のカットは、ボイスコイルボビンとコーン紙とのあいだに、
コンプライアンスをもつ材料を挿入することで、機械的フィルターを構成している。

何を使っていたかまでは忘れてしまったが、経年変化により、この部分が硬化してしまえば、
機械的フィルターは動作しなくなり、2S305本来の音は得られなくなる。

Date: 3月 7th, 2010
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その4)

モノーラル録音を、モノーラルで再生すること──スピーカーも1本──も、
素朴な音とは? を考えていくうえで忘れてはならないことではないか。

要素が増えていくことで可能になることもある一方で、
要素を減らしていくことで見えてくることもあるはずだからだ。