Archive for category 瀬川冬樹

Date: 5月 25th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(エリカ・ケートのこと)

エリカ・ケートの名を知ったのは、瀬川先生の書かれたものであった。
     *
エリカ・ケートというソプラノを私はとても好きで、中でもキング/セブン・シーズから出て、いまは廃盤になったドイツ・リート集を大切にしている。決してスケールの大きさや身ぶりや容姿の美しさで評判になる人ではなく、しかし近ごろ話題のエリー・アメリンクよりも洗練されている。清潔で、畑中良輔氏の評を借りれば、チラリと見せる色っぽさが何とも言えない魅惑である。どういうわけかドイツのオイロディスク原盤でもカタログから落ちてしまってこれ一枚しか手もとになく、もうすりきれてジャリジャリして、それでもときおりくりかえして聴く。彼女のレコードは、その後オイロディスク盤で何枚か入手したが、それでもこの一枚が抜群のできだと思う。
     *
聴いてみたくなった。
できればオイロディスク原盤のドイツ・リート集を聴きたい、と思った。
この瀬川先生の文章にふれた人の多くは、私と同じだったのでは……、と思う。

けれど廃盤で入手できなかった。
一時期中古盤もずいぶん探したけれど、縁がなかった。

瀬川先生は、またこうも書かれている。
     *
 しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ、思ったものだ。
     *
モーツァルトの歌曲 K.523 Abendempfindung

Abend ist’s, die Sonne ist verschwunden,
Und der Mond strahlt Silberglanz;
So entfliehn des Lebens schönste Stunden,
Fliehn vorüber wie im Tanz.

Bald entflieht des Lebens bunte Szene,
Und der Vorhang rollt herab;
Aus ist unser Spiel, des Freundes Träne
Fließet schon auf unser Grab.

Bald vielleicht -mir weht, wie Westwind leise,
Eine stille Ahnung zu-
Schließ ich dieses Lebens Pilgerreise,
Fliege in das Land der Ruh.

Werdet ihr dann an meinem Grabe weinen,
Trauernd meine Asche sehn,
Dann, o Freunde, will ich euch erscheinen
Und will himmelauf euch wehn.

Schenk auch du ein Tränchen mir
Und pflücke mir ein Veilchen auf mein Grab,
Und mit deinem seelenvollen Bli cke
Sieh dann sanft auf mich herab.

Weih mir eine Träne, und ach! schäme
dich nur nicht, sie mir zu weihn;
Oh, sie wird in meinem Diademe
Dann die schönste Perle sein!

夕暮だ、太陽は沈み、
月が銀の輝きを放っている、
こうして人生の最もすばらしい時が消えてゆく、
輪舞の列のように通り過ぎてゆくのだ。

やがて人生の華やかな情景は消えてゆき、
幕が次第に下りてくる。
僕たちの芝居は終り、友の涙が
もう僕たちの墓の上に流れ落ちる。

おそらくもうすぐに──そよかな西風のように、
ひそかな予感が吹き寄せてくる──
僕はこの人生の巡礼の旅を終え、
安息の国へと飛んでゆくのだ。

そして君たちが僕の墓で涙を流し、
灰になった僕を見て悲しむ時には、
おお友たちよ、僕は君たちの前に現われ、
天国の風を君たちに送ろう。

君も僕にひと粒の涙を贈り物にし、
すみれを摘んで僕の墓の上に置いておくれ、
そして心のこもった目で
やさしく僕を見下しておくれ。

涙を僕に捧げておくれ、そしてああ! それを
恥ずかしがらずにやっておくれ。
おお、その涙は僕を飾るものの中で
一番美しい真珠になるだろう!
(対訳:石井不二雄氏)

エリカ・ケートの歌曲集はCDになった。
1990年ごろだったろうか。もちろんすぐに買った。

瀬川先生の文章を読んだ日から30数年、
CDを聴いてから20数年経つ。

エリカ・ケートのことは、何度か書いている。
今日また書いているのは、タワーレコードがオイロディスク音源のSACDを出すからだ。

6月24日に第一弾の三枚が出る。
エリカ・ケートは含まれていない。

《エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、
滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声》を、SACDで聴いてみたい。

Date: 1月 14th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その8)

アルテックの604-8Gのクロスオーバー周波数は1.5kHzとなっている。
軽量のストレートコーンと強力な磁気回路によるウーファーであっても、
15インチという口径を考えると、ここまで受け持たせるのはかなり苦しい。

604-8Gのトゥイーターのホーンはマルチセルラホーン。
このホーンのサイズは、それほど大きくはない。
むしろクロスオーバー周波数を考慮すると小さいか、ぎりぎりのサイズでしかない。

この点に関しては、
ウーファーの振動板をホーンの延長としてみなしているタンノイのほうが有利といえる。

だからといって604-8Gのホーンを大きくしてしまうと、別の問題が発生してくる。
あのサイズは、ぎりぎりの選択によって決ったものといえよう。

ウーファーの口径もホーンのサイズも、どうにかできることではない。
そういう同軸型ユニットである604-8Gの欠点をうまく補い、
同軸型ユニットならではの長所を活かすにはどうするのか。

その答のひとつとして、UREIのネットワークが挙げられる。
813のネットワークは、ウーファー側に対して、
奥に位置するトゥイーターとの時間差を補正するためにベッセル型のハイカットフィルターを採用している。

このことは813のカタログに載っている応答波形をみても、ベッセル型であることははっきりとわかる。
ベッセル型にすることで、ウーファーに対して群遅延(Group Delay)をかけている。

ベッセル型ネットワークの次数によって、ディレイ時間を設定できる。
けれど、このベッセル型ネットワークをトゥイーター側にも採用してしまっては、
意味がなくなる。
ベッセル型にしてしまうと、次数の分だけのディレイ時間が発生してしまい、
その状態でウーファーとトゥイーターのタイムアライメントをとるには、
より次数の高いハイカットフィルターをウーファー側につけなくてはならない。

このことが、(その6)で書いた813のウーファーの周波数特性と関係してくる。

813のトゥイーター側のネットワークにはコイルが使われていない。
その後の改良モデルではコイルも使われているが、オリジナルのModel 813や811にはコイルはない。
コンデンサーと抵抗とアッテネーターだけで構成されている。

Date: 12月 14th, 2015
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その7)

HIGH-TECHNIC SERIES-1に、
井上先生が既製のスピーカーシステムにユニットを加えるマルチアンプについて書かれている。
そこにアルテックの604-8Gが出てくる。
     *
 かつて、JBLのシステムにあったL88PAには、中音用のコーン型ユニットとLCネットワークが、M12ステップアップキットとして用意され、これを追加して88+12とすれば、現在も発売されている上級モデルのL100センチュリーにグレイドアップできる。実用的でユーモアのある方法が採用されていたことがある。
 ブックシェルフ型をベースとして、スコーカーを加えるプランには、JBLの例のように、むしろLCネットワークを使いたい。マルチアンプ方式を採用するためには、もう少し基本性能が高い2ウェイシステムが必要である。例えば、同軸2ウェイシステムとして定評が高いアルテック620Aモニターや、専用ユニットを使う2ウェイシステムであるエレクトロボイス セントリーVなどが、マルチアンプ方式で3ウェイ化したい既製スピーカーシステムである。この2機種は、前者には中音用として802−8Dドライバーユニットと511B、811Bの2種類のホーンがあり、後者には1823Mドライバーユニットと8HDホーンがあり、このプランには好適である。
 また、アルテックの場合には、511BホーンならN501−8A、811BならN801−8AというLCネットワークが低音と中音の間に使用可能であり、中音と高音の間も他社のLC型ネットワークを使用できる可能性がある。エレクトロボイスの場合には、X36とX8、2種類のネットワークとAT38アッテネーターで使えそうだ。
     *
これを読んだ時、私は高校生だった。
だから井上先生が、なぜ同軸型ユニットの604-8Gに中音用のユニットを追加されるのか、
その意図をわかりかねていた。

802-8D+511Bを604-8Gに追加するということは、
いうまでもなく同軸型のメリットを殺すことにつながる。
そんなことは井上先生は百も承知のはず、なのに、こういう案を出されている。

604-8Gは15インチ口径のコーン型ウーファーとホーン型トゥイーターの2ウェイ構成である。
クロスオーバー周波数は1.5kHz。

アルテックのストレートコーンのウーファーは、416は1.6kHz、515Bは1kHz、515-8LFは1.5kHzと、
カタログ上ではそうなっている。
以前、ごく初期の515(蝶ダンパー)に、
ポータブルラジオのイヤフォン端子から出力を取り出して接いで鳴らしたことがある。

1kHzといようりも、もう少し上まで、3kHzくらいまではなだらかに減衰しながらもクリアーに聴きとれた。
このことはトーキー用スピーカーとして源流をもつからであり、
映画館でもしドライバーが故障して鳴らなくなっても、
ウーファーだけでセリフがはっきりと聞き取れる必要があるからだ。

とはいえ、振幅特性だけでない、
位相特性、指向特性をふくめた周波数特性でいえば、
15インチ口径のコーン型にそこまで受け持たせるのは無理がある。

同じことは604シリーズのトゥイーターにもいえる。

Date: 12月 12th, 2015
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その6)

UREIの813はアルテックの604-8Gにサブウーファーを足した、
いわば変則3ウェイといえる構成をとっている。

クロスオーバー周波数はUREIのカタログには載っていないが、
ステレオサウンド 47号の測定結果をみると、おおよそ250Hz以下で使われていることがわかる。
このサブウーファーのハイカットは12db/octであることもわかる。

813にはレベルコントロールのツマミが3つある。
MID RANDGE、HF DRIVE、HF TRIMである。

これらが一般的なレベルコントロールと違う点は、
マキシマムの位置で周波数特性がフラットになっていることである。
つまり絞ることはできても、レベルを上昇させることはできない。
さらに絞りきることもできない。
あくまでも微妙な調整を行うためのレベルコントロールといえる。

回路図をみればわかることだが、
813のMID RANGEは604-8Gの中高域を調整しているわけではない。
HF DRIVE、HF TRIMはトゥイーター側のローカットフィルターで行っているが、
MID RANGEはウーファーのハイカットフィルターで行っている。

これも47号の測定結果をみれば、どういうことをUREIが行っているかは、
回路図を見なくともある程度推測がつく。

47号の測定結果のなかには、近接周波数特性という項目がある。
これはウーファー、バスレフポートなどにマイクロフォンを非常に近づけての周波数特性であり、
ウーファーのネットワーク込みの周波数特性がわかる。

813のウーファーの特性は800Hzあたりから急激に減衰している。
けれど一度減衰した周波数特性は1kHz以上の帯域でレベルが上昇している。
そして2.5kHz以上で、ふたたび急激に減衰するというものだ。

813のMID RANGEは、この1kHzから2.5kHzまでの帯域のレベルをコントロールしている。
813のカタログに載っている周波数特性でもMID RANGEを絞ると、この帯域が減衰するのがわかる。

アルテックの604-8Gのクロスオーバー周波数は1.5kHzと発表されている。
ウーファーのハイカットは12dB/oct、トゥイーターのローカットは18db/octのスロープ特性。

UREIの813のネットワークは、アルテックのオリジナルとは大きく違っているとはいえ、
MID RANGEのレベルコントロールはウーファー側なのか。
これは、UREIの特許ともなっているTIME ALIGN NETWORKと関係してくる。

Date: 11月 29th, 2015
Cate: 使いこなし, 瀬川冬樹

使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より・補足)

さきほど書いた「使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)」は、続きを書くつもりはなかった。
けれどfacebookにもらったコメントを読んで、これだけは補足しておこうと思った。

最初に書こうと考えていたことは、別にあった。
数日前、知人からメールで問合せがあった。
「瀬川さんが、こんなことを書いているようだけど、どこに書いているのか」というものだった。

知人は、二三ヶ月前のラジオ技術の是枝重治氏の文章を読んで、私に訊ねてきた。
その号を私は読んでいないので正確な引用ではないが、
瀬川先生がある人に、昔はアンプを自作していたのに、
なぜいまはメーカー製のアンプを喜々として使っているのか。
それに対して、その時はうまく反論できなかったけど、いまはこういえる……、
そういう内容のことだったそうだ。

これはステレオサウンド 17号の「コンポーネントステレオの楽しみ」に出てくる。
     *
 しかし音を変えたり聴きくらべたりといった、そんな単調な遊びだけがオーディオの楽しみなのではない。そんな底の浅い遊戯に、わたくしたちの先輩や友人たちが、いい年令をしながら何年も何十年も打ち込むわけがない。
 大げさな言い方に聴こえるかもしれないが、オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ、と言いたい。たとえば文筆家が言葉を選び構成してひとつの文体を創造するように、音楽家が音や音色を選びリズムやハーモニーを与えて作曲するように、わたくしたちは素材としてスピーカーやアンプやカートリッジを選ぶのではないだろうか。求める音に真剣であるほど、素材を探し求める態度も真摯なものになる。それは立派に創造行為といえるのだ。
 ずっと以前ある本の座談会で、そういう意味の発言をしたところが、同席したこの道の先輩にはそのことがわかってもらえないとみえて、その人は、創造、というからには、たとえばアンプを作ったりするのでなくては創造ではない、既製品を選び組み合せるだけで、どうしてものを創造できるのかと、反論された。そのときは自分の考えをうまく説明できなかったが、いまならこういえる。求める姿勢が真剣であれば、求める素材に対する要求もおのずからきびしくなる。その結果、既製のアンプに理想を見出せなければ、アンプを自作することになるのかもしれないが、そうしたところで真空管やトランジスターやコンデンサーから作るわけでなく、やはり既製パーツを組み合せるという点に於て、質的には何ら相違があるわけではなく、単に、素材をどこまで細かく求めるかという量の問題にすぎないのではないか、と。
     *
その知人に確認したことがある、是枝氏は「うまく反論できなかった」と書かれていたのか、と。
そうらしい。
でも、瀬川先生は「うまく説明できなかった」と書かれている。

反論と説明とでは、読む方の印象はずいぶんと違ってくることになる。
やはり瀬川先生ならば、反論ではなく説明のはずであり、
私はここが瀬川先生らしい、と思った。
そのことを書きたかっただけで、
引用するために「コンポーネントステレオの楽しみ」を開いていた。

読んでいくうちに、そんなことよりもフローベルの言葉について書かれたところにしよう、と思った。
だから、「使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)」だけで済んでいた。

facebookへのコメントには「なかなか出会えない」とあったからだ。
その気持はわからないわけではないが、
瀬川先生も書かれている「オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ」、
ここのところを読んでほしい、と思う。

素材を探し求める態度も真摯なものになる、と書かれている。
だから「なかなか出会えない」という気持はわかる。
でも、世の中にそうそう理想と思えるモノがあるわけではない。

真摯な態度で探し求め、そうやって手に入れたモノを組み合わせて、使いこなしていく、という行為、
この行為を創造する喜びがあるとして取り組んでいくしかない。

Date: 11月 29th, 2015
Cate: 使いこなし, 瀬川冬樹

使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)

ステレオサウンド 17号に「コンポーネントステレオの楽しみ」という瀬川先生の文章が載っている。
「虚構世界の狩人」にもおさめられている。
そこには、こう書いてある。
     *
「われわれの言おうとする事がたとえ何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには、一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるためにいい加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。」
 これはフローベルの有名な言葉だが、この中の「言葉」「動詞」「形容詞」という部分を、パーツ、組み合わせ、使いこなし、とあてはめてみれば、これは立派にオーディオの本質を言い現わす言葉になる。
     *
フローベルの言葉を置き換えてみると、
「われわれの言おうとする事がたとえ何であっても、それを現わすためには一つのパーツしかない。それを生かすためには、一つの組み合わせしかない。それを形容するためには、一つの使いこなししかない。さればわれわれはそのパーツを、その組み合わせを、その使いこなしを見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるためにいい加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。」
となる。

「言おうとする事」は、いうまでもなく「出そうとしている音」である。

Date: 9月 21st, 2015
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続々続・おもい、について)

日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆく人は、
おそらく自分自身が、そういう方向へともってゆこうとしているとは気づいていないのかもしれない。
それだけではなく、自分自身が毒されたということを自覚していないのかもしれない。

そういう人たちでさえ、オーディオ界で仕事をするようになったときから、
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆこうと考えたり、行動していたわけではなかったはずだ。

なのにいつしか毒されてしまう。
いつのまにかであるから、なかなか毒されたことに自覚がなく、
自覚がないままだから、日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆこうとしている──。

そんな人たちばかりでないことはわかっている。
わかっていても、そんな人たちの方が目立っている。
ゆえにそんな人たちの周囲にいる人は、どうしても毒されてしまう環境にいるといえよう。

それで毒される人、毒されない人がいる。
そんな人も、自分が周囲の人を毒する方向へともってゆこうとしているとは、
露ほどにも思っていないのではないだろうか。

こういうことを書いている私自身は、どうなのだろうか……。

Date: 9月 20th, 2015
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続々・おもい、について)

ステレオサウンド 16号(1970年9月発売)、
巻頭には五味オーディオ巡礼がある。
副題として、オーディオ評論家の音、とついている。

山中敬三、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏の音を聴かれての「オーディオ巡礼」である。

瀬川先生のところに、五味先生は書かれている。
     *
 でも、私はこの訪問でいよいよ瀬川氏が好きになった。この人をオーディオ界で育てねばならないと思った。日本のオーディオを彼なら毒する方向へはもってゆかないだろう。貴重な人材の一人だろう。
     *
「毒する方向へはもってゆかない」。
これは、日本のオーディオを毒する方向へともってゆく人が現実にいる、ということのはずだ。

「貴重な人材の一人だろう」。
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆかない人よりも、
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆく人の数が多いということなのだろう。

Date: 8月 18th, 2015
Cate: 書く, 瀬川冬樹

毎日書くということ(夢の中で……)

年に二、三回、目が覚めてあせることがある。
ぱっと時計をみると、夜中の二時とか三時である。

いつもだったら、そのまま眠りにつくわけだが、
たまにあせってしまうのは、
「今日はブログを書いていなかったのに、なぜ寝てしまったのか……」と思ってしまうからだ。

うたたねのつもりが、なぜか布団のなかで寝ている。
その状況にまずあせる。

いますぐ起きて書かなきゃ……、とかなりあせりながらも、
あっ、書いていたんだ、とほっとする。

ブログを書かずに布団の中にはいることはないのに、
なぜこんな思いを何度も味わうのだろうか。

今年もすでに二回、そんなことがあった。
おそらく来年も、そんなふうに真夜中にひとりあせり(ほんとうに心臓に悪い)、
ほっとして眠りにつくことをくり返していると思う。
一万本までは書くと決めているから、
いまのペースでいけばあと四年と数ヵ月は続く。
ブログを書くのをやめないかぎり、あと何度、あせりながら目を覚ますのだろうか。

今日も未明に目が覚めた。
ただ今日のは、違っていた。
夢を見ていた。生々しい夢ではなく、現実そのものと思えるリアルさだった。

今朝の夢では、瀬川先生に会えた。
元気だったころの瀬川先生だった。こちらはいまの私である。

夢の中で、瀬川先生の音を聴ければよかったのだが、そうではなかった。
でも、嬉しかった。
それは、audio sharingを公開していること、
それにこのブログを書き続けていることを、瀬川先生に報告できたからだ。

頭がおかしいのではないか、と思われてもいい。
それが夢にすぎないことはわかっていても、それでも瀬川先生に報告できたことが、
とにかく嬉しかった。

Date: 7月 26th, 2015
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代(その3)

アンプでいえばSAEに関して、同じような印象を抱いた。
SAEのパワーアンプMark2500は、マークレビンソンのML2を導入されるまでは、
瀬川先生にとってメインとなるパワーアンプだった。

Mark2500は欲しいと思っていた。
けれど改良型(というよりもパワーアップ版)のMark2600は、
Mark2500と比較すると改良されているとは言い難かった。

SAEのその後、輸入元がRFエンタープライゼスから三洋電機貿易に変った。
パワーアンプのラインナップも一新された。
Xシリーズ、その後のAシリーズ、
価格的にも性能的にもMark2500と同じクラスのモデルもあった。
けれど、欲しいと思うようなところが感じられなかった。

スレッショルドにもそんな感じを持っていた。
800Aというデビュー作、STASISシリーズと、
私にとってスレッショルドは注目のメーカーだった。

けれどSTASISシリーズに続いて登場したSシリーズ(STASIS回路を採用)を見た時、
STASISシリーズにあった色がなくなり、音もそれほどの魅力を感じさせなくなっていた。

スレッショルドは800Aの印象が強く、
第二弾にあたる400A、4000 Customは優秀なアンプという印象に留まるところもあった。
そしてSTASISシリーズ。
つまり私の印象ではSシリーズの次のモデルには期待できるはず、という期待があった。
けれど……、である。

SAEもスレッショルドもどうしたんだろう、と思った。

こういう例は他にもいくつもある。
瀬川先生ということでマークレビンソンについて書き始めたから、
アンプメーカーのことばかり続けてしまっただけで、スピーカー、アナログプレーヤー関係など、
いくつかのメーカーが、それまでの輝きを失っていったように感じていた。

メーカーにも好調な時と不調な時があるのはわかっている。
たまたま不調と感じられる時期が重なっただけのことなのだろうと思うようにした。
だから、このことはしばらく誰にも話したことがなかった。

それから10年ぐらい経ってだった、
よくオーディオについて語っていた知人に、このことを話した。
彼は「そんなの偶然ですよ」だった。

そうだろうと思っていた答が彼の口から出ただけで、がっかりしたわけではなかった。
たぶん多くの人が(というよりほとんどの人が)、彼と同じように答えたであろう。

Date: 7月 24th, 2015
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代(その2)

瀬川先生は1981年11月7日に亡くなられた。
私は1982年1月からステレオサウンドで働くようになった。
だからというべきなのかもしれない、
瀬川先生がいない時代を直接肌で感じることができていた、と思っている。

何を感じていたのかというと、
いくつかのオーディオメーカーの勢い、輝きが失われていったこと、
さらには劣化していったと思えるメーカーがあったことである。

こんなことを書くと、瀬川先生に否定的な人たちは、
そんなことがありえるわけはないだろう、単なる偶然だ、というに決っている。

それでもあえて書く。
オーディオ界ははっきりと瀬川先生の死によって変ってしまった。

例えばマークレビンソン。
LNP2、JC2による成功、そしてML2で確固たる世界を実現・提示して、
ML7、ML6Aまでは順調に成長していったといえる。
けれど瀬川先生の死と前後するようにローコストアンプを出してきた。
ML9とML10、ML11とML12。

これらのセパレートアンプを見て、がっかりした。
こんなアンプしかつくられないのか、と。

マークレビンソン・ブランドのローコストアンプが市場から望まれていたことはわかる。
私自身も望んでいた。

けれど、それは例えばジェームズ・ボンジョルノがGASでやっていたのと同じレベル、
もしくはそれをこえたレベルでの話である。

ボンジョルノはアンプづくりの奇才と呼ばれていた。
それはなにも最高級のアンプをつくれるだけではない。
パワーアンプではAmpzillaに続いて、Son of Ampzilla、Grandsonを出してきた。

どれをとってもボンジョルノのアンプであることがわかる。
外観も音も、はっきりとボンジョルノがつくったアンプである。

Ampzillaが欲しくても予算の都合で、いまは購入できない。
そういう人がGrandsonを選んだとしても後悔はしない。

Grandsonで楽しみ、お金を貯めてAmpzillaを買う。
Ampzillaを手にしたからといってGrandsonの魅力が薄れるということはない。

むしろトップモデルのAmpzillaを手にして聴き較べてみることで、
Grandsonの魅力を新たに感じることもできよう。

マークレビンソンのアンプはどうだろうか。
LNP2+ML2を買えない人がML11+ML12を買ったとしよう。
マークレビンソン・ブランドのローコストアンプに、GASのアンプのような魅力があっただろうか。

Date: 7月 12th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 瀬川冬樹

オーディオにおけるジャーナリズム(特別編・その10)

その8)で引用した瀬川先生の発言。
これに対して、井上先生はこう語られている。
     *
井上 ここまで夢中になってやってきて、ひとつ区切りがついた、といったところでしょう。この十三年間をふりかえってみると、いちばん大きく変化したのは、オーディオ観そのものであり、オーディオのありかたであり、そしてユーザー自体ということですよね。その意味で「ステレオサウンド」がどうあるべきかということを、このへんで、いちど考えなおす必要がある、という瀬川さんのご指摘には、ぼくもまったく同感です。
 ただ、それが、熱っぽく読ませるためにどうかということでは、ぼくはネガティブな意見です。つまり、そういった意識そのもが、かなり薄れてきている時代なんだと、ぼくは思っているのです。
     *
これを受けて、瀬川先生は、
熱っぽく読む、というのはひとつの例えであって、
今後も熱心に本気に読んでもらうためにはどうしたらいいのか、ということだと返されている。

このあとに菅野先生、山中先生、岡先生の発言が続く。
詳しい知りたい方は、ステレオサウンド 50号をお読みいただきたい。

岡先生の発言を引用しよう。
     *
 ひとついえることは、創刊号からしばらくの時期というのは、われわれにしても読者にしても、全部新しいことばかり、まだ未知の領域ばかり、といった状態だったわけでしょう。だからなんとなく熱っぽい感じがあったんですよ。それがしだいに慣れてきた、というか繰り返しのかたちが多くなって、そのためにいかにも情熱をかたむけてやっている、という感じが薄くなったことはたしかでしょう。
     *
井上先生の発言にある、ひとつの区切り。
50号は1979年3月に出ている。
36年が、50号から経っている。

この36年間に、いくつの区切りがあっただろうか。
業界にも、オーディオマニアにもそれぞれの区切りがさらにあったはず。

そして岡先生の発言に出て来た「慣れ」。
長くやっていれば、どうしても慣れは生じてくる。

瀬川先生は、ほかの方の発言をどういうおもいで聞かれていたのだろうか。
もどかしさがあったのではないだろうか。

この「もどかしさ」は、(その9)で書いたもどかしさとは違うもどかしさではなかったのか。

ステレオサウンド 50号を手にしたとき、私は16だった。
そのころはなんとなくでしか感じられなかったことが、いまははっきりと感じられる。

同時に、瀬川先生と仕事をしたかったという、いまではどうしようもできない気持がわきあがってくる。

Date: 7月 3rd, 2015
Cate: 瀬川冬樹

バターのサンドイッチが語ること、考えさせること(その2)

瀬川先生がバターのサンドイッチをつくられていたころといまとでは、
入手できるバターの数はそうとうに多くなっているであろう。

高級食材を扱うスーパーもいくつかあるし、
インターネットでの通販もある。
バターの選択肢は、どの程度かはわからないけれど、確実に増えている。

瀬川先生が生きておられたころ、
いまのようにオーディオ・アクセサリーはそれほど登場していなかった。
ケーブルにしても、こんなにもメーカーの数が増え種類も増えるとは思えなかったし、
その他のアクセサリーに関してもそうだった。

いまアクセサリーの選択肢は相当に増えている。
そのこと自体はけっこうなことといえるだろう。

選択肢が増えたことで、
オーディオの想像力の欠如が少しずつ浮び上ってきているように感じてもいる。

Date: 6月 29th, 2015
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その5)

「SOUND SPACE 音のある住空間をめぐる52の提案」での瀬川先生の提案が印象につよく残っている理由は、
ひとつではない。

四畳半という狭い空間でも、広い空間で味わえるスケール感のある堂々とした響きを、
なんとか再現したい、という瀬川先生の意図、
押入れを利用した平面バッフル、
それに取りつけられるアルテックの604-8Gと515B。

このふたつだけでも非常に興味深い記事である。

けれど、瀬川先生の提案はそれで終っているわけではない。
組合せも提示されている。

アルテック604-8Gを平面バッフルに取りつけ、
それを鳴らすアンプはコントロールアンプがアキュフェーズのC240、
パワーアンプはルボックスのA740である。

アナログプレーヤーはリンのLP12にSMRのトーンアーム3009 SeriesIIIにオルトフォンのMC30。

このアンプとアナログプレーヤーの選択は、ジャズを604-8G+平面バッフルで聴くためのモノではなく、
明らかにクラシックを聴くための選択である。

記事中では音楽についてはまったく触れられていない。
それでも、瀬川先生の組合せをつぶさにみてきた者には、
書かれてなくともクラシックを、四畳半でスケール感のある堂々とした響きで聴くためのモノであることは、
すぐにわかる。

そうか、クラシックを聴くための組合せなのか……、とおもう。

HIGH-TECHNIC SERIES 4での604-8Gの試聴記では、こう語られている。
     *
このような大きなプレーンバッフルに付けて抑え込まないで鳴らしてみると、明るさがいい意味で生きてきて朗々と鳴り響き、大変に心地よいサウンドとして聴けるわけですね。ただ、クラシックに関しては、ぼくにはどうしてもスペクタクルサウンド風に聴こえてしまって、一種の気持ちよさはあるんだけれども、自己主張が強すぎるという感じもします。
     *
同じことはUREIのModel 813についても書かれている。
にも関わらず、ここでのこの組合せである。

Date: 6月 28th, 2015
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その4)

「SOUND SPACE 音のある住空間をめぐる52の提案」という別冊が、
1979年秋、ステレオサウンドから出ている。

夢のような住空間の提案もあれば、現実に即した提案もあった。
編集経験を経て読み返せば、この本をつくる労力がどのくらいであったのかがわかる。

ブームにのっただけの、体裁をととのえただけのムックを何冊も出すよりも、
これだけの内容のムックを、数年に一冊でいいから出してほしい、と思うわけだが、
同時にもう無理なことであることも承知している。

52の提案の中に、瀬川先生による提案がいくつもある。
その中のひとつに、
「空間拡大のアイデア〝マッシュルーム・サウンド〟」がある。

見かけは四畳半という狭い空間でも、屋根裏の、いわばデッドスペースとなっている空間を利用することで、
小空間でも堂々とした響きを得たいとテーマに対しての瀬川先生の提案である。

その本文には、こうある。
     *
 そもそも、スケール感のある堂々とした響きというのは、どういう音のことなのでしょうか。それは第一に、その音楽が演奏された空間のスケールを感じさせる、豊かな残響感の美しさにあります。そして次に、その音楽を下からしっかりと支える中低域から低域にかけての充実した響きが大切です。この目的を実現するための再生側の条件として、瀬川氏は空間ボリュウムのスケールと大型の再生装置(特にスピーカー)が必要だとされます。
     *
スケール感のある堂々とした響きを得るための大型の再生装置──。、
この提案で瀬川先生が選ばれたスピーカーはJBLの4343、4350、
他社の大型フロアー型スピーカーシステムではなく、
アルテックの604-8Gを平面バッフルにとりつけたモノだった。

つまり四畳半に平面バッフルを、いわば押し込む。
四畳半だから2.1m×2.1mのサイズでは、物理的に入らない。
ここでの提案では、幅1.3m・高さ1.75mの平面バッフルである。

2.1m×2.1mのサイズの約半分とはいえ、かなり大型の平面バッフルに604-8G、
さらに低域の量感を充実をはかるために515Bウーファーをパラレルにドライヴすることも提案されている。