Archive for category 瀬川冬樹

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その5)

マランツのModel 7のパネルデザインに言及していた人が、もうひとりいたのを知ったのが、
ほんの2年ほどの前のことである。
書かれていたのは岩崎先生だった。
シンメトリーをほんの少し、絶妙といえるバランスでくずしているからこその美しさ、と書かれていた。
正直驚いた。瀬川先生よりもずっと前に、同じことを書かれていた。
岩崎先生はデザインの専門家ではなかったはず。
(いまのところ瀬川先生がマランツModel 7のパネルデザインについて書かれた、古いものはまだ見つけていない。)

岩崎先生の文章を見つけたとき、驚きだけでなく、なぜ? もあった。
そして、そういえば、と思い返すことがあった。
岩崎先生は大音量というイメージがあるため、そのためのスピーカーとしてJBLのD130、パラゴン、
ハーツフィールド、ハークネス、エレクトロボイスのパトリシアンなどが結びついているけれど、
D130の前に使われていたのは、グッドマンのAXIOM80である。

ここから、岩崎先生と瀬川先生の共通点が、じつはあることに気づいたわけである。

瀬川先生といえば、リスニングルームを横長に使われる。
つまり長辺の壁側にスピーカーシステムを設置される。
私も、ずっとこのやり方をとおしている。
実は岩崎先生も、この設置方法の良さを古くから説かれている。

また、えっ、と思う。

そして、ステレオサウンド 43号の岡先生が書かれた追悼文にもどる。
そこには、こうある。
「とてもセンシティブで心優しい感じだった」と。

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その4)

マランツのModel 7のパネルデザインについて語るとき、
多くの人が、シンメトリーのバランスをほんのちょっとくずしているところに、絶妙さがある、という。
こう語る人は、私も含めて、おそらくステレオサウンドから1981年夏に出た
「別冊セパレートアンプ ’81」の巻頭に載っていた
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」を読まれた方のはず。

こう書かれている。
     *
そうなのだ。マランツの音は、あまりにもまっとうすぎるのだ。立派すぎるのだ。明らかに片寄った音のクセや弱点を嫌って、正攻法で、キチッと仕上げた音。欠点の少ない音。整いすぎていて、だから何となくとり澄ましたようで、少しよそよそしくて、従ってどことなく冷たくて、とりつきにくい。それが、私の感じるマランツの音だと言えば、マランツの熱烈な支持者からは叱られるかもしれないが、そういう次第で私にはマランツの音が、親身に感じられない。魅力がない。惹きつけられない。だから引きずりこまれない……。
また、こうも言える。マランツのアンプの音は、常に、その時点その時点での技術の粋をきわめながら、音のバランス、周波数レインジ、ひずみ、S/N比……その他のあらゆる特性を、ベストに整えることを目指しているように私には思える。だが見方を変えれば、その方向には永久に前進あるのみで、終点がない。いや、おそらくマランツ自身は、ひとつの完成を目ざしたにちがいない。そのことは、皮肉にも彼のアンプの「音」ではなく、デザインに実っている。モデル7(セブン)のあの抜きさしならないパネルデザイン。十年間、毎日眺めていたのに、たとえツマミ1個でも、もうこれ以上動かしようのないと思わせるほどまでよく練り上げられたレイアウト。アンプのパネルデザインの古典として、永く残るであろう見事な出来栄えについてはほとんど異論がない筈だ。
なぜ、このパネルがこれほど見事に完成し、安定した感じを人に与えるのだろうか。答えは簡単だ。殆どパーフェクトに近いシンメトリーであるかにみせながら、その完璧に近いバランスを、わざとほんのちょっと崩している。厳密にいえば決して「ほんの少し」ではないのだが、そう思わせるほど、このバランスの崩しかたは絶妙で、これ以上でもこれ以下でもいけない。ギリギリに煮つめ、整えた形を、ほんのちょっとだけ崩す。これは、あらゆる芸術の奥義で、そこに無限の味わいが醸し出される。整えた形を崩した、などという意識を人に抱かせないほど、それは一見完璧に整った印象を与える。だが、もしも完全なシンメトリーであれば、味わいは極端に薄れ、永く見るに耐えられない。といって、崩しすぎたのではなおさらだ。絶妙。これしかない。マランツ♯7のパネルは、その絶妙の崩し方のひとつの良いサンプルだ。
パネルのデザインの完成度の高さにくらべると、その音は、崩し方が少し足りない。いや、音に関するかぎり、マランツの頭の中には、出来上がったバランスを崩す、などという意識はおよそ入りこむ余地がなかったに違いない。彼はただひたすら、音を整えることに、全力を投入したに違いあるまい。もしも何か欠けた部分があるとすれば、それはただ、その時点での技術の限界だけであった、そういう音の整え方を、マランツはした。
     *
これを読んだとき、なんと見事な表現だろう、と感心していた。
そして工業デザイナーだった瀬川先生だから指摘できる、
マランツModel 7のパネルデザインのことだな、とも思っていた。
ずーっとそう思っていた。ほんの2年ほど前まで、こういう指摘ができるのは瀬川先生だけだな、と思っていた……。

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その3)

「オーディオ彷徨」を読んだときは、ステレオサウンドで働いていた。
試聴のあいまに、ときどきではあったが、岩崎先生のことが話題になることもあった。
「オーディオ彷徨」を読んでもわかるが、
とにかく強烈な印象の人であったことが、少しずつではあるが実感できてきた。
それでもジャズをあまり熱心な聴かないことがあってか、
「オーディオ彷徨」の面白さにのめり込むには、もう少し時間を必要とした。
いわば「遅れてきた読者」であった。

だから2000年にaudio sharingをつくったときに、「オーディオ彷徨」を公開した。
じつはこのとき、岩崎先生のご家族と連絡がとれずに、無断公開だった。
でも、しばらくしてご家族の方からメールをいただいた。許諾を得られた。

audio sharingを公開したとき、私の手もとにあった本で、岩崎先生の文章が載っているのは、
ステレオサウンド 41号と「オーディオ彷徨」だけだった。
もっともっと岩崎先生の文章を公開したいと思っていても、すぐにはどうすることもできなかった。

けれどaudio sharingを公開していると、本を提供して下さる方がいらっしゃる。
その方たちのおかげで、岩崎先生の書かれた文章をここ数年まとめて読むことができた。
そして気づくのは、意外にも瀬川先生と共通するところが多い、ということだった。

ジャズを大音量で聴く岩崎先生と、
クラシックを小音量で聴かれていた瀬川先生。
以前ならば、ふたりに共通性をみつけることは、ほとんどできなかった。
というよりも、できる、とは思っていなかった。

共通するところといえば、JBLのスピーカーを愛用されていたこと、であっても、
岩崎先生のJBLといえばD130でありパラゴンである。
瀬川先生は4341、4343、4345といった4ウェイのスタジオ・モニターだし、
レコードの扱いもふたりは対照的だった、ときいていた。

でも、それは、私が岩崎先生の書かれたものをほとんど読んでいなかったから、であった。

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その2)

私が初めて手にした(買った)ステレオサウンドは、1976年12月に出た41号と、
ほぼ同時に出ていた「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
つまり、私が岩崎先生が書かれたものを同時代に読むことができたのは、
ステレオサウンド 41号に掲載されたものだけである。

41号には、JBLのパラゴン、アルテックの620A、クリプシュのK-B-W、SAEのMKIBとMark2400、
アキュフェーズのT100とM60、アムクロンのDC300A、オーディオリサーチのD76A、ダイナコのMKVI、
ダイヤトーンDA-A100、デンオンPOA1001とDH710F、ラックスCL32、マランツの150、
デュアルCS721Sと1249、トーレンスTD125IIAB、マイクロのDDX1000について書かれている。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」には書き原稿はない。

1977年3月のステレオサウンド 42号には岩崎先生の文章は載ってなかった。
そして6月発売のステレオサウンド 43号には、岩崎先生への追悼文が載っていた。

このころはまだ中学生だったから、新しく出るステレオサウンドやその他のオーディオ雑誌、
それにレコードを買うのがせいいっぱいで、ステレオサウンドのバックナンバーを購入する余裕はなかった。
だから、岩崎先生の文章をまとめて読むことになるのは、もうすこし先のことになる。

そうであっても、ステレオサウンド 43号に載っていた「故岩崎千明氏を偲んで」は何度か読み返しては、
井上先生、岡先生、菅野先生、瀬川先生、長島先生、山中先生による追悼文と、
パラゴンの前で椅子の上で胡座を組んで坐っている岩崎先生の写真をみて、なにか強烈なものを感じていた。

岩崎千明という人がどういう人であったのかは、亡くなられたときにはほとんど何も知らなかった。
ジャズを大音量で聴く人、というぐらいでしかなかった。
そのせいか、遺稿集「オーディオ彷徨」が出てもすぐには買わなかったし、買えなかった。
私が「オーディオ彷徨」を手にしたのは、復刊されてからである。

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その1)

まず、この文章をお読みいただきたい。
     *
 8月のまだ暑さの厳しい、ある日の昼下り、SJ試聴室にふと立寄った時、見なれぬブランドのパワー・アンプが眼に入った。〝Stax〟と小さく、しかし、鮮やかな文字がパイロット・ランプ以外に何もない、そのスッキリとしたパネルにあった。知る人ぞ知る個性派ナンバー・ワンのメーカー、スタックス・ブランドのアンプということで、大いにそそられ、聴きたくなったのも当然だろう。
 SJ試聴室の標準スピーカーJBLスタジオ・モニター4341が接続され、音溝に針を落してボリュームが上がると、響きが空間を満たした。その時のスリリングな興奮は、ちょっと口では言えないし、まして、こうして文字で表わすことなどできない。なんと言ったらよいのだろうか、まず4341が、JBLがこういう音で鳴ったことは今までに聴いたことがない。それは、やわらかな肌触わりの、しなやかな物腰の、品の良いサウンドであった。いわゆるJBLというイメージの、くっきりした鮮明度の高い強烈さといった、いままでの表現とまったく逆のものといえよう。だからといって、JBLらしさがなくなってしまった、というわけでは決してない。そうした、いかにもJBLサウンドという音が、さらにもっと昇華しつくされた時に達するに違いない、とでもいえるようなサウンドなのだ。まったく逆な方向からのアプローチであっても、それが極点に達すれば、反対側からの極点と一致するのではないだろうか。ちょっと地球の極点のように、南へ向っても北へ向っても、ひとまわりすれば極点で一致するのと同じ考え方で理解されようか。
 スタックスのアンプのサウンド・クォリティーを説明するのは、むづかしい。本当は今までになく素晴しい、といい切っても少しも誇張ではないが.それならば、どんなふうにいいのか。少なくとも、音溝のスクラッチ音が極端に静かになる。JBLのシステムで聴くと、レコードのスクラッチはきわめてはっきりと出てくるが、その同じスピーカーでありながら、スタックスのアンプでは、驚くほど耳障りにならなくなってしまう。さらに演奏者の音が、そのまわりの空間もろとも再現されるという感じで鳴ってくれる。ステージでの録音ならばそれは、良い音としての必要条件ともなるが、スタジオでのオンマイク録音においてでさえも、こうした演奏現場の音場空間がスピーカーを通して聴き手の前にリアルに表現される。優れた再生というものの重要なるファクターであるこうした音場再現性が、スタックスのこのパワーアンプDA80でははっきりと感じられる。もし聴きくらべることができる状態ならば、おそらくそうした事実は、誰もが非常にはっきりと感じとることができるのではないだろうか。それは、ちょっときざっぼい、言い方をすれば、再生音楽の限界の壁を越え得たといえる。または、生(なま)へ大きく一歩前進したともいえよう。
 さて、こうした、かってない未知の再生効果の衝撃的体験をしたときから、このアンプDA80は、私に新たなる可能性を提示し拡大してくれたのである。その製品の、オリジナリティーおよびクォリティーの高さは、スタックス・ブランドの最も誇りとするところであり、これはごく高いレベルのマニアの間でこそ常識となっているとはいうものの、「スタックス」というブランドは必らずしもよく知られているわけではない。だからSJ読者の中にも、このページの登場で初めて意識される方も多いことと思われる。スタックスは、国内オーディオ・メーカーの中でも、もっとも永いキャリアーと他に例のないユニークな技術とで知られる、今や世界にもまれになったコンデンサー・カートリッジとコンデンサー・スピーカーからそのスタートを切り、アーム、さらにヘッドフォン、そのためのアダプター・アンプと順次に作ってきて分野を序々に、しかし確実に拡げてきたのち、1年前に、パワー・アンプDA300を発表した。150/150ワットのA級アンプは、ごく一部のマニアの間で、話題になったが商品としては、高価格のため必らずしも大成功とまではいかなかったようだ。今回、このDA300を実用型として登場したのが、このDA80だ。しかし、DA80は、兄貴分たるDA300を、性能的にも再生品位の上でも一歩前進したといって差支えないようだ。AクラスDC構成アンプというその回路的な特長による技術的な優秀性だけが、決してそのすばらしさのすべてではないのだ。おそらくオーディオも商品としてもまた兄貴分DA300は、一歩を譲るに違いあるまい。
     *
今日、もうひとつのブログ、the Review (in the past)で公開した、
岩崎先生が、スイングジャーナルの1976年10月号に書かれた、スタックスのパワーアンプDA80の製品評だ。
最初は、リンクするだけにしておこうと思ったが、確実に読んでほしい、と思ったので、
まるごと、こちらでも公開した。

私は、この岩崎先生の文章を読んで、やっぱりそうだったんだ、という感を深くした。
そして、ひとりで、うんうん、と首肯いていた。

Date: 11月 9th, 2011
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その20)

瀬川先生のオーディオ評論家としての活動の柱となっているものは4つある。
これは本のタイトルでいったほうがわかりやすい。

「コンポーネントステレオのすすめ」(ステレオサウンド)
「虚構世界の狩人」(共同通信社)
「オーディオABC」(共同通信社)
「オーディオの系譜」(酣燈社)

それぞれのタイトルが本の内容をそのまま表わしている。

「コンポーネントステレオのすすめ」は、
オーディオがプレーヤー、アンプ、スピーカーをそれぞれ自由に選んで組み合わせることが当り前のことになって、
その世界の広さ、深さ、面白さを伝えてくれる。

「虚構世界の狩人」には説明は要らないだろう。

「オーディオABC」はタイトルからいえばオーディオの入門書ということになるが、
瀬川先生の平易な言葉で書かれた文章は、決して表面的な入門書にはとどまらず、
確か岡先生が書評に書かれていたように「オーディオXYZ」的な内容でもある。
オーディオを構成しているものについて学んでいくには最適の本のひとつである。

「オーディオの系譜」は、オーディオの歴史を実際の製品にそって語られている。

もちろんこの4つ以外に、オーディオ雑誌での製品評価、新製品紹介もあるのだが、
これはオーディオ評論家として誰もがやっている柱であるから、あえて加えなかった。

と書くと、組合せに関しても、他のオーディオ評論家もやっているのでは? といわれそうだが、
組合せに関して、瀬川先生ほど積極的に取り組まれていた人はいなかった、と私は感じている。
それに瀬川先生の組合せは、興味深いものが多かった。
それは単に読み物として興味深いだけでなく、
実際に自分で自分にとっての組合せを考えていく上でのヒントにつながっていくものがちりばめられていた。

瀬川先生の組合せのセンスは、他の方々とはあきらかに違う。

だから、この項では、もう少し瀬川先生のつくられた組合せ例をみていくことにする。

Date: 11月 7th, 2011
Cate: 瀬川冬樹
1 msg

「古人の求めたる所」

私がaudio sharingをつくろうと決意したときにも、
「いまさら瀬川冬樹なんて」という人がいた。
私が、このブログを始めたときにも、「いまさら瀬川冬樹なんて」という人がいた。

いまもそういう人はいる。
このあいだも、私に直接「瀬川さんも岩崎さんも、たいしたことない」と言った人がいる。
私よりも年配の人だ。
その人がそんなことを口にする理由はおおよそ想像できるが、
それよりもこの人は「古人の跡」しか見ることのできない人なのだと思う。

松尾芭蕉の「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」は、
その人にはまったく関係のないことなんだろう。

結局「古人の跡」を求めることすらせず(できず)、ただ見ているだけにすぎない。
瀬川先生は今日(11月7日)で没後30年が経つ。
岩崎先生は1977年に亡くなられているから34年が経っている。

30年前に瀬川先生、岩崎先生がやってこられたオーディオと、
いま自分がやっているオーディオとを比較しての「いまさら……」だったり、
「たいしたことない」という言葉のように思えてならない。

「古人の求めたる所を求めよ」を肝に銘じていれば、
「いまさらも……」も「たいしたこと」も、口にできない。
だから、こんなことを平気で口にする人のことなんて、もうどうでもいい。

30年前、瀬川先生は、岩崎先生がオーディオに求められていたこととは、何だったのか。
それを、あなたも求めなさい、とは言わない。
だが、それを見つけ見つめることは、大切なことだといいたい。

Date: 9月 29th, 2011
Cate: 4343, JBL, 瀬川冬樹

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その14)

それでは瀬川先生の音のバランスの特長は、どこにあるのかといえば、
それは、基音(ファンダメンタル)と倍音(ハーモニクス)とのバランスにある、と推断する。

これを理解できずに、瀬川先生の出されていた「音」を、周波数スペクトラム的な観点から、や、
使用されていたオーディオ機器への観点から追い求めても、まったく似ても似つかぬ(ただの)音になってしまう。

残念なのは、基音と倍音のバランスの観点(感覚)から、
実際に瀬川先生の「音」を聴かれた人の、瀬川先生の「音」について語られているのが、ない、ということだ。

Date: 9月 23rd, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 瀬川冬樹

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その24)

直径が大きく異る円をふたつ描いてみる。
たとえば10倍くらいの差がある円を描いて、その円周を同じ長さだけきりとる。
たとえば2cmだけ切り取ったとする。

そのふたつの円周を比較すると、直径の小さな円から切り取った円周は同じ2cmでも弧を描いている。
直径が10倍大きい円から切り取った円周は、もちろん弧を描いてはいるものの、
小さな円の円周よりもずっと直線に近くなっていく。

ある音源から球面波が放射された。
楽器もしくは音源から近いところで球面波であったものが、
距離が離れるにしたがって、平面波に近くなってくる。

だから平面波の音は距離感の遠い音だ、という人もいるくらいだ。

平面波が仮にそういうものだと仮定した場合、
目の前にあるスピーカーシステムから平面波の音がかなりの音圧で鳴ってくることは、
それはオーディオの世界だから成立する音の独特の世界だといえなくもない。

しかもアクースティックな楽器がピストニックモーションで音を出すものがないにも関わらず、
ほほすべてのスピーカー(ベンディングウェーヴ以外のスピーカー)はピストニックモーションで音を出し、
より正確なピストニックモーションを追求している。

そういう世界のなかのひとつとして、大きな振動板面積をもつ平面振動板の音がある、ということ。
それを好む人もいれば、そうでない人もいる、ということだ。

瀬川先生の時代には、アポジーは存在しなかった。
もし瀬川先生がアポジーのオール・リボン型の音を聴かれていたら、どう評価されただろうか。
大型のディーヴァよりも、小型のカリパーのほうを評価されたかもしれない。
そんな気がする……。

Date: 9月 23rd, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 瀬川冬樹

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その23)

じつは井上先生も、振動板面積の大きい平面型スピーカーの音に対して、
瀬川先生と同じような反応をされていた。
「くわっと耳にくる音がきついんだよね、平面スピーカーは」といったことをいわれていた。

といってもスコーカーやトゥイーターに平面振動板のユニットが搭載されているスピーカーシステムに対しては、
そういったことをいわれたことはまず記憶にない。
もしかするとすこしは「きつい」と感じておられたのかもしれないが、
少なくとも口に出されることは、私がステレオサウンドにいたころはなかった。

けれどもコンデンサー型やアポジーのようなリボン型で、低域まで平面振動板で構成されていて、
しかも振動板の面積がかなり大きいものを聴かれているときは、
「きついんだよなぁ」とか「くわっとくるんだよね、平面型は」といわれていた。

でもアポジーのカリパーをステレオサウンドの試聴室で、マッキントッシュのMC275で鳴らしたときは、
そんな感想はもらされていなかった(これは記事にはなっていない)。
だから私の勝手な推測ではあるけれども、
ステレオサウンドの試聴室(いまの試聴室ではなく旧試聴室)の空間では、
アポジーのカリパーぐらいの振動板面積が井上先生にとっては、
きつさを感じさせない、意識させない上限だったのかもしれない。

それにMC275の出力は75Wだから、それほど大きな音量を得られるわけでもない。
これが低負荷につよい大出力のパワーアンプであったならば、
ピークの音の伸びで「きつい」といわれた可能性もあったのかもしれない。

井上先生が「きつい」と表現されているのも、音色的なきつさではない。
これも推測になってしまうのだが、瀬川先生と同じように鼓膜を圧迫するようなところを感じとって、
それを「きつい」と表現されていた、と私は解釈している。

ただ、この「きつさ」は、人によって感じ方が違う。
あまり感じられない方もおられる。
いっておくが、これは耳の良し悪しとはまだ別のことである。
そして、圧迫感を感じる人の中には、この圧迫感を「きつい」ではなく、好ましい、と感じる人もいる。
だから、瀬川先生、井上先生が「きつい」と感じられたことを、理解しにくい人もおられるだろうが、
これはひとりひとり耳の性質に違いによって生じるものなのだろうから。

Date: 9月 20th, 2011
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(CDに対して……補足)

瀬川先生は、当時私が住んでいた熊本のオーディオ店に定期的に来られていた。
そこで、あるレコードについて
「これはどこにも表記されていないけれど、このレーベル初のデジタル録音です」と紹介されたことがあった。
瀬川先生は、そのレコードの音質を高く評価されていた。

とはいっても、それがデジタル録音だから、ではなくて、
アナログ録音だから、とか、デジタル録音だから、とか、録音器材が何々だから、といったこととは関係なく、
聴き手の元に届くLPとして、音が良いのかどうかだけを判断されたものだった。
そういう意味で、デジタル録音に対して偏見はお持ちでなかった、と思う。

FM fanの「ディジタル・ディスクについて」では、これに関することも書かれている。
     *
いま私たちになじみ深い30cmLP(ステレオ・ディスク)に、「ディジタル録音」とうたってあるものは、これから論じるディジタル・ディスクではない。現在通用している「ディジタル録音」とは、レコードに録音する途中で、テープに一旦録音する、そのテープ録音をディジタル化したものである。
いま現在のその「ディジタル録音」に対して、ディジタル化の是か否かを論じている人たちがあるが、これはナンセンスも甚だしい。
なぜかといえば、私たちがいま入手できるステレオLPに望むことは、良い音楽が、優れた演奏と良い音質で録音されていること。これが全てである。そのレコードを作る過程で、誰がどんな手を加えようが、ディジタルであろうがなかろうが、結果として出来上がったレコードの良否だけが私たちには問題なのだ。その途中がディジタル化されようがされまいが、そんなこと、私たちの知ったことではない。そういう話題に迷わされることなく、入手したレコードの良否をただ冷静に判断すればいい。
     *
これが書かれたころよりも、いまは録音・マスタリングに関する情報は増えている。
どんな人が録音に関わっている、とか、どういう器材を使った、とか、
いまはほぼデジタル録音だから、サンプリング周波数は、とか、ビット数は、とか、
ことこまかな情報が簡単に入手できるようになっているし、
これらのことを謳っているものもある。

だから、30年前に書かれた、この文章にあるように、
われわれは「そういう話題に迷わされることなく、入手したレコードの良否を冷静に判断すればいい」。

Date: 9月 20th, 2011
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(CDに対して……)

瀬川先生は1981年11月7日に亡くなられているから、CDを聴かれていない。
そのため、CDが登場してときも、それからしばらくしてからも、そしていまでも、
瀬川先生はCDをどう評価されたんだろう……的なことが話題になることがある。

どう評価されたのか──、
私も知りたい、
どう書かれたのか──、
私も読みたい、
と思っているが、こればかりはどうしようもない。

それでもひとついえることがある。

瀬川先生はFM fan連載の「オーディオあとらんだむ」の103回(1980年20号)で、
「ディジタル・ディスクについて」というタイトルで書かれている。

瀬川先生がこの文章を書かれだ時点のオーディオフェアでは、
「試作品や単なる提案まで含めて、十数社が、各社それぞれ独自の(互いに互換性のない)方式を」展示していた。
「各方式が互いに譲らずに乱立しているかぎり」は、
「ディジタル・ディスクを無視すること」だとはっきりと書かれている。

「どの社の何方式はどういう特長があるか……などと一生懸命に調べたり考えたりすること」が、
「既に、各社の競争に巻き込まれてしまっていることになる」からだ。

さらに書かれている。
     *
既に一般誌にも記事になっている周知の事実なので引用させていただくが、パイオニアの石塚社長の談話として、「方式も各社の技術力のうちだから、自由競争の結果優秀なものが残っていくゆくだろう」という意味の発言が公表されている。規格統一というものを根本から誤解しておられるとしか思えないが、石塚氏一個人の見解というよりも、この考え方が、日本のメーカーの一般的見解であるように思えてならない。
     *
パイオニアだけでなく、この時期、ディジタル・ディスクを開発していた他社すべてがこのように考えていたら、
そしてこの誤解のもとに突っ走っていっていたら……。
ソニー・フィリップス連合は、パイオニアのような考えの会社を説得していったものだと思う。
もちろんすべての会社が、規格統一を誤解していたわけでもないだろうけども……。

「ディジタル・ディスクについて」の最後には、こう書かれている。
     *
だが、最後に大切なこと。メーカーがどんなに思い違いをしようとも、私たちユーザーひとりひとりが、規格統一の重要性とその意味を正しく受けとめて、規格が一本に絞られない間は、誰ひとり、ディジタル・ディスクに手を出さないようにするのが、問題解決のいちばんの近道ではなかろうか。そうなるまでは、何方式がどうのこうのという情報に、一切目をつむってしまう。
どんなに嵐が吹き荒れようと、嵐が過ぎて方式統一が完成した暁に、ゆっくりと私たちは手を出せばいい。
     *
だから、これを書かれた2年後に、CDという規格統一されたフォーマットで、
ディジタル・ディスクが登場したことは、喜ばれたはずだし、そのことは高く評価されたはずだ。

Date: 9月 16th, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 瀬川冬樹

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その22)

瀬川先生の「ずいぶんきつくて耐えられなかった」ということを、
オーディオの一般的な「きつい音」ということで捉えていては、なかなか理解できないことだと思う。

ダブルスタックとはいえQUADのESLから、いわゆる「きつい音」が出るとは思えない。
そう考えられる方は多いと思う。

私も、「ステレオのすべて ’81」を読んだときには、
「ずいぶんきつくて耐えられなかった」の真の意味を理解できなかった。
これに関しては、オーディオのキャリアが長いだけでは理解しにくい面をもつ。
私がこれから書くことを理解できたのは、ステレオサウンドで働いてきたおかげである。

コンデンサー型、リボン型といった駆動方式には関係なく、
ある面積をもつ平面振動板のスピーカーシステムの音は、聴く人によっては「きつい音」である。
それは鳴らし方が悪くてそういう「きつい音」が出てしまう、ということではなく、
振動板が平面であること、そしてある一定の面積をもっていることによって生じる「きつい音」なのだが、
これがやっかいなことに同じ場所で同じ時に、同じ音を聴いても「きつい音」と感じる人もいれば、
まったく気にされない方もいるということだ。

そして、一定の面積と書いたが、これも絶対値があるわけではない。
部屋の容積との関係があって、
容積が小さければ振動板の面積はそれほど大きくなくても「きつい音」を感じさせてしまうし、
かなり振動板の面積が大きくとも、部屋の容積が、広さも天井高も十分確保されている環境であれば、
「きつい音」と感じさせないこともある。

瀬川先生に直接「ずいぶんきつくて耐えられなかった」音が
どういうものか訊ねたわけではないから断言こそできないが、
おそらくこの「きつい音」は鼓膜を圧迫するような音のことのはずである。

私がそのことに気づけたのは、井上先生の試聴のときだった。

Date: 9月 16th, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 瀬川冬樹

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その21)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’78」の巻末には、
「新西洋音響事情」というタイトルのインタヴュー記事が載っている。
「全日本オーディオフェアに来日の、オーディオ評論家、メーカー首脳に聞く」という副題がついているとおり、
レオナルド・フェルドマン(アメリカ・オーディオ評論家)、エド・メイ(マランツ副社長)、
レイモンド・E・クック(KEF社長)、コリン・J・アルドリッジ(ローラ・セレッション社長)、
ピーター・D・ガスカース(ローラ・セレッション マーケティング・ディレクター)、
ウィリアム・J・コックス(B&Oエクスポートマネージャー)、S・K・プラマニック(B&Oチーフエンジニア)、
マルコ・ヴィフィアン(ルボックス エクスポートマネージャー)、エド・ウェナーストランド(ADC社長)、
そしてQUAD(この時代は正式にはThe Acoustical Manufacturing Co.Ltd.,社長)のロス・ウォーカーらが、
山中敬三、長島達夫、両氏のインタヴュー、編集部のインタヴューに答えている。

ロス・ウォーカーのインタヴュアーは、長島・山中の両氏。
ここにダブル・クォードについて、たずねられている。
ロス・ウォーカーの答えはつぎのとおりだ。
     *
ダブルにしますと、音は大きくなるけれども、ミュージックのインフォメーションに関しては一台と変わらないはずです。ほとんどの人にとってはシングルに使っていただいて十分なパワーがあります。二台にすると、4.5dB音圧が増えます。そしてベースがよく鳴る感じはします。ただ、チェンバー・ミュージックとか、ソロを聴く場合には、少しリアリスティックな感じが落ちる感じがします。ですから、大編成のオーケストラを聴く場合にはダブルにして、小さい感じのミュージックを聴く場合には、シングルにした方がよろしいのではないかと思います。世の中のたくさんの方がダブルにして使って喜んでいらっしゃるのをよく存じていますし、感謝していますけれども、私どもの会社の中におきましては二台使っている人間は誰もおりません。いずれにしても、それは個人のチョイスによるものだと思いますから、わたくしがどうこう申しあげることはできない気がします。
     *
「ステレオのすべて ’81」の特集には「誰もできなかったオーケストラ再生」とつけられているし、
「コンポーネントステレオの世界 ’78」の読者の方の要望もオーケストラ再生について、であった。

オーケストラ再生への山中先生の回答が、ESLのダブルスタックであることは、
この時代(1970年代後半から80年にかけて)の現役のスピーカーシステムからの選択としては、
他に候補はなかなか思い浮ばない。

なぜ、そのESLのダブルスタックの音が瀬川先生にとっては「ずいぶんきつくて耐えられなかった」のか。

Date: 9月 15th, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 瀬川冬樹

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その20)

音楽之友社の試聴室がどのくらいの広さなのか、「ステレオのすべて ’81」からは正確にはかわらない。
けれど50畳もあるような広さではないことはわかる。20畳から30畳程度だろうか。
そこに、「ステレオのすべて ’81」の取材では、
瀬川、山中、貝山の三氏プラス読者の方が三名、さらに編集部も三名にカメラマンが一人、計10人が入っている。
そう広くない部屋に、これだけの人が入っていては条件は悪くなる。
そんなこともあってESLのダブルスタックは、本調子が出なかったのか、うまく鳴らなかったことは読み取れる。
けれど瀬川先生にしても山中先生にしても、そこで鳴った音だけで語られるわけではない。
ESLのダブルスタックは、この本の出る3年前にステレオサウンドの「コンポーネントステレオの世界 ’78」にいて、
手応えのある音を出されているわけで、そういったことを踏まえたうえで語られている。

もちろん話されたことすべてが活字になっているわけではない。
ページ数という物理的な制約があるため削られている言葉もある。
まとめる人のいろいろな要素が、こういう座談会のまとめには色濃く出てくる。

つまり「コンポーネントステレオの世界 ’78」では瀬川先生のESLのダブルスタックに対する発言は、
削られてしまっている、とみていいだろう。
なぜ、削られたのか。しかもひと言も活字にはなっていない。
このことと、「ステレオのすべて ’81」の瀬川先生の音の印象を重ねると、
瀬川先生はESLのダブルスタックに対して、ほぼ全面的に肯定されている山中先生とは反対に、
否定的、とまではいわないもの、むしろ、どこか苦手とされているのではないか、と思えてくる。

「ぼくにはずいぶんきつくて耐えられなかった」と語られている、
この部分に、それが読みとれる、ともいえる。